布良(めら) 災害ボランティア 台風15号・19号 

布良(めら) 千葉災害ボランティア 台風15号直後に訪問。19号上陸の時,布良の避難所に訪問。

『クリスチャンプレス』(2019年9月24日付)
千葉県南房総ボランティア報告

 

第18次千葉災害漁ボランティア 2021年4月18日~
 18日,今年になって最大の激しい風。風速20メートルのため,漁師さんたちにとり海面下のナガモクと言っているホンダワラ,アカモクなどが港を覆っていました。スクリューにからむので撤去作業です。お百姓さんが雑草をとるように,海面に浮かんだナガモクを取り除きます。植物とちがって根っこらしきものはありません。気胞と呼ばれる浮きがついています。プチっと,つぶすと泡がでます。茎が非常に硬く,全体的に青臭いから食べるのには向いていません。雑草と同じように敵のように嫌われていますが,雑草が空気中に酸素を放出し,人間にはかけがえのないのと同じように,海の藻も魚などの産卵の場所であり,稚魚が育つゆりかごの役割をしています。オコゼの子どもがいました。

シート張り 2021年4月19日

ナガモク除去 2021年4月19日


カメラマン新井克英氏,元TBSディレクター鈴木薫氏(手前赤ベレー帽)と面談。押送船(おしょくりぶね)の話題から櫓(ろ)の制作技術などの会話をしていると新堀隆義氏が本物の櫓を持ってこられた場面。

深津文雄牧師の娘塩川成子さんと 「かにた婦人の村」事務所 2021年4月19日

天羽道子前施設長 2021年4月19日

かにた慰霊塔 2021年4月19日

不幸な女性たちだけの「逃れの地」かにた寮の天羽道子前施設長(92歳)がかにた教会にも案内。荊冠(いばらのかんむり)のシンボルが目立つかにた教会会堂でご説明くださった。深津文雄牧師の娘である塩川成子さんにも過分なご配慮をいただいた。
 帰途,郷土史の愛沢伸雄先生(「安房文化遺産フォーラム」代表)のご自宅に立ち寄り,30年にわたる深津さんとの交友,ウガンダなどのはたらきを拝聴しました。

 午後は千葉県館山市の「かにた婦人の村」に新井克英カメラマンと一緒に行きました。「慰安婦」の慰霊碑が小高い丘に建っています。日本人「慰安婦」の被害事実を最初に証した城田すず子(仮名)さん[1921-1993]の願いが伝わります。深津文雄[ふかつ 1909-2000]牧師が「小さくされた」不幸な女性たちのために逃れのコミュニティを作った場所です。日本人男性はすべては総懺悔すべきと迫られる歴史的に忘れてはならない場所です。

 

 

第14次千葉災害ボランティア 2020年12月22日~

弥生丸 2020年12月22日

愛沢伸雄先生 「安房文化遺産フォーラム」代表 2020年12月22日

第13次千葉災害ボランティア 2020年10月20日~

 2019年の台風15号,19号の爪痕からの回復はまだまだです。今回は漁ボランティア,がれき撤去と傾聴ボランティアに仕えました。アフリカのケニアに単身で貧しい子どもたちと交友している大河戸章代さんが参加されました。手作りマスク支縁が縁です。
 神戸国際支縁機構のボランティアは農・林・漁を通じて,心の「復興」に取り組んでいます。布良では,魚が少なくなり,後継者がいない漁師の方々と心を通わせるはたらきです。

 

 

タイガーシャーク 2020年10月20日 布良


 えび漁,網の手入れ,大きなサザエ,アワビなど以外に,沖縄でしか見たことがなかったライトブルーのブダイ,赤いヒメジ,イシガキダイ,イシダイ,イサキなどと対面し,感動します。人食い鮫で恐れられているタイガーシャークも網にかかっていました。
 南房総布良(めら)は,かつて日本一のはえ縄漁,まぐろの捕獲ではどこよりも栄えた港です。造船所,映画館,遊郭もありました。船大工の豊崎栄吉さん(91歳)の工場も今はありませんが,地域では「船吉(ふなきち)さん」として呼ばれており,郷土史研究の第一人者です。
 
 球磨川(熊本豪雨)ボランティアで訪問する人吉市は青井阿蘇神社が市民の求心力です。ここ布良では布良崎神社が中心です。嶋田博信支部長がいつ訪問しても,境内の雑草抜きを黙々となさっていますのには頭が下がります。

右から小谷昭さん,筆者,嶋田博信支部長,大河戸章代さん,大橋総代。

 
 

第12次千葉災害ボランティア 2020年9月27日~

 秋晴れの布良(めら)での被災者たちと富士山を背景に1年前の台風15号,19号の際の竜巻被災体験を聞きます。

第12次 2020年9月28日

 館山市役所に抗議して,「一部損壊」から「半壊」に変えてもらった人たちもいます。半壊だと屋根修理なども59万5千円は負担しなくてすむようになります。日本では「申告主義」なのは非情です。行政は各家庭を訪問し,被害判定がずさんであったことを確認するくらいの配慮が必要です。原発再稼働,ダムやリニアなどの公共事業を優先するより,生活していけない被災者を見棄てない国にすべきです。
 

 真ん中は神戸国際支縁機構の千葉支部長嶋田博信氏です。地域で最も尊敬されているおひとりです。ご近所の方の草木の剪定を自発的になさっているまれな存在です。
 右は村上裕隆代表です。左は神戸国際支縁機構の理事の北村恭男兄です。かつて千葉県野田在住でした。  
 嶋田博信支部長にも戦時下の自分たちで掘った防空壕に案内してもらいました。
 
 
 昨年竜巻で,沖浦宏隆さんは漁で生活する者にとって最も大切な舟がなぎ倒されました,ほぼ一年目の9月11日に弥生丸が思いがけない方法で入手できた喜びを分かち合ってくださいました。
 沖浦宏隆さんは昨年台風15号により,初代「弥生丸」を失いました。その後,小さな2代目やよいまるで漁をなさっていました。やっと今月11日に潮の流れが速い布良で操業ができる馬力のある舟をゆずってもらわれました。高校を引退した元教師が助手として,布良に越してこられます。何もかも順風満帆の出発です。
 

 布良は釣り人にとってクロダイが有名ですが,漁師は大きなエビを取ったりして生活をなさっています。守家さんは6匹を収穫なさっています。

 布良崎神社のお世話をされている小谷昭さんから,小谷姓が30戸ある中で,「おだに」「こだに」「こたに」がそれぞれ時間と場所によって違う理由についてうかがいました。最近は,「こたに」でだいたい定着しつつあるそうです。
 神戸国際支縁機構の球磨川(熊本豪雨)ボランティアや炊き出しために千葉県産野菜などを送ってくださる小谷登志江さんも一年でみちがえるほど元気になられておられ,むしろわたし達の方が励まされました。
 

第11次千葉災害ボランティア 2020年8月16日~17日

 神戸国際支縁機構の7名は,千葉市の被災現場でがれき撤去に従事(『朝鮮新報』2019年9月25日付)。その後,南房総の布良(めら)訪問が9月15日でした。見渡す限り,布良約200戸の家屋はブルーシートで覆われていました。高齢者,独居,はじめての台風被害で気が動転している家屋を捜しました。嶋田政雄連合会長の依頼に応じて,海岸で土のう袋に砂をつめ,不慣れなわたし達は屋根に登り,持参していたブルーシートを張りました。平素から突風が強い地域ですから,第2次(2019年9月27日~10月1日)の時には,無残にも土のう袋をぶら下げるブルーシートの端ごと引きちぎられていました。
 今回,11回目の訪問。もうすぐ一年。まだ随所にブルーシートがかかっている家々があります。布良は「全壊」が10世帯以上ないため,「半壊」にも支援金が出る今回の被災者生活再建支援法の拡充に適用されません。キリストは99匹をおいてでも,一匹の羊のためにという精神を説かれました。しかし,やっと重い腰をあげて法を改革する政府の支給は限定的で「公平」さを欠きます。
 
              
 
 家族のように親しくなっている人たちは,四駆ディーゼルのハイエースのエンジン音を聞くと,家から出て来られてあいさつをなさる住人たちもおられます。とりわけ地域の復旧,復興,再建のため,信頼されている嶋田博信&礼子ご夫妻は,神戸国際支縁機構のはたらきをだれよりもよく理解してくださっています。若者たちを温かく迎え入れてくださいます。
 機構の千葉支部として,立ち上げることにも快く応じてくださいました。

