現地のテレビ放映

第6次ネパール・ボランティア報告  
2017年9月26日~30日

                                (社)神戸国際支縁機構
                                会長 岩村義雄
 
 当初行く予定であった二名,平澤久紀氏,熊本支部の大島健二郎君は飛行機のチケット入手が困難なため,キャンセルせざるを得ませんでした。現地では3人が来ることを楽しみにしていました。
 阪神・淡路大震災を上回る大地震がネパール国を3年前,2015年4月24日に襲いました。犠牲者の実数,損壊規模は推測の域を出ていません。約2週間後に訪問した際,マナハリ,ダルマスタディ,パンガのがれき撤去などに奮闘している30代の地域指導者と懇意になりました。3人はそれぞれの地域の復興に真正面から取り組んでおられました。
 孤児の施設建設を通じて,面識のなかった3人はいつしか密接な情報交換,助言,協力し合う関係になりました。たとえば,カトマンズからマナハリまでは,車で片道約6時間は要します。豪雨などのために道が寸断されることも珍しくありません。日本からの支縁が三撚りの綱を結び合わせたのです。
 日本から学生植地亮太君(第42次,丹波水害,ネパール,ベトナム),村田義人君(第61次,第2次ネパール),谷口浩平君(第61次,第2次ネパール)など,企業経営に携わる平澤久紀氏たちは複数回にわたり,地元と日本の友好関係を築いてきました。復旧,復興,再建がはかどらず,かまぼこ型の仮設住宅,即席の修理,悪路など気が遠くなる中に,ネパール人たちは生き延びています。
 神戸からのボランティア一行は,基本的に,関空からの格安航空券でネパール入りを果たします。直行便ではないため途中,広州(クワンチョウ[グワンジョウ]),成都(チョンド),北京(ベイジン)などで8時間以上費やします。そのため,空港のフロアで寝袋を敷いて休みます。

バンコック空港 2017年9月27日


 現地では,迎え
にきてくださるため,タクシー代も不要です。カトマンズ市では,ダリット Dalit 不可触民(ヒンドゥー社会の中でも最下層階級 「触れると穢れる人間」たちという差別的蔑称で呼ばれている人たちののねぐらに行き,泊めてもらいます。食事も共にします。したがって,ネパール国の遠方を訪問しない限り,出費はありません。

2017年9月27日(水) 開所式

 一行は約6時間離れたマナハリから深夜2時に出発し,カトマンズ市ダルマスタディに午前9時前に到着しました。道路の表面はいたるところ陥没しており,勾配が急な夜道,時速40キロ以上は出せません。一瞬,気を抜いて,ハンドルを切り損ねますと崖から真っ逆さまに谷底にたたきつけられます。ドライバーは居眠り運転などできません。アスファルト舗装はされていないカーブが続く国道です。対向車が来ると,接触ギリギリで狭い道路で向かい合います。その都度,肝を冷やします。それでも料金を徴収する人民軍はいます。通行料金は支払わねばなりません。中国とインドにはさまれた小国ですから,他国からの侵入に対しても神経をとがらせています。インド製スコアピオンの6人乗りに6人がぎゅうぎゅうで揺られながら向かいます。予定通りにスピーディに進まないため,行きと同様,途中,お手洗い休憩もとる時間がありませんでした。さながら馬にまたがっているように上下運動のため内蔵にあるものはすべて出てしまうほどの行程でした。5月10日(水),MCH(マナハリ・チルドレン・ホーム)のオープニング・セレモニーにハリ・マハラジャンとハリの隣人,ダルマスタディの義理の娘アニーシャ,義理の息子アニシュは,あまりにも激しい揺れと度重なる衝撃に行きも帰りも酔ってしまいました。
 一行を出迎えたアデッシュ・スイングご夫妻は終始にこやかでした。
 MCHのオープニング・セレモニーに招き,建設現場の監督もした立役者です。現在もご夫婦で施設の管理者として,食事,洗濯,通学のため孤児たちの身の回りの世話をしておられます。MCHも日本の善意にあふれる方々からの寄附100万円が建造費として提供されました。今年1月にマナハリで孤児に出会った時に受けた印象は強烈でした。雪がまだある極寒にもかかわらず,一年中同じ半袖のシャツ,半ズボンだけです。風呂にも生まれてから一度も入ったことがないようでした。うつろな表情,本当に自分たちが住む建物が建つのかどうか不安,さびしさがにじみ出ていました。5月に完成してから,4ヶ月ぶりに見る子ども達の卑屈さは完全に消え,明るく,こうも変わるものかと涙が目から出て来ました。到着が深夜零時を回っているにもかかわらず,起きて待っていてくれたのです。自分たちと筆者の写真を金色のラッピングペーパーに包んで最高の贈り物のように手渡してくれました。

