中国四川省訪問記  豪雨被害 2013年7月21日~24日

2013年7月12日に中国四川省から帰国された被災地NGO恊働センターの吉椿雅道氏から現地の詳細な情報を聞きました。慄然とします。急遽,訪中の計画を立てます。

2008年5月12日14時28分,中国内陸部の地震による死者は6万9197人,負傷者は37万4176人に上り,1万8222人がなおも行方不明となっています。

2014年4月20日にもマグニチュード7以上の大地震で被害が大きかった同じ地域です。5年後の今,余震などの地盤のゆるみのための北川県,チャン族(チベット)自治州ぶん川県は東日本大震災のように建造物,橋が流され,700万人近い人々が被災しています。

中国四川省豪雨緊急救援募金

郵便振替の方は,四川のために とお書きいただければさいわいです。

救援金 2013年7月14日~12月31日

岩村カヨ子,神戸国際キリスト教会,石川久子,岩村義雄,本田寿久,
村上裕隆,本田洋子。

 機構の代表が2013年7月21日(日)関西空港から四川省に向かいました。

動画 その一 中国四川 映秀(インシュウYinxiu)学校 記念モニュメント 7月23日(火)撮影

動画 その二 中国四川省 公路213沿い 草坡(ツァポ)) 7月23日(火)撮影

動画 その三 中国四川省 汶川(ぶんせん ウェンチュアン) 7月23日(火)撮影

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      中国四川省被災地訪問報告
2013年7月21-24日

                  一般社団法人  神戸国際支縁機構

                         代表 岩村義雄

 2013年7月7日から約1週間,豪雨が中国四川省を襲った。床上浸水600万戸以上,おびただしい高層ビルの倒壊。5年前の2008年「汶川地震(ウェンチュアン)」[(別名「512大地震」]」(死者6万9197人 負傷者37万4176人 行方不明1万8222人),今年4月20日の「雅安地震」M7級発生 雅安(ヤアン)市芦山(ルーシャン)県大地震により地盤が緩んでいたこともある。昨年,9月7日に北京の天安門広場に立ち,多くの人,片道7車線車の渋滞,林立する高層ビルを見て,発展する中国の大国の光と影を見た。筆者は田園牧歌な風景こそ人の営みの本来だと思っていたからである。
家内が中国四川省の報道を知り,「東日本大震災より被害がひどい」と聞かせた。

家の前で 教え子中村晄太君 1995年3月26日 Kayoko Iwamura

 またもやあの地域にかと心配になった。今年4月にも訪中したい気持が高まったが,宮城県石巻市の継続プログラムのため断念せざるを得なかった。

 今回は,徐 桂英さん,林 伯耀氏,吉椿雅道氏たちから中国の情報を入手し,3日間で準備した。ただし現地に知り合いはいない。中国語はできない。金銭的には,中華東方航空の上海経由の往復チケットを12万4,810円の10回分割で購入。東北ボランティアのため,快適な旅行するゆとりはない。寝袋を小さなスーツケースに入れ,場合によっては4日間断食で被災地に行く決意で日曜日,礼拝が終わってから関西空港に向かった。2011年に東北の聞き取り調査に行った際も,一切食事などするレストランなどがなく,寝食を忘れて,被災者にヒアリングをしたことも無謀な訪中の不安を和らげていた。息も絶え絶えの人々と接するのに,こちらは何もかも保障されているようではボランティアなどできないだろう。また弱っている人,家,家族,仕事を失っている人に感情移入するには,着の身着のままの方が通じやすいという経験が後押ししてくれた。小さなバッグに着替え,パソコン,カメラ,寝袋などを入れた軽装である。所持金は1万円。関空で元に両替。つまり500元ということになる。他は預かってきた被災者への救援金である。3日間で集まった7人からの2万2,800円であった。東日本大震災でもそうだが,水,毛布,薬類なども役立つが,まずは人間がそばにいてあげることが大切だという信念が単独での訪中の動機になっていよう。

