第26次東北ボランティア報告 2013年6月21日

 時間は止まっている 最大の犠牲者を出した石巻市

門脇小学校前にあるパノラマは全滅した街,門脇町,南浜町がずっと見渡す限り続きます。2011年大晦日に紅白歌合戦で長渕つよしさんが門脇小学校のグランドをステージにして熱唱し,視聴者を釘付けにしたそうです。先月は貼られていなかった解体前のスクリーンがありました。壊すかどうか石巻市民も意見が二分したとのことです。

<訂正> 朝日ラジオの石巻通信で川端俊一石巻支局長 が毎週水曜日午前11時10分から,石巻だよりを続けておられます。7月3日放送の内容によりますと,門小のスクリーンは,解体が目的ではなかったことがわかりましたので,訂正します。渡波にあった石巻女子商業高等学校(廃校)の生徒たちが現在,日和山から体育の時間,門小のグラウンドを使用しています。生徒の中には,牡鹿半島の谷川小学校の卒業生もおり,学校の凄惨な場面を見ると,心が傷むので,スクリーンを用いているとのことです。

参照 https://kisokobe.sub.jp/proposal/1088/

次のような投稿をさせていただきました。「石巻百景」(6月13日付)

「思い出すのが辛いというお気持ちはわかります。しかし,被災の痕跡をとどめる建造物などが犠牲者の命を奪ったのではありません。たとえば,キリスト教という世界で一番信者が多い宗教では,キリストを処刑にした十字架を思い出したくないにもかかわらず,シンボルとして定着しています。つまり,いのちの尊さと彼岸の向こうへの非連続の連続の転換点として忘却しないために価値があります。心の中だけでいいとするなら遺影の写真などもいらないはずです。見える実体のリアリティーこそ,実は見えない死者との対話を可能にするものです。祈り,対話の契機になります。生き残った人間が油断しないで冷静に先人の声を聞く境界線になります。なぜなら彼らはいなくなったのではなく,不在にすぎないからです。したがって,3.11の46分の歴史に介入した刻印を残すのは私たちに課せられた責任です。」

門脇小学校2階 通路 (上2枚は各教室) 下 1階校長室

門脇小学校1階職員室

第1日目は阿部捷一氏のよく準備された語り部に初参加の皆さんも耳を傾けました。続いて,佐藤金一郎ご夫妻の家にあげてもらい,楽しい歓談の時も緊張が和みました。
先月、機構が田植えした石巻市沢田の田んぼにおいて,除草のため従事しました。

宮城県石巻市沢田 13/06/17撮影

挫折,失敗の連続の農ボランティア

第2日目は今回の参加の主要な目的のひとつです。「田んぼアート」をどのように成功させるかです。課題を初回から20数回石巻市に足を運んでいる20代前半のメンバーたちにとって挑戦でした。農家で育っていない都会の若者でも就農できるかどうかの試金石です。神戸と石巻の離れた地域,それも毎日表情の変わる田畑の管理をどのように果たすのか,問われています。好意的な阿部勝氏,勝徳氏親子も無謀にも思える「田んぼアート」には支持していませんでした。

今回,「田んぼアート」に取り組んだ場所は,車の往来の激しい場所です。石巻女川(おながわ)線です。鹿妻(かづま)小学校の東側になります。黄金浜(こがねはま),栄田(さかえだ)の西側の境界線,渡波新千刈(しんせんがり)42番地です。縦5メートル,横10メートルの0.5アール(二畝 ふたせ)です。
震災10日目,神戸から12台の自転車を持ってきていました。自動車が使えない道路状況ですから好都合です。自転車で佐藤金一郎氏と巡回し,田んぼにたくさんの車で突き刺さっていた渡波に唖然としました。各家はライフライン復旧を待つどころか,がれき同然の損壊した状態ばかりです。津波により地面がひっくりかえっていました。道らしきところで障害物を避けながら,進みます。阪神・淡路大震災の時は火災でほとんど家屋の原形を留めていませんでしたが,石巻の場合,いたるところ山積みになった家の崩れた建材がむき出しになっています。大きなハンマーで押しつぶされたようです。