マナハリ・チルドレン・ホーム 2017年9月27日

 「カヨ子基金」により学校に通学できるようになった子ども達の親は里親として日本におられます。孤児ひとりにつき毎月3千円があてがわれ,教育費,食費,生活に必要な経費として用いられています。マナハリでは初めての孤児のための施設です。タマンニー夫人の献身的なお世話がなければ続けられないたいへんなボランティアです。思いがけない出費もあり,金銭的にも,常に赤字だそうです。機構もできる限り,応援したくても機構そのものの維持も自転車操業です。現地に筆者がネパールや他の被災地をたびたび訪問している時,宿泊費,食費などを切り詰めてもやりくりが苦しいことがいつも伝わってきます。しかし,決して弱音をはかれません。ホームの建設費,子ども達が大人になるまでの費用まで支縁してもらっていることで,これ以上負担をかけられないという意識が働いているのでしょう。他のネパール人たちとは異なります。「今,困っておられるなら,どれぐらいか言ってみてください」,と申し上げても,「だいじょうぶです。間に合っています」,と返ってきます。なみだぐましいというか,くれくれ坊主ではないご夫妻の生き様には打たれます。
 子ども達はよほど共同生活が気に入っているのか,筆者に自分専用の引き出しを代わる代わる見せて,この服,学校の道具などを得意そうに説明してくれます。もちろんネパール語ですけれど,普遍言語です。つまり,表情です。にこやかな笑顔,まなざし,真心のこもった声の色などがあれば,通じます。
 子ども達の内,アルン君だけを伴って,カトマンズ市ダルマスタディに向かいます。5月の時,オープニング・セレモニーで通訳をしたライ・ジョセフ君も同行しました。
 深夜にもかかわらず,アルン君がダルマスタディでの開所式で感想を語るというプログラムのため,参加します。行きと同様,運転手のプロンソン(22歳)さんが道の悪さについて申し訳なさそうに語ります。「政府は民のために何もしてくれないよ」,と。これまで一般市民からネパール政府について苦情を言わない人にお会いしたことがありません。こぞって政府は無能と声高に叫びます
 先回,選挙でどこの村の民も朝早く4時頃から深夜零時近くまでシュプレヒコールを楽器と共に叫んでいました。首長たちを選んだにもかかわらず,手厳しい批判です。政治家が無能だから,良い政治をと願って,熱狂的な選挙を4ヶ月前に実施したにもかかわらず,まるで無政府主義者かのような覚めた発言には首をかしげてしまいます。情熱をもって民衆のために働くことにかけては人後に落ちない人も権力の座につくと,古今洋の東西を問わず変わってしまうようです。