嶋田博信宅にて 2020年8月18日

 
第10次千葉災害ボランティア 2020年7月19日~
 南房総布良(めら)には,まだブルーシートが屋根にかかっています。吉田新一さん(布良地区壮年会長)の家も,大規模半壊でブルーシート張りです。2019年9月9日,台風15号が襲った時,神戸国際支縁機構が向地区ではじめて依頼された家の隣りでした。
 布良で最初に用水路や,布良地区の被災者の必要なボランティアに機構と連携させていただいた連合区長の嶋田政雄さん(75歳)は,熊本南部水害に5つの地区からタオルを集めておられました。「お上(かみ)」と異なり,被災者の痛みがおわかりです。

嶋田政雄連合区長 2020年7月20日

 夭折の洋画家・青木繁[1882~1911]の「わだつみのいろこの宮」の複製を背景に,青木繁「海の幸」記念館の小谷福哲館長(70歳)にのどかな田舎の生活のだいご味を聴きました。館長は球磨川ボランティアで熊本南部の小さなはたらきににもフェイスブックで千葉から励ましてくださっていました。

青木繁記念館 2020年7月20日

 右のくじら山は国定公園でしたが,平地にして商業目的の開発が4年前に持ち上がった時,布良地区の住民は反対運動を繰り広げました。その結果,男山に隣接する風光明媚な景観は守られました。

くじら山 2020年7月20日

 

第9次千葉災害ボランティア 2020年6月21日~

千葉県布良崎神社 2020年6月22日

 嶋田博信会長を中心に布良崎神社に集まって,郷土の復旧,復興,再建を考えるみなさんと歓談させていただきました。

最上段,右から4番目に神戸国際支縁機構の提灯。2020年6月22日

神田弘志&芳江さんご夫妻はたいそう立腹なさっていました。「一部損壊」と判断され,3万円しか申請して               やっと支給されたにすぎません。「お上(かみ)」に情けはないのでしょうか 2020年6月22日

台風15号,「一部損壊」の悲劇 第9次千葉災害ボランティア 6月21日
 2019年9月9日,九州~西日本の軌道が東日本の千葉県南房総を直撃。二階が飛んでしまう,瓦がなくなる,
床上浸水など,さらに続く台風により爪痕は福島県,宮城県に及びました。
 災害支援の基準がぜんぜん改善されていません。「一部損壊」と「半壊」の区別が審査する役所の人によって
ずさん。そのためさほどダメージがない家に100万円以上の支給に対して,住めなくなるほどの家に,申請して
やっと3万円では大きな差があります。災害大国のアキレス腱は「申告主義」にあります。泣き寝入りなさった
恨み辛みの声を千葉県でも耳にします。役所,「お上(かみ)」に,被害について複雑な申請をしないとなんの
保証も得られません。たくさんの公務員がいるにもかかわらず,「申告制度」はおかしいのです。新型コロナ
でも民間と異なり,失職する心配はない体質が上からの目線になっています。

お隣りは外観も無傷なのに,半壊,この家は中の壁も雨でにじんでいても「一部損壊」。どんな基準で役所は決めているのか。

新型コロナのため喫茶店の閉店を余儀なくされていました。生きていくために新堀隆義&美恵子夫妻はやっと
開店なさいました。世界の貝のコレクションが店内にあります。しかし,台風15号の爪痕はブラインダー,
天井の照明器具の修理もできていません。

いつも神戸国際支縁機構のメンバーを温かく迎え入れて下さる恩人たち。右から沖浦宏隆さん,小谷登志江さん。
上裕隆代表も東日本大震災第1次ボランティアの際,20才でしたけれど,今,10年目です。椅子の上にも3年
ころではありません。

『中外日報』(2019年10月18日号)。

千葉県南房総ボランティア報告”『クリスチャンプレス』(2019年6月20日付)

急ぎ求められるマンパワー 「ボランティアと行政の棲み分けを」” 『キリスト新聞』(2019年10月21日付) 

『キリスト新聞』(2019年10月21日付)。

第3次千葉災害ボランティア  2019年10月11-17日

「今日の世界は行き詰まっている」
                   神戸国際支縁機構
                   代表 村上裕隆

主題聖句: ヨハネの黙示録19章10節 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると,天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは,あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に,仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」

<序>
 佐賀県などを襲った記録的大雨(8月27日から)からわずかで,9月9日,千葉に観測史上最強クラスの台風15号が上陸しました。岩村理事長は,インドネシア国パルでの孤児のための施設完成のオープニング・セレモニーに招かれており,9月9日から15日まで離日せざるを得ませんでした。出発日は,羽田飛行場から離陸することが困難であったと語っておられます。羽田から成田に移動したものの日本の表玄関である飛行場は航空便キャンセルのため,路上生活者の住まうかつての東京駅のように変貌していました。フロアに寝袋なしに,疲れ切った表情の人たちが横たわっていました。お手洗いに行くためにはいくつもの寝ている人々をまたがなければなりませんでした。

2019年9月9日 成田空港

 技術の粋を懲らした近代建築もゴミが散乱し,腐った食べ物の匂い,何日も入浴していない雑魚寝(ざこね)の疲れ切った海外旅行者,日本人旅行者,ビジネスマンたちはすっかり憔悴しきっていました。

 啓蒙主義以降,世界中を席巻した思想家カール・マルクス(1818-1883),心理学者ジークムント・フロイト[1856-1939]や[1],哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ[1844-1900]は,宗教の蒙昧性,不可知性,非合理性,を徹底して責めました。信奉の終焉を声高に宣言してきました。人類は理性に目覚めるにつれて,宗教の価値観は減少してきました。人類は,20世紀末を待たずして宗教は過去の遺物のように顧みられなくなる時代の到来を予感するようになりました[2]。しかし,人類の科学技術のぜいたく,粋を凝らした建造物は今や廃墟のようなありさまです。宗教を退けた人類はアポリア[3]でのたうちまわり,ヘドを吐いています。伝統的宗教に疎遠になった現代人はオカルト,スピリチュアル・ヒーリングや新々宗教宗教にひょっとすると人生の究極の何かがあるのでは覗こうとします。進歩,技術革新,快適な生活を支えてきた知のシステムも幕を閉じようとしています。西洋近代の宗教を排斥した科学性,論理性,システム性に依拠してきた言説では,もう現在,未来の世界を擁護できないほころびが散見されるようになっています。

 沖縄から関西にかけての地域の者にとって,台風の通過により,突風,暴風雨,雨戸などの被害をいつも覚悟していました。しかし,関東方面の千葉県などが台風の直撃を受け,人命まで損なわれることなどは想起することはできませんでした。ある意味で,先入主,一般論,常識が判断を曇らせていました。科学的合理性への幻滅に白旗をあげざるを得ません。

 先入主を超えた事態をどう予測し,行動すればいいのか,今日はご一緒に考えたいと思います。

(1) なぜ被災地に向かうのか
 a. “共生”(Live together)
 レビ記 25:36 「……あなたの神を畏れ,同胞があなたと共に生きられるようにしなさい」。
 本田寿久事務局長も加わり,4名(岩村義雄,村上裕隆,佐々木美和)は,大型台風19号が襲う地域をめがけて夜21時5分に神戸をあとにしました。
 私たちが南房総布良(めら)に向かうのには理由があります。台風19号が直撃する前にがれき撤,ドロ出し,畳替えや,ブーシート貼りなどのスキルは他のボランティア団体と比べて,卓越した技術があるわけではありません。しかし,被災地の方たちへ傾聴ボランティアの対話を通じて,寄り添います。徐々に,血が通っていなくても家族のような「縁」(関係性)ができます。するとボランティア支援ではなく,実家に帰るように,震災後の安否,ライフライン復帰,罹災証明後の補償などの話し相手になることが神戸国際支縁機構の在り方です。「災害支援者」と「被災者」の二つのグループの壁を造らないようにします。「共に」生きていくことを目標にしているからです。たとえば,宮城県石巻市渡波で毎年,クリスマス会を開いています。その際,「日本人」と「在日外国人」が別々に集まり合うのではありません。一切の区別をなくし,「共に」クリスマスの料理,ソング,プレゼントを分かち合うのです。また,「健常者」と「障がい者」がそれぞれ異なるプログラムの趣向をこらすこともしません。「内なる差別」による二分割社会の「分離」「区別」「特別学級」などのようにはしないのです。健常者は健常者らしく,障がい者は障がい者らしく生きる世の福祉の在り方とは福音は異なります。
 神は,二つの隔てを取り除かれたのです。「実に,キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし,御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」,共に生きるのです(エフェソス 2:14 )。そこには宗教者と非宗教者の隔てもありません。