宮城県石巻市魚町 13/06/17撮影

石巻女川線の線路も曲がり,自動車が乗っかったままです。大消費地東京や全国の米所として宮城県のおいしい米,つや姫,ササニシキなどが大被害です。復旧するのだろうかと,自問しました。わからないというのが率直な思いでした。
新千刈は機構が2011年9月に代掻き(しろかき)をした4反の水田から約100メートル東側の位置です。約4ヵ月にわたり,冬期湛水(たんすい)に精を出しましたが,断念せざるを得なかった農地のすぐ近くです。無農薬,有機によりコウノトリが宮城県石巻市に飛来することの夢がふくらみました。宮城県大崎市のNPO田んぼの岩淵 成紀代表や佐々木猛裕氏,吉田善広氏からも無農薬,有機の「ふゆみずたんぼ」(冬水田んぼ)について指導していただいています。しかし,断念せざるを得なかった経緯があります。2011年12月26日,農地から住宅地へと市議会の決議があって,不可能とあきらめかけましたが,翌月,なんとか半分だけ農地に残すなど二転三転したりしました。水生生物が戻り,除塩も心配いらないと喜んだのも約2ヵ月です。その間,機構に委ねられていない根岸の他の地域の田んぼ整備のために神戸からの若者たちは,雑草刈り,水路整備,手入れなど喜んで奉仕しました。ところが,用水の確保,排水ポンプ機能の劣化のため,また除塩のため,かつて区長であられた地域で信頼されている農家の方たちの反対が起きました。若者たちの努力が水泡に帰すことで石巻市渡波地域農業復興組合の阿部勝代表にとっても衝撃でした。なぜなら神戸国際支縁機構と復興組合の間で書面の正式な契約を交わしていたからです。労苦の結晶が水の泡になりました。因縁の場所です。宮城県農業高等学校白石喜久夫校長の助言により,阿部勝氏の所有の違う水田で「田んぼアート」に挑戦することになりました。兵庫県立農業高等学校玉木崇久校長は,2012年3月,5月にも神戸国際支縁機構に生徒を随行して,宮城県石巻市沢田の農ボランティアに派遣してくださいました。小牛田農林高等学校(若山壽之校長)も「田んぼアート」に加勢していただき,順調に事が運びました。

2012年3月,機構は「田んぼアート」のため,古代米を入手しようと捜し,岩手県一関市の佐藤正弘氏にたどり着きます。4月18日,福田啓太郎氏(第12次参加者)と共に嘆願に行きましたところ,ヴィジョンを聞かれると二の返事で大切な苗床を提供くださると言われました。ちなみに,佐藤氏は,今年も寛大に大事に栽培されている古代米を提供してくださいました。佐藤氏は「六次産業」の言葉の産みの親でもあります。役所に勤務されていましたが,農に転じて,一次(生産)+二次(加工)+三次(販売)=六次として,岩手県一関市で「おりざ」[ラテン語 稲]という飲食の店をもっておられます。儲けの企業と化した農協と袂を断ち,自らの手で米を手塩にかけて育てています。花泉古代稲生産組合の代表です。古代米の研究で日本では第一人者です。全国から農業関係者,学校関係,生徒たちが連日のように視察に訪れています。今回も機構の山本智也君たちの希望を受け入れ,「田んぼアート」に協力くださっています。とくに,兵庫県と東北の絆を深めるためにコウノトリのデザインを後押してくださっています。ちなみに古代米は田で栽培しますが,米ではなく,野菜の種類扱いです。
コウノトリは一度絶滅したものの低農薬または無農薬,有機で40年ぶりに兵庫県豊岡市の里山に野生復帰しました。現在約60羽が大空を飛び交うようになっています。コウノトリと共生するためには,環境保全を考える農家の協力がないと実現しません。なぜなら冬期湛水(たんすい 稲刈り後の水田に水を張ること)が求められるからです。農業機械であるコンバインなどが田んぼに入ることができなくなりますから,経済優先の農業経営とは両立しません。病気の体に注射することによって速効療法の働きが現在の化学肥料です。農薬によって土壌中の微生物や小動物がいなくなってしまいます。田んぼにカエルやフナゴが干からびて,死んでいるのが日本中,普通の風景です。死滅した無機質の土壌になってしまったからです。有機農法は,堆肥によって土壌中の生き物の活動を促すことで「生きた土」に取り戻そうとすることになります。山本智也君,村上裕隆君たちが目指す農は安全安心な米で,単価が高く収入面に寄与します。毎月,保田茂氏を講師に招き,「Let’s 農林漁」で学んでいます。保田氏は1973年,日本に有機運動が誕生して約30年以上,普及に取り組んでいます。日本有機農業学会学会長です。

今回の新千刈なら通りから「田んぼアート」が見られます。最適の場所でしょう。

宿泊させていただく小野寺脩館長は翌朝,記念写真を撮る際,太極拳を改良したストレッチを教示してくださいました。ほとんどの参加者の体が硬いことを思い知らされます。ヨガのインストラクターをしている二回目参加者である井奥真代さん(第8次,26次)はつまさきを上げてすることを提案され,館長は喜んでおられました。