9月28日(木) ダルマスタディ

 ダルマスタディに午前8時半に到着しました。車中では一睡も出来ず,大地震の縦揺れ,横揺れがおよそ6時間続いた印象です。腎臓が肺のところに,肝臓が太ももに移動したのではないかと放心状態になります。ダルマスタディに到着すると,婦人会の方たちが朝食を振る舞ってくださいました。お代わりをみなさんすすめられますが,誰も食欲は長いドライブのせいで残っていません。筆者ひとりだけがお代わりをいただきました。同乗者のネパール人とは異なり,普段から東北ボランティアに片道約15時間,九州北部豪雨の道なき孤立集落などに通い慣れているせいでしょう。おかげで,「アイアンマン」(鉄人)と言われました。
 会場は,NNCの大学生,高校生のボランティアがステージ,音響,プログラムなどのリハーサルをしていました。神戸スイミープロジェクト[栗須哲秀代表]提供の鯉のぼりがすでに天空を舞っていました。3年前,ダルマスタディの一番小高い場所に設置したことがあります。半年後に行くと,生地が雨風によってすり切れていました。

開所式プログラム

 民族衣装を着飾った200人が集まり,郷土芸能も披露するように,地元出身の有望なダンサーたちが伝統音楽に合わせて,9グループも備えていました。大地震から久方ぶりの晴れの舞台に出演する児童達もお化粧をしてもらって,出番前に緊張している面持ちでした。楽器の音合わせが,日本の吹奏楽部の楽器と異なり,独特の音色です。
 ステージに座ると,登壇した8人の額にティッカを塗られます。ヒンズー教の最大のもてなしのようです。
 二人の司会者の内,スニタさんがまずあいさつされます。

開所宣言 2017年9月28日

 開会のためキャンドルライトに着火するように筆者にすすめらます。最初に来賓としてメッセージを英語で聴衆に約5分話しました。NNC(Nepal Neighbor Circle)ネパール隣人サークルの「隣人をたいせつに」ということで地元のハリ・マハラジャンご夫妻達の努力がみのったことを紹介しました。続いて,地元選出のラトゥナ・デヴィ議員,大学のラジュ・M・ヨシ学長のスピーチがありました。ヨジ学長は講演の途中で,全員に起立を求めます。昨年10月17日に逝去した岩村カヨ子のため,黙祷を捧げるように促しました。
 ダルマスタディも「カヨ子基金」により,孤児たちが恩恵を受けるようになったことへの謝意でした。いっしょに歩んできた妻が思わず,「ここまでしていただなくてもいいのに」,と直接筆者のこころに語りかけました。
 それから,サラワティ・マハラジャンNNC代表が祝福されたセレモニーにふさわしく,NNCがあってこそ孤児たちも報われる時代がやってきたと,ネパール語で述べます。

 日本から記念品贈呈として,菅原洸人および金斗絃画伯の絵がステージ上で手渡されました。主だった来賓達が祝辞をのべます。

菅原洸人画伯絵画贈呈 2017年9月28日

金斗絃画伯絵画贈呈 ムスタン 2017年10月28日



 新聞記者,テレビカメラマンなどが記者席に座っています。

 続いて,2部は,郷土に伝わる伝統芸能の花のプログラムです。約1時間の構成です。
 ネパールの民族楽器。シンギングボウル,弦楽器サーランギ,シャナイ(一種のトランペット),ダマハ(太鼓),ドロック,テャムコ(小太鼓)の5つの楽器のアンサンブルの「パーンチバジャ」など。ソロで少女たち入れ替わり立ち替わり,トランス状態近くまで踊りに一心不乱に演ずると,聴衆は大喝采します。なぜなら舞踏を通じて,ダルマスタディの文化遺産が子ども達にも受け継いでいることを大喜びしているからです。紀元前7~8世紀ごろのキラートという種族による統治からネパールの歴史が始まります。
 水牛の角で作ったネコー,「リグ・ヴェーダ」(韻律を詠唱する賛歌)などお祭りが好きな民族らしく,感動のあまり涙する人もいました。
 プログラムの最後にも,来賓として,5分間のスピーチを頼まれました。今度は「サークル」の意味について流し出しました。夫婦の結婚指輪のように円というのは,切れ目がなく,いつまでも他者を愛することが求められます。NNCがネパールの津津浦浦の人々,とりわけ親のない子ども達に,永遠に仕えていくようになりますようにみなさまのご協力,祈り,応援をお願いしました
 すっかりフェスティバルのプログラムに高揚した聴衆全員に食事が振る舞われます。この日のために,ダルマスタディの婦人会,青年会,長老たちは何日にもわたって準備してきたことが伝わります。
 食事前にテレビのインタビューをとつぜん申し込まれました。