 多くの人に言われるまでもない。ちょうどその週,日本と中国の民のアンケートが二回にわたって報道されていた。中国人の9割が,日本に好ましくない印象を抱く。(米調査機関ピュー・リサーチ・センター 7月12日付)。「行ったら最後,帰って来られない」とか親身になって助言してくれる方も少なからずいた。一方,日本人の中国が好きはわずか5パーセント。かつて先生であった隣国,私たち日本人の生活習慣に溶け込んでいる兄の国から学んだ漢字,礼節,仏教など,感謝すべきことがいっぱいあるだろう。残念なことに現在,領土問題などでいびつな両国関係。政治家はこじらせるばかりだ。身近な国と良い関係を築くにはどうしたらいいだろうか。関東大震災[1923(大正12)],東日本大震災の時も隣国,中国は莫大な義援金を日本に与えたことを忘れてはいけない。もちろん4月20日も赤十字会へ救援金が日本の多くの方々からなされている。東日本大震災もそうだが,お金よりもまず共苦,共生,苦縁する人の触れ合いが被災地において慰め,勇気,希望を与えることは2年4ヵ月の間に実証されている。最大の被災面積であった石巻市の人たちも自分たちを忘れないでやってくるボランティアを楽しみに待っておられる。そうした自負が訪中を駆り立てた。

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 上海経由で四川省成都(チョンド)に深夜0時5分に到着予定が成都の豪雨のため着陸できないため,上海で足止め。関空より大きな空港で中国人たちに二重,三重に囲まれて,和やかに会話する。日本から言葉もできず,被災地に行くという姿勢に好感をもたれたのだろう。筆談をしながら数時間過ごす。

上海空港 2013年7月21日

 飛行機内のサービスも行き届いている。6時間遅れて成都着。空港も巨大だが,街並みは北京,上海に見劣りがしないほどの近代都市である。日本の地方の県庁所在地ぐらい思っていたが,とんでもない。大都市なので目を見張る。四川省は日本の1.3倍,人口8600万人。成都は中国で3番目の古都。京都のような観光都市である。ジャイアントパンダの生息地でもあり,世界遺産に登録されている。

ジャイアントパンダ

 喧騒とした北京とは異なり,被災地訪問でなければ魅力的な観光地として訪れたくなる。

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成都→G93→四川省雅安(ヤアン)市芦山(ルーシャン)県→天全(ティエン)→芦山玉渓村

  単独で豪雨の汶川県に行くにはどうしたらいいだろうか,機内で黙想していた。日雇いで車をチャーターしたら,一日に日当8千円くらいかかる。そんな軍資金はもってきていない。ヒッチハイクは中国でも可能だろうかとめまぐるしく思いをはせていた。北京からNGOのリーダー张胜其氏が英語の通訳Esther女史(チベット人大学教員だったが解雇される)と二人で出迎えてくれた。大きな空港だがお互いに相手氏名をA4用紙に書いて確認できた。彼らと成都で交流するだけだと思っていた。自分たちも被災地に行く計画を急遽したという話になっていた。シャワーを浴びて,荷物をもって現地のNGOのリーダーたちと朝食で合流。NGOは難民支援,被災地救援活動,医療活動,少数民族保護活動に専ら従事している。初対面だが,英語はEstherさん以外だれも通じない。朝食時に5人に自己紹介される。運命共同体の出発点である。豪雨被災地汶川県は道路が寸断されている上,一般の人々が入るのも難しく,ましてや中国語ができない日本人を連れて行くことは非常に危険だと話し合っている。危険なのは日本を出る前から,覚悟をしていると言いたいが,車で運んでくれると親切に申し出てくれる彼らに自己主張なんかできない。午前中の行き先の計画に同意する。200キロ先の4月20日の「雅安地震」の被災地に向かうことになった。8人乗りバンに乗る。快適な道路,サービスエリヤ,トンネルである。世界経済ナンバー2の面目躍如であろう。一方,私たちNGOのメンバーのバンと言えば,38度を超える猛暑だがクーラーが利かない。窓を開けて走る。