6月18日(火)12時18分から始まった8時間による奇跡の「田んぼアート」を紹介します。参加者は8名です。内1名は在宅被災者の家で2日間片付けなどに専念しています。村上安世さんは石巻市伊勢町の須田圭司さんのところに留まり,農ボランティアや,傾聴ボランティアにはかかわりません。介護,ヘルパーなどの有資格者です。早朝から夕食時まで取り組まれますから,宿舎はサンファンヴィレッジになさいました。帰宅は一日延長なさり,山形空港経由で神戸に帰られました。

宮城県石巻市伊勢町 13/06/18撮影

 「田んぼアート」班工程表 先月の田植えと同様,機械を使わず,人の手で
 8時間の奇跡

6月17日(月)
① 午後1時   山本智也君,佐藤正弘氏から「田んぼアート」の苗床入手
② 午後1時   沢田の水田で雑草抜き(先月田植えした水田)
③ 1時半     代表 木村褜治沢田区長に表敬訪問
④ 午後2時半  代表 石巻市稲井土地改良区三浦敏壽理事長に表敬訪問
⑤ 午後4時   山本智也君,阿部勝氏に「田んぼアート」の農地を要請,断られる
(時期が遅いことが理由)
⑥ 午後7時   山本智也君,本間憲一氏宅,昔の農具を交渉
⑦ 午後8時   天然温泉の「元気の湯」 入浴
6月18日(火)
① 午前8時   村上裕隆君,阿部勝徳氏に「田んぼアート」の農地を嘆願,断られる
(適切な農地がない理由) 農地については機構の農部門から代表に委ねられる。代表 NPO法人いしのまき 環境ネットの川村久美事務局長たちに相談するが,困難との返事。
② 午前9時   沢田で雑草刈り

傾聴ボランティア班 石巻市松原町(松原町は震災時97名死亡)

③ 午前11時15分 代表,11月4日の収穫祭の打ち合わせのため,津田富士義,泰子ご夫妻宅訪問。解体した津田さん宅の倉庫跡を見て,適切な空き地がないか尋ねる。実家が所有する新千刈の空き地に案内される。天水だけでは不十分なので,水を引くことなどを話し合い,突貫工事で着工することを決断。
④ 正午        新千刈に各班全員招集 昼食(六次産業「みやこ」の弁当)
⑤ 12時18分   新千刈の空き地の面積計測
⑥ 12時19分   雑草刈り,石ころ除去
⑦ 12時21分   代表,亀山繁氏から鍬(くわ)や鋤(すき)を借りる。

西尾竜子さん(第25次,26次)が鍬をいれる

⑧ 1時10分    津田氏宅の水道水を借りる承諾。山本智也君,量販店「ホーマック」でホースなど購入。代表 NPO法人いしのまき 環境ネットの川村久美事務局長に報告
⑨ 1時40分    代掻き(田植の前に,固い土を掘り起こす作業)。津田氏,鍬,雑草抜き具持参
⑩ 2時       代表と村上裕隆君は,隣接の日新興業株式会社石巻出張所の敷地内に通るホースの件などであいさつ訪問

⑪ 4時32分 100メートルホースで水を流す

左から溝口直志さん,小山千佳さん,津田富士善氏,井奥真代さん

⑫ 4時35分 田おこし。

⑬ 午後5時20分 大島ます子さんの差し入れ (女川のタマネギ入りあげかまぼこ)
⑭ 午後7時42分 とうもろこし差し入れ

⑮ 6時28分 亀山繁氏,畦(あぜ)用フェンス提供してくださる。

⑯ 7時12分 コウノトリ用ポインター打ち込み,ビニールテープでデザイン

⑰午後7時41分 紫檀など各古代米を村上裕隆君作成図面に従って,田植え。

亀山繁氏は神戸からの若者たちに何度も言われました。「これまで何もしてあげられなくてごめんね」と。それを聞いて代表たちは涙ぐみました。

⑱ 8時30分 津田泰子さん,若者たちを励ます
⑲ 8時40分 終了

最後まで,弱音をだれ一人言わず,笑顔が絶えなかったメンバーの情熱に
日本の新しい幕開けを予感させられます。

⑳ 8時48分 亀山繁氏へ鍬など返却。鍬の損壊の弁償代金を固辞される。

古代米は,米と同じ方法で栽培しますが,野菜として扱われます。
午後9時12分,天然温泉「元気の湯」で足の指などの田んぼの土を落としました。全員,やり遂げた充実感でみなぎっています。帰路も笑い声が絶えません。

 

2013年7月21日 津田泰子氏撮影

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井奥真代 (第8次に続いて)

