「『死』を考える」講座

 2011年12月26日
神戸新聞文化センター
新免貢(神戸国際支縁機構理事)

震災における死

 <序>宮城県仙台市から参りました「新免」と申します。どうぞよろしくお願いします。私は2度大きな地震を体験しました。一つは,16年前,兵庫県南部を中心に大打撃を与えた地震です。当時神戸市須磨区多井畑に住んでいました。横尾,友が丘と隣接している辺りで,最寄りの地下鉄の駅は「妙法寺」です。オートバックスがすぐ近くにある所にあるキリスト教会に住んでいました。当時は牧師をしておりました。この時の地震とその被災状況は「阪神・淡路大震災」と総称されています。しかし,私自身はこうして生きながらえていますので,「大震災」という言い方を使うのはやや躊躇を覚えます。
 そして,もう一つは,今年3月11日,東北・関東の広範囲を襲った大地震です。「東日本大震災」とも呼ばれています。今回もまた生き延びましたので,「震災」という表現を使うことに後ろめたさを覚えます。間違いなく生活基盤と生命基盤が重大な危機に直面させられています。12月22日現在,15843人の犠牲者,3469人の行方不明者が報告されています。店を廃業に追い込まれ,職を失い,変わり果てた故郷の光景に心が傷つき,住む場所を追われ,家を破壊され,家族を亡くし,財産を失う,孤独死にまで追いつめられる,広がりゆく放射能汚染・・・。それが震災です。「東北がんばれ!」などのメッセージが空しく響くほど,事態はきわめて深刻です。
 私は,2つの震災体験を通して,人間の死というものに対して,説明不可能なものを感じております。この二つの震災に関連して,私が直接見聞きした人たちの死を紹介させていただきます。

(1) 「絆」
 今年話題になった言葉に贈られる「ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞に,サッカーの女子ワールドカップ(W杯)で初優勝した「なでしこジャパン」が決まりました。日本中に希望と勇気を与えた点が評価されました。その他に,「絆」も流行語として選ばれました。選考にあたったジャーナリストの鳥越俊太郎さんは,「今年は『絆』という言葉がある特別な意味を持って存在した。なでしこジャパンの優勝も絆,チームの和の力だったと思う」と話しました。「絆」が確かに世の中に必要です。
けれども,私たちは今,人と人とをつなぐ「絆」があるとは思えない厳しい状況にあります。岩手県内や宮城県内の仮設住宅では,人知れず死んでいく孤独死も報告されています。被災者が孤独死に追いつめられることは,「絆」というものが,言葉としては流行しても,その具体的な形が被災地には行き届いているわけではないないことを物語っています。
 16年前の1995年1月17日早朝の阪神・淡路大震災では,6434人の方々が亡くなられました。仮設住宅と復興公営住宅における孤独死は震災後16年間で914人です。毎年,約50名の孤独死があります 。そういう意味では,16年前の震災は今も続いています。事態は深刻です。皆さん方もご存じの通りです。復興に向けての必死の努力にもかかわらず,今後の東北もそういう悲しい状況に直面することが予想されます。
孤独死する人たちは,人間として死んだのではないように思われます。孤独死へと追いつめられた人たちは,無用の長物として社会的に扱われています。孤独死する人たちは,世の中に存在していたにもかかわらず,生きてきたその歩みの痕跡さえ消され,覚えられることもありません。孤独死は,そういう意味では,世の中から見失われた死です。