 家の教会の指導者のひとりDavid中国人牧師たちが4月20日以降,100日間,救援活動をした拠点に案内される。生活復旧のため,30名ずつ交替で通ったりした。炊事場,手洗いを掘って造ったテント生活の場所はうっそうと草木が茂る里山である。ライフラインがない不自由な箇所から被災者,難民に寄り添っていたことがうかがえる。猛暑の中,便所跡にはハエがたかっていた。昆虫少年であった筆者は,カブトムシや蝶が舞っていることに目を追っていると,傾斜が激しい山でバランスを崩して尻餅をついた。仲間はすぐに気づかって飛んできた。筆者より若いとは言え,遠路日本から駆けつけた客人をもてなす心でいっぱいである。中国語で「もしけがでもしたら,申し訳ない」としきりに会話していたようだ。昼食時に,地元の沈約翰恩葉氏に合流。芦山玉渓村に案内してもらう。麺類がことのほか,おいしい。パッツォという豚まんはぜんぜん甘みがなく気に入った。とにもかくにも皆よく食べる。たくましい連中である。軍隊経験がなくても筋金入りの運動マンばかりである。独房に投獄されても何十年でも生き残れそうな精神力が伝わる。筆者はサムライらしく耐えることを覚悟しているけれど,彼らも大陸育ちのたくましさのせいか弱音を決して吐かず,冷静沈着である,中国人たちと家族として過ごす時間は楽しい。天全では原動機付き自転車を改良した安価なタクシーに乗る人が多い。老若男女を問わず,利用している。

 G93の街道沿いを約1時間走る。赤十字会などもテントを張っている。暑くて上半身裸で復旧作業している人たちも見かける。地震から3ヵ月だから,まだ倒壊している家も点在している。海外からを含めてボランティアを受け付けないと聞いていたが,芦山付近は国内からの応援を受けて容れているようだ。3ヵ月だが,中心地の高層ビルなども民間ではなく,軍隊が復旧活動をしている。日本と大きな違いである。ゼネコンとかが専門技術を駆使して阪神・淡路大震災や,東日本大震災の復旧,復興,再建に貢献している姿は中国にはない。人民政府が直接,解放軍を用いて事に当たるからだろう。政府が迅速に将兵と民兵の予備役人員の8030数人を派遣。547台車輌が出動。中小型の1920数台を救援の指示をする。だから早い。瞬く間に倒壊したビルがたくさんの重機によって兵士によって再建されることになる。建造技術について日本人は揶揄するかもしれないが,政府の不眠不休の真剣な姿勢に反政府活動の指導者たちも敬意を表している。

  NGO約40団体が600人の被災者に仕えている村に入る。後漢[25-220]時代の樊敏闕や石刻がある。遣隋使,遣唐使たちも訪れただろうかと感慨深く思う間もなく,99%以上の建物が倒壊,ライフラインは復旧していない現状に心が凍てつく。NGOはがれき撤去に必要な重機などがないため,もっぱら米などの食品,毛布類を支援。認可された団体だけが医療,心のケアで従事している。NGOも政府が関与しないと復旧,復興,再建できないことは認識している。解放軍の重機類が川のため入れず,ヘリコプターで食料などを落とすと,NGOが被災者たちに配布する図式が4月20日以降,続いている。軍隊とNGOが協力し合っている構図が見られた。

