牡鹿半島 聞き取り調査 (6) 鮫浦 大谷川 石巻市谷川
集落解散か 聞き取り調査 岩村義雄
鮫浦(さめのうら) 大谷川(おおやがわ) 谷川(やがわ) 祝浜(いわいはま)
牡鹿半島地図 『東日本大震災復興支援地図』(昭文社 2011年 18頁)
女川から谷川浜を通って,牡鹿半島の北東部から,南下していく。リアス式海岸はV字型に湾口が開いている。鮫浦の浜にさしかかる。集落全体が砂で埋まり,砂浜になっている。民家,建物がない光景には見慣れてきたはずなのに,涙が出てくる。親戚や友人もいない初めての土地なのに胸が張り裂けんばかりである。三陸浜はこれまでも大きな津波を受けてきた悲劇の過去の傷跡がある。明治三陸津波[1896年]の第一波,昭和三陸津波[1933年]の第二波である。今回で第三回目の大きな津波に集落は飲み干された。牡鹿半島で東南東に約5.3メートル移動,約1.2メートル沈下する地殻変動があった。その結果,住み慣れた地を見限った村民たちがいる。
1896年の第一波の時,鮫浦の津波は3.1メートル,谷川浜は3.4メートルで死者1名,住居流出4戸,家屋全壊2戸の被害であった。1993年の第二波では,鮫浦で4.8メートル,大谷川浜で5,2メートル,谷川浜が4.8メートルであった(13)。鮫浦だけで,死者19名,行方不明者17名,負傷者19名,流出住宅10戸,全壊3戸という被害であった。谷川浜では,死者24名,行方不明者2名,負傷者22名,流出家屋31戸の被害であった(13)。明治と昭和の二度にわたる津波で,村民は高台に移転した。にもかかわらず,3月11日に襲った津波は情け容赦なかった。海沿いの被害の情景はがれきすら残っていなかった。鮫浦は人口151人,53戸の集落であった。もっぱらアワビの養殖場であった。行方不明者数3人が出た。
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人口(2011年1月末) |
避難所 |
避難者数 |
行方不明者数 |
死者 |
鮫浦 |
151人 |
女川原発体育館 |
104人 |
3人 |
0人 |
大谷川 |
105人 |
大原中 |
105人 |
0人 |
0人 |
谷川 |
163人 |
大原中,泊コミセン |
132人 |
24人 |
8人 |
大原 |
181人 |
大原小避難所 |
166人 |
1人 |
1人 |
寄磯 |
374人 |
寄磯小 |
130人 |
3人 |
4人 |
鮫浦から大谷川浜に移動する時,運転しているハンドルに伝わる道路の衝撃が何も感じなくなった。別世界にいるような気持ちに包まれたからである。美しい故郷,鮫浦湾の原風景はなくなっているではないか。見渡す限り,散在するのはごくわずかながれきだけ。夜は満天の星で絶景であろうに。「猿の惑星」という映画で未来から戻ってきたシーンを思い出した。人類の愚かさによって文明が滅び,荒涼としていた風景を隊員が忸怩たる思いで眺める。空漠なのは浜の人たちの愚かさによるのではなかった。むしろ自然の驚異の教訓を学んでいた。『牡鹿町誌』上巻(1988年)は谷川浜の石田正孝氏[洞福寺住職]が執筆した。明治,昭和よりもっと昔から津波に襲われてきた地域である。
同じ轍を踏まないように,次のように対策を講じた。昭和三陸津波の後,1933年6月30日に「海嘯罹災地建築取締規則」を公布した。第一条で,海嘯(かいしょう)罹災地域もしくは海嘯のおそれがある地域では,知事の許可がなければ住宅建設を認めないとしている。
第二条で,建築方法を定めている。
第二条 前条の場合住居の用に供する建物の敷地並に構造設備は左の各号に依るべし。
一、建物の敷地は安全と認められる高さ迄地揚を為すこと。
二、建物の腰積を設け又は之に代るべき基礎を設くること。
三、建物は土台敷構造と為し,土台は前号の腰積又は基礎に緊結すること。
四、建物の土台及び敷桁の隅角には燧材を使用すること。
五、建物には適当に筋違又は方杖を設くること。
単に,高さだけではない。津波を受けても流失・全壊しない住宅を建設するように宮城県は義務づけた。しかし,今回,高地移転したはずの家屋も,避難所として機能するはずであった震嘯災記念館の後継施設も全壊である。高台の洞福寺は本堂・山門・寺務所すべて流された。墓石が散乱している。したがって,県は今回の大災害に対して,責任があろう。とりわけ県知事の許可によって建てられた家屋が全滅したのである。もちろん県知事に今回の地震,津波の責任を取るようにはだれも言わないだろう。問題点は復旧の支援がないことである。県からの義援金は100日以上も顧みられていない。「義援金」という名称もおかしい。「見舞金」なら遅すぎる。「救援金」という名称にしてすぐにでも支給すべきである。阪神淡路大震災を体験した兵庫県庁や神戸市役所から有能な専門家が宮城県庁で従事している。山積する仕事がある。定刻になると,宮城県庁の職員はさっさと帰宅してしまうそうな。「後はよろしくね」と阪神間から出向いている職員にすべてを任せてしまうと耳にはさんだ。一方,石巻市役所の職員は文字通り,不眠不休で働いている。市長自らも定刻を大幅に過ぎていようと,祝日であろうと,復旧,復興に取り組んでいる。どこかの怠慢さが被災者の生活を崖っぷちに追い込んでいる。人災と言わずにおられようか。
陸上自衛隊からの補給は、食料,軽油,灯油,毛布等を一度受け取ったがその後物資の提供はほとんどされていない。食べるモノがない。「おなかすいた」と子供に言われるのが本当にツライのだ。