テレビリポーター,新聞記者たちからインタビュー

『ドレッシュゥオー・デーリー』紙(2017年10月4日付) 第一面

 へたな英語で応じなければならず青息吐息です。気温はクーラーが必要なくらい暑いのに,テレビカメラの前では,緊張のあまり,凍り付いていました。そのままオンエアするというものですから,原稿もなしに語る時,頭の中は真っ白でした。週に一回,メッセージを語る習慣が30年以上続いています。榊原康夫先生[1931-2013]は筆者に聴衆にどのように語るべきか1995年から約3年間,教えてくださいました。先生ご自身は若い頃,吃音であったため,人前で話すことは大の苦手でした。たとえば,大人になっても,駅の改札口でキップを購入しようとすると,「後ろにだれかが立っていると気配がするだけで,言葉が口から出てこなくなるのです。芦屋駅に行きたくても,「あ,あ……,あ……」,とどもってしまいました。人一倍話す訓練を積み,ある意味で日本一の話し手になられました。神戸改革派神学校の六甲学舎で,完全原稿の大切さを教えられました。人前で話す際は,一言一句も漏らさず,書いて準備するという教育スタイルを確立されていました。同じ机を並べて学んだ西堀元先生は現在熊本におられます。熊本支部の大島健二郎君がお世話になっています。原稿なしに,ボランティア,神戸国際支縁機構,孤児に仕える動機などを語るのは榊原先生の教えに背くことでもあり,冷や汗がどっと出てきました。
 食事の時,ネパールでできた家族が集まってきました。孫がお世話になる方も目頭をあつくしていました。

Doleshwor Daily TV 2017年10月4日ドキュメンタリー放映 アイッシュ君は両親がいない

Ayush Maharjan アイッシュ・マハルジャン君(13歳)は地震で父を失う
20170928

 2015年9月の時以来,家族同然のように接してきたダルマスタディの隣人たちでした。「ダネンバード」(感謝します),とみなさんから言われ,照れくさくてその場から逃げ出したくなると,妻が言います。「私たちの力じゃ,決してないわ。日本の里親になってくださった人たちの温かい思いがあったからこそじゃないの。とりわけ神様からの援護射撃がなかったらなにひとつ成就しなかったでしょう」,と声が聞こえます。自分に栄光がもたらされたのではなく,すべてを完成してくださったお方にこそ栄光が帰せられるべきでした。
 そう思うと,会場でしっかり,受け答えをさせていただくことができました。