 夕食,宿泊は被災被害の甚大な雅安市の主都都江堰市(トゥーチャンエン)で取った。涙した沈約翰恩葉氏と抱き合って別れた。自分たちの父,祖父たちが南京大虐殺について係わったことを謝罪し,中日友好の捨て石になりたいと語ったたことが彼の心を打ったようだった。中国では「沈黙は金なり」は場面による。自分の意見を発表できないと相互理解は生まれない。外交についても同様であろう。国際会議で壁のしみのように政府の顔色をうかがって黙りこくっている日本外交官では中国人と対等におつき合いなどできっこない。夕食は立ち並ぶ安価な食堂である。母,娘の二人が切り盛りしている。注文した料理を素早く作るのには驚く。サービス精神が旺盛なのは,共産主義を理想とする体制にもかかわらず,ロシアと異なるだろう。泥だらけの被災地と異なり,都会であっても思春期の娘さんは日本とは異なり濃い化粧を見かけない。清楚であり,親,年長者によく従う。笑うと女優になってもおかしくないほど美しい。儒教が民衆の思いに受け継がれているようだ。筆者のことをシンガポールかどこか外国から来たNGOぐらいに思っているのだろう。日本人だと悟られるなと何度も,仲間から釘をさされている。店の人もしげしげと見ている。片言の中国語で「シェーシェー」と言っても,外国人と見破られている。お手洗いを借りたら,日本の地方と同じ,和式であり,どうやって用を足すのか不思議であった。紙を使わないのかと想像したりした。そなえつけの紙がないからである。簡易なビジネスホテルに泊まった。男性組は,二人で一部屋である。日本では不眠不休が続いて,機内でも隣りの方と話し込んでいたため,5日ぶりに5時間以上,熟睡できた。今回の駆け足訪中ではバスタブを見なかった。シャワーで過ごすことになる。日本ではウォッシュレットが普及しているが,中国ではまだ洋式便所がほとんどである。ボランティアはどんな環境でもサバイバルできなければやっていけない。飛行場の便所はTOTOが用いられており,反日不買運動などで日本製品はボイコットと神経質に思い込んでいたが,日中は底の深いところで結び合っている印象をもった。宿舎は感謝なことに,クーラーが利いているから極楽であった。一緒に休んだ運転を担当する中国人若者(22歳)は寝具をきちんと片付ける筆者を不思議そうに見ていた。ベットメーキングする人に任せればという思いがあったにちがいない。彼は難民であり,両親がおらず,NGOの世話により,成長したことに対する恩返しで,NGOに務めている。親から礼儀作法など学ぶ機会はなかったが,弱者に対する使命のため時間,体力などを惜しみなく捧げる精神は伝わってくる。年長者の荷物などをすぐに持とうとする。笑顔がさわやかである。上司に相当するDavidも何かを指示したり,頼む際,懇切丁寧に説明する。中国人の指導者は,「オレに黙ってついてこい」式がないのにもエートスの違いを感じた。人を動かす中国人流に触れた気がした。上下関係,組織,使命感に依存せずに,とことん話し合って相手を動かしていくやり方である。大国アメリカを相手にしたたかな外交上手な理由もうなづける。そこで筆者は豪雨集中区域に行くように,再びしつように嘆願をし,受け入れられることになった。条件もつけられた。英語を話さないこと,日本人であることを気取られないことである。手持ちの簡易な中国語会話の本を握りしめた。

723() 映秀(インシュウYinxiu) 草坡(ツァポ) チャン族自治州

都江堰市→高速公路317→汶川県(ワントゥアン)→映秀(インシュウYinxiu)→高速公路317→高速公路213→草坡(ツァポ)→阿壩(アバ)チベット族チャン族自治州→夢ト寨(チベット族のチャン族の村→成都(宿泊)