 b. ゴキブリ道 
 中心街から離れた僻地,山奥,病院,ショッピングが近くでできない地域に入っていくことになります。人里離れている車の往来の少ない狭い道を通っていくことになります[4]。いわばゴキブリがどんなに密封した建築物でも侵入するように私たちは入り込ませていただきます。ですから,神戸国際支縁機構はボランティア参加者たちから「ゴキブリ道」と言われるようになりました。
 東名高速道路の静岡県を通過するときは,暴風雨のため救援物資で重いハイエースが横揺れしました。ハイエースも地面にへばりついて走行しているかのようです。千葉災害ボランティアの救援本部としてミヨシ石鹸の本社で三木晴雄会長から朝食,昼食を寛大に持たせていただきました。
 メリパワーで被災者のカーテンなども購入し,布良(めら)の住人たち286名が避難する館山市立小中一貫校房南学園を訪問しました。第1次,第2次でお目にかかった嶋田ヨネさん(97歳)をはじめみなさんと再会し,体育館で友好を深めました。嶋田政雄区長が神戸国際支縁機構が一番最初にボランティア活動をしに神戸から来たとふれ告げておられるので,どなたともすぐに溶け込むことができました。しかし,実際は地元の旅館の息子さんなど,すでに自発的に,無償でブルーシート貼りにとりかかっておられました。

 c. 支援対象外になる被災家屋の実体

台風19号の通過した後,破損した屋根の修復はどうなるのか,住民のみなさんは不安に思って,避難所で一夜を過ごされようとしていました。

 総務省消防庁が10月23日公表した住宅被害約6万8千棟のうち,「床下浸水」と,浸水が比較的浅い「床上浸水」の区分が合わせて全体の九割超を占めています。
 消防庁の集計によりますと,床より下までの「床下浸水」が約3万3千棟,床より上まで浸水したが全壊などには該当しない「床上浸水」が約2万9千棟に及びました。
 ところが,被災者生活再建支援法に基づく支援金支給は原則「全壊」「大規模半壊」以上が要件です。山崎栄一・関西大教授(災害法制)は「水害では全壊判定でなくても,その家で生活を続けることが難しくなることが多い。多額の出費を強いられる実情と判定基準がずれている」と指摘しておられます。「被災者生活再建支援法の対象に半壊を含めることや,被害区分にかかわらず仮設住宅入居を認めることも検討すべきだ」と話しておられます。

『東京新聞』(2019年10月24日付)。

 オリンピックには3兆円,即位儀式に166.4億円,そして台風被害支援7.1億円しかあてがわれない日本はもっと弱者の人権に配慮しなければならないでしょう。

(2) 他者理解
 a. 現実
 台風19号鋸南町(きょなんまち),布良(めら)を直撃。直撃前に市原に“竜巻” 猛威再び 。海大荒れでした。布良から鋸南町の流縞海岸の海は激しく揺れていました。高波が漁港の岸壁を越え,海岸線道路に打ち寄せていました。神田弘志&芳江ご夫妻のことを案じて,訪問しました。傘が役に立たない雨降りしきる中,玄関に出て来られた芳江夫人は怯えておられました。12日21時頃のピーク時まで,避難所まで遠く,屋根の一部が落ち込んで恐怖心が最高度の時,後ほど,電話する約束をし,安否は確認させていただきました。
 避難所では,館山市の職員たちが布良,相浜の住民たちのために交替で受付などをされていました。

 台風通過直後の南房総は第1次に見た光景と同じように屋根瓦,スレート,壁などが損壊していました。ブルーシートも吹っ飛んでいました。残っていても使い物にならない状態になっていました。家の中に容赦なく豪雨がたたき付けていました。

 私たちは朝6時から,まず小谷登志江さんの二階がなくなった1階天井の上に赤松材(30×40×1985)などを釘付けして骨組み作成にとりかかりました。

 ブルーシートを直接かけても水が溜まるとすぐに破けたり,漏れて,役に立たないからです。土のうで再びブルーシートを固定します。
 第3次にも女性メンバーが加わっているおかげで限界集落の布良地区で神戸国際支縁機構が受け容れられる要因になっています。なぜなら高齢の住民の中で心がへしゃげている方たちを慰めるのに佐々木美和事務局メンバーは大いに活躍をなさり,地域住民からも信頼されていたからです。神様に感謝しています。

 b. 続けて起こる2019年の災害 
 3日目,千葉県市原市で9人の死傷者を出した竜巻被災現場のチベット仏教寺院のボルチョン・サロンさんと出会いました。台風19号直撃前に,とつぜん竜巻が発生し,9人の死傷者を出しました。画像の奥に映っているモンゴル式パオが見えます。チベット仏教の寺院です。管理なさっているボルチョン・サロンさんから被災した二つのゲルなど,状況を聞かせていただきました。


 お手洗いを近隣の「寿屋中島秀夫商店」でお借りしたところ,寛大に販売用のゴム手袋をすべてを提供してくださいました。温情に涙が出ました。


⇒ 竜巻跡 

 二つのゲルがわずか1分ほどの内に,吹き飛ばされてしまったそうです。信心の場所である直径30メートルほどのパオの内部にまで暴風雨は侵入しました。現場では軽トラックが横転して大破しました。運転していたとみられる男性(49)が心肺停止の状態で見つかり,搬送先の病院で死亡について報道していました。[5]
 「安房文化遺産フォーラム」の池田恵美子事務局長,河辺智美さんに出会い,千葉県,とりわけ布良の歴史などについて啓発を受けました。池田事務局長たちと富崎町の対策について息の長い支縁体制について話し合います。福島県相馬の弓削惠則氏,長野県に行かれた伊東 博氏,台風19号の影響でしょうか,現在の事務所が機能せず,どうするかという命題をもっておられました愛沢伸雄代表にお会いできました。館山市の歴史に造詣が深く,各界から引っ張りだこでした。

 青木繁「海の幸」記念館の小谷福哲&由喜枝夫妻から電柱のブルーシート撤去を依頼されます。安全ベルトをつけてはいるものの,風雨がありますから,脚力,腕力,機敏な判断が求められます。

(2) 20世紀と21世紀の相違
 a. 世界大戦,アウシュビッツ,原爆投下
 20世紀はライト兄弟が1903年に世界初の有人動力飛行に成功しました。科学技術の華々しい発達,人類の進歩と調和という楽観的世界観,貪欲な繁栄を追い求めた幕開けでした。日本も世界の潮流に負けまいと,初めて飛行機が飛んだのは,ライト兄弟が動力飛行に成功した年から7年後の1910[明治43]年でした。千葉市の稲毛海岸でも有人飛行に取り組んでいました[6]
 20世紀の工学の開花の原点である日本の千葉県稲毛地区も,台風15号による被害から免れることはできませんでした。ライト兄弟の父親はアメリカ合衆国で牧師でした。

 b. 被造物のメカニズム模倣から  
 ちなみにライト兄弟は鳥の羽根の端や尾のひねりからアイディアを得て翼端ひねりを完成させ,現代の航空機の補助翼の働きと同じ技術につなげました。潜水艦などのジェット噴流は「いか」,ふすまの強度は「はちの巣」,レーダーは「こうもりの超音波のはねかえりを活用」がヒントになっています。
 1914年,第一次の勃発により,軍需産業の発達の基盤となる大量生産,オートメーション,効率化が現代便利生活に寄与しました。動力飛行に成功したライト兄弟の期待する顧客は米陸軍国防科学研究委員会(National Defense Research Committee;NDRC)を発足させ委員長におさまり,その下に実行機関として科学研究開発局(Office of Scientific Research and Development;OSRD)を設置して,3万人のスタッフ(全員が研究者ではない)を動員,200を超す各種プロジェクトを進めました。ソナー(音波探知機),レーダー,近接信管,上陸用舟艇,爆撃照準器,など米軍勝利につながる数々の新兵器がここから誕生しました[7]。ペニシリン[8]の量産プロジェクトもそうした副産物のひとつです。極めつけは原爆開発マンハッタン計画でした。

c.「歴史は繰り返す」
 21世紀になってようやく人類は,自分たちが獲得した能率,効率,便利な高度なテクノロジーが被災現場ではまったく有効に働かない実状を思い知らされました。被災者の呻きに対しても,想像力が貧困であるあまり,感性が鈍ってしまっています。行政,業者, ボランティアがいない限界集落に対して,無感覚としかいいようがない薄情な国になってしまいました。茶の間のテレビなどから放映されるジョーク,繁栄した虚偽の生活,ネオコン[9]は千年王国の到来が近いかのような狂信を垂れ流し続けています。核保有国のエゴを擁護するだけでなく,被災者抜きの空想の終末論が跋扈しています。第二次世界大戦後に人類が悔い改め,全体主義から「平和,民主主義,平等」を希求したのもつかの間でした。日本は唯一の被ばく国であるにもかかわらず,今や野獣の化身であるアメリカ合衆国トランプ大統領の言いなりです。
 世界は,① 1946 年 総会の第1号決議が,核軍縮を国連の最優先目標であると確認しました。続いて,② 核拡散防止条約 5か国以外の核兵器の保有を禁止する条約 1970年に発効され,189ヵ国のうち184ヵ国が批准締約。国は189カ国(2006年5月現在)になりました。現在,107の国々が核兵器禁止文書に賛同しています。ところが,③昨年2018年秋の国連総会にオーストリアらが提出したTPNWの署名・批准促進を訴える決議案 賛成122に対して,日本は反対したのです。神をあなどる傲慢な政治的決断です。
 被災者,在日外国人,ハンディキャップの弱者の人たちに寄り添う感性がなくなってしまった観があります。日本がいま自然災害でのたうち回っている真の原因はなにか冷静に黙想すべきでしょう。政治家,官僚,財界,とりわけメディアが方向転換しないと,日本滅亡の目撃証人になることでしょう。