先日は,東北ボランティアに参加させて頂きありがとうございました。昨年は仕事が変わり,連休を取ることも難しく以前参加してから早や1年半もたってしまいました。

当時の瓦礫撤去作業と異なり,今は傾聴ボランティアという被災者のお家を訪問し現状や今まで内に秘めて誰にも話せなかった思いを吐露出来る場を設ける,という責任のあることをさせて頂きました。ヨガインストラクターになり,身体や心に様々な問題を抱えた方と接することが多くなったので,そんな自分がどのように被災地の方とコミュニケーションを取れるか,どう感じるか,優しく思いやりのある言葉をかけてあげられるのか,と緊張と不安でいっぱいでした。幸い,前月参加された西尾竜子さん(介護士)がいらっしゃったので,リードして頂き本当に助かりました。

始めにお話したお母さんは旦那さんと二人暮らしで震災当日は家の2階におり,周りの家がどんどん流されていく一方で自宅は流されず足上20cm浸かる程度で済み,助かったそうです。

しかし,よく一緒にお茶をしていたお隣のおばあちゃんも,向かいに住んでいた若いご夫婦も,連れ立って旅行に行ったことのある仲良しのご近所さんもみんないなくなってしまったそうです。寂しく辛い思いと,もっと大変な思いをしてやっとのことで生き延びた人達と違い自分は足を少し濡らしたくらいだった,という後ろめたさがずっと心に残っているようでした。元気に笑顔でお話して下さるので「この人は大丈夫!」と判断してしまいがちなのですが,実はだれにでも無意識のうちに心の内に閉じ込めてしまっている本当の思い・言葉の裏にある言えない孤独さがあるわけです。それを読み取る力が傾聴ボランティアには必要とされます。

誰も介さず被災者の方に直接お話を聞くのは初めてではなかったのですが,なぜか今回は生々しくその時の状況がまざまざと思い浮かべられ聞いているうちに身体が震えました。恐らく,今回携わった場所が,津波被害が大きかった石巻の渡波町松原・長浜地区であり,かつて住宅地であったはずの広い土地を目の前にしてお話したからかもしれません。紙上や画面,現地に行かれた方を通して情報を得るのではなく,正にこの今立っている場所で実際に起きたことを実体験された方と直接話すことの貴重さや臨場感を全身で感じました。

また,石巻に着いてすぐに連れて行って下さった門脇小学校と湊中学校,そして持ち主不明の家。地震・津波があった時のままで時間がストップしていました。再現映像を見たり博物館で残留品の展示を見るのでも,車中や外観を見るだけでなく,実際の場所に入らせてもらい全身が身震いしました。

傾聴させて頂いたお母さんも「気付いたらあの日から2年半が過ぎていた。被災してから避難所では2畳のスペースで8人で寝たり,仮設住宅では隣の音も丸聞こえで落ち着かず,今まで必死にその場,その場を何とか生きてきた。今でもまだ現実感がなくて,夢だったんじゃないかー,と思うよ」と胸の内を教えてくださいました。

あと印象に残ったのが,ジャンケンをしてどちらかが生き延びた,と始めに訪れた佐藤さんの奥さんが仰っておられました。確率はそのくらい五分五分で,同じ行動をしていても同じ場所にいても生死が分かれてしまう。ただ,それを表現するのに「運」という言葉はあまりにも軽すぎる気がします。

ただその咄嗟の際にしたひとつの行動が運命を分けてしまう。どうすれば助かっていた,という明確な保証はありません。

しかし,今回聞いたところによると,今まで地震・津波があっても床上何センチ程度であったり,大きな津波でも4mもある防波堤が守ってくれるだろう,と思っていたそうです。被害が大きかった住宅地には昼間在宅されているお年寄りが多く,逃げることが難しかったそうです。

何度行っても東北の方は温かく親切で,ボランティアに感謝の気持ちと労いの言葉をかけてくださいます。田んぼでも,鍬の使い方を見せてくださったり,便利そうな工具を次々と持って来てくださったり,水が畔に逃げてしまわないように仕切りを持って来てくださったり。私達の為に自然としてくださるその行動に本当に頭が下がります。

11月の収穫祭は参加出来るかわかりませんが,大盛況になることを願っています。

機会を作り,是非また参加させて頂きたいです。その時は今より少しでもお役に立てるように成長した自分でいれるよう励みたいと思っています。

貴重な経験をさせて頂いたことや年月をかけて地元の方達と築いた絆を少し分けて頂いたこと,感謝しています。

どうもありがとうございました。

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第26次東北ボランティア報告 2013年6月21日” に対して1件のコメントがあります。

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