イタリア地震 アマトリーチェ訪問 2017年6月

Ciao! チャオ!

第1次イタリア地震ボランティア道

2017年6月5日~10日      「カヨ子基金」前代表  岩村義雄

第1次イタリア・ボランティア報告完全原稿 ⇒ 第1次イタリア・ボランティア報告


地図 イタリア中部地震(2016年8月) ⇒ ウィキペディア

 2017年6月8日,関空から中国東方航空に乗り,北京でトランジット。空港のフロアで8時間寝ます。上海行きが予定より3時間遅れ,上海空港のフロアでまた宿泊を余儀なくされます。海外では,ハプニングはつきものです。予定通り物事が進まずとも,動じない強さが求められます。中国にはこのところ毎月のように来ており,中国人とはすぐに親しくなれます。漢字,仏教,法制度などのイロハを学んだ恩人にあたる国です。来る度にダイナミックに成長している観があります。おそらく訪中した日本人の多くは中国の文化,市民生活,スケールがみるみるうちに巨大化している速さに劣等感を抱くにちがいありません。日本の産(事業者),学(学識者・医療関係者),言(新聞,テレビ)の多くが南沙諸島,領海権,食品問題で反中の態度をとっています。裏返せば,羨望,コンプレックス,ライバル意識がもたらしたものではないかと筆者は考えます。中国はかつて一子政策で,過保護にひとりっ子を甘やかしたため,若者が国を支える強靱さなど期待できないのではと思い込んでいました。一般に核家族が当たり前となっている日本とは異なり,アジアの民は家族主義です。親は幼い時から,自分の体験,身につけた技量,学問を手を取り,足を取り教え込むため,子どもは大人になったとき,苦労せずして親と同じレベルの知識,技術,才覚を身につけます。一方,日本では親などは優秀な技術を持っていてもあまり多くを語らず,自分の子に言葉で説明しません。子は親の背中を見て育つと言われます。一般的な様相のようです。修行のようにして,身につける親子関係の厳しさがあります。サムライ気質とでもいうのでしょうか。研ぎ澄まされた感性が求められます。おおむねかつての日本人は勘が良く,手先も器用であり,模倣が巧みでした。そうした卓越した資質も新自由主義経済の中で,過去の遺物となろうとしています。現在の日本では,むしろマネーゲームの勝利は鍛錬された技術より,裕福な家庭に生まれたとか,能率,効率の追求ゲームの勝ち組か,運がよかった勝者が美酒をいただくというのが,一般的な様相のようです。さて,中国人は粗野な食べ方をする人もだんだん見かけなくなりました。洗練されてきています。筆者は一子政策の否定的な面ばかりに注意を向けてきたように思います。実際,中国の親は子ども独りにかける期待が大きく,幼い時から海外体験,留学,英才教育を施しているせいか,英語のみならず数カ国語を流暢に話せる中国人成人によく出会います。つまり一子政策は子どもを幼い時から,留学,海外生活,語学習得を競争するように身につけさせたのです。
 ですから,成人してからも欧米の背の高いWASPなどとも卑屈にならず,数カ国語で対等に交渉します。お酒が入らないとなかなか本音で話せない日本の商社マンより堂々としています。

