ナマステ Namaste bhaai. Visit Nepal,Yoshio Iwamura 

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世界はあなたを待っている

 仏陀[釈迦]生誕の地と言われるルンビニはネパール南部にある。
人口約2649万人。面積14.7k㎡で北海道の約1.8倍。首都カトマンズ
は標高1300メートルにある。世界遺産になり,観光のため訪れる人
が増え,観光立国として中心地になった。カトマンズ以外のネパール
は山岳地帯のため寒く,一方,平地は暑く,気温は居住にふさわしく
ない。人々は首都に集中する。レンガを積み重ねる粗雑な5,6階建て
の高層家屋が林立し,街全体が迷路のように複雑である。4月25日,
マグニチュード7.3の地震により,阪神・淡路大震災を上回る約8700
人以上が犠牲。人口の70%がネパール地方に住み,約810万人に及ぶ
被災者は余震におびえている。5月12日~17日に見たカトマンズやそ
の他の地域に住む人たちは,夜は野宿生活である。首都に住む全体が
路上生活者を余儀なくされている。

 6月~9月前半が雨期を迎えるため被災者の住む場所が深刻な問題。
 とりわけ親をなくした孤児,家,友を失った子どものために阪神・
淡路大震災から20年,敗戦から70年の2015年,機構は世界の災害地
に出かけます。ご一緒に行きましょう。

両親を失った子供

両親を失った子ども 全世界の犠牲になっている地域に出かける神戸国際支縁機構

 サイクロン被害のあったバヌアツ第1次訪問の帰途,4月25日午後7
時に伊丹空港に着くやいなや,携帯の機内OFFを解除したら,スマホ
の画面速報が入ってきました。伊丹空港に迎えに来てくれた本田寿久
事務局長と,ネパールの窮状について,「なんとか子どもたちに寄り
そう方法はどうすればいいか」と翌日,行動を始めることを話し合い
ました。
 東北ボランティアを55回以上続けている中で,ハコモノ復旧,復興,
再建で一番後回しになって,被災の悲しみ,苦しみ,くやしさ,怒り
をぶちまけることができない小さないのちに寄り添いたいと願ってい
ます。
 バヌアツでは,ボランティアとして中国,韓国の若者たちが手弁当
で,被災地のがれき撤去,ドロ出しにかけつけています。一方,日本
の若者たちは見かけません。
 ネパールの子どもたちの家を建設するには,中国,コーリアの若者
たちの協力を得ながら息の長い復興に取り組むことを提言します。
 したがって,(社)神戸国際支縁機構は日本の他の諸団体だけでなく,
中国,コーリアの三カ国から成る「JCK」(Japan-China-Korea),
CDMC」(Community Disaster Management Committee)や,
CCH」(Child Care Home)などの被災地のコミュニティと連帯し
て,復興支縁を行います。南俊治建築研究所がモジュール設計をしま
す。

 神戸国際支縁機構の国際部は,2015年4月25日のネパール大地震
発生直後,5月12日(火)17日(日)朝7時5分に第1次で4名が
直接現地に入りました。

 1st  Visit    May 12-17, 2015
   2nd Visit    August 30-September 7, 2015。
       大学生2名申し込み     
 3rd Visit     December 1-6, 2015
   4th Visit     Unsettled

 

 みなさんからの救援金を大地震によって両親をなくした孤児たちの
ために,現地のCDMCやCCHと連帯して孤児たちのために施設を建造
します。現地協力団体や「子ども基金」として直接被災者に手渡しま
す。
 阪神・淡路大震災や,東日本大震災の場合,緊急に必要な人々がな
かなかもらえなかった教訓を痛切に体験してきているからです。

救援金 ご協力をお願いします

 

第3次チラシ

 “義援金は100日以上も顧みられていない。「義援金」という名称も
おかしい。「見舞金」なら遅すぎる。「救援金」という名
称にしてす
ぐにでも支給すべきである。

≪画像参照≫「牡鹿半島 聞き取り調査 (6) 」(拙稿 2011年7月)

 「義援金」donation は寄贈されたおカネです。そこで「救援
rescue money to a person in distress と呼ぶべきです。災害な
どの被害者への救援,寄附として,義援金は遅すぎて,ふさわしく
ない表現と言えます。
 地元が必要なら,即断,即決,即実行しないと間に合いません。
 首都カトマンズなど,家,家族を失った子どもたちのために住居
を提供できるように,第2次にも,救援金を有効に用います。

03Panga24 Donation

パンガコミュニティ災害対策協議会に対する海外からのじめて    の救援金として神戸国際支縁機構に感謝状。2015年5月14日付。

CDMC領収書

 

パンガコミュニティ災害対策協議会に対する海外からのじめて    の救援金として神戸国際支縁機構に感謝状 第2次

パンガコミュニティ災害対策協議会に対する数回に及ぶ神戸国際支縁機構からの救援金

問い合わせ先: 一般社団法人 神戸国際支縁機構
Kobe International Supporting Organization (KISO)
E-mail kiso@mbe.nifty.com
HP http://www.kisokobe.com/
Tel : (078) 782-9697  Fax: (078) 784-2939

岩村 義雄(Yoshio Iwamura)
E-mail: QYH05423@nifty.com
携帯 070-5045-7127

郵便振替     口座 00900-8-58077 加入者名 一般社団法人 神戸国際支縁機構
 もしくは
三菱東京UFJ銀行 462(三宮支店) 普通 3169863  神戸国際支縁機構 岩村義雄

募金者 および 合計金額 受領順 2015年4月26日以降 `

現在,第2次バヌアツ訪問以降,ネパール救援金が足踏み状態です。
ご協力をお願いします。
目標額 270万円 不足額 1,639,722円

現在 920,682

 ※ 2015年3月27日の理事会は,名前だけにして,個人の金額に
   ついて表示しないことを決議。
 ※ 救援金の寄附者は,振込用紙に記入なさっています。年金生
   活の中からわずかですが,お用いくださいとのコメントが多
   いです。
 ※ 夫をなくした女性,在日朝鮮人,在日中国人などの寄留の外
   国人,被差別部落の方たちの応援,痛み入ります。