(2) 死者たちからの問い
 私は,津波被害の大きかった仙台市若林区の荒浜と名取市の閖上(ゆりあげ)方面に何度か出かけました。2011年4月19日のことです。津波の爪あとの惨状は,筆舌には尽くしがたいものがあります。
津波の甚大な受けた地域の方々では,自衛隊員たちが重機を使って瓦礫の撤去作業に励んでいました。瓦礫は,辺りをよく見ると,場所ごとにポイントを決めて山のように積み上げられていました。私は,津波に襲われた田んぼと田んぼとの間の農道を歩きながら,釣りの仕掛け道具,仏壇具,イス,テレビなどの電気製品から家具類に至るまでいろいろな物が散乱しているのを見ました。その中には,津波によって泥を全体にかぶってしまった人気者ミッキーマウスのぬいぐるみがありました。よく見ないと,それがぬいぐるみであるかどうかさえもわからないくらいドロで汚れていました。このぬいぐるみを,津波を「くぐりぬけたミッキーマウス」とするには,気の毒なくらいでした。本当は持ち主によって自分自身の分身として暖かく抱かれるべきぬいぐるみには,安らかに眠って欲しいと思います。その持ち主であったかもしれない子供が生きているかどうかはわかりません。
私は閖上地区を訪ねました。仙台市の中心街から車で30分ほどです。古くから漁業で栄えました。赤貝の水揚げで有名です。地酒としては,「名取駒」という酒があります。宮城県の民謡で大漁歌と言えば,松島湾一帯で歌われてきたサイタロウ節です。「えんやとっと・・・」という歌詞で始まります。皆さんも一度はお聞きになられたことがあろうかと思います。閖上には閖上の「サイタロウ節」があります。閖上港,魚市場,そのほかいろいろな関連施設が破壊されました。たくさんのかもめが飛び交い,港の風景の原形はとどめていましたが,コンクリートの波止場そのものがゆがみ,へこみ,大きく割れてしまっていて,歩くだけでも危険な個所もあります。皮肉にも,赤い矢印で「津波避難経路」を表示する大きな外灯が何本か,避難経路の方向に倒れていました。多くの人たちが,逃げている間に津波に飲まれたに違いありません。
 港を見渡せる近くの「日和山」(ひよりやま)と呼ばれる小高い丘に登りますと,ペンキで白く塗られた木の慰霊塔に記された言葉の数々,犠牲者が写っている思い出の写真を見て,胸が締め付けられました。「何もしてあげられなくて,ごめんね!」「皆さん,元気ですか!」「体を大切にしてください!」「明日は良い事もあるよ!」「ありがとう!」「前の仕事がしたい!」「みんなでやろうよ,手を取り合って!」「また来る!」「空の上から復興を見守ってください!」「安らかにお眠りいただけますように!」「感謝,感動,体に気をつけて!」「全力で生きる,ありがとう!」「私たちはいつも一緒にいます。私たちは決して忘れません」・・・。生き残った者たちの呼びかけの言葉です。しかし,帰らぬ者たちに対する届かぬ呼びかけです。私は泣けました。声を上げて泣きました。「避難所暮らしの方々,放射能汚染のゆえに住む家を離れることを余儀なくされている方々に心よりお見舞い申し上げます。亡くなられた方々,行方不明の方々,今,私がこうして無事に生きていることをお許しください」といつも言わざるを得ません。
それと同時に,私は死者からの問いかけを聞いたように感じました。「私は死んで,あなたは生きている。これってどういうこと? 私は何か悪いことをしましたか。あなたはまっとうな生き方をしているのかしら?」。こういう問いかけが聞こえるのです。今も。私は,その究極的な問いに答える能力を持っていません。私は,大学教員としての立場によって守られて生きている自分に後ろめたさを感じています。
しかし,これだけは言えます。自然災害は必ず起き,これからも起きます。その限りにおいては,決して未曾有ではありません。私たち人間は,それを身に引き受けて行かなければならないと思います。また,そのようにしてきたと思うのです。『日本書紀』や『続日本紀』,『類聚国史』などにおいても言及されていますように,日本列島では古代以来,人間の暮らしに直結する自然災害 が起ってきました。そのことを私たちは謙虚に知り,そこから人間の限界を学ぶべきですが,やはり忘れてしまいやすいのではないでしょうか。自然災害は予知できても,それを防ぐことはできません。多くの犠牲者を出す自然災害の影響を受け止めていくしかありません。問題はそれぞれの受け止め方です。たまたま生き残っているにすぎないわれわれが,死をどう受け止めるかです。
 死の受け止め方に関連して,私は,示唆を受けたことがあります。「生きているうちは死なない」と語ったのは,識字学級に通うヒロシマのオモニでした。私は,8月,日本YWCAの「ヒロシマを考えるたび」に学生たちと参加しました。その時に,韓国人被爆者の生の証言に耳を傾けました。彼女の証言は衝撃的でした。広島の原爆でもたくさんの犠牲者が出ましたが,爆心地近くで被爆したそのオモニは,「この朝鮮人め!」とバカにされ,原爆後遺症に苦しみました。分娩に際して彼女の胎から出てきたのは,「おぎゃー」と声を上げた赤ん坊ではなく,真っ黒の胎児でした。それだけでも痛ましい体験です。その後,彼女は,字を覚えて自分の人生を表現し,平和の尊さを語り続け,人生が大きく開かれました。「言葉」で自分を表現すること自体が生きる力となっています。われわれ一人ひとりは小さな存在ですが,「生きているうちは死なない」。これは,見せかけの学歴や肩書からは得られないオモニの経験知です。生き残っているわれわれとしては,それぞれが自分の名前で死を語り,自分の言葉で死を表現していくしかありません。それが生きる,いや,生かされる力になればと願います。確かに,「私は死んで,あなたは生きている。これってどういうこと?」という死者からの問いかけに答えることはできません。
 震災の中の死の一つ一つには,それぞれの固有性があります。それを語りつくすことはできません。また,だれか宗教者や哲学者や専門家が論じて処理できるテーマでもなく,ここにおられる皆さんがこれを受け止めて,次の時代につないでいくしかないと思います。
 神戸の震災であれ,今回の震災であれ,その犠牲者たち,重傷を負った方々,家を亡くした方々,仕事を失った方々は,運が悪かったというのでしょうか。そのうち仏様や神様が助けてくれるとでもいうのでしょうか。それとも,「よのなか,そんなもんだ」とか「そんなこと,こっちの知ったことか。勝手に死ね」とでもいうのでしょうか。私は,そういうことを平気で言える人は悪人だと思っています。
 また,このような大災害に直面して,宗教的教えをすぐに振りかざす宗教者を私は一切信用していません。あとで触れますが,1755年11月1日(万人聖日)に発生したリスボン大地震に関連して,ルソーは,「(聖職者や信心家は)純粋に自然的な出来事にもつねに神を介入させる」と述べて,宗教者を批判しています。こういう批判は,今回の被災に関してはしゃいでしまっている現今の諸宗教にもある程度有効です。自然災害によってもたらされた深刻な状況にいかにして対応していくかは,神や仏の責任ではなく,人間が自分自身で考えていかねばならないことです。すぐに超自然的言説を持ち出すと,社会の仕組みや政治の在り方と結びついた本当の課題が見えにくくなります。