 北京で上海行きのトランジット待ちが3時間遅れ,そのせいで上海で一日遅れを余儀なくされます。初めて利用する中国東方航空は乗り遅れた責任をとります。シャトルバスでホテルに案内します。400元(CNY)約6,494円の宿舎です。同行する人々は全員中国人です。世話する航空会社の添乗員に尋ねると,最近は日本人はあまり見かけないと言います。上海から海外へ行くのを足止めされた乗客のラゲッジは海外長期滞在なのか大きく,重いです。年齢的に,はるかに若い人たちの荷物です。されど黙って見過ごすわけにはいきません。手伝おうとしますが,片手では持ち上がりません。ふらふらしながら,やっとのことで,車中の荷台コーナーに運び込み,ホテル前では,おろすのに手を貸すことになります。すると乗客のみんながにこにこと,英語で「あなたはご親切ですね」,と持ち上げてくれます。その時,親しくなった中国人の男性は三人の子どもと一緒でした。35年アメリカ在住のため英語で不自由なく会話ができます。長女ヴァイオレットは13歳とは思えないほど小柄です。末っ子ジェームズは5歳です。8歳のキャサリンがよくしゃべります。3人とも中国語がほとんど話せません。アメリカ生まれ,育ちだからです。ホテルにチェックインすると隣室でした。父のユイングと仲良くなったため,再度シャトルバスで約20分かけて,国際空港へ戻ります。4年前,成都(チョンド)の汶川(ワントゥアン)県の水害ボランティアに来た時,トランジットした超巨大な空港が2回目だと小さく見えました。小さく思えるのも当たり前です。ターミナル1とターミナル2の二つがあるのです。成田空港が二つ並んでいるようなものです。

 ユイング家族と上海浦東(プードン)国際空港ターミナル1の3階北にある「慶吉」というレストランに入りました。中国語で注文に応じるウエイターも落ち着いた品性があります。筆者のために,ユイングは,「我想吃北京烤鸭。 Wǒ xiǎng chī Běijīng kǎoyā.(ウォ シアン チ ベイジン カオヤ)」,と北京ダックをウエイターに注文しました。毎回の食事の度に,必ず食べる「青梗菜」[チンコンツァイ](チンゲンサイのこと)や,牛肉面[ニュウロウミェン]など四人がたっぷり食べられる量を注文しました。食前の祈りを頼まれましたから,英語で祈ると,子どもたちも真剣に「アーメン」と感謝し,食事を食べることになります。子どもたちは肉をあまり食べないので,とうしてかと尋ねると,「セブンスデー・アドベンチスト教会(以後SDA)」に家族そろって通っていると言われます。アメリカにいるフィリッピン人の奥さまはSDAの学校を卒業されているそうです。セブンスデー・アドベンチスト信者は禁酒・禁煙,そして,肉を食べず,菜食主義に近いのです。筆者は家内岩村カヨ子から影響を受けましたが,同じような嗜好です。家内は4歳から預かった孝太の虚弱体質を改善するために,食事療法を研究しました。その結果,自然食品の店で販売しているクッキーなど,SDAの事業が販売している自然食品には40年近く親しんできました。

ボランティア道の母 岩村カヨ子 Kayoko Iwamura

岩村カヨ子 孝太(小1)と 1982年8月 舞子ビラプール Kayoko Iwamura

岩村カヨ子 孝太と 六甲山牧場 Kayoko Iwamura 1983年

 ユイングたちに,SDAの「良心者」(良心的兵役拒否者 Conscientious Objector)の歩みは尊敬できること,日本でも明治時代にSDAの信者が兵役拒否を貫いたことを紹介しました。「非戦」では同じ聖書理解であることも意気投合するきっかけになりました。中国にも墨子[ぼくし 紀元前450-390頃?]が上・中・下に分けて『非攻』篇を書いています。「非攻」とは侵略戦争に対して否定,防止をする行為です。日本では孔子,孟子,老子,韓非子などに知られていてます。江戸時代の儒教を吸収しようとする時でさえ,墨子についてはだれも言及していませんでした。非戦の医師安藤昌益[1703-1762]は「若し自然直耕の道には治乱なきことを明らむる者之れあり,速かに軍学を止絶して,悉く刀剣,鉄砲,弓矢,凡て軍術の用具を亡滅せば軍兵大将の行列なく,止むことを得ずして自然の世に帰るべし」,と『自然真栄道』に記しています。しかし,墨子のことは安藤も知らなかったようです。安藤が幕府の軍備について批判していることなども話に花がさきました。