栄澤紀子(2),岩村義雄,岩村カヨ子(2),尾島淳義,山内典子,兵
頭晴喜,伊藤伊万里,本田すみ代,池田久美子,中神佐織,櫻井由
里子,ホリカワサトコ,第17次東北ボランティア参加者,(株)レス
キューナウ危機管理研究所,市川啓一,豊原正尚,山本智也,北村
徹,原田洋子,広島キリスト教会,武田英敬,山田 貴,山下妙子
(2),本田寿久,本田洋子,神戸国際キリスト教会,小野 奨(2),津
田隆志,河内常男,的野慶子,林 伯耀,岸本 実,ソラタニ マサト,
レバミッション,鈴木恒雄,小島芙美子,菅原よ志子,KISO牧場,
中山敬一郎,三鷹市観音寺,後藤由美子僧侶(第20次),阪神宗教
者の会,塩屋キリスト教会,鷹巣直美,西田明弘,白方誠彌,楠元
留美子,三浦照子,神戸バイブル・ハウス,島田 恒,日本基督教団
芦屋浜キリスト教会婦人部,井上千代,第19回統一マダン神戸,西
尾祥子,大槻紀夫,東灘バプテスト教会,小堀 真,村田充八,金
承鎬,宗教法人アシュラムセンター,小菅あゆみ,千葉幸一,兵庫
県青少年本部,兵庫県青少年課,神出学園,兵庫県山の学校,兎和
野高原野外教育センター,青団連(個人,OAA),東垂水ルーテル教
会,水垣 渉,兵庫県青年洋上大学同窓会,木村褜治,佐谷文子,左
成和朗,ゲーベルひでみ,清洲山王宮日吉神社,庄司慈明(2),第2
次ネパール・ボランティア報国会,石巻ひがし保育園職員一同,武
藤豊,武藤幸子,的野慶子,佐藤金一郎,万石浦幼稚園,阿久津正
幸,北村徹,白方誠彌,藤本英樹,石巻ひがし保育園,小さくされ
た人々のための福音講座,石川久子,酒巻喜代香,古川直子,熊野
千秋,北村恭男,青木秀雄,青活祭フェスティバル,新免 貢,臼井
佳代子,坂本好也,新井眞由美,宮氏道夫,観音寺(三鷹市),池永
タケコ,岡本玲子,櫻井由里子,藤本英樹,北村 徹,池田裕子,
都倉久子,

  第3次ネパールは,12月1日(火)~12月6日(日)の予定です
ので,ご一緒に参加なさりたい方は,機構にご連絡ください。
 携帯 070-5045-7127 E-mail: kiso@mbe.nifty.com 岩村

第2次ネパール・ボランティア報告   
2015年8月30日~9月7日

「カンティプール(栄光の都)」と称えられる首都
カトマンズ

 参加者は,ネパール訪問経験豊かな豊原正尚氏(西福寺副住職)
と村田義人君(京都工芸繊維大学3年生)と植地亮太君(近畿大学
2年生)と岩村義雄です。2015年8月30日午後9時に集合し,9月
7日にいたるまでネパールのカトマンズ市,ヘタウダ町などを訪問
しました。

第一日目(8月31日)
 予定通りにタイ航空は喧騒のネパール空港に到着。タクシーに乗
るようにさかんに声をかけてきます。はじめて日本からネパールに
足を踏み入れた二人の大学生村田義人君,植地亮太君もネパール人
の活気に圧倒されます。大きな声,笑い声,出迎えの人々の呼び声
など,静かな日本の環境との大違いに驚きます。空港から迎えに来
た一日前に来ている豊原副住職がオレンジの色彩豊かな僧服で出迎
えました。旅行会社のマネジメントの経験もありますので,たくさ
んの情報を持ち合わせており心強いです。

豊原正尚副住職と空港で

豊原正尚副住職と空港で

 第2次ネパールボランティアの目的は東北ボランティアと同様に,
旅行ではなく,ボランティアです。被災者にどう寄りそうことが
できるか緊張してカトマンズ空港に降り立ちます。市街地に向かい
ます。
 ネパール人は子どもも含めて額にティカ(赤い印)が目立ちます。
毎日のように,赤いクリームをおでこに塗ります。女性は近代的な
ドレスではなく,民族衣装を身につけています。赤,黄色,オレン
ジが多いです。濃い化粧をするのは結婚式,お祭りの伝統行事に出
演する時,特定の職業に限られるようです。男性も目鼻立ちがはっ
きりしていて,はだしにサンダルをはいている人が多いです。靴を
はいている人は少なく,家に入る時,手,足を洗います。ホコリが
多いせいか,うがいもよく見かけます。多民族,多言語のるつぼで
あり,初対面でも打ち解ける明るさがあります。どんな人にでも
「ナマステ!」と言いながら,合掌します。アジアの最貧国と言わ
れるだけあってきれいな箇所はありませんけれど,ネパール人の心
情は素直さと,底抜けに明るく,警戒心をもたずに交わることがで
きます。
 豊原正尚氏はチベット仏教のコパン寺院を案内しました。大きな
被害はなく,学生二人はチベット寺院の荘厳な内装を見たり,マニ
車を1回左回りに回すことが1回お経を読むことと同義であるなどの
様々な仏教のルールを豊原正尚氏から教えていただいたりしました。
その後,豊原氏はヒンドゥー教のパシュパティナート寺院を案内し
ました。ヒンドゥー教において,寄付を集めるために95ルピーと100
ルピーを交換し差額を貧しい人に分け与えるなどの習慣があります。
修行僧が人々の額に赤い印をつけるなどの文化にも触れました。寺
院内の建物の被災,修復状況を確認することもできました。パシュ
パティナート寺院では火葬場があり,訪れている間も終始燃え上が
る遺体に寄りそうその家族を見ました。

 先の地震の際は,8000以上の遺体が火葬場に持ち込まれ,順番待
ちで川岸には山のような遺体が並べられたと言います。同行した旅行
会社経営者のラムさんは,その光景を思い出すのが辛いと言うことで,
スワヤンブーナット寺院の入口で待機しておきたいと仰るほどでした。

 1万1千人の門下生がいるハリシャラン氏と息子シモン(23歳)が
空港から第1次訪問の初日に宿泊した野外に向かいました。リング道
路にあるアジア料理の店に連れて行き,食事を共にしました。「モ
モ」と言われる中華の肉まんに似ているネパール料理は格別おいしく,
学生たちもすっかり気に入りました。

ミトラナガルの倒壊場面

 リング道路のミトラナガルは倒壊したビルがそのままでした。崩れ
落ちた建物を乗り越えて,活気づいている人々の生活力に圧倒されま
す。車,単車,人のスクランブルが信号のない迷路のような通りにあ
ふれ出ています。

ミトラナガルの倒壊家屋

 街角,落ち着く散歩道,静寂な公園は見つかりません。人間が所狭
しといるかと思えば,道のわきには犬が寝そべっています。にわとり
も車にはねられないように走っています。