(3) 死者たちはどこへ行ったのか
 a.過酷な日々の果ての死
 それにして亡くなられた方々はどこへ行かれたのでしょうか。
私の知り合いの一人は16年前の阪神・淡路大震災を生き延びましたが,2年前,まだ若い御嬢さんを残して亡くなられました。連絡を受け,私は病院に駆けつけました。末期がんにかかり,ベッド上で苦しむ彼の背中をさすりました。彼の手を握りました。声をかけました。彼はそれに反応するかのように,言葉にならないうめき声をあげました。その時,地震以降14年以上も会っていない私のことに気が付いたように感じられました。当時,一緒に神戸市役所に行き,被災者の生活支援を訴えた被災市民の一人でもあり,政治ボランティアでもありました。非常に厳しい劣悪な労働環境が彼の死を早めたと私は思います。因果関係を言い出せば,専門家は違ったことを言い出します。でも,私は,彼の死を震災の中の死と理解しています。彼は二つの時代を継続して生きたことになるからです。複雑な家庭を支え,楽ではない暮らしを送っていた震災前の日々,そして,震災後の過酷な日々です。震災後に非業の死を遂げた彼は,震災前からの過酷な日々を継続して生きてきたことになります。震災は貧困と生きる辛さを直撃します。彼もまた,犠牲者たちの群れの中に加えるべきであると理解しております。私と同世代であるだけに,彼の死は本人の意に反した死であることと思います。