 中国料理と中華料理は異なると筆者も考えます。なぜならいわゆる「丁字」の味付けが中国料理には必ずあるからです。森鴎外[1862-1922]は,貝島太助邸で,三泊した際,「目に一丁字なきも,なかなか面白きやつなり」,と,貝島氏は無学であるが,たいした男だと評価しています。「丁字」は肉料理の臭みを消すため,また風味づけに使われています。今年3月,第2次ベトナム・水害ボランティアのトランジットのため,香港で,福岡真悟&ウィルシー家族や,山下芳輝兄に連れて行っていただいたレストランでも,日本では味会わない「丁字」の味がしました。
「中華料理」は日本で生まれた中国「風」料理で日本人の嗜好に合わせて改良してきた料理です。中国では,一般に天津飯,中華丼,エビチリなどのメニューがありません。中国で食べる麻婆豆腐も日本と比べものにならないほどスパイシーです。明石市にも「天府真味」という本場の味を食べることのできるお店があります。経営者は楞野小梅(かどのこうめ)さんです。神戸国際支縁機構を応援してくださっています。東北ボランティアに参加した学生たちと会食をよくします。そこの麻婆豆腐は中華料理ではなく,中国料理です。辛くて,食べていて汗が出て来ます。夏の食欲がないときに何杯もごはんをおかわりできます。したがって,中国発祥の料理で日本人に合わせたものは「中華料理」と呼び,本場の中国料理と同じものは,そのまま「中国料理」と呼べばよいと考えます。「中華」は国境にとらわれない広い範囲で使える概念です。シンガポールは中華圏ですが,決して中国圏とは言わないでしょう。

 イタリア訪問では行きも帰りも中国でトランジットのため往路,復路二泊ずつ過ごさねばなりませんでした。海外ボランティアの一週間の半分近くを中国の空港で過ごすことになります。おかげで中国の中国航空,中国南方航空,中国東方航空,中国吉祥航空(きっしょう)など,格安航空券に精通することができました。カウンターは英語が通じます。アメリカ留学経験者や,中国のエリート層は流暢に英語を話します。警備,清掃,年配の乗客には普遍言語であるボディーランゲージで話すしかありません。海外被災地で訓練されているので,ほとんど通じます。顔見知りになると,軍人,警官であろうと,向こうから手を振って,近づいて来て,何をしているかと話しかけられます。筆者に怪しいという理由で近づいてくるのでないのは確かです。

 長時間の上海からローマの航空便。ほとんどが中国人の乗客です。ある女性の乗客は,イタリアのフィレンツェでデザインを学んでおり,ローマに仕事で行くそうです。ヨーロッパに売り込みに単身で乗り込む若い女性の意欲にも関心します。
 サン・ピエトロ大聖堂,「コロッセオ」,そしてコロッセオのすぐ近くの古代ローマの都心「フォロ・ロマーノ」はローマ訪問につきものです。古代のウィルゴ水道の終点にある「トレビの泉」でコインを投げ入れる伝統があります。1枚投げればまたローマに来られる,2枚だと好きな人と一生一緒にいられるるとガイドが説明しました。筆者は子どもの時から,あまのじゃくで迷信を素直に受け入れにくいひねくれた性格です。夜に爪を切ると親の死に目に会えないとか耳にすると,いつも夜に爪を切るというような具合です。反骨精神があるだけでなく,性格が素直でなかったのです。母親無畏子[かしこ 1921-1992](71歳死)の影響もありました。

右から母,伯母大谷風子が西舞子へ訪問 1972年

 社会通念,常識,迷信にとらわれない自由な生き方を子どもたちに教えました。たとえば,小学校の女性教師柴田先生が,自分の好きな友達,嫌いな友達を書かさせたりしますと,学校に抗議に行っていました。母は人を偏り見ること,好き嫌いで判断してはいけないこと,差別してはいけないことをことあるごとに教えてくれました。

「トレビの泉」で夫婦で2枚のコインを背を向けて投げ入れました。

コロッセオ 1993年2月19日 Kayoko Iwamura

イタリア 妻 岩村カヨ子 がおどける Kayoko Iwamura 1993年2月23日

 1993年2月19日,「トレビの泉」で夫婦で2枚のコインを背を向けて投げ入れたこともありました。泉の底には日本の硬貨もありました。愛する妻は亡くなりましたが,一生一緒にいられる,つまり心にいることで当たっているなあと感謝しました。