 夜9時に,ダルー・プールの前回の場所まで送ってもらいました。
外灯のない通りであり,すぐには識別できませんでした。なぜなら跡
形もなく,草が生い茂っており,大きなダンプが停車していたからで
す。奥には小屋がありました。パソコンの充電のため,その小屋に住
む家族と親しくなったのですが,感謝の意を表すことなく,あわただ
しく各被災地を巡りました。もうそこにはだれひとりいませんでした。
消息がわからないかと,となりのプラスチック廃品回収の集積場所の
人に尋ねます。もうどこかにいってしまったと言われるだけで,手が
かりがつかめません。そんなやりとりをしている時,ひとりのラメス
という30歳の男性と親しくなりました。「こんな遅い時間帯だけれど,
泊めてもらってもいいか」と交渉を始めます。思いついたかのように
小屋で仮住まいをしていた家族の居場所について思い出しました。彼
の案内で外灯のない迷路のような細い道をつまずかないようについて
いきました。学生たちも不安がいっぱいです。やがて袋小路のような
ところにある建物の2階に向かって,ネパール語で来客があることを
ラメスは告げます。すると上から顔を出した子どもが飛び出して来ま
した。見覚えがあります。懐かしい感情に包まれます。相手が覚えて
いてくれたのです。わずか一泊,それも翌朝には別の場所に移動した
日本人を忘れてはいなかったのです。電線を引き込んでいた粗末な小
屋でパソコンの充電をさせていただく際,少しだけ子どもたちと会話
しただけでした。
 「家に上がれ!」と熱心に言われ,学生たちもはじめてネパール人の
家に靴を脱いで入り,ネパールの家族団らんに接しました。あまりに
も温かいので,タイ航空での約13時間の長旅の疲れが吹っ飛んでしま
いました。グラスに入ったネパール式の熱い紅茶をすすりながら,片
言英語で親しくなります。家族同然に迎え入れられました。

ラマさんの家庭に招かれる

ラマさんの家庭に招かれる 亮太君に飛びつく子どもたち

 楽しい歓談,食事をしていくように盛んにすすめられますが,丁
重に断ります。人情の余韻に浸りながら,ラメスさんたちの廃品回
収の集積場に戻ります。
 学生たちは旅行ではなく,ボランティアで来ているとはいえ,心
配でした。お化けか,野獣か,毒性のある虫でも出てこないか,未
知の体験に不安が顔に表れていました。しかし,そこに寝起きしな
がら務めている若者たちは,日本からわざわざ妙なお客さんが来た
ことが珍しかったようです。一所懸命,寝床にふさわしい場所づく
りをしたり,地べたに直接だと,眠りにくいだろうとせっせっせっ
せとマットを見つけて敷いてくれたり,蚊取り線香を持ってきたり
何かできることはないかとネパール語で話しかけます。学生たちは
すっかり安堵して,熟睡します。

第一日目野宿

第2日目 9月1日(火)

 朝,目ざめてみると,4時過ぎでした。前回は市街地に探検に出か
けました。ネパール人は早起きです。また勤勉です。5時半になると,
洗顔,歯磨き,手洗いの後は,熱い紅茶を飲み,仕事の備えをします。
ニワトリよりも早く目が覚める習慣があります。

洗顔する野宿者 廃品回収者たち ラメサと共に

 昨夜は,≪動画参照≫野宿した場所が暗くて,わからなかったので,
3か月前,5月13日にネパール人たちと休んだダルー・プールを眺め
ます。
 ラメサをはじめとする廃品回収で生計を立てているメンバーたちに
自己紹介をします。8人の内,3人がネパール人,5人がインド人です。
全員がダリット層 Dalit 不可触民(ヒンドゥー社会の中でも最下層階
級 「触れると穢れる人間」「困窮した人々」「押しつぶされた人々」
「抑圧されている人々」)『ヴィシュヌ法典』(100~300年頃)です。
ネパールでは持ち家,借家にしても身分証明書が必要です。ダリット
は持ち合わせていませんから,家で生活をしていません。職業も限ら
れています。チャマール(皮革労働者),マハール(屠畜業者),バ
ンギーまたはチュラ(街路清掃人),バーリヤなどの(民俗芸能者),
貧農,土地を持たない労働者,街の手工業者,占い師などです。ダリ
ット層の少女たちが売春宿の主によって監禁,虐待され,売春をさせ
られたりもします。カースト制度の上位であるブラフマン(バウンと
も呼ばれる)はダリットの少女たちを好きなだけ犯しても犯罪で咎め
られません。
 今年,7月27日,米国務省は世界各国の人身売買の実態をまとめた
年次報告書を≪画像参照≫公表しました。日本については「強制労働や,
子供を含む売春の人身取引の被害者が送られる国」と11年連続で世界
2位と明記しています。(“Trafficking in Persons Report 2015″ U.S.
Department of State John F. Kerry, Secretary of State ) 東南
アジア,ネパールやインドのダリット層の少女の人権を日本政府は考
えるべきです。 
 ダリット層はこわい,恐ろしい,非常識な民ではありません。むし
ろ気だてが優しく,親切です。

寝床を備えてくれるラメスたち

日本人ボランティアに寝床を作ってくれる

 廃品回収に出かける彼らを見送りました。ジャカミ校長がぜひ来て
ほしいと昨夜,私たちが野宿している場所を探して,せがまれました。
午前9時に,宿泊場所を後にし,バグマティ川を渡ります。待ち構え
ていたかのように6階建ての校長宅を訪問すると歓迎してくれます。
 昼食をバガワティ夫人の手料理でもてなされます。学生たちは生ま
れてはじめて箸,フォークなどなしで右手で≪動画参照≫食事をします。
金属製の一枚のお皿に盛られているそれぞれを神聖な右手で食べる方
法を教えてもらいます。皿のご飯とダルスープや他のおかずを指三本
で混ぜてすくい取り,親指で口に押し込みます。見ているとほとんど
噛まずに食べています。まるでお茶漬けのようです。指でもむことに
よって手で咀嚼(そしゃく・かむこと)するのです。ご飯の温かさ,
おかずの柔らかさ,菜のぬめりを手で感じとりながら味わうのです。
 バート(米),ダルスープ(豆入りスープ)の他にタルカリ(おか
ず)として,サーダ(野菜),カックルー(きゅうり),ピリッと辛
いアチャール(漬け物)が付きます。ネパール料理の定番です。日本か
らの客人ということなのか,裕福な家だから,クフラマス(チキン)
もあります。男性陣が食べてから,続いて場所を交替して女性陣が食
べます。学生たちも大食漢ですが,ネパール人は食べるのが非常に早
いです。上流家庭には,浄水器が備えられていたり,水道局からの水
道は断水が多いので,特別に水を購入して調理などに用います。ネパ
ールも東南アジアと同じで,トイレにペーパーホルダーはありません。
つまり用を足す際,紙を使わないのです。配管がつまることも理由で
す。ジャカミ宅も幅1メートル,奥行き1メートルのトイレ自体がシャ
ワー室になっています。ピストル式の小さなシャワーのようなものが
便器の近くについています。第1次の帰途,ドバイ空港のお手洗いで
も見かけました。75パーセント近くウォッシュレットが普及している
日本人にとり,有用です。直前の8月21-24日,イギリスを訪問した
際,トイレには閉口しました。しかし,空港などではハンディキャッ
プの方たち用のトイレにはピストル式洗浄機が付随していました。同
じ高圧ウォッシュレットが裕福なネパール人家庭には装備されていま
す。海外は硬水のため日本製と同じウォシュレットは売れません。細
い水道管とノズルが石灰で詰まること,トイレにコンセントがないこ
とが普及しない原因です。学生たちは何に使うのかわからず,シャワ
ーもしくは歯磨き用かと想像していたようです。トイレに石けんや歯
磨きなどがおいてあります。便器のふたをおろして,顔を洗ったり,
浴びたりする場所になっているからです。風呂がないこともあり,学
生たちがそう考えたのも無理はありません。