2017年9月27日(水) パンガ

 食後,パンガで待つジャナク(パンガコミュニティ災害対策協議会事務局長)のところへ向かいます。ビゴッシュと二人は午前中の開所式に出席し,一足先にパンガに戻り,まちかまえていました。パンガの自宅でまたネパール風ピザをごちそうになり,お腹が破裂しそうになりました。震災で夫をなくした高齢の独身女性のところへ案内してくれます。3年前,下敷きになり避難所で手足を骨折し歩けなくなっていたドゥルガさん,一人暮らしのチョホリさん,家も損壊し,仕事もなくなったパルヴァティ夫婦を再訪問した。三者とも筆者のパンガ訪問を待ちわびていたかのように歓迎してくれました。別れ際には,なかなか手を離してくれません。家族になっています。
 パルヴァティ夫婦には溺愛した孫ヨジューがいました。ヨジューはハンディキャップがあり,筆者とはじめて2015年5月14日に出合いました。明るい性格で,車いす生活にもかかわらず,小さいカフェの看板娘のような存在でした。お客さんに笑顔であいさつし,言葉を交わします。学校に行けない状態でも人々から愛される14歳の男の子でした。しかし,昨年,7月に死亡しました。妻カヨ子の看病のため,ネパールに来られなかったため,今年の5月まで知りませんでした。先回の報告でも書きましたように,ヨジューがいなくなり思わず号泣してしまいました。倒れかかった家で希望もなく生活し,孫を失い気力も失っていたパルヴァティ夫婦の孫だと5月にはじめてわかった時には,世間は狭いというか,縁を感じました。
 今回,ヨジューの父親が店をきりもりできないほど脊髄が変形しておりました。大手術をしたいにもかかわらず,治療費がありません。国立トリブバン大学付属病院で手術費用に日本円で10万円かかると言われ,あまりにも大金なので声がでませんでした。祈り心で「なんとか備えられる道が開けますように」,と励まして,家を出ました。

 その夜はジャカミ氏のところで宿泊するように言われたので,パンガからダル・ソルンジ橋に向かいます。すると,バグマティ川にかかっている橋が工事のため改築されていました。ジャカミ氏は筆者が来るのを外で蚊と戦いながら,2時間ほど待っていてくださいました。パンガでビゴッシュの家に立ち寄り,ドゥルゲ夫人,ミス・ネパールにも選ばれそうな美しい娘シュレスサさん,息子ヴィネットに執拗に家に立ち寄るようにすすめられます。いつものようにシュレスサの部屋で楽器演奏によるネパール伝統音楽をみんなで興じるのです。シュレスサは建築学を学びたく,神戸に留学する希望を打ち明けました。日本の学生たちのこと義人君,亮太君,浩平君たちのことをよく覚えています。8歳のヴィネットは民族音楽演奏に卓越した才能があり,地元では一目おかれています。皆木祐介君に3年前に遊んでもらったことは忘れられず,家族の話題に「ユースケ」とよく出るとのことです。日本の若者たちが立ち寄ることは,ネパール人にとり,楽しかっただけでなく,ネパール・日本間の友好を築くことに貢献したことに誇りにおもっておられるようです。ですから「○○さんはどうしていますか」,と必ず尋ねられます。日本の歌を平澤さんからまた聴きたいので,ぜひ次回は連れてきてくださいと,頼まれました。人情のあつさにほだされます。
 ジャカミ邸では,3時間ほど,息子ニラージさんと共に話し込みます。みんな開所式には出席してくれていました。翌朝パガワティ夫人,ニラージの家族と3人共あいさつして,バクタプルに向かいます。

2017年9月28日(木) バクタプル

 8時半に古都バクタプル(Bhaktapur)に到着しました。

 