 レオナルドダヴィンチ空港からバスに乗車して,廃村であるサントスに向かいます。バスのドライバーは紳士的で,一人ずつ乗車賃に価格を手書きしたレシートを手渡してくれます。イタリア人は明るく,大らかな,おおざっぱな民族と思っていましたが,几帳面な対応でした。英語はあまり流暢でなくても,親切な人柄が伝わってきます。ラクイラからさらに1時間以上かかるところに向かうと,深夜を回ります。近くに座った乗客達は,はじめて向かうのに大丈夫かと気遣ってくれました。地方に住まう人はおせっいやきで親切なので,未知の場所に向かうときほっとします。夜とは言え,夏で外気温は高いのに空調が適度に効いていて,座席も飛行機よりゆとりがあり,快適です。中国のバスも近代的でしたが,イタリアのバスはデザインも洗練されています。

イタリア中部 サントス 2017年6月9日

イタリア中部 サントス 2017年6月9日

イタリア中部 サントス 20170609

宿泊した部屋 サントス 20170609

 ローマから向かった時は深夜であったので,景色がわかりませんでしたが,翌朝,サントスで眼を覚ますと,なだらかな丘陵,どこからか聞こえるニワトリの鳴き声,原種の花が道の脇に生えています。

 まるでメルヘンの世界に舞い込んだかのようなのどかな,美しいパノラマです。テレビのアンテナ,道行く車の排気ガス,お店など何も見当たらない風光明媚な廃村です。山の頂には雪が残っています。妻カヨ子に思わず,「来られてよかったね」,と心で会話します。早朝から,このサントスを第三セクターで観光の名所にしようと,レストラン建設のため,ジャンボデレッキが運び込まれ,設置されています。どうやって,こんな高い場所に運び込んだんだろうと想像していると,工事の人が午前6時だというのに,作業を開始していました。

イタリア中部 サントス 2017年6月9日

 20歳の時,スカンジナビアのスウェーデンでの体験を思い出しました。イタリアからの出稼ぎ労働者と出会ったことがありました。仲良くなったトルコ人と,「イタリア人は口ばっかりで,怠け者だからね」,と話し合ったことが昨日にように思い出されました。まちがった先入観でした。レストラン建設の勤勉な作業員と出会って,うれしくなりました。英語で時間を尋ねるとぜんぜん通じません。やはり海外では普遍言語,つまりボディーランゲージに限ります。表情です。にこやかな笑顔,まなざし,真心のこもった声の色などがあれば,たとえイタリア語,英語,ドイツ語を話せなくても通じます。二階の足場からわざわざ降りてきて,6時だと自分の時計を指さして親切に教えてくれました。「Come mai sei venuto qui? 何しにきたのか」と問われたので,地震の被害のボランティアだと言うと,満面笑顔で握手してくれました。朝食はラクイラで仕入れたサラミと固いパン,ミネラルウォーターで腹を満たします。

 朝9時20分前,バスに乗って,アマトリーチェへ向かいます。途中からの乗客も,運転手や初対面の筆者に,Buongiorno! ブオンジョールノと気持ちよくあいさつしてくれます。見かけない東洋人が観光に来ているから,もてなしの精神だと考えたりしています。イタリアのどこでもそうですが,日本人だとみなされることはありません。「ニーハオ」「cinese チネーゼだろう」と言われますから,Sono giapponese. ソノ ジャッポネーセと初めのうちは答えていました。どのイタリア人もアジア人は中国人と思い込んでいる節があります。いちいち訂正するのは面倒なので,essere umano「人間」ですと返答するようにしました。するとかえって相手の好奇心を刺激するらしく,しゃべくりまくられます。長いバス旅や,停留所でぽつりと孤独感にひたっているより,新しい友ができるきっかけになり,いろいろな被災情報を聞けましたから,助かりました。