 宿舎の隣の通りに面している食堂で太陽の下で朝食。ギョーザやワンタンが入った麺,おかゆなどをたいらげる。いただくと言うより食べられる時に食いだめしておくという感じである。絵葉書を出したいからと言うと何軒か回る。都江堰市郵便局本局にも行くが,絵葉書など売っていない。仲間に尋ねると学生時代には書いたことがあるが,もう4年ほど携帯で連絡しているから手書きなどしたことがないと言う。学生もパソコンで論文を書くそうな。鉛筆を使うのは美術部ぐらいと言われた。毛筆,硯,墨を伝授した国の変貌ぶりにたじろいでしまう。老若男女を問わず,スマホ2種類を駆使している光景をよく見る。スカイプに相当する中国内のみで通用するスマホ用の動画音声通話がさかんである。日本と異なるのは,僻地,トンネル,地下でも通信が可能であることであろう。石巻市桃生町ならウイルコムが仕えないし,街中ではドコモが通じにくかったりする。震災直後も神戸と石巻間のやりとりができなくて閉口したものだった。入力に依存していると思いきや,書店が多く,市民はよく読書している印象を受ける。Amazonに相当するネット書店があるにもかかわらず,活字には貪欲な姿である。道行く人々の服装はカラフルである。ただし女性の服装についてスカート姿は少ない。小学生から大人にいたるまで短パンでにょきっと足をだしている。酷暑だからなのだろうかと思った。全般に道行く人々に活気があるので,エネルギッシュなアジア人の力を感じる。街並みは日本の方が清潔なイメージである。早朝にゴミを清掃している人たちもいるが,自発的なのか,職業なのかわからなかった。5年前,および今年の4月20日から復興したばかりで真新しいビルが多いが,一般の民衆の生活水準は日本の1970年代頃ではないかという印象をもった。

 二日目,いよいよ汶川県(ワントゥアン)に向かう。汶川県の映秀(インシュウYinxiu)にさしかかる。新しいまちづくりによって,市民の表情は明るい。家屋,商店街,街並みも映画のロケ現場のようである。家の前で麻雀のようなゲームを興じて,談笑している。服装もエキゾチックである。おそらく少数民族の生活様式なんだろう。5年前の大震災の中心地であったこともあり,政府が手厚く,支援していることが伝わる。町全体が観光地化している。セールスポイントは震災である。映秀の壊滅した学校全体の敷地がモニュメントにもなっている。平日の火曜日だというのに全国からの観光客が来て,震災記念の説明パネルを読み,涙している。公園のようになっているので,近隣の都市からペットを連れた家族,若いカップルのデートコース,友達との旅行が2時間ほど校内を周遊する。隣の丘には512記念館がある。512の階段で上まで登るとアウシュビッツのホロコーストのような建物がある。5年経った今でも死臭がする。いかに被害が大きかったか全身の血管,神経,骨に響いてくる。日本では,阪神・淡路大震災や東日本大震災でも,遺族が思い出したくないという理由で震災関連倒壊施設を撤去してしまう。しかし,大陸の人々の感性は異なる。震災被害者について過去のものとして忘れようとはしない。今も犠牲者は生きており,生き残った民と共に共生している。死者,行方不明者は死んではいないのだ。広島,長崎の原爆記念館と同じである。亡くなった人の命を慰霊塔に閉じ込めてしまわず,街全体のどこにでも臨在して,生きながらえている。震災時に縁のなかった訪問者は映秀で食事をしたり,民芸品のおみやげを購入したり,写真を撮る。ここの大地に眠る同胞に出合い,生ける者と死せる者が一緒に国を支えていく意識を高揚しているように思える。示唆に富んでいるので,映秀は被災地の日本人が訪れることをすすめたい。