[1] 人間の考えることのすべてをセックスから説明。下半身の心理学。脳は下半身の奴隷であると説いた。
[2] “The Postmodern Debate,” in Gregory Baum, ed.(Michael J. Scanlon, The Twentieth Century: A Theological Overview New York Orbis, 1999 p.228-29)
[3] Aporia, ギリシア語: aporiva ローマ字表記aporeia, アポレイア「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」の意味。 
[4]  『新改訳』第3版(2003年)では,6箇所出ているヘブライ語 ハスィールを「油虫」,つまりゴキブリと訳出。Ⅰ列王 8:37;Ⅱ歴代 6:28;詩 78:46;イザ 33:4;ヨエル 1:4,2:25。
[5] 『毎日新聞』(2019年10月12日付)。
[6] 二宮忠八[1866-1936] は有人飛行機を飛ばすには至りませんでしたが,ライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理に着想していました。
[7] 缶詰の発明(長期保存戦闘食),高オクタン価ガソリン開発が生み出されました。
[8] ペニシリンの発見(負傷兵の治癒;冬季欧州戦線では肺炎が多発した)。
[9] ネオコン(1981年以降,米国における新保守主義 ネオコンサバティズム Neoconservatismの略)に犯されている日本,東南アジア,香港のクリスチャンが多いことは憂慮すべき現象です。

 ⇒ https://youtu.be/Sxp0wfqHOMI 動画


第2次千葉災害ボランティア  2019年9月27-10月1日

完全原稿 ⇒ 後ろ姿でにっこり

英文 Complete manuscript of  English ⇒ Smiling with our back without any words

<序>
 千葉県南房総の鋸南(きょなん)町の竜島(りゅうしま)海岸で神田ご夫妻との再会,新たな出会いもありました。千葉県教育庁の指導主事菊間俊徳氏と出会いました。続いて,岩井袋地区に入りました。すべての家といってよいくらい,壁,屋根には何かがぶつかった跡,えぐれた痕跡があり,ほとんどが吹き飛ばされていました。瓦やスレート屋根などの飛来物がまるで凶器のように家屋,車,フェンスを損なっていました。
 先週に続いて,最初にボランティアとして入った布良(めら)地区を訪問。嶋田政雄総合区長,青木徹本郷区長から,独り住まいの女性小谷登志江さん(77歳)を訪問して,励ましてほしいと依頼されました。
 行政,業者,他のボランティアもいない現場に遣わされた時,みなさんはどのように立ち振る舞いますか。

(1) 限界集落
 a. 絶望の漁業
 水産の都である宮城県石巻市は2011年の東日本大震災により,大きな打撃を受けました。漁業のなりわいが復興しない悲哀を8年間,見てきています。
 震災による水産加工の縮小だけではなく,日本全体に共通する課題です。農林水産省データは,1988年に日本の漁獲量は約1,200万トンでした。漁獲量が年々増加し最高潮でした。一方,世界の水産物の漁獲量[水揚げ量](天然+養殖)は1億トンを超えているに過ぎませんでした。およそ30年後,日本の漁獲量は約400万トンに3分の1になりました。一方,世界の漁獲量は2倍に増えています[1]

 地球温暖化,魚の獲りすぎ,外国の漁船が日本に回遊する前に獲ってしまうからだという意見があります。しかし,マイワシの漁獲は東日本大震災後,大幅に増加傾向になり,2017年には50万トンに増えています。真の原因は,日本人の食生活の変化です。日本はもともと,世界で最も魚食が多い国の一つでしたが,次第に肉を好む傾向が増えています[2]
 富崎(布良,相浜)の漁業も日本人の食生活の変化によって,すたれているのです。布良の漁港で漁をなりわいとする漁師も5件にまで減っていました。後継者がいない現実も無視できません。弥生丸船主の沖浦宏隆さん(65歳)も,台風15号で船が損壊し,漁を継続することに赤信号がともっていました。「船を買い換えることもできん」,と唸っておられました。

 b. 凶器と化した瓦,スレート
 真宗大谷派福蔵寺を中心にできた岩井袋地区も陸の孤島になっていました。ほとんどの家は竜巻のような台風15号でひどい有り様です。屋根の瓦,スレートが凶器と化して新築,頑丈な壁,道路を傷つけていました。

渡辺さんという女性がわずかな茂みで畑を始めようとされているところに出会いました。かつて漁をなさっておられたのですが,船がしけで損なわれました。漁しか知らないけれど,生きていくために地面に這いつくばるかのように,狭い荒れ地を耕して,自給自足で生活していこうとなさっていました。住む家は台風15号で,「だめになったさ」,とあっけらかんとおっしゃいました。そばにおられるご主人はかなり高齢で,働く力がありません。私たちが生い茂る雑草の入口からお姿は少し見えますが,対話はなさいませんでした。奥さま一人で生活を支えていこうとする気迫がみなぎっておられました。奥さまの顔には海で長年漁をなさってきたしわがあり,みけんには深いしわがおありでした。身長は145センチぐらいで,人生の労苦を積み重ねてきた影響でしょうか,少し前屈みです。しかし,終始笑顔です。気力は10代の少女のようなはじける勢い,あどけなさ,魅力がおありでした。むしろこちらがたじろぐほど明るく,私たちに希望をもって生きるように励まされました。年齢は筆者が勝手に推察するに,おそらく70代でしょう。年齢,性別,育った環境を超えて,初対面にもかかわらず対話するさわやかさをいただきました。ボランティアは初対面の被災者たちに対してかくあるべきだなと模範を示していただきました。フルネーム,ご住所も聞きませんでしたけれど,居合わせた私たち3人はいつまでも忘れることのできない方に出会えた喜びがありました。

 c. 二階が飛んだ独居者
 1階の天井もひどい有り様です。登志江さんは独居暮らしです。今年の4月に夫が急逝なさいました。
 行ってみると,2階建ての二階部分は吹き飛ばされ,すべての家具,調度品,衣類は何もなく,まるで新居みたいにがらんとしていました。ただし,どの部屋もどろに覆われていました。電気,ガスはとまったままです。行くところがないので,1階のひとつの部屋をなんとか住めるようにするしか逃れ道はありませんでした。サッシ,天井,床を清掃させていただきました。

 ホームセンターまでご一緒に行き,ガスボンベ,キャンプ用ランプ,必需品などを購入させていただきました。受縁力がおありなので,私たちボランティアは救われた気がします。なぜなら多くの日本人は遠慮をなさり,なかなか受け取ろうとなさらないからです。小谷さんの家も,第1次千葉災害ボランティアに同行された左成さんがおられなかったら,家屋の修理は袋小路に入ってどうしようもなかったです。第1次で,ブルーシート貼りをさせていただいたことで現地の人たちは感謝しておられました。
 第2次では,なんとか住めるようになりました。もちろん被災前のようにすべてがそろっているわけではありません。


右から村上裕隆だ表,小谷登志江さん,佐々木美和事務局メンバー,平野さん

 ボランティアのメンバーたちの気持ちと住人の気持ちがひとつになったことが尊いことでした。最後にはそれぞれが小谷さんと抱き合って別れを惜しみました。

 帰神する直前に,ボランティア団体ブレッシングの山尾研一牧師,宮崎聖輝牧師,横山唯一さんたちとお会いしました。ヘルメットもかぶらず,迅速に二階にあがって隣の家の窓を直してくださいました。呉教会の内山忠信牧師の情報もたいへん有益でした。