 親しくなったロバートがアマトリーチェに連れて行ってくれることになり,幸運でした。車で3時間の行程です。悠久の歴史の中で,人間は羊を飼い,果物を作り,パンを汗流してつくり,生活を営んできた痕跡が通過する石造りの村々のなかに見られ,その共同体の中心にローマ・カトリック教会があります。日曜日には正装してミサにあずかり,幼児洗礼から結婚式,息を引き取る時の終油にいたるサクラメントを幾世紀も繰り返してきたことが大河の一滴のように美しい自然の中に溶け込んでいるのだと思います。

アマトリーチェ 2017年6月9日

アマトリーチェ 2017年6月9日

 アマトリーチェ Amatriceは,イタリア共和国ラツィオ州リエーティ県にあります。人口約2700人の基礎自治体(コムーネ)です。アペニン山脈中の盆地に所在する町です。代表的なパスタソースの産地でもあります。昨年,2016年8月24日夜3時36分に発生したイタリア中部地震によって大きな被害がありました。妻がイタリアにおける被害を教えてくれました。マグニチュード6.2の地震です。2013年の中国の四川省の水害,2015年のバヌアツのサイクロン「パム」,2016年の熊本・大分地震なども「ボランティア道の母」としていつも見張っているかのように,夫に教えてくれていました。機構の留守を守る役割を果たしてくれていましたから,心おきなく国の内外に若者たちと出かけることができました。家を留守にしていても,日に何度も携帯で連絡を取り合い,一心同体で私たち夫婦は行動していました。事務的な会話ではなく,家内の労をねぎらうメッセージによって,現地で患難に遭遇しても奮い立つ勇気が与えられていました。

 アマトリーチェに着くと,住民は見かけません。アマトリーチェへチェコ製の車で連れてきてくれたロバートはアマトリーチェは初めてのようです。独身で33歳です。ロバートは唯一開店しているカフェで待ってくれることになりました。筆者が最初に出会ったのはイタリア陸軍の兵士です。彼女はロベルタというタンクの女性操縦士でした。軍人とは思えないほど鼻筋のとおった美人でした。ロベルタとは,ロバートの女性名詞であり,縁があります。ロベルタは通行禁止になっている倒壊家屋へ導いてくれました。一般の人は立ち入り禁止場所です。筆者を政府の許可を得て,調査している研究者と間違えたようです。研究者ではなく,困窮者なのに。上官の許可を得て,道案内してくれました。学校,病院,いくつかの教会は全壊です。彼女は英語が流暢なのですが,アマトリーチェ市長への英文手紙を立ち入り許可書と勘違いしたようです。仮市庁舎を教えてもらい,独りで向かいました。秘書のところへ案内されます。幼稚園の事務所を改造した場所に,久しぶりにアマトリーチェに戻ってきた住民の陳情には悲喜こもごもなものがありました。秘書と話していると,市長が隣りの市長室で聞いていたようで,出てきて,握手を求めました。神戸国際支縁機構の書状を手渡そうとすると,市長室に招き入れられました。日本全国からの寄附金の領収書を受け取りました。

≪動画参照≫ アマトリーチェ

セルジオ・ピロッズィ・アマトリーチェ市長と会見

 被災者にインタビュー,つまり傾聴ボランティアをしたいと申し出ると,明日になっても,ふさわしい人を紹介できないと断られました。住民のほとんどは全壊のアマトリーチェを離れて棲んでいるためです。残留している人はいないか,戸別訪問をしましたが,無人と化していました。

 山側の町外れにレストラン再開のお店の準備をしている人に出会いました。被災体験はだれも思い出したくないと率直に言われました。それから,ロバートと共に仮設住宅を一件ずつ訪問しました。震災後,メディア関係者が訪問してきたときも,被災体験について思い出したくもないとだれも応じなかったようです。東日本大震災の時は,阪神・淡路大震災を体験したよそ者だから,だれにも言わなかった心の澱を私たちに吐露してくださったことがアマトリーチェでは通用しませんでした。通訳を引き受けたロバートを警戒したのではと推測します。せっかくのロバートの好意を断れなかったことが裏目になりました。サントスまで連れて帰ってもらいました。