b. おまえは何を知っているのか
 それにしても,6434名の犠牲者たちはどこに行ったのでしょうか。
地震後16年間で,仮設住宅や復興公営住宅での孤独死は914名に上ります。その方々はどこへ行かれたのでしょうか。今も毎年50名のペースの孤独死が続いていると言われています。その方々はどこへ行かれたのでしょうか。これは説明不可能な究極の問いです。「天国」とか「あの世」という宗教表現では答えとはなりません。この世を去った人たちが逝ってしまった場所,私たちの手の届かぬところ,私たちの声が届かぬ場所はどこにあるのかと考えると,とても不思議な気になります。逆の言い方をすると,「あなたは何を知っていると言うのか」「おまえは何を知っていると言うのか」という問いとなります。私たちは,宗教上の立場や思想信条の違いを超えて,そういう問いの前に立たされています。そういう問いの前では,私たちは無力です。
 人類の祖先,ネアンデルタール人は死者の弔いをしたであろうと言われています。骨が発見されたあたりに花粉の跡があり,死者に花を供えたのではないかと推測されています。その推測が当たっておれば,ネアンデルタール人は死んだ人間が生き返らないことは知っていたことになります。私たちも死者が戻ってこないことを知っています。だからいつも思うのです。「死」と判定された人たちは,どこに行ったのでしょうか。

c. 死者を探す
 東日本大地震が発生してから約1か月後,私は,荒浜を見て回りました。仙台市の中心街から車で20分かそこらで行けます。津波の爪痕が生々しく残っていました。壊れた家々,海の水をかぶって黒ずんだ色に覆われた畑,流されてきた大木や大小さまざまな車などがたくさん残されたままでした。その時に70歳くらいの男性とお目にかかりました。最初,その方は私が声をかけても,反応しませんでした。私はその場を離れてしばらくあたりを歩き出しました。すると,その方が私の後をついてきました。そして,今度はその方のほうから話しかけてきました。その方は,津波で流された知り合いの遺体と知り合いが運転していた白い車を探していたのです。でも,あまりにも広範囲に津波が押し寄せてきましたので,どこに流されたかわかりません。その男性は「津波さえなければなあ」と遠くに目をやりながらつぶやいていました。震災の死者はどこへ行ったのでしょうか。津波に襲われ,ボロボロ状態の荒浜小学校の校庭の片隅には,ラッパ水仙が力強く咲いていました。不思議です。

d. 集落全体の壊滅
 荒浜からさらに南に下っていくと,いろいろな集落があったことがわかります。ほとんど破壊されていました。集落全体が壊滅したところもあります。多くの人たちが亡くなりました。老人ホームも破壊されていました。その集落の人たち,老人ホームの方々はどこに行ったのでしょうか。