(2) 千葉県の風土が育てた人たち
 a. 内村鑑三の開眼
 布良には,神田吉右衛門[1834-1806] という教育者がおられました。1879年にコレラが流行した際,神田は看護,消毒などボランティアの働きをして村に貢献しました。さらにアワビ漁業を起こして,利益を329世帯の村人に平等に分配する生協を起こしました。日本で最初のはえ縄漁でマグロの収穫高を日本一に導くだけでなく,船の遭難も多かったため,遭難救助積立金制度という保険を始めました[3]
 キリスト者であった神田のもとで1890年に教師として内村鑑三[1861-1930(昭和5)]は漁業実習に随行しました。30歳以上若かった内村に,神田は「いくらアワビの繁殖を図っても,いくら漁具を改良し,新奇な網道具を工夫しても,彼等漁夫を助けてやることはできない」,「なによりもまず(刹那的に生活する)漁師を改良しなくてはだめだ」と話しました。聞いていた内村はこのことを契機として水産技師から宗教家へと転向することになりました。内村は「余が聖書研究に従事するに至りし由来」として,神田との出会いが宗教家への覚醒となったと証ししていました[4]。布良は傑出したキリスト者を排出する土壌でありました。
 青木繁「海の幸」記念館には,神田と内村のやりとりの書簡のコピーが展示されています。 

 b. 三木晴雄氏との支縁
 神戸国際支縁機構が9月10日に,千葉災害ボランティアに漕ぎ出すことをミヨシ石鹸株式会社の三木晴雄会長に話しますと,千葉に行く前に,本社に立ち寄るように言われました。三木氏は機構の恩人でもあります。千葉県市川市に住まいがあります。神戸から7人が準備できたと申し上げると,ご自分も一緒に千葉の被災地に入ると言われました。1939年7月15日生まれですから,80歳になられます。筆者は30年前に東京の集会ではじめてお目にかかりました。当時,三木氏はまるでナタが歩いているような気迫がみなぎっておられました。近づいて「献金してください」,と言おうものなら,一刀両断のもとにぶった切られる勢いが全身から放っておられました。「牧師はみんなダメだよ,くれくれ坊主だから」,と寄附を請う宗教者には手厳しい方という印象が残っています。石鹸の儲けは一個につき,10円もないんだから,コツコツと集めたんだから,そうむやみに言われてもね,と言われます。しかし,筋が通って世の役に立つことならば,惜しみなく社会に寄附されてきた経済人です。機構が継続し,また,千葉の被災地へ行くとなると,喜んで応援してくださる父親のような存在です。義援金,朝食,弁当を持たせてくださいました。ちょうど西暦1世紀に,マケドニアの人々が困窮していると,「つまり,こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は,刈り入れもわずかで,惜しまず豊かに蒔く人は,刈り入れも豊かなのです」,と寛大に寄附をする精神から私たちも現場へ行くことができるのです。(Ⅱコリント 9:6)。


 三木晴雄氏が寄贈なさったハイエース

c. 城田すず子さん(仮名) 従軍慰安婦
 日本人であり,裕福な家庭で蝶よ花よと育てられた共立学校の2年生の時,母が亡くなり,借金のため芸者屋に子守り奉公に出られましたが,そこで,会社の社長に水揚げされ,病になり,父親の借財で遊郭に売られました。さらに台湾の慰安所に17歳の時に,一夜に幾人もの軍人の相手をさせられ,心身共々ボロボロになられました。転戦が終わり,帰国すると,夜の世界で身を売る仕事につきます。占領軍の相手をしながら,全国各地をパンパンと言われて回ります。姉が自分のことを苦にして自殺したことを聞かされます。衝撃を受けて,なんとか堅気になろうと願っていた時,雑誌でキリスト者矯風会があることを知ります。矯風会の運営する駆け込み寺のような「慈愛寮」(更生施設)に入り,ホーリネス教会で受洗します。その後,布良にある「かにた婦人の村」建設のために祈り,「慰霊塔 従軍慰安婦」を立てようと願われました[5]
 慰安婦にさせられた人の痛み,苦しみ,怒り,くやしさに耳を傾ける姿勢が「傾聴ボランティア」の心情の発露でもあります。

(3) ボランティア道
 a. ボランティア道に求められるスキル
 神戸国際支縁機構は,被災現場で“Kyosei (共生: Live together), Kyoku (共苦 Share sufferings), Ku-en (苦縁 Relationship to share sufferings)を目指します。つまり,プロのボランティア,スーパー・ボランティア,布教の一貫の働きではありません。被災者の友達になるためにありとあらゆることに仕えます。治療 キュアではなく,世話 ケアに徹します。復旧,復興,再建の技術者ではなく,コーディネーターに徹します。生活再建のコミュニティの政治家,行政,立案者ではなく,民衆の声,耳,手足になります。台風15号(2019年9月8日)の直後,限界集落の高齢者たちから屋根にブルーシートを張って欲しいと懇願されました。現場に,業者,行政,ボランティアがいない場合,素人,未経験,技術がなくても,家の方の願いに協力したいのです。しかし,はしご,ブルーシート,土のう袋などもありません。20分車で走り,コメリパワーというホームセンターで購入してきます。独居で,すべてを失われた方ですから,費用は機構から出します。もちろん返却は求めません。聖書には,「そして,翌日になると,デナリオン銀貨二枚を取り出し,宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら,帰りがけに払います』,と記されているように,費用を負担する場合も生じます(ルカ 10:35)。ボランティアは,ハンマー,釘,材木などがなくても,一時的な応急手当をします。つまり素人のやり方で努力します。完璧なスキルを持ち合わせていないのですから,あくまでも一時しのぎです。たとえば,負傷なさっている方を世話しても,注射,手術,施術などを行えば,医事法違反となります。したがって,ボランティア道は本部隊が到着するまでの仮の応急手当に相当するはたらきと言えます。

 b. 屋根にブルーシート
 神戸国際支縁機構を最初から導いてくださる嶋田政雄総合区長から一番苦悩している方々のところへ行くように促されて行動しました。登志江さんの区長である青木徹さんも一緒でした。2階が台風15号によりなくなったため,1階の天井が無残な姿になっています。はしごを借りてきたブルーシートをかぶせるのです。さいわいなことに1回目には,リフォーム店を経営なさっていた左成和朗さんがおられましたので,業者が施行したように成功しました。その時も,ノコギリ,電動ドリル,設計図もありませんでした。たとえ,メス,注射器,麻酔剤などを持っていなくても,家の方の要望にできるだけ応じられるようにケアするのと同じです。感情移入をしていれば,できる範囲でお手伝いをさせていただきます。私たち4人はだれも安全ベルト,安全靴,ヘルメットもありませんでした。事故が起きたら二次災害になり,かえって迷惑になるという教条主義的なルールで動いているのではありません。お隣りの方,親戚,友人の精神態度でブルーシートを屋根に覆ったのです。つまり被災者の傷ついた心を覆う働きがボランティアと言えます。ちょうど,真冬の寒い時,寝静まった子どもにそっと毛布をかけてあげるようなものです。
 期待どおりに遂行できなくても,最大限の努力をするわけです。

 c. ボランティア道のスタイル
 2011年3月11日,3日後に準備をはじめて,3月20日に東北の被災地に足を踏み入れた時,別世界の光景でした。野戦病院のように,斉藤病院は入院患者が凍てつく寒さの外の仮設トイレでガタガタ震えながら順番を待っておられました。石巻市役所は,2階まで津波が覆ったせいか異臭が漂っていました。道路脇には何台も車がおもちゃのように乱雑に積み重なっていました。
 私たちは当初,長靴,ヘルメット,手袋など完全装備でいました。当時は,「~してあげる」という思い上がった上からの目線があったかもしれません。ところが,家族,財産,友人などをなくし,悲嘆にくれている方々に親切そうで不親切な押し売りのような行為をしようとしていることに徐々に気づかされていきました。ボランティアとは,こちらのできることを提供することではなく,相手の方が一番してほしいことは何かに気づくことだと示されました。すると,いかにも「自分はボランティアです」,という格好をかなぐり捨てて,同じ目線でものごとを考え,感じ,話す方が伝わりやすいと体験していきます。道で歩いているとき,買い物でレジに並ぶとき,車を運転するときも,住民と同じスタイルの方が溶け込みやすいことに気づかされました。「ユダヤ人に対しては,ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては,わたし自身はそうではないのですが,律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです」に,被災者との信頼関係を「得るため」に,ボランティアらしい鎧を脱ぎ捨てたのです。(Ⅰコリント 9:20)。ボーイスカウトがユニフォームを着ているときと,私服の時で行動が違うならば偽善になるでしょう。
 しかし,舗装がだめになった道路を単車で走る時,ヘルメットをかぶる交通ルールがあります。したがって,ボランティアグループの指導者は,安全も留意しなければなりません。参加者がヘルメットをかぶっていたら事故を未然に防げたとするなら,責任を問われます。聖書に,「家を新築するならば,屋根に欄干を付けねばならない。そうすれば,人が屋根から落ちても,あなたの家が血を流した罪に問われることはない」,と「欄干」を備える思慮深さが記されています。(申命記 22:8)。    
 被災者の命と同様,私たち寄り添う側の命もたいせつにすべきです。