ビゼソリ寺院 Bijeswori temple

 午後には,ビゼソリ寺院にボランティアに出かけます。ネパール人
ならだれしも知っている有名な古寺です。

ビゼソリ寺院 Bijeswori temple

ビゼソリ寺院 Bijeswori temple

 階段を登り,参拝に来る人が絶えません。海外からの旅行で立ち寄
る人は少ないことは,ネパール語しか表示されていないことでわかり
ます。大学生たちはネパール特有の柄がないほうきで境内を掃きます。

亮太君清掃a ビゼソリ寺院清掃a 20150901ビゼソリ寺院清掃後

 日本からの≪動画参照≫清掃のボランティアは初めてとのことであ
り,関係者や参拝者に良い証しになりました。

 帰途,神戸国際支縁機構が子どもたちの施設に着工している場所へ
学生を案内します。二人はどんどん完成へ向かう計画に感心します。

機構の建築中施設の前 建築中施設a 建築中施設

ネパール音楽に酔う

 その夜は,ジャカミ校長がご自分の部屋を開放して,宿泊するよ
うに熱心にすすめました。夜,夕食時に,家庭で作って飲むひえ焼
酎を学生たちに夫人はすすめました。ロキシー酒は蒸留酒ですが,
どうやらチャン(Thon)という濁り酒(どぶろく)です。アルコール度
数は50%程度の高めです。一口でも口に含むだけで酔います。亮太
君は全部飲み干せませんでした。
 食後,ジャカミさんのご家族はネパールの民族楽器タブラ(二つの
太鼓),シタール(インドの弦楽器 全長1.2メートル,弦は上下に二
層に分けて張られている)を夫人,ハルモニウム(インドのオルガン)
を長男が奏でました。とても素人と思えない演奏です。大学生たち
もおそらく生まれてはじめてでしょうが,温かいもてなし,リズミ
カルな音楽,異国の地のエキゾチックな雰囲気に呑まれてしまいま
す。

ネパール音楽を楽しむ

 歓迎の返礼にどうすべきか,つたない言葉によらず,感謝をどう表
現するか,亮太君,続いて義人君は立ち上がりました。日本人は順番
に一人ずつ,曲に合わせてアドリブで踊ります。だれしもが舞踊,ダ
ンス,ステップの基本すら習っていないので最初は大笑いです。しか
し,真剣に,初めてとは思えない器用さで踊ります。ジャカミさんの
歌にまるでひきずられるように手や足を動かします。大拍手が起こり
ます。時間を忘れて,ネパールのご家族と溶け合います。ネパールと
日本の友好のブリッジができました。

第三日目 9月2日(水)

 早朝,5時半にジャカミさんの家を出て,昨日,奉仕したビゼソリ
寺院を経てモンキー寺院(正式にはスワヤンブナート寺院)に向かい
ます。標高約1350mにあります。高さ36メートルのネパール国内に
あるチベット仏教で最も高い仏塔がネパールで最も古い寺院にありま
す。世界で最も壮麗な仏塔の一つとも言われます。
 朝6時過ぎだというのに,すでに≪動画参照≫参拝者でごったがえし
ています。仏塔にたどり着くには385段の階段を登る入口付近には露
店や物乞いがいます。通称モンキー・テンプル(Monkey Temple)
と呼ばれるとおり,猿がたくさんいます。犬猿の仲であるはずの犬と
共生しています。

犬猿の仲

 ネパール国内にあるチベット仏教で最も高い仏塔を目指して急な階
段を進んでいきます。猿があちらこちらにいるのを横目に,獅子,ク
ジャクやガルーダの石造が参道にあります。頂上の仏塔が見えてくる
近くで外国人には拝観料200ルピーを求める関所があります。旅行で
はなく,ボランティアのため訪問していることがわかったのか,請求
されませんでした。
 仏塔の四方にすべてを見通すブッダの目が描かれています。目玉寺
とも呼ばれたりします。子供を護る神様を祀るハリティ寺院やチベッ
ト仏教のカルマ・カギュー派の僧院,インドのシカラ様式の仏塔など,
宗教の混在するネパールならではの寺院です。
 13世紀までにはカトマンズ盆地で最も重要な仏教聖地となりまし
た。仏教徒に差別されていたムスリム(イスラーム教徒)は15世紀に
武装蜂起し,寺院を破壊しました。窮鼠猫を噛む Even a worm will
turn.だったんでしょう。ミャンマーの仏教徒がムスリムの≪動画参照≫
ロヒンギャ民族を迫害し,虐殺する構図を思い出します。難民として
日本に庇護を求めるロヒンギャに対して日本の法務省は一切はねつけ
ています。20世紀後半には中国から来たチベット人たちが寺院の周辺
に住みつくようになりました。今でもネパールの仏教徒はムスリムに
対して毛嫌いしているのではと思わせられました。仏教徒の物乞いだ
けには参拝者は施しをしますけれど,ムスリムの物乞いには一切,施
していません。追い払おうとします。筆者が施そうとすると,プレラ
ナさんは制止しました。「彼らは働かずに物乞いで生活をしているか
ら,甘やかしたらだめですよ」と言います。一方,仏教徒の乞食には
与えるように促します。
 8時にアデッシュと待ち合わせをしています。早朝,急な坂を上り
下りをしたので,空腹です。入口前のお店で朝食をとることにしまし
た。5人全額で400ルピーです。日本なら4,5千円の値打ちがあります。
ナンというパンとスパイスの利いた美味な野菜,飲物です。注文して
腰掛けて待っている間に,筆者は抜け出して,イスラーム教の物乞い
に「インシャラー[神の思し召しのままに]」と呼びかけ近づきました。
仏塔に行く途中,フードバンク関西のおかし類をこっそり手渡してい
た子どもたちとその母親たちが集まってきました。プレラナさんたち
に険しい顔をしていた表情と打って変わり和やかな笑顔です。宗教は
異なっていても,貧しい人々には施しをするのが機構の姿勢です。

イスラーム教乞食たちと

ムスリムの物乞いたち

 アデッシュは自分の故郷ウタヘダへ案内するために夜にこちらへや
って 来ました。「ネパール時間」という程,日本の電車など正確に
やってくる 生活に慣れている者には,インド,ネパールの待ち合わ
せは大きなズレが あります。しかし,アデッシュはいつも時間通り
に来ます。乗り合いタク シーという安価で,行き先まで行ってくれ
る便利な乗り物を利用します。