アマトリーチェ仮設住宅 2017年6月9日

 翌日,ラクイラの被災跡をに行くことになります。

ラクイラ訪問 2017年6月9日。
≪動画参照≫ 学生寮

ラクイラ  ロバート

 8年前,2009年4月6日3時32分,イタリア中部の古都ラクイラを襲ったイタリア最大の地震マグニチュード6.3。死者309名(伊ANSA通信)。家の損壊数千人。いまだに爪痕が残っています。

全壊のままのラクイラ学生寮 2017年6月10日

 8年前,2009年4月6日3時32分,イタリア中部の古都ラクイラを襲ったイタリア最大の地震マグニチュード6.3。死者309名(伊ANSA通信)。家の損壊数千人。いまだに爪痕が残っています。
 2009年3月31日,民を安心させる作戦のためテレビなどで「安全宣言」。その結果,7人の地震予知委員会,学者たちは有罪,実刑が宣告されました。一方,否定の論理をもたない日本では,フクシマ原発の安全神話を繰り返した学者,メディアに一切,おとがめなしです。ヘイトスピーチの常習者は,ちゃらんぽらんなアジアの隣国とちがって,「我が国」は責任感が強いと言い張っていますけれど,それは間違いでないかと考えさせられます。日本の学者,マスコミ,政治家による「地震予知は極めて困難」「当時は大地震発生の可能性はとても少なかった」などの言い訳には辟易しています。
 8年前,ラクイラ地震の6日前に当地で,イタリア政府の「大災害の予測と防止のための国家委員会」が開かれました。戦前の大日本営本部の発表と同じように,「安全宣言」が茶の間のテレビ番組でも報道されました。こうした安心情報は,地震予知専門家,学者たちによる大災害委員会後の記者会見でも疑義が追求されませんでした。「官」の発表を疑わなかったのです。なぜなら地元テレビ局のニュースでは「安全宣言が出されました」「市民の皆さまには朗報です」と放送されたからです。翌朝の地元メディア紙の同じ調子で民に対して,小さな群発地震で不安におののく住民に,「小さな地震によるガス抜きが行われたから,もう大丈夫」,と虚偽の情報が流れました。メディアの情報提供は大変責任が重いのです。フクシマのメルトダウンについても,「官」や科学者が安全と言ってもそのまま伝えるなら,子どものお使いのレベルです。記者だけでなく,編集局報道部はクリティック[批判]する基本的な姿勢が欠如していました。
 イタリアで安心情報が出された6日後の4月6日,住民の安心を完膚なきまでひっくり返す大地震がラクイラを襲いました。筆者が5月9日夜を過ごすサントスもすっかり廃村になりました。ラクイラだけで309名が亡くなりました。ほとんどの死者は建造物の下敷きになりました。イタリア中部には,千年以上の石造りの歴史的建造物が多く,耐震性についてははなはだ疑わしいです。3月30日まで,度重なる小さな地震のため,大地震を恐れて他へ移動していたラクイラ市民は,嘘の安全宣言によって戻ってきていました。そんな悲劇に対して,遺族は記者会見のお膳立てをした行政のベルナルディニス副長官をはじめ,科学者たちを告訴しました。ドキュメンタリージャパン社の山田礼於氏,国立地球物理学火山学研究所のマシモ・ココ博士は次のように詳述しています。
 ジェノヴァ大学エヴァ教授は,「多くの群発地震は大地震へつながっていない。当然ながら,ラクイラは地震地帯であるため,大地震にならないと断言することはできないが」と。国立地球物理学火山学研究所所長ボスキ委員は,「(直近の大地震である)1703年の地震のような揺れは,絶対にありえないとは言い切れないとしても,近々起こりそうもありません」と議事録で語っています。二元論,善か悪か,光か闇か,白か黒かで報道する新聞の情報操作に「疑い」をもつことはなかなか民衆はできません。イラクの大量破壊兵器があるという大義名分でイラクを砲撃する米国の操作にメディアも疑義をはさみませんでした。当時,小泉純一郎元首相[1942年生]は2001年に就任。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ,海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させたことは記憶に新しいです。しかし,イラクには大量破壊兵器は見つからなかったのです。否定の論理をもたないことは尊い人命をも犠牲にするという教訓があります。「疑う眼」が真実を解き明かすのです。ラクイラ訪問で体験した悲劇は,日本の将来を舵取りする政・官・財・学,とりわけメディアに対して,みすごすことができない思いを高めました。帰国して3日目,6月14日,宮城学院女子大学・大学院生に語る「石の叫びに敏感であろう」の講演の中で,「疑う者は救われ,信じる者は救われない」を聖書から解き明かす真理契機へと促したのです。被災地ボランティアを学生たちと取り組んでいて,昨年4月14日,16日の熊本・大分地震でも痛感させられるのは,“怖いのはパニックではなく,パニックを恐れる人たちが引き起こす情報隠し”です。4月14日の地震後,大きな本震が16日にくることを誰も予想できなかった教訓があります。大地震より,住民を混乱に陥れるパニックを避けようとする行政の在り方を問い詰めるメディアの発信がなかったことも日本人には不幸なひとつの要因です。「水」と「安全」はただで得られると考える傾向がある日本人は危機管理が乏しいのです。すべてお上に丸投げです。諸外国と異なり,公共の電車,バス,商業施設などでも,非常に細かいアナウンスが流れます。「手すりにつかまってください」「降りられるお客様が……」「ドアが閉まります。ドアから離れてください」など,人々を事細かに気遣います。監視カメラがないと安全がないかのような信奉者も多いです。安全と引き換えに自由を売り渡す感覚が異常なほど強いと海外へ一歩出てみると気づかされます。ベルトコンベアに乗っかった人生,いつも引率してくれる「官」,できるだけ自分で考えなくても,行動しなくてもだれかがやり遂げてくれる社会に慣れっこになっています。束縛されても平気なのです。別に「自由」でなくても安全神話があると錯覚しています。神戸国際支縁機構の島薗進理事は「公に政府寄りの専門家側の非を認めて,新たな合意へ向かおうとする姿勢を示すことが求められる」(『つくられた放射線「安全」論 : 科学が道を踏みはずすとき』(河出書房 2013年 181頁),と警告しています。