<結論>
 屋根がない部屋におひとりで住まうことができるように,雨漏りのためテントを張るボランティアに従事しました。天井が直るまで,これで夜露がしのげるでしょう。私たちボランティア道は業者,行政,他のボランティアがまだ入っていない現場でゲリラのように行動します。応急手当に相当するはたらきを終えたら「後ろ姿でにっこり」のスローガンを発揮します。「施しをするときは,右の手のすることを左の手に知らせてはならない」を思いに刻んでいます(マタイ 6:3)。ですから表彰状,勲章のために仕えるのではなく,また次から次に書籍を発刊して利得を得ることもないのです。
 災害大国日本では,だれしもが参加できる民間ボランティア・センターにより,被災者と「共に苦しむ」(スムパスコー スン「共に」+パスコー「苦しみを受ける,苦難を経験する」)ができます。
 千葉県布良は限界集落です。地元の指導者たちがボトムアップするコミュニティができるように願います。2019年は,佐賀水害,千葉水害を通じて,ボランティアと行政の社会福祉協議会(ボランティア・センター)の棲み分けの転換点の年とすることを提言します。なぜなら断水などライフラインの復旧,復興,再建は行政の方がはるかにすぐれておられるからです。被災地への交通費の申請は民間が手配する方が願わしいです。行政は申請主義に重きを置き,特定の個人を優先しないという公平性を重要視してきました。細目にわたるマニュアル通りに救助体制を,協議し,告知し,実施してきました。いわゆる被災者を管理してきたわけです。それでは佐賀や千葉,今後の自然災害の範囲が広い場合,申請しない,できない,知らない被災者に手厚くサービスを提供することは不可能です。目の前で,困っている被災者が申請しないとすれば,面倒を見なくても行政は責任を問われることはありませんでした。無責任のそしりを受けてもしようがありません。テレビ,メディアなどで騒ぎ立てられてから動くのでは遅いのです。救済の申告ができないハンディキャップ,在日外国人,高齢の方たちのためには,一般のボランティアの方が自分たちから出向いて行って,希望を聞くことができます。
 万人に行き届くためにはボランティアを管理することをやめて,民間のボランティア・センターを支えるように変換すべきです。民間のボランティアを管理しないことです。ピラミッドの頂点から管理するのではなく,逆ピラミッド,底点からボトムアップするように見守る流れに変えます。災害大国日本,南海トラフ,首都直下型大地震などに備えるためには価値観の変換の潮時です。

[1] 界と日本の水揚げ傾向を比較 FAOと農林水産省データ。
[2] 国際連合食糧農業機関(FAO) 2013年,総務省「家計調査」(全国・二人以上の世帯・品目分類) 2013年。
[3] 『館山まるごと博物館』(NPO安房文化遺産フォーラム 2014年 35頁)。
[4] 『明治文學全集 39 内村鑑三集』(筑摩書房 1967年343頁)。
[5] 『「戦後70年」証言・調査記録集』山頂に立つ「噫(ああ) 従軍慰安婦の碑(天羽道子 2015年 54-57頁)。

第1次千葉災害ボランティア  2019年9月15-19日

参加者 三木晴雄,岩村義雄,村上裕隆,當麻久弥,本田寿久,大島健二郎,佐々木美和,左成和朗(第16次),本田博之(第37,56次)      計9名

完全原稿 『同胞に対する隣人愛
英文完全原稿 Complete manuscript of  English ⇒ “Neighborly love for our neighbors”

『クリスチャンプレス』(2019年9月25日付)
『朝鮮新報』(2019年9月25日付)。

『朝鮮新報』(2019年9月25日付)。

ボランティア,募金もお願いします。

<序>
 毎年のように大規模な災害が日本列島を襲っています。一週間前に神戸国際支縁機構は佐賀水害ボランティア[1]に繰り出したばかりです。自然災害にただ嘆息してばかりではおられません。同胞の人々がライフラインに事欠くだけでなく,生きる上で必要な人権が顧みられなくなっています。
 佐賀県の大町,北方町,金立町などでも,水を含んだ畳出しは,家族,親戚,友人たちによりやりくりするしかありませんでした。佐々木美和事務局メンバー(大阪大学大学院博士後期課程)は,住民の方から,「メディアでの報道もなく,被災地の住民からの佐賀新聞への連絡により,9月4日にやっと情報が載ったにすぎません」,と聞いたようです。過疎,高齢化,少子化の流れにあって,独居の高齢者は立ち往生するしかありません[2]。初動の段階で行政も現場で指一本動かせませんでした。続いて,台風15号により千葉県の南房総においても同じように,高齢者の生活が脅かされました。

 宗教者は信心深くあればいいのでしょうか。『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい』,と敬虔であればいいのでしょうか[3]。「救われた」という恩寵を感じることのできない人々の窮状に無関心であってよいものでしょうか。マザー・テレサ [1910-1997]は,「愛の反対は憎しみではなく無関心です」,と述べました。9・11テロ前,被災者,孤児,貧者に「無関心」であった筆者を変え,突き動かしたものは,人々の死,涙,そして自分の罪深さです。今でもそうですが,自分中心に考え,生きてきたことへの反省が筆者を駆り立てます。エゴイスチックな殻を破りたいと峻険な荒行をする山伏の行(ぎょう)のように見えるかもしれません。しかし,荒野で寝起きすること,長時間の移動,粗末な食事が隣人愛の必須条件ではありません。他者への思いやりが人々を突き動かします。今回も明石市に住む長野晶朗さんはじめ,多くの存じあげない人々が千葉において援助を必要とされている広大な地域に行くように呼びかけたりされました。「ゆとり」があればボランティアに参加ができるのでしょうか。100回を数える東北ボランティアにこれまで2000人近くの方々が協力してくださいました。どちらかといいますと,金銭,時間,体力にゆとりのある人たちはほとんどおられませんでした。フリーター,ニート,奨学金返済で苦悩している学生たちが多かったといえます。日々の生活で裕福でない人たちです。なぜなら災害,貧しさ,病などの立場の人々こそ感情移入しやすかったからでしょう。おカネが人生のすべての人たちはなんだかんだ理屈をつけて,動こうとはしないものです。

(1) ボランティアとしての出発
 a. 協力者
 7人は神戸国際支縁機構の本部を2台で出発しました。ひとつに千葉停電ボランティアに仕えてから宮城県石巻市渡波の稲刈りに向かうという目的でした。まず東京都墨田区にあるミヨシ石鹸三木晴雄会長を訪問しました。2011年3月11日,東日本大震災発生時,神戸国際支縁機構の産みの親のおひとりである三木晴雄[玉の肌石鹸株式会社]会長は救援の義援金を託してくださいました。佐々木は,千葉県全体の被災状況,必要とされている物資などを三木会長に説明しました。千葉の山間部,停電でインターネットがつながらない地域,水,土のう,ブルーシートなど救援物資を寛大に用意していただきました。

玉の肌石鹸株式会社会長室

 右から本田寿久事務局長,本田博之(第 37,56次),大島健二郎,佐々木美和,三木晴雄,筆者,左成和朗(第16次)。

 千葉市今井で被災した在日朝鮮人の方のがれき撤去を行っていた李柱成(り・じゅそん)さんたちを手伝うために,9名は墨田区玉の肌石鹸株式会社から向かいました。行政からも最後まで世話されない在日朝鮮人のため,2011年の東日本大震災の発生時から神戸国際支縁機構は在日朝鮮人はじめ在日外国人に仕え続けてきています。台風15号による被害で崩れた倉庫のがれき撤去に汗を流しました[4]

 b. 南房総へ
 南房総にある鋸南町(きょなんまち)両向(りょうむかい)に入ったとたん,電柱が曲がり,アルミ製ビニールハウスは無残につぶれ,多くの屋根にブルーシートがかかっていました。


 竜島(りゅうしま)海岸にまで進むと,その地には巨人がのし歩いて踏み潰された観がありました。
 館山(たてやま)市役場では,携帯充電のためにいさかいが起きたり,震災直後の民間ボランティアを追い返したり,住民たちはいきどおりをもっておられました。昨年も屋根瓦が飛ぶ台風被害がありながらも,今までに体験したことがない被害規模です。二階もずぶ濡れになり,布団なども使いものにならなくなりました。ごみ処理も役場の分別などの指示がないため無法地区となっています。

 c. 竜島海岸,波佐間(はざま),布良(めら)
 鋸南町竜島では傾聴ボランティアの際,神田弘志さん(78歳),芳江さんご夫妻から民間ボランティアはすぐに動くけれど,社会福祉協議会,ボランティアセンターは5日後に動き出し,直後に何もしてくれないと憤慨しておられました。神田さんは,「君は舟なり,人は水なり 浮くも沈むも水次第」,と書かれた中国の為政者による経世済民の姿の人民に対する善政について説かれました。『貞観政要』(じょうがんせいよう) 呉兢[ごきょう 唐の史家 670-749]編)の書籍を贈呈してくださり,ボランティア道の在り方をご指導くださいました[5]