乗り合いタクシー

乗り合いタクシー内 左側アデッシュ 義人君

乗り合いタクシー内 左側アデッシュ 義人君

 街頭で果物を販売している人たちも盛んに車に近づき,購入をす
すめます。ネパール人は暗算が速く,お釣りをサッと渡します。ネ
パール通貨に 精通していないと,何かごまかされた気がします。し
かし,2回のネパール 訪問で露天商にしても,乗り物のコンダクター
にしても一度もお釣りを間違えた経験はありません。ネパール訪問前
にはネパール旅行体験者たちからさんざん注意するように言われまし
たし,ガイドブックにも書かれています。ネパールの裕福な人たちも,
ネパール人には気をつけるように注意します。確かに,中には悪い人
もいるでしょう。けれど,私たちはネパール人庶民については正直だ
なあという印象しかありません。数年居住してみたら,また見方が変
わるかもしれません。いずれにしても貧しい者たちからはふんだくら
ない民族性があります。私たちの身なり,一挙手一投足が旅行者らし
くなく,お金持ちに見えないこともぼったくられない理由ではないか
と考えたりします。
 日本より少し小さ目のりんごははかりで買い,道中のおやつにしま
す。100ルピーで10個もあります。日本から来たとわかるとサービス
で一個余分におまけしてくれます。ネパール人は親日的です。
 朝10時に出て,マナハリに着いたのは午後4時でした。途中険しい
峠でも対向車が来て,断崖すれすれを速度を落とさず,走る運転手に
学生たちも何度も肝を冷やします。カトマンズ市街地の雑踏と違う風
光明媚な山岳地帯です。いつしか荒っぽい運転に慣れてきます。途中
で昼食時の休憩でレストランで昼食をとります。ネパール人は一般に,
1日2食です。朝の10時前後と,夕刻7~8時で。ごはんが出てきます
から日本人は困りません。長旅のため,遅い昼食を食べます。やはり
ネパール料理であり,お代わりができます。ダルスープと野菜,チキ
ンなどを右手で混ぜて食べるのです。日本と異なるのは食材であるそ
れぞれの素材,たとえばジャガイモ,大根,豆腐などの味覚を味わう
のですが,ネパール人は混ぜてしまいます。手で混ぜることによって
食感を楽しんでいるようにも思えます。朝食と同じくらい安価であり,
大食漢の私たちにとり,感激です。紙もウォッシュレットもないトイ
レですぐに用を足すことも平気になります。20代前半は順応性が豊か
です。
 ヘタウダから乗り物を二つ変えて,マナハリに向かいます。ヘタウ
ダは工業地帯と聞きましたけれど,工場は大通りからは見えませんで
した。カトマンズと違うのどかな光景ですが,それでも商店はたくさ
んあり,日本の「シャッター通り」とは大違いです。どこも賑わって
います。過疎,高齢化,少子化の日本と異なり,人口が多いことも関係
しているでしょう。
 マナハリ川を渡ると,長旅をいやすため,マナハリの焼き魚を食べ
させてくれる店で休憩です。ウナギの蒲焼きのように店頭に串刺しに
して売っています。一見,蛇を乾燥させているのかとまちがえます。

マナハリのレストラン マナハリフィッシュの煮干しが高価

マナハリのレストラン マナハリフィッシュの煮干しが高価

 筆者は郵便局に案内してもらいますが,看板も何もなく,何の事務
所か確認しないと地元の人たちもわからない印象です。切手を購入し
ます。ネパール人は基本的にごまかさないので,安心してモノを購入
できます。
 徒歩でアデッシュの家に向かいます。3分ほどです。大都会とは違
い,のどかな田園風景です。

アデッシュの家

アデッシュの家へ.jpg

 マナハリのアデッシュの家には,20歳の妹ユリカ,看護師の妹レ
ベッカ,≪動画参照≫寝たきりの兄ガシンがいます。

寝たきりの兄

 ガシンは末期がんで医者から見離されたこと,腎臓を悪くしてい
るため腹部に激痛があり,立ち上がることができません。着くやい
なや井戸で手を洗い,横たわっているベッドに座り,息づかい,目
の力,食欲などを訊きます。氣力がなく,答える声も聞き取りにく
い生きた屍のようです。バヌアツ,前回のネパール訪問でも幾人も
の瀕死の人々に接しました。医療について手の施しようがないとさ
れて家のベッドにいます。生きる希望を失い,目の前にいます。手
を握ります。まったく無力であり,何もしてあげられません。食欲
がない,熟睡できない,痛いと筆者に訴えます。ただただこのまま
陰府の世界に見送るために日本から来たのかと覚悟を迫られます。
医師でもなければ,祈祷師でもなく,蘇生させる術も何も持ち合わ
せていないからです。くやしさいっぱいです。涙が出て来ます。目
を閉じ,何をしにネパールに遣わされたのか,葬送儀式を執り行う
ために,学生たちと一緒に来たのか,と神に問いかけます。医者は
確かに生き続ける処方を知っており,家族から感謝されます。一方,
筆者は弔う,つまりアデッシュの兄の死を看取る場に居合わせます。
医者は光,こちらは闇,地獄からのお迎えのへだたりです。さらに,
お金,薬,手術の技術もありません。せめてもできることはガシン
の友人になることぐらいです。彼の最後の証人となろうと腹を据え
ます。妹ユリカが食事を私たち日本からの客人のために準備してい
ます。時々,自分の兄の側にいる筆者に,「もうだめなんですか」
と目で尋ねます。「……(首を横にふって)あきらめてはいけない」
と応じます。何の裏付けもなしに,無責任にも気休めの言葉を兄思
いのユリカに伝えました。約30分間,彼の手を握り,自問します。
「葬りの備えをするためにあなたは私をネパールによこしたのでし
ょうか。彼の代わりに自分に痛み,苦しみ,病を与えてください。
神様,助けてください」と祈ります。何の反応もないままです。そ
こで天に,「あなたが生きておられる神なら,彼を回復させてくだ
さい。そのためには自分のいのちは惜しくありません」とうなるよ
うに吐きます。握っている筆者の手が熱くなります。兄はピクピク
ッと握り返し出しました。アデッシュが「食事です」と自分の部屋
に呼びます。兄に「食後,また来ます」と告げて,部屋を移動しま
す。アデッシュに「お兄さんは,握り返しましたよ。生きる力を取
り戻しましたよ」と告げると,「この間の病院でもらった薬が効い
ているのかもしれませんね」とアデッシュは機械的に返答しました。
いやしの奇跡はイエスの時代,つまり西暦1世紀に終わっていると
確信しているキリスト者だからです。
 食事を済ませると,筆者は兄のところにまた寄り添い,手を握り,
時を委ねます。不可能を可能になさる神であっても,常に人間のご
都合によって介入なさる方ではないことぐらい体験してきました。
 食後の予定通り,アデッシュは孤児たちが住む山の見えるマナハ
リ川に私たち日本人を連れて行こうとします。すると兄はベッドか
ら起きて,外にあるトイレに歩いて,私たちが出かけるのを見つめ
ています。日本からの学生たちは生理現象なんだろうと考えていま
す。
 ネパールに来て,はじめてキリスト教会に案内されました。ビマ
ル牧師がいます。聖書をよく暗記している聖職者です。おだやかな
奥さまと生後8ヵ月の息子がいます。アデッシュの家は狭かろうと
教会の2階の礼拝堂で休むように親切に申し出てくれました。
 筆者は翌朝6時半に,5月に訪問したダラムサリィに行くことにな
っています。村の主だった人たちが集まると聞いています。前回,
テレビの報道で傾聴ボランティアについて放映された場所です。後
ろ髪をひかれる思いで,マナハリを夜9時に去り,深夜2時頃に戻る
旨を告げます。看護師であるレベッカが仕事のため帰宅できません。
そこで二人の学生を残して,雨が降りしきる中,バスに乗り,独り
でカトマンズに戻ることになります。学生たちにも兄のベッドに近
づき,手を握るように言い残して,先にカトマンズへの深夜バスに
乗車します。