かつてあった団らん,コミュニケーション,喜怒哀楽の断片らしきものがひとかけらもない。「空虚」の一言に尽きる。石巻市渡波町,門脇町,南浜町,雄勝町と異なり,がれきの下からの激しい異臭などない。牡鹿半島の浜の被害場面の特徴はテレビでも伝えることができよう。しかし,海と共生してきた漁師たちがいなくなってしまった寂寥感は伝わらない気がする。胸がしめつけられるような切なさである。思わずつぶやいた。“人々は戻ってくるだろうか。”もしここの平らな土地をただであげようと言われたなら,即座に,ノーと反応するのではないだろうか,と思いめぐらした。地震に備えられる自信はだれもないだろう。
身元不明者の埋葬場所にも,小さな花瓶に一輪の花。
鮫浦→大谷川→谷川の道路を進むはずである。牡鹿半島の付け根に近い東岸になる。「確か,大谷川の集落があった所ではと」佐藤氏と阿部氏が話し合っている。途中,オフロードになる。ジープなどの四輪駆動の車向きの道である。信号や道路標識など一切ない。道路がないと,ナビゲーションも役立たない。土地造成のため,一キロ四方に土砂を運び込んだような殺風景で荒涼たる光景である。かつて集落があったなどとは思えない。車から降りて,谷川の方面がどちらか確認しようとする。一陣の風により,土煙が目に入った。
ちょうど道路整備の車が来たので,水でぬかるむ場所に車をよけて佐藤氏が聞いてみた。道を引き戻し,谷川を目指す。
東北電力の近代風の立派な社員寮も廃墟となっていた。谷川小学校の標識が目に入った。車から降りて,道路から海の方を見ると,小学校は無人島で幾世紀も前に廃校になったかのように残っていた。
眼前の海と言えば,透明度が2メートルもあり,美しい海である。緑が豊かな陸地。牡鹿半島の景観は旅行者を魅了する。美しい眺めを目の前に,建造が新しかった二階建ての校舎。外壁の白さのモノトーンが空しかった。だれかいないか見渡したが無人である。人気のない海岸を走る。
谷川浜を右に曲がる。神社があったのだろう。祠の屋根が砂地に置き忘れられたかのように,取り残されていた。谷川浜は60世帯163人が暮らす三角州にある集落であった。
港と家と田畑があった。今回の津波により60のうち59の家が破壊された。その内,避難所に残っているのは5世帯だけだ。漁港入口の防波堤は,右側も左側も約100メートルずつ水没した。岸壁も舟が着岸できないほど,亀裂や隆起によって使い物にならない。海面に浮く船の船体の外側と水面が接する線は約1メートル沈下している。満潮時には波止場の岸が浸かってしまっている。漁業施設も崩壊した。谷川の集落は解散するしかないのだろうか。
明治,昭和での津波の被害地より高い場所と思われる起伏の少ない住宅地。家は完全に破壊され,何もかも残っていない。近くに病院,お店などない。高齢者で持病のある方は薬をもらいに女川町まで足を運ばねばならない。食糧などの買い物も石巻の中心部まで一日がかりで行くことになる。 朝日新聞(2011年6月4日付)によると,次のようである。
“「支援物資も不足しがちな避難所にとどめるわけにはいかない」。4人家族だった漁業の阿部政悦さん(51)は,母親を山形県の姉宅に預けた。長男(24)は就職先がある県内の別の町に移り,後継ぎとしてホヤ養殖の見習いをしていた次男(22)も,アルバイトをしている市中心部に引っ越した。「行政から復興計画も何も示されていないので、どうしようもない」阿部留男さん(82)も地区を離れることを決めた。「年も年だし,高台の住宅地が出来るまで待っていたのでは,いつになるかわからない。悔しいし,さみしいが仕方ない」 残るのは3世帯5人。集会には,地区を離れた住民も参加した。「住民がいなくなり,自治組織としてもたない」。積立金の分配に加え、地区で管理していた山林の樹木も売却し,売り上げを分けることで合意した。行政に高台の宅地造成を陳情することを決めたが,来年3月31日に再会することでお開きとなった。「出たくて出た人はいない」。自身も市中心部の長女宅に身を寄せる木村区長は言う。「生まれた時から波の音を聞き,朝日をみて育った。他の場所はやはり落ち着かない」。仮設住宅が地区内にできれば妻と戻る考えだ。「仮設が出来て先行きが見えれば戻ってくる人も出てくるのでは」。希望は捨てないという。”
大原中学校の避難所に立ち寄った。1947年に開校し,過疎のため,昨年4月に廃校になった中学校である。渥美T子(32歳)さんから被災,避難所の生活を聞いた。T子さんは中学生と小学生の子供がいる。二児の母親とは思えない若さを感じさせる。端正な顔立ちから,恐ろしい地獄絵図を見たとは想像もできない。東北の人は男性も女性もたくましく,美しい。半島の東岸では,5つの浜の内,4つが全滅である。鮫浦,大谷川,谷川,祝浜である。T子さんによると,祝浜から22人が避難した。ご主人は漁連に勤めていた。現在,14人の方が避難所にいる。谷川から7キロ南に離れた高い場所にあった泊浜(とまりはま)の半分は助かった。だから泊コミュニティセンターも避難場所になった。
大原(生徒54人),鮎川(32人),寄磯中(14人)の三つの中学校は2004年4月,牡鹿中学校(旧鮎川中学校)に統合した。3月11日,新設校牡鹿中学校の地域は難を免れた。鮎川浜の人々の避難所になった。道路が寸断された陸の孤島であった。
大原中学校で避難生活を送っていた住民は,次々と地区を離れて街の中心部や親戚などのところに行った。
続く
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