 館山市をさらに南下しました。波佐間でも,屋根が吹き飛ばされた家屋,転倒している車輌が道路脇に放置されていました。台風の15号の威力のすさまじさを物語っていました。

 千葉県の最南端近くの布良地区に入り,唖然としました。すべての屋根がブルーシートをかぶっています。布良地区の5つの区の総合区長嶋田政雄さん(75歳)の依頼により,川をせきとめるがれきを撤去,5つの地区の屋根瓦の修理に取り組みました。ご自宅の天井,玄関の扉,部屋も雨漏りのダメージがありました。

 天井に雨がしみこんできたので,瓦修理を豊崎美代さん(89歳)から依頼されました。曹洞宗龍樹院の鐘楼,本堂の屋根も台風15号で被害を受けています。瓦がないと人は住めません。ブルーシート,土のう,ロープなどをもって,はしご,脚立(きゃたつ)などを用いて,屋根修理のボランティアに取り組みます。

 左成(さなり)和朗さん(第16次東北ボランティア)や,大島健二郎さん(事務局メンバー)たちの南房総への被災状況についての的確な現地情報が有用でした。とりわけ左成さんはリフォーム店を経営なさっておられた関係で,屋根などの修理について的確な助言をくださいました。

(2) 行政
 a.
被災現場での棲み分け
 神戸国際支縁機構のメンバーは佐賀水害,千葉停電ボランティアに足を踏み入れて,あらためて痛感したことがあります。行政は動いていないようにしか映りません。被災の最先端に向かう私たちは,市街区域でない山間部,郊外,海辺などに入り込みます。その地域は,復旧について優先順位で後回しになっているのでしょう。うがった見方をしますと,行政は,ボランティアセンターに申し込みに来るボランティアを管理することしか仕事がないのでしょうか。どこもかしこもマンパワーが必要なことは歴然としています。避難所にやってきた地域住民への対応が精いっぱいなのでしょう。ボランティア団体,民間の企業,商店などと比較すると,行政の人材は豊富です。しかし,公務員が,災害直後に,現場でスコップをもって汗を流しておられる姿,独居の高齢者の家を訪問している場面,歩けない被災者をおんぶしている姿について,2011年の東日本大震災以降,見聞きしてきませんでした。
 被災家屋は迅速な対応がなければ,雨風によって,畳,布団,二階が損なわれていて,臭くなり,ボランティアがいなければ片づけもできません。独り住まいの方はみじめです。ライフラインなどが復旧できれば震災は一段落したというイメージがメディアによって作り上げられている問題があります。
 いくら行政とボランティアのはたらきの棲み分けと言っても,一週間もボランティアを遮断するお上(かみ)の所業に館山市の住民は怒り心頭に達していました。災害による被災を管理する姿勢を180度変えて,住民のために「仕える」公僕の意識変換がないと災害大国日本は沈没します。
 佐賀県の金立(きんりゅう)や,千葉県の鋸南(きょなん),館山市布良(めら)地区へ市長はこわくて近寄れないと聞きました。被災住民からの罵詈雑言に耐えられないからだそうです。国の防災担当相,環境相は役所の案内に付いてまわるポチではなく,自分で被災者のうめき声を聞くべきです。また内閣改造にかまけて,佐賀豪雨,千葉停電,伊豆諸島対応は後回しになったことは後世の歴史が証明するでしょう。

 b. マンパワー不足
 行政が動かないため,それぞれの区長が走り回っておられます。布良地区でも豊崎悦朗向(むかい)区長,青木徹本郷区長たちからも傷んだ家に連れて行っていただき,修復を依頼されました。

左豊崎悦朗向(むかい)区長,右が青木徹本郷区長。
左豊崎悦朗向(むかい)区長,右が青木徹本郷区長。

 ボランティアが入っていないからです。屋根の上は危険です。住まいの復興がなければ,布良地区の復興はありません。屋根にブルーシートを覆わなければ,生活ができないのです。ですから高齢者たちはだれもやってくれないので,自分たちが屋根に登られました。その結果,転落して命を落とされた方がおられます。“千葉の家屋修理で転落,死亡3人 けがも101人,停電なお3万戸”(『YAHOO!ニュース』(2019年9月18日)です。転落死は「防ぎ得た死」(プリベンタブル・デス)です。行政は,各地からやってくるボランティアを追い返すべきではありません。「安全」という大義名分をかかげる前に,被災者の悲痛な生活を考慮すべきでしょう。また転落死は「関連死」ではなく,「直接死」であり,自治体は事態を重く受け取らねばなりません。布良でもひとりが絶命だったと耳にしました。「屋根には登らない方がいいですよ」と,神戸国際支縁機構勝村弘也理事からも当日,メールで釘をさされました。バランス感覚は加齢とともに確実に低下するという理由です。しかし,一人暮らしの方たちの嘆願を見過ごすことはとうていできません。

 私たちの活動を聞きおよんでフェイスブックのメールで次の連絡をいただきました。「災害は“自己責任”ではないはずなのに,国が救済しないでどうする? こういう時こそ自衛隊に活動してもらって」,と。しかし,筆者は複雑な思いです。なぜなら,自衛隊は上官の命令指示がないと隊員は目の前で救済が必要であっても動けない体質があるからです。9月17日にはじめて南房総に来た自衛隊員に,布良の屋根の窮状を申し上げると,すぐさま「上官からの指示がないと動けません」,とコンビニに飲食物を買いにきた隊員は応答されました。ライフラインが復旧しておらず,断水状態ならば入浴など自衛隊の活躍は期待できますけれど,被災後一週間経っています。
 私たちは,暗くなって,午後7時半に最後の一軒の屋根にブルーシートをかぶせて,翌朝の8回目の稲刈りをする宮城県石巻市渡波に向かわざるを得ませんでした。

 c. 民間ボランティアセンター立ち上げ
 やはり民間ボランティアが息も絶え絶えの方たちに本領を発揮します。お上ではなく,民間がボランティアセンターを立ち上げる必要性が高まっています。管理するのではなく,自発性を重んじる助け合い精神が求められています。ニセボランティアの盗難に目くじらをたてて行政は重い腰をあげませんが,必要なのはルールではなく,隣人愛だと考えるべきです。
 実際に,直接,必要の大きなところに急行し,現場で最優先事項を希求できるのは行政ではなく,「被災者」自身です。そのためには,何時から何時までと,マニュアルではなく,その日のうちにやり遂げられる範囲を即座に判断し,住民の願いに寄り添える精神,責任感,愛情がたいせつです。「麻姑掻痒」(まこそうよう)という中国の故事があります。物事が思いどおりになること。もとは,かゆいところに手が届くように被災者に感情移入するのです[6]。聖書にも,「だから,人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と記されています[7]。行政の方が1週間後に仮に独りで被災現場にやって来るとします。行政の方はお名前を尋ねてもまず答えてくださいません。「公」の組織が責任をとるので,「個」は責任をとらないように,入社時から名乗らない教育をかつて徹底して受けた,と機構の事務局の公務員宮田,土手は語りました。
 佐賀県武雄市で,住民設立の民間ボランティアセンターが活躍しています。すでに約1,700人が活動しています[8]
 布良でも海岸の砂を土のうに詰めていると,レジャーでサーフィンを楽しみに来ていた方たちもスコップをもって加勢してくださいました。隣人を助け合う精神に感謝しました。
 被災現場で残念なことのひとつは,被災者が「災害救助法」でどれだけ補償されるか,だれも知らされていないことです。そのうち被災者は泣き寝入りです。機構が炊き出しで一番早く,どこのボランティアよりも早く仕えた熊本地震,福岡県朝倉市杷木(はき)松末(ますえ),西日本豪雨ボランティアなど,「個人責任」「補償なし」「切り捨て」がまかり通っている厳しい実状を目撃してきました。
 たとえば,熊本・大分地震でも半壊なら「災害救助法」が摘要されません。
 被災住民のために一刻も早く「災害救助法」について首長は行動すべきです。しかし,法律が優先されてよいはずがありません。人間のくらしが法律よりも価値があるはずです。局地的な被害のため,大規模被害を想定した国の支援制度の適用は受けられない事例があります。岡山県新見(にいみ)市の集中豪雨による家屋の被害は深刻であっても,「災害救助法」は何の役にも立ちません[9]