第4日目 9月3日(木)
マナハリ滞在 → カトマンズ

回復した兄 左から3人目がユリカ

神が介入 翌朝回復した兄ガシン(右から2人目) 左から3人目がユリカ

 マナハリから深夜バスで朝5時37分に戻ります。雨のため,通行が
寸断されたりしたからです。満席のバスは8時間37分要しました。コ
ンダクターが親切であり,気遣ってくれます。彼はすばっしっこく動
きます。バスのフロントガラスが汚れていれば,サルのようにしがみ
ついて拭き取ったりします。まだ停まっていないのにドアを開いて,
停留所で待つ乗客に目的地はどこか,大きな声で確認したり,動き出
してしばらくしてしてから飛び乗るなど曲芸を見ているような働きぶ
りです。20センチほど重なった紙幣の束をポケットから出して,乗車
料金を受け取り,お釣りなど瞬時に捌きます。俊敏なのに圧倒されま
す。分厚い札束を廃品回収している場所でも見かけました。ひったく
りにあわないのだろうかと心配になります。安い紙幣ならすぐに手で
挟めないくらいの厚さになります。コインをほとんど使わないせいで
しょう。いわば1円,10円にお札があります。高い1000ルピーが象,
500ルピーが虎,安い紙幣になるに従って,弱い動物の絵が描かれて
います。1000ルピーは日本の1万円札よりも大きいです。腹巻に入れ
る習慣はネパールにはありません。途中,ドライバーが仮眠をとるた
めか,道の駅のような地点で休憩もします。ここでもダージリン紅茶
を乗客たちが楽しみます。学生たちは翌日,帰路,同じように紅茶を
いただくだろうかと想像したりします。コンダクターはカトマンズ最
終停留所を通過して昨日出発したモンキー寺院前までバスを走らせて
くれました。親しくなった乗客は「そこからタクシーで行けば,簡単
さ」と教えてくれます。歩いても20分以内の距離です。もう夜明けで
す。マラソンをしている市民たち,参拝の人たちが動き出している時
間帯です。
 学生二人は7時に起床し,7時半に朝食をごちそうになりました。
マナハリで外食するとカトマンズの店と比べると割高です。品物が
あまり手に入らないなどの何らかの理由があるのかもしれません。
食後,マナハリの町にもう一つあるという教会 Holy Churchへ案内
されました。マヒパル・プラジャ牧師が管理をしています。地震によ
り住まいなどを失った3人の子供たちとその母親たちが身を寄せてい
ます。地震後にキリスト教へと入信した母親に愛想をつかした父親は
家を出て行ってしまいました。教会には,他に,被災して失望のあま
りキリスト教を棄てた父親,その結果,精神的にダメージを受けた母
親の子どもたち兄妹だけの三人の子どももいます。妹たちは親の愛を
受けることがかなわなくなり,暗い表情です。2階部分が完全に損壊
したので教会はトタンの仮設で集まっています。礼拝堂にはじゅうた
んが敷いてあり,賛美のためドラムセットやキーボードなども置いて
います。会堂を入るとすぐに聖書絵巻が目に入ります。地元の信者た
ちが25年かけて作った大きな作品です。マヒパル牧師たちが幼い時か
ら製造されてきた苦心作です。壁の聖書絵巻を順番に読むと,聖書全
巻に精通し,理解できるように仕上がっています。義人君はキリスト
者の家庭で育ち,聖書には親しんできました。絵巻はネパール語がわ
からなくても視覚から聖書のストーリーが心に響きます。みなさんの
努力に義人君は感心したそうです。昨夜,泊めていただいたGrace
Churchに戻りました。コーンをすりつぶしたテンロという料理を堪
能します。午前10時で,朝食から2時間しか経っていなかったので,
大学生はあまりお腹が空いておらず食べるのも苦しいほどでした。同
じように食べた両牧師はパクパクとロをたいらげる食欲には目を見は
りました。「もうお腹が空いておられたのですか」と聞くと,そうだ
とうなずかれました,ネパールの人たちは本当にたくさん量を食べる
んだと感じました。歓迎されたマナハリ,そして人情味あふれるみな
さんにいとまごいをします。路線バスに乗りヘタウダ市へと向かいま
した。乗り物は天井が低く,二人は首を曲げて立っていたら,若いネ
パール人が席を譲ってくれました。親切な少年と1時間ほど会話をし
ます。すると,少年の姉が日本の沖縄に留学していることがわかりま
した。こんな田舎の地方からも日本への留学生がいるのかと非常に驚
きました。ヘタウダへ到着し,アディッシュの妹レベッカと対面し,
写真を撮りました。カトマンズへの乗り合いタクシーを待っている
間,バス停付近の若者たちから写真をとってほしいと頼まれ,義人君
は快く応じました。ヘタウダはカトマンズ直近の大都市のひとつで
す。カトマンズ行きは乗客12人が乗るといっぱいです。後部座席に
子供連れ2組を入れ6名,真ん中に4名,助手席1名と運転士の12名が
インド製タタの4WDに乗り込んでいます。隣国のTATA製自動車は
いたるところで見かけます。日本製トヨタ,日産,ホンダ,スズキは
高級車で高値の花です。日本から中古で輸入することはネパール現行
法では許可されていません。アディッシュと3名はすし詰め状態のま
まの窮屈な姿勢でカトマンズに向かいます。自動車の重さゆえに,途
中何度も坂を登っている最中にエンジン音が止まります。変速ギアが
走行中に勝手に動いたりする年期ものです。メーターを覗いてみる
と,走行距離も20万キロを超えていました。その後カトマンズに到
着し,路線バスでスワヤンブーナット寺院へと向かい,精通している
ビゼソリ寺院を経て,ダループール目指して歩きます。アデッシュは
二人が無事に戻ることができるようにビゼソリ寺院まで付いてきてく
ださいました。ずいぶんお世話になったことに二人は感謝を表し,筆
者からも謝意を携帯で伝えます。帰路,見る光景は,数日間も経って
いないのになんだかネパールの住人のように精通したかの思いです。

ダラムサリィ

 5月15日(金)に訪問した壊滅した町に4名で午前7時に向かいます。
ちょうどマナハリの学生たちが起床する時間帯です。運転手が道を
間違えます。何度も人に場所を聞いてもどうやら道がちがいます。
遠回りをして丘の上に反対側から車で上ります。どこかで見た風景
です。まだ倒壊した家屋,空き地,傾いた電柱などが目立ちます。
「あれ何」と運転手が言います。鯉のぼりです。前回,掲揚した場
所から少しだけ道路側に移動しています。