 映秀を後にして,成都から約200キロ離れた汶川県の豪雨中心地に向かう。雅安市方面とちがい,東へ逆方向である。仲間に無理を言って,連れて行ってもらうわけだから,心の中で手を合わせる。午前11時半までに到着予定が,走って15分ですぐにトンネルが通行止め,回り道をして高速を走る。風景は辺境地である。切り立った山並みの底に川が流れており,河川の近くに高速道路が走っている。湿潤な日本の見慣れた風景とは異なり,男性的である。鳥がさえずり,峻厳な緑の山並みを見上げながら,砂埃に目を細めながら走る。さきほどまでの近代的なハイウェイとは異なる。モンキアゲハのような蝶がゆらりとふもとにいる。来て良かったと感謝する。世界中どこに行っても,美しい蝶,花,他の昆虫に出会えると心和む。やがて渋滞になる。40キロほど車がつらなる。豪雨による橋の陥落により,高速公路213が寸断されていた。訪中前に吉椿雅道氏から道路事情のため汶川県に行けるかどうかと言われていたので,道路の寸断がないように祈っていた。前夜,仲間たちも楽観的な見方をしていなかった。しかし,彼らはたたき上げのNGOだからたとえ道,橋,トンネルがだめでも這いながらでも目的地に行く根性はある。決して消極的なつぶやきはしないのに驚く。何が何でも筆者を汶川県に連れて行く使命感に燃えている。100メートル×20メートルの橋が崩落していた。「こりゃ,だめだ」と筆者は内心思った。しかし,解放軍は1週間もかけず,約1時間で橋を復旧してしまう。すごいパワーである。民は軍の行動力を当たり前のように思っているから,忍耐強く,文句も言わず,渋滞の中で待っている。こんな国と戦争したらひとたまりもないなあと放尿しかけるほどだった。 

 草坡(ツァポ)にさしかかる。街が豪雨で根こそぎ壊滅している。高いビルも基幹部のみを残して跡形もない。人影もない。少なくとも千人はいただろうに。否,二千人いただろうか。仲間のだれも言葉を失っている。一人は泣いている。一人はへなへなと座り込む。風になびく現場のちぎれている旗らしきものが弱々しい。葦のような人間もいくら柔軟にしたたかに生きていても恐ろしい天災の前にはなす術がない。ビルの根元の上を濁流がぺろぺろと舐めて,誇らしげに飲み尽くした余韻に浸っている。空しい。人間は自然の驚異の前に赤ちゃん人形のようである。襲って流し尽くした洪水の大王がそびえるように壊滅した街に君臨している。地球上のどの英雄も逆らえない威圧感で今も牙をむきながら迫る。いかなる最新の核兵器,オスプレイ,技術でも白旗をあげるしかないだろう。

 予定より2時間遅れて,正午に汶川県の目的地に着いた。日本の報道で見た被害場所に来た。中国政府も同じ場面しか海外に紹介していない。被害者の実数も把握できない範囲の広さである。チャン族というチベット族が3000年以上にわたって統治している地方である。衣装はカラフルなきれいな民族コスチュームである。顔立ちは漢民族と変わりがない。中国人の先祖と言われている。中国人の求心力は北京語であることも今回の訪中で教えられた。少数民族も方言ではなく北京語で読み,書き,聞き,話すが流暢にできることである。日本なら東北地方に行くと,方言のため理解できず,通訳が必要であるが,中国はそんな心配はいらない。

 首都の通りは5年前の大地震から復興したせいか,美しい。素朴な人柄,コスチューム,伝統が織りなす街のカラーは絵葉書のようである。昼食をいただく。目を開けたまま食前の祈りをした。隣のテーブルでも家族でたくさんのごちそうを食べている。だがもったいないことにたくさん残している。なめつくすように皿を平らげていない。どの皿も食べ残しがある。違うテーブルのお客さんも食べ残している。震災で食料が不足しているのに,なんと罰当たりがと内心思ってしまう。NGOの仲間は全部残さずに食べる。なぜ食べ残すのか,成都で夕食を食べた時に理由がわかる。隣国の人たちは食事に物惜しみせずによく食べる。2008年に平壌に行った際も,言われた。日本人は死ぬ時,貯金通帳にお金を残して死んで行くのが普通だが,朝鮮人は明日死ぬとわかったら,腹一杯ごちそうを食べて貯金など残さずに墓に行くと言われたのを思い出した。明治維新以降,拝金主義になった日本人はお金を貯めることが幸せの価値観になってしまった。拝金教の信者と比べて,チャン族はゆとりがある。生活のテンポもゆっくりである。日本や北京の生活とはちがう。高級な車,邸宅,収入が人生の目標になると,気づかないうちにせかせかした人生になりさがってしまう。直径2センチの棗の果実が安価であった。100円も払えば一袋300個ぐらい入っている。おいしいし,食べやすい。