 日曜日に,帰国して,火曜日午前9時に宮城学院女子大学のある仙台に向かいます。

イタリア訪問はEUの先進国,ちょうどG7が5月26日と27日,イタリア南部シチリア島タオルミーナで主要7カ国首脳会議(G7サミット)開かれました。世界をリードする先進国の首脳が一堂に会し,政治・経済,治安など地球規模の問題への対処を話し合いました。参加国である日本・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・カナダは世界の「石の叫び」(貧しい人の呻き)に対して具体的な解決策の鍵をもっているとはいえません。それぞれの自国の利益を追求し,相手国より少しでも有利になるかけひきを楽しんでいるだけのように映りました。

 もし「石の叫び」が届いているなら,なにはさておきまず貧しい人達,被災者,人権をないがしろにされた子どもたちについて円卓で話し合われなければなりません。最高の晩餐,豪華な贈り物,観光案内に喜んでいるような体たらくはないはずです。日本の安倍晋三首相も北朝鮮問題を主要議題にしようと乗り込む鼻息自体があまりにも弱者に「無関心」すぎます。
 「無関心」「無責任」「無能」な指導者では,世界の将来は暗澹たるものです。大きな格差を打開し,日の当たらないところで息をひそめているいのちが顧みられるように,イタリアのやさしい人々とも連帯していこうと促される第1次イタリア・ボランティア訪問でした。