鯉のぼり

 廃墟の町と化していましたが,手がかりは神戸から栗須哲秀氏
(神戸スイミープロジェクト代表)が持ってきた布製の5メートルの
鯉のぼりです。
 車から降りてみると,「フロム ジャパン。ヒー イズ ザ ライト
パーソン」と人が集まってきます。ネパール,タイ国バンコック,
マレーシア国クアラルンプールでも,私たちは「チャイニーズか」
と必ず聞かれます。「ノー」と言うと,「アー ユー コーリャン?」
と問われます。まず最初から日本人と見られることはありません。
つまり東南アジアに独りで歩いている黄色人種は中国人か韓国人が
圧倒的に多いからです。日本人は庶民の中にはあまり入っていかず,
高級なホテル,一流レストラン,ガイドつきのパックツアーのグル
ープ旅行が多いからでしょう。とにもかくにもダラムサリィの住民
は日本人をよく覚えていてくれました。
 8時からダラムサリィのコミュニティの主だった区長,団体代表,
村長たちがハリ・マハラジャンの仮設住宅の庭に集まってきます。

ダラムサリィ会合
 ハリは5月,筆者の傾聴ボランティアがテレビ放映された際,通訳
をしてくれた地元の復旧の青年指導者でした。抱き合って再会を喜び
ました。震災で被災した子どもたちのために神戸国際支縁機構とどの
ように施設をつくるかを再確認するためです。住民の95パーセント
は仮設住まいです。震災前の家に住める人は10人にすぎません。21
人が死亡し,150戸の家屋は撤去しなければなりません。一部屋の
仮設に大家族が住んでいます。夏は暑く,雨期は雨の音がうるさく
眠りに就くことができない劣悪な状態です。

DSC00024

ダラムサリィの仮設住宅住まいは劣悪

 自分たちが仮設から個人の住宅に移ることより,子どもたちには
もっと学びやすい施設が必要であると意見が出ます。神戸国際支縁
機構がすでに建造しているモノをダラムサリィのどこに作るかを住
民は行政に交渉しなければならないのでだれが窓口になるか選出す
ることになります。
 日本からの建造するのに必要な財政的な支援を期待する声が次々
と語られます。ダラムサリィの地元の≪動画参照≫女性会も応援しま
す。
 ダラムサリィに施設を建造するために,復旧機構ジャプウ・マハ
グスィJyapu Mahaguthiからも支援を要請することになります。ハ
リ・マハラジャンに村の衆は一任することを決議します。
 一行はダラムサリィを9時半に出て,カトマンズの会合の場所に移
動します。10時からジャプウ・マハグスィの理事たちも集まります。
ハリも一緒です。ハリを事務局長にして,弁護士や会計士たちが補佐
してCCH[Child Care Home]という組織を作ることを取り決めます。
筆者も理事のひとりとして責任をもちます。ネパール人のひとりとし
て迎え入れられたわけです。理事会には毎回出席できないにもかかわ
らず,最高決議機関の一員です。カトマンズの金融機関の名誉会長も
陪席しました。5月も全国組織であるジャプウ・マハグスィの応援体
制により,9月4日にCCHが出奔することになりました。

ネパール新聞囲み

「ネパール紙」(2015年9月4日付)

 大学生たちがヘタウダから戻る前に,中央郵便局へ出かけて,切手
を購入しました。前回のダリットの靴職人に靴を磨いてもらいます。
名前はムノーチクマランと言い,インドからのダリットです。そこか
らはリクシャーに乗って,ダループールに戻ります。名前はプルナ・
スィング・トマングという1975年生まれで3人の子どもさんがいます。
携帯番号を教えてくれ,いつでも呼んでほしいとメモに書いてくれま
した。

リクシャーは日本の人力車が語源らしい。40歳

リクシャーは日本の人力車が語源らしい。40歳

 途中,路上でバンレイシを売っているのを見つけました。マンゴ
やバナナと違い,4倍以上の値段です。味見をさせてくれました。
なんとおいしいのか,ネパールに来て,味わう最高のくだものです。
果肉は白くてクリーム状です。種がたくさん入っているので,スイ
カのようにはき出します。運転するプルナにも家族に持って帰るよ
うに手渡します。柔らかい果実なのに,彼は無造作にポケットに入
れます。学生たちはどんな反応するか楽しみです。植物検疫がある
ために日本には持ち帰ることはできないので,家内に連絡すると自
分の分も味わっておいて言われます。ネパール人ですら,普段あま
り口にはしていないようです。ジャガミさんに手渡すとはじめてだ
ととのことです。「こんなおいしいくだものは食べたことがない」
と反応していました。

 午前11時に,プレラナさん宅に招かれます。娘のメリサさんが
仕事を調節して,私たち一行を待っていました。食事を共にして
市街地に向かいます。
 帰りに,3人でネパールの代表的な紅茶をカフェで注文します。一
杯日本円に換算して10円~20円です。ネパール人は一日に何度でも
飲みます。小さめの鍋に水をペットボトル3本分ほど入れます。温め
ます。それからダージリン・ティーと砂糖,ミルクを鍋に入れます。
ミルクがふきこぼれないようにしながら,中火で3~5分間ほど煮出
します。ミルクに紅茶の色が付いてきたら,茶コシ等を使ってグラス
へ注ぎます。完成です。気温が暑い時でも熱い紅茶をいただくとホッ
とします。

パンガ

 パンガのビゴッシュは私たちを夕食に招きました。かの地は18人
死亡,41人負傷し,207戸が倒壊しました。前回,コミュニティ災害
対策協議会(CDMC)に海外からのはじめての救援金を手渡した拠点で
す。ジャナク事務局長が被災地の仮設住宅建設の成果を案内してくれ
ます。通行禁止になっていた道路は8月第4週目に開催したフェスティ
バルのためにみんなでがれき撤去をし,通ることができるようになっ
ていました。開通1週間目に私たちは歩いて巡ります。まだ倒壊しな
いように木などで支えている箇所もありました。
 ジャナクは神戸国際支縁機構が支援した場所に連れて行きました。
広い学校の運動場に仮設が並んでいます。仮設の学校も完成していま
した

仮設の学校

仮設の校舎

 着くやいなや61歳の≪動画参照≫コホリさんという女性が夫をなく
し,二人の孫も震災で犠牲になったことを筆者に訴えたかったのか,
家に入るように服を引っ張ります。
 ≪動画参照≫ドゥルガ夫人も夫をなくし,手や足が骨折していまし
た。いのちの反対は死ではなく,よみがえりと言うやいなや,死人
をよみがらせる日本人が来ていると村中に伝わります。希望をなく
した女性が治療している場所に案内されました。苦縁を通じて,日
本に帰国してもずっと祈っていました。どうしておられるか,昨日,
ビゴッシュに問うと,食事に誘ってくれることになり,彼女の仮設
住宅まで案内してくれることになりました。ドゥルガはよく覚えて
くれていました。義理の娘サリタさんは私たち一行7名を温かく迎え
入れ,紅茶とビスケットを出してもてなします。
 細い路地を通って来る途中,異常な大きさのかたつむりをたくさん
見かけました。葉っぱがえさです。雨期には巨大になるそうです。
 ジャナクは若い仲間のメンバーに私たちを引き合わせます。これか
らも神戸とパンガの友情を促進していこうと気炎をはいています。日
没で暗くなっていても,お互いの顔がよく見えなくても,心は通じ合
っています。