  豪雨の被災地から,一路,山の上を目指してそびえる高嶺に向かう。曲がりくねる道,四輪駆動でなければ登られない急傾斜である。徒歩なら一日かかるだろうと思った。人里を離れた雲の上に砦があった。蘿蔔寨[らふくさい]という地域で,汶川中心街から直線距離ではふもとまでわずか10キロ。317国道から20分どこにも見たことがない変わった城壁様な土で囲った村である。海抜1970m,人口226戸,1038人。2008年四川大地震では42人が死亡,85人が負傷。4500年続いた中国のチベット系少数民族羌族の集落を一瞬にして廃墟にした。

アバ・チベット族チャン族自治州夢ト寨村 2013年7月23日

 夢ト寨村の村長との話し合いでは,日本人と最後まで自己紹介しなかった。日本人を村が受け入れたとわかるとあとあと村に迷惑をかけるといけないと思ったからである。村長はみずから,大きな包丁ですいかを切り,7人に振る舞う。切る前に何度も包丁をきれいに拭き取る動作に,きれい好きな民だとわかる。指導者は仕える者であるのが村の風習のようである。この地域は中国で最大の反政府運動の中心地であり,チャン族は反政府運動で有名である。

アバ・チベット族チャン族自治州夢ト寨村王村長夫妻 Yoshio Iwamura 2013年7月23日

 チベット族の英語通訳が筆者の言葉を訳してくれた。「たとえ死んでも生きること,愛する者たちは決していなくなってしまったのではなく,不在にすぎないこと,いつまでも心の中で生きているのだから,いっしょに生きるのですから,恥じないように,隣人愛を実践していきましょう。」と語ったら,王村長は抱擁して,筆者に宣言した。名誉村民になり,いつまでも村に住んでよいこと,いつでも出入りできることなど友情が芽生えた。

アバ・チベット族チャン族自治州夢ト寨村王村長 Yoshio Iwamura 2013年7月23日

 強行軍で,視界をさえぎる砂煙を道路,猛暑をやってきた旅路がいやされた。村民の主な生業は農業。トウモロコシ,ジャガイモ,麦などを自給自足し,漢方薬の栽培,道路工事,出稼ぎなどで現金収入を得ている。道教,仏教の寺院もまだ再建されていない。教育問題が村民の最大の関心事である。どこでも子どもは次代を担う宝である。酪農を営む場所に案内された。天水に依存することによって灌漑をしており,どのように水を得るかは3千年以上の課題である。牛糞によってバイオマスをすすめ,電力を得る最新の農業技術を示してくれた。徹底して無農薬,有機にこだわっているせいか,どの農作物も虫が食っていた。

  日本の農協によるネオニコチノイド系農薬の米などの種で生産効率を追い求める農業と比較して,安全を追い求める村民の姿勢に敬服した。村の中は車が入ることができない細い道ばかりである。独特の石と土をこねた舗道が敷き詰められており,3千年以上続いている。文明から離れたチャン族の生活の方が北京,上海,成都の都会生活より幸福度が高いことは言うまでもない。

 汶川中心街から帰途に就く時,「大禹(たいう)王」(中国最初の王朝「夏」の創立者)の巨大な像を見た。禹王は毎年のように氾濫する黄河(こうが)の治水事業で名を馳せた。稲作,仏教と同様に自然の脅威に対する禹王を治水の神様として日本各地に禹を祀る治水碑,地名は100以上ある。禹王は武器の生産を止めさせ,田畑を保護し,農民たちから信頼を得た。日本の権力者も,そうした禹の治水,非戦,農民をたいせつにする賢明な思想を学ぶべきである。