                                       以上

イタリア募金 「ふれあいの祭典 丹波ふれあいフェスティバル」にて 2016年10月30日

イタリア募金 「ふれあいの祭典 丹波ふれあいフェスティバル」にて 2016年10月30日

 募金総額5,325円

≪動画参照≫ 街頭募金 

JR元町駅前 村上裕隆代表,植地亮太(第42次,丹波水害,ネパール),森本拳士朗(第41次,2014年フェスティバル参加者)。

 イタリア救援金先はイタリア・ローマカトリック教区(教皇名義)。
大阪府立長野高等学校の生徒会も1万4,669円もの募金を寄せてく
ださいました。

アマトリーチェ地図

 イタリアで8月24日未明に,マグニチュード6.2級の地震発生。
イタリア市民保護局の幹部は翌日,死者が少なくとも300人に達
したと明らかにしました。

 震源地近くの山岳部にある複数の町や村で多くの石造りの建物
が崩壊。現在も不特定数の人々ががれきの下敷きになっています。
アマトリーチェの町長は地元メディアに「町の4分の3が崩壊した」
と話しています。

 震源に近いは建物の多くが倒壊していて、
 住民:「部屋に夫婦と9歳と8カ月の子どもがいる。何とか助かっ
てほしい」

 今も多くの人ががれきの下に取り残されたままで,軍も出動して
懸命の救助作業が続いています。

Amatrice

 神戸国際支縁機構は自然災害への現場へ急行します。
 家,財,家族をサイクロンによって失った方々のために行動
します。とりわけ,親を失った子どもたち,夫を亡くした女性
たちが生きていくのに必要な救援金を届けます

Amatrice2

 “義援金は100日以上も顧みられていない。「義援金」という名称も
おかしい。「見舞金」なら遅すぎる。「救援金」という名称にしてす
ぐにでも支給すべきである。”
牡鹿半島 聞き取り調査 (6) 」(拙稿 2011年7月)

 「義援金」donation は寄贈されたおカネです。そこで「救援
rescue money to a person in distress と呼ぶべきです。災害な
どの被害者への救援,寄附として,義援金は遅すぎて,ふさわしく
ない表現と言えます。
 地元が必要なら,即断,即決,即実行しないと間に合いません。
アマトリーチェなど,家,家族を失った子どもたちのために救援金
を有効に用います。

イタリア地震救援金

イタリアチラシ

イタリアボランティアにご参加したい方は下記にご連絡
ください。現在2名の申し込みがあります。

一般社団法人 神戸国際支縁機構
Kobe International Supporting Organization (KISO)
E-mail kiso@mbe.nifty.com
HP http://www.kisokobe.com/
Tel : (078) 782-9697  Fax: (078) 784-2939

岩村 義雄(Yoshio Iwamura)
E-mail: QYH05423@nifty.com
携帯 070-5045-7127

郵便振替     口座 00900-8-58077 加入者名 一般社団法人 神戸国際支縁機構
 もしくは
三菱東京UFJ銀行 462(三宮支店) 普通 3169863  神戸国際支縁機構 岩村義雄

募金者 および 合計金額 受領順 2016年8月26日以降

目標額 100万円

現在 63,493

岩村義雄,岩村カヨ子,神戸国際キリスト教会,
匿名,竹内牧子,安立 昇,街頭募金,大阪府立
長野高等学校,本田寿久,

 ※ 2015年3月27日の理事会は,名前だけにして,個人の金額に
   ついて表示しないことを決議。
 ※ 救援金の寄附者は,振込用紙に記入なさっています。バヌアツ,
ネパール,フィジー,熊本地震の場合,年金生活の中からわず
かですが,お用いくださいとのコメントが多いです。

 ※ バヌアツ,ネパール,フィジー,熊本地震の場合,夫をなくし
た女性,在日朝鮮人,在日中国人などの寄留の外国人,被差別
部落の方たちの応援,痛み入ります。

 必ず,イタリアのために と書き添えてください。

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