20150904パンガの若者ボランティアと

CDMCと神戸国際支縁機構はパンガの復旧に連帯。救援金を手渡す

 ビゴッシュの家に以前招かれた時,娘のシェレスサ (15歳)が笑顔で
迎え入れます。典型的なネパール美人です。前回,ヴィニット君(7歳)
はテレビで忍者ハットリ君に夢中になっていました。筆者がテレビは
受動的な人間にしてしまうと言ったことが家庭において影響したみた
いです。今回,訪問したらテレビは処分したとのこと,そのせいか,
ヴィニット君は伝統芸能に開眼し,さかんに民族舞踊に関心を示すよ
うになったそうです。村で一番活発に舞踊する少年に変身したと聞い
て驚きました。

ビゴッシュ家族

ビゴッシュ家族

 ネパール式の食事を楽しみます。踊りにも力が入りました。

 最終日,カトマンズ空港にニラージさんは送迎してくれました。
ネパール人の中でも最も洗練された紳士です。
 ナマステ!

第2次ネパール・ボランティア報告会

2015年9月16日 県民会館7階青少年交流プラザセミナー室

 司会者は楠元留美子さん,受付は西田怜奈さんです。東北ボランテ
ィアに参加された山田 貴さん(第50次)など機構の関係者以外に,
兵庫県青少年本部からも5人,メディア関係が6社がインタビュー及び
記事にしてくださいました。毎日新聞社土居和弘支局長は「支局長か
らの手紙」と3段にわたる大きな記事にしてくださいました。また神
戸新聞の小尾絵生記者はカラー写真で翌朝の記事に間に合わせてくだ
さいました。植地亮太君は第42次東北ボランティア,丹波水害ドロ出
しにも参加していました。
 平野昌司市会議員は二人に激励にかけつけてくださり,あいさつし
てくださいました。

 

第2次ネパール報告会植地亮太

 第2次ネパール・ボランティア報告   
                植地亮太(第42次,丹波水害)

 季刊誌「支縁」No.12 第三面から

 東北ボランティアに参加して,自分のためだけではなく,他の人々のため
に少しでも役立ちたいと考えるようになり,8月30日~9月7日,もてるもの
として体力,時間,少しのお金によって,海外ボランティアに挑戦しました。
生まれてはじめて訪問する外国,それも4月25日に阪神・淡路大震災以上で
あったネパールです。カトマンズ空港に着くと,ネパール人の熱気,笑顔,
談笑の勢いに驚きました。道行く車,単車,自転車もエネルギッシュです。
豊原正尚副住職にチベット仏教の寺院に案内されました。
 初日の夜は,岩村代表は貧しく定職,持ち家,結婚において差別されて
いるダリット層と親しくなります。泊まるホテルも地震でだめになってい
るから寝袋を持っていくぐらいに思っていました。しかし,違うのです。
ボランティアは家や家族,財をなくした人たちに寄りそうために,野宿す
るのだと言われます。大切なモノを失った人に感情移入するには,「~し
てあげる」という上からの目線では心が通じません。実際,東北ボランテ
ィア,前回のネパール訪問やバヌアツなどでもボランティアはホテルに泊
まりません。貧しさ,乏しさ,空腹を共有してこそボランティア道なのだ
と学びました。初対面にもかかわらず,彼らは見知らぬ日本人のために,
地面に寝床をつくってくれたり,温かい人情味あふれる接し方に心打たれ
ました。寝袋がとても暖かく感じ,休みました。ネパールも日本も同じ多
神教の国です。日本の「能」の筋書では,旅人が一夜の宿を乞うと必ず門
前払いです。「一見さんお断り」なのです。日本とネパールはずいぶん異
なるなあという印象です。日本のJRや乗り物で出会う初対面でも家族の
ように受け入れ合うようになればいいなあと寝床で思いながらいつしか熟
睡していました。

第三面①20150901ビゼソリ寺院清掃後

ビゼソリ寺院 左端 筆者 隣 代表 右端 村田義人さん

 フォークや箸を使わず,右手で食事をし,道ですれ違う人にも「ナマス
テ!」(こんにちは)とあいさつする習慣にもすぐに慣れました。二日目
は,ネパール人の心のふるさとであるビゼソリ寺院 Bijeswori templeに
連れて行かれました。そこで一緒に行動している大学生村田義人さんと清
掃ボランティアをしました。旅行者と異なり,現地の人たち,被災した人
々と共生するボランティア体験は与える側というより受ける側の感動,未
知の人たちとのつながり,縁がとても強烈でした。してあげたという感覚
はなく,むしろ「サンキュー」と言われたりすることによる励ましをこち
らがたくさんいただきました。ネパール人は物質的には決して裕福とは言
えません。しかし,よそ者であろうとなかろうとふところが広く,惜しみ
なくもてなしてくれます。私たちがぜいたくをしないで,ボランティアの
格好,態度,笑顔をしていること,被災地で少しでも役立ちたいという気
持ちが伝わり,そうしてくださったのでしょう。

ネパール報告会各紙カラー

2015年9月16日 県民会館で報告会

 3日目は,マナハリという田舎に行きました。アデッシュさんの家族や,
キリスト教会にも泊めていただき,お腹がはちきれるほど食事などで歓待
されます。ボランティアは貧しい人たちと共生するということの体験を深
めていきます。大都会のカトマンズは,震災後,約3ヵ月を経て,倒壊家
屋を脇目にお金持ちはどんどん元のぜいたくな生活に戻っていく面が見受
けられました。一方,数時間離れた地方に行きますと,つつましいながら,
親,家,友達を失った子ども,孤児たちは歯を食いしばって耐えています。
私たちにできることは限られています。孤独な子どもたちに寄りそうこと
によって,彼らが大人になったとき,同じように,寂しい思いをしている
人たちに積極的に近づくことができるようになればいいなあと思ったりし
ました。
 未知であった国に出かけ,庶民はどこの国でも正直であり,お互いに受
け入れあうという見聞を深める機会を与えてくださった神戸国際支縁機構
に感謝します。たとえお金がなくても,言葉が通じなくても,文化がちが
っても世界中の人たちと親しくなれる自信が深まりました。大学を卒業し
て,日本と海外を結ぶさらなるチャレンジをしたいと願うようになりまし
た。おそらく国内にいただけなら思いもしなかった契機でしょう。ありが
とうございました。

第2次ネパール報告会

第2次ネパール報告会a

 

20150925中外村田義人報告

第2次ネパール報告会インタビュー