(3) 稲刈り
 a. 100回目の東北ボランティア
 100回目になります。2011年3月20日に渡波3丁目付近のがれき撤去を最初にさせていただいてからの渡波を中心に,「田・山・湾の復活」をスローガンに2,000名近くの神戸からのボランティアが訪問させていただいてきました。何もたいしたことはできていません。丹野一雄宮城県漁業協同組合委員長,鈴木健一石巻森林組合前代表理事組合長,石巻市渡波地域農業復興組合 阿部 勝代表のお3人は顔をあわせて話し合ったことが何世紀にもわたってなかったようですが,ご一緒に「石巻刷新会議」を2011年12月にはじめさせていただきました。その結果,収穫祭,田んぼアート,餅つき大会など渡波地域の人たちとの交流が深まりました。

『石巻日日新聞』(2019年9月19日付)

 b. 農業ではなく,農法
 稲刈りは,昔ながらの農法で,機械を用いず,手の作業で実施します。無農薬,有機のおいしいコメです。大崎市の「NPO田んぼ」から毎年苗を購入し,根岸で肥沃なトロトロ層にした土壌で栽培をします。長浜幼稚園の園児たちが毎回参加してきました。今年で8度目の挑戦です。園児たちは自然体験のひとつとしてトロトロ層づくり,田植え,稲刈り,脱穀,収穫祭など,一年間のプログラムの中で5回にわたり,神戸のボランティアメンバーたちと自然体験をさせていただいています。
 今年は 2019年9月18日(水)午前10時半から11時半に,石巻市際前620番地の際前(きわまえ)で4畝を刈り取りました。田んぼの所有者は亀山繁氏(1951年生)です。毎年,寛大に機構に使用を許可してくださっています。保原政美さんも「稲架掛け」の杭を打ち込んでくださったり協力してくださいます。園児たちは,農機コンバインを使わずに,ノコカマで刈り取ります。
 機構の栽培は,宮城県石巻市渡波,神戸市西区友清でも反収あたりの収穫量の拡大を目指しません。また自然をお金もうけのために用いず,大きな田んぼも目指しません。自作自給でよしとします。海外から食料を輸入し,米国の農業経営者の繁栄に寄与することにも首をかしげます。農耕機械の入手のためにローンでやりくりに苦労せずにすみます。
 昔ながらの農法です。阿部世奈(せな 5歳)「サクっとイネの束を切れて気持ちよかった」と喜んでいました[10]。 63名の長浜幼稚園の園児たちの笑顔にも励まされました。
 収穫したコメはすぐに「稲架掛け」(はさかけ)をし,天日干しをします。日光により,おいしいコメになります。全量を収穫祭でおにぎりにして地域の方たちに召し上がっていただきます。
 来月は,イネからもみ殻をはずす脱穀です。

 c.自然への回帰
 自然,昆虫など小さな動物,自分たちの食べ物を自分たちで作ることなどをたいせつにする体験は家庭や学校では学べない体験です。園児の年長組は5~6歳です。入園児には,みんなと群れることができず,べそをかいていた子どもたちも幼稚園教育の先生たちのよき導きですぐに順応していかれます。残念なことは,家庭での養育において,母親の影響が強く,たとえば親が虫嫌いだと子どもたちはなかなか昆虫,かえる,生きものにさわることに恐怖心をもっています。とりわけ「滅菌」という生活環境で育った幼子は,「土」にさわることも躊躇します。田植え前のトロトロ層づくりにもすぐには溶け込めません。田植え前の泥(どろ)が汚いものと感覚的に避けようとします。アスファルト,近代的な建築,スピードを競う輸送手段などどれも「土」とは無縁だからです。鳥のさえずりの聞こえる田んぼで,素足でやわらかい田んぼの「土」に触れ,青い空の下で,ミネラルが増し加わった「稲架掛け」(はさかけ)の天日干ししたイネを見ます。
 園児の皆さんには,トロトロ層づくり,田植え,稲刈り,脱穀に共に参加していただきました。秋に,自分たちの栽培したお米でおにぎりを作って食べます。体全体の視覚,聴覚,味覚などで人間がたいせつに育ててきた「食べる」営みを頭ではなく,身体で身につけます。
 大人になってもあぜや小川で遊んだ想い出,ふるさとを愛するきっかけになればと願っています。大都会では味わえない全身で吸い込んだ空気が田舎の魅力として忘れられない貴重な原点になるでしょう。そんな体験のお手伝いをさせていただき,むしろ神戸の私たちの方が感謝させていただいています。
 人間の繁栄のために,人間が自然を支配し,利得の手段することはあってはならないでしょう。神が創造なさった「地」は人間が責任をもってお世話することが望まれます。100回目の東北ボランティアに参加させていただき,都会にはない自然豊かな宮城県石巻市渡波で培われたボランティア精神を継承していきたいと願っています。

<結論>
 東北ボランティア参加者は,神戸市東遊園地(神戸市役所隣)の炊き出しのきっかけになりました路上生活者の田口政夫さん[1941年3月7日生]にお出合いしました[11]。帰途,東遊園地に立ち寄り,参加者全員で調理,運搬し,解散しました。ボランティア道のはたらきは,終始一貫して,「弱い人」(ギリシア語 アスセネース)と「共生」,「共苦」,「苦縁」をまっとうしています。したがって,無名の年金生活者,檀家が少ないお寺,信者が少ないキリスト教会などからご「支縁」いただいて,継続できています。海外の孤児たちからの「叫び声」も次から次へ入って来ます。参加資格は,性別,年齢,国籍に関係なく,また資格,経験,健常者かどうかも問いません。あらゆる人たちで構成されるべきと願っています。なぜなら被災者の中にはハンディキャップ,外国語しか話せない人,心を病んでいる人たちがおられるからです。
 さて,防衛予算も過去最大の5兆3,223億円を計上しています政府[12],内部保留している大企業,悪徳商法でかせいだ不正な富も,きれいに使っていったらどうかという意見も理事会ではありました。みなさんとご一緒に考え,息の長いはたらきをさせていただきたいと思っています。
 ※ 稚拙な説教原稿を翌週,神戸国際支縁機構の村田充八理事,佐々木美和事務局メンバーに校正していただきました。

[1] 拙論「自然を管理するスチュワード精神か,原始的自然を求めるのか」https://kisokobe.sub.jp/article/proposal/15029/?fbclid=IwAR3npPpPKkv1mmMtjx7Ea0xtlpn1czhwg919h0nXUj_fp3gJtM0yfkjAAT4
[2] 『佐賀テレビ』(2019年8月28日)。
[3] マタイの福音書 22章37節,マルコの福音書 12章33節。
[4] 『朝鮮新報』(2019年9月25日付)。
[5] 館山市鋸南町竜島 第1次千葉被災ボランティア https://youtu.be/LqZFpWTybJg
[6] 「麻姑」は中国伝説上の仙女の名。鳥のような長い爪つめをもっているので,かゆいところをかくのに適しているといわれた。
[7] マタイの福音書 10章28節。
[8] 『毎日新聞』(2019年9月18日付)。
[9] 『 同 』(2019年9月16日付)。
[10] 『石巻日日新聞』(2019年9月19日付)。
[11] 「第36次東北ボランティア報告」https://kisokobe.sub.jp/activities/5007/
[12] 『朝日新聞』(2019年8月13日付)。米ロッキード・マーチンの最新鋭ステルス戦闘機F35や地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の発射装置取得費用にあてがわれます。

台風19号救援募金

郵便振替 口座 00900-8-58077 加入者名 一般社団法人 神戸国際支縁機構 もしくは 三菱東京UFJ銀行 462(三宮支店) 普通 3169863  神戸国際支縁機構 岩村義雄

 書き込める方は台風19号と記してください。神戸国際支縁機構は助成を得ることをせず,みなさまからのご支縁によって,現地への救援金,交通費,救援物資などすべてまかなっています。救援金は全額,被災地へお届けします。

目標額 300万円

現在 2,348,100円      
 +100万円は台風19号

岩村義雄,神戸国際キリスト教会,玉の肌石鹸株式会社,三木晴雄, 「小さくされた人々のための福音」講座,白瀬小一郎,土手ゆき子,土手 朋,久留島琴,石川久子,山下妙子,畠山登美子,日垣数子,河内常男,守屋香代子,吉川忠利,
オリーブの木キリスト教会,廣瀬素子,大田正紀,

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布良(めら) 災害ボランティア 台風15号・19号 ” に対して3件のコメントがあります。

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