帰路,寸断されていた道路の復興工事が突貫で回復されていたことも脅威であった。渋滞が回避されていた。橋の陥落した高速公路近くでボランティアらしき若い女性を発見した。赤十字社はテントを張り,軍隊と同時期に被災地に入っている。NGOのボランティア活動について,帰路,中国英字新聞に記事として大きく取り上げられていた。しかし,大規模災害についてはNGOの被災地入りは政府の承認がない団体は現地入りできない現実についても知り,次回訪中の際は,地元のNGOと行動を共にすることの教訓を得た。

 最後の夜の夕食も屋外で暗い中で食べる。たくさんのごちそうだが,やはり食べきれず,残す。小学生くらいの男の子がお客さんの残したお皿の食べ物をちりとりでかき集める。どうするのかと見ていると裏のポリペールに残り物を放り込んでいる。貧しい人たちに対する落ち穂拾いのようである。中国人は弱者に対する思いやりがあるのではと思った。隣の食堂の子どもはお客さんが食後使ったナプキンなどきちんと片付けずに床に捨てていた。日本なら親にしかり飛ばされるだろう。親に言われていやいやお手伝いしている態度かと思ってみているとどうも違う。親はすっこんでいる。わずか10歳ぐらいの男の子はお客さんがみんな帰った後,独りでテーブルの上を片付け,自分より大きな重い椅子20個を一箇所に運んでいる。次に床と店の前の通りをチリ一つ無いようにきれいに掃除している。最後にお客の支払った紙幣の計算を任されている。親は幼い子どもを訓練しているのだろう。日本で同じ年齢の息子に同じようにしつけるだろうかと考えた。いつまでも子ども扱いをせずに委ねること,責任感を教える子ども教育の一端を見せつけられた。中国商人のバイタリティの源泉を知った思いだった。

 帰路も成都からの機内に忘れ物をした。帰国後,東北ボランティアから帰ってみると,自宅に届いていた。一週間以内であった。パソコンなど現地で忘れ物したが,いつも必ず見つかった。おかげで仲間から「ミラキュラス・マン(奇跡の男)」とニックネームがついたりした。家内からは不注意さを諫められたのは言うまでもない。帰宅し,現地で着ていた衣類については,家の洗濯機がどろどろに汚れてしまい,臭く,きれいにならないと家内はこぼした。わずかの滞在であったが,友誼に篤い友ができた。日本で無事の帰国を祈ってくださった徐さんに感謝したい。中国人の親切,正直さにも改めて認識を深める視察旅行になった。先入観なしに隣国の人たちと交友を深めるべきである。
 「日本人は僕らの敵から恩人に そして友達に」とつなげるのは民間の私たちに課せられた荷であろう。

第25次東北ボランティアの参加者からの音信

岩村代表 様
 
 ご無沙汰しています。5月の東北ボランティアでお世話になった吉岡です。
 その節は有難うございました。
 また機会があればと思いながら、6月より再び勤務をすることになり、その目度が立たなくなって、申し訳ない気持ちで数ヶ月過ごしておりました。
 

 ところで、中国四川省でのボランティア報告を胸の高まりを抑えながら読ませていただきました。

 もう十年以上にもなりますが、私も河南省の鄭州に行ったことがあり、一般の中国の人の暖かさや日本に対する理解の深さに驚き、感動した思い出があります。オリンピック前で、まだまだあちこちに貧しさが溢れていましたが、学生たちの勤勉さや、何でも包み込んでくれるような懐の広さが今でも鮮明に残っています。
 それだけに最近の情勢や、報道だけでしか知り得ませんが様変わりした国の様子を耳にするにつけ、悲しい気持ちにならざるをえませんでした。そんな中で、岩村代表の勇気ある行動に改めて心打たれ、中国の一般の人々の気持ちが今でもあまり変わっていないことを伺い知ることができ、嬉しく思いました。私も出来れば復興支援のようなものに参加できればなあと思っていましたので。

 お礼にささやかですが、先ほど会費の追加を入金しました。参加できる機会がまたできることと、これからもお身体に気をつけられ、活動を続けられることを祈念しております。

                                   鳥取県西伯郡伯耆町

                                      吉岡 成幸

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