岩村記念病院には,8人の役員が待っていました。日本は少子高齢化,人口減少,第一次産業の衰退。過疎化のすすむ限界集落が増えています。一方,ネパールは地方,どんな辺境地に行っても,シャッター通り化はなく,子ども達,青年たちで賑わっています。しかし,ネパールは医療事情が行き届いておらず,平均余命が低いことは第5次ネパール・ボランティアで報告させていただきました。もし診察,予防,治療があれば助かった人々も多いのです。無医村の地方に岩村記念病院のクリニック建設計画をもっているが,公的な支援がないため,自力では建てられない壁にぶつかっています。日本からの協力により,一か所1千万円あれば,開設できると,説明がなされます。現在,そんな奇特な方からのお申し出がないと返答しました。筆者は尋ねました。「もし機構がクリニック建設を支縁するとすれば,維持はどうやっていくのでしょうか」。すると,「引き続き日本からのご協力がほしい」,との条件が出されました。すかさず返答します。「孤児の施設も当初作る計画はありませんでした。貧乏団体のためハコモノを支縁することは不可能でした。しかし,日本全国から年金生活者をはじめとして名も知らない人たちが寄附をよせてくださいました。それでネパールに3か所,バヌアツに2か所,ベトナムに2か所と建築計画が可能となったのです。昨日,ダルマスタディの開所式にご出席くださった方はおわかりいただけると思いますが,土地代,維持する人件費,光熱費,修理費などは現地負担でおねがいしています」,と答えると,場がしらけるかのように沈黙が続きました。病院の理事長が口を開きます。「我が病院が引き続き,地方のクリニックを維持するとなると,たいへんな支出が必要になります。5月にお目にふれたように,本病院のCT装置などが3年前の大震災によって使えなくなっています。日本からのご協力でそうした装置2台を新規に購入できれば,地方のクリニックを責任もって維持していくことを約束しますが,いかがでしょうか」,と変化球を投げられました。クリニック建設,完成後の維持費はいらないが,高額な医療装置を支縁してほしいとの新たな提案です。「今病院で使い物にならない抗がん治療に必要なCT装置はいくらぐらいするものなのでしょうか」と,尋ねます。「1千万円です」,とクリニック建設を同じ料金を提示されました。現実は厳しく,彼らも公的な病院でないため,政府からの補助は,眼科治療,救急病院,定期検診など限られたものだと言われます。放射線検査などに必要な課題を震災後かかえている窮状を説明されました。「とても私たちのような小さな団体にとり,提示額は,あまりにも巨額であり,ご期待に沿えません」,と申し上げるしかありませんでした。しかし,彼らはみんな笑顔で,「私たちの病院が岩村昇先生[1927-2005]というネパールの恩人の志を継承し,僻地でも無料で医療を施したり,緊急でかつぎこまれる貧乏な方たちに無料で診察,治療,手術までしていることを,日本人に知ってもらったことに意義があります」,と抱きかかえたり,握手されました。
 機構や小生個人ではとうてい対応できない大きな課題を真剣に聞くのもくたくたになります。無力感で打ちのめされる思いです。しかし,最貧国ネパールに今一番必要なものが与えられるように,帰国後,情報だけでも発信しようと決意しました。 
 前回と同様,ダルマスタディから空港まで,ハリ・マハラジャン夫妻が見送ってくださいました。ラジット病院事務長も車で小生を送りながら,次回は自宅に寄って家庭料理を楽しむように約束させられました。飛行機代金以外は,まったくの支出がないボランティア道です。バヌアツなどでも同じです。ただし,夜,蚊にさされ,わけのわからないかゆみが帰国後数ヶ月残ることぐらいは耐えなければなりません。
 パンガでの開所式以外に,ヨジューの父親の手術費,クリニック開設,CT検査装置など次から次へと重荷が肩に食い込みます。しかし,1千万人を越えるカトマンズ市のネパール人の活気,雑踏,エネルギッシュで喧騒な暮らしに触れると,小さなことで悩んでいるのは自分だけだと思わせられるのもネパール国がもつ不思議な魔力でした。こころの迷い,悩み,うつも吹っ飛んでしまうほど,ネパール人は明るい民族です。うがった見方をしますと,スーダラ節の世界です。「スラスラスィースィー」というような具合です。マナハリとの往復の時の衝撃の振動,村のどこからともなく聞こえてくる歌声,早朝から通学,通勤前にねりあるく各町内のヒンドゥー教,仏教の祈祷行進は心の復興に大きく寄与しています。宗教がもつ底力が四苦八苦 生老病死 愛別離苦から解き放っているのでしょう。外観は貧困そのものですけれど,お釈迦さまが誕生した国の民のこころの豊かさは拝金教の日本人はぜひ訪れ,見聞してみる価値があります。ダイナミックな体験を通じて,生きる道のヒントについてなにかを必ず吸収できますからおすすめします。