e. 助かった人,助けられなかった人
 名取方面で津波に遭遇した人の話です。その人はプロパンボンベを配達する仕事をしていました。津波で車ごと流されましたが,一命を取り留めました。流されながら,そして,大木に必死につかまりながら,子供の顔が思い浮かんできたそうです。それが心の支えとなったそうです。しかし,あちこちから「助けてくれ!」という叫び声が聞こえてきたそうです。しかし,何もしてあげられない状況でした。その叫び声を発した人たちはどこへ行ったのでしょうか。
 癒しがたい深い痛手が,時には訴訟となり,対立を生んだりしています。保育所の園児が亡くなり,自動車学校の教習生が亡くなり,避難誘導に誤りがあったとして,遺族が裁判を起こしています。たくさんの生徒が亡くなった小学校もあります。私には,これらのことを論じる資格はありません。どちらの側につくこともできません。死は定義できないとしか言いようがありません。つまり,「死」は世の中の規範や決め事の範囲内では処理不可能です。はっきりしていることは,奪われた命は戻ってこないということです。「いのち」は誰のものではないというこの冷厳な事実が当事者家族には耐えがたい重荷になるのです。残された者たちがどのように「いのち」をつなぎ,生きて行けばいいのでしょうか。残された者が生きて行くためには,いかなる形であれ,周囲のありとあらゆるサポートが必要です。すべてが必要です。一緒に買い物に行くのもよし,裁判所まで一緒について行ってあげるのもよし,一緒にいて話をとことん聞いてあげるのもよし。苦しんでいる人,泣いている人を抱きしめてあげてください。とにかく,いろいろな支えが必要です。それが,人間の社会のありようです。善良で,事の理非がわかる市民というのは,そういうことの大切さがわかる人のことです。
 ところで,12月24日,私は,神戸松蔭女子学院大学の学生4名,引率の教員1名,私が勤務する宮城学院女子大の学生38名と共に,激甚災害地の石巻市各地を訪ねました。故郷の変わり果てた景色に傷ついた学生もいます。私たち一行は,地元石巻市民の案内で,たくさんの生徒と教師が津波の犠牲となった例の大川小学校に向かいました。われわれ一行は,冷たい強風の中,凍てつく校庭に立ちました。この強風に子供の声が聞こえると一人の学生は語りました。的確な表現です。この強風は,間違いなく,子供たちの泣いている声,いや,慟哭の声です。慰霊碑に供えられた一つの色紙には,「あの日天国に旅立った君たち」と書かれていました。校庭を覆っている雪も凍りついていました。よく見ると,遺品らしきものもありました。靴の片方が雪の中に埋もれていた。誰の靴かはわかりません。津波が運んできた墓石が転がっていました。学生たちと一緒に,裏山の斜面に近づいてみました。あまりにも急な斜面で,緊張状態にある時に,大人でさえ登れたかどうかわからないような気もします。大川小学校の悲劇を私は論じる立場にはありません。ただただあまりにも悲惨です。かわいそうです。でも,生存者にもあたたかい視線が必要です。今回のフィールドワークには,中国のテレビ局のクルーと,同志社大学のシンポジウムで知り合った地元マスコミ『石巻日日新聞』の報道部長も同行した。私はインタビューを受け,テレビカメラに向かってまくしたてるように喋り続けた。「学生たちはここから出発してほしい。安心して暮らせる社会を作るヒントを見つけてほしい。良い市民として社会を作り直してほしい・・・」と。

f. あるお母さんの話
 地震後,石巻の惨状を見て,それは私が以前から知っていた石巻ではありませんでした。どれもこれも無残としか言いようがありませんでした。渡波地区にある葬儀会館で大変衝撃的な光景に出くわしました。小さな棺,小さな子供の遺影を胸に抱きかかえた若いお母さん,関係者数名。亡くなったのは,2歳の男の子です。小さな棺を見ているだけで,胸が痛みます。しかし,亡くなったのは2歳の男の子だけではありません。6人家族で生き残ったのは,その若いお母さんだけであったのです。これはむごい。私はただただ頭を下げるしかありませんでした。「ああ慟哭!」。
 言葉を失わせるような悲惨な光景を前にすると,「本来的自己」「根源的なもの」「見えざるもの」などといった宗教言語はすべて吹っ飛んでしまいます。今後,彼女の話に周囲の人たちはとことん耳を傾ける必要があることでしょう。子を失った母親の話は,デンマークの童話作家アンデルセン(1805-1875年)の作品 にも仏典 にも聖書 にもあります。目の前にいる女性がまさにそれでした。しかし,これは物語ではなく,目の前の事実です。各地では,被災者の全重量の重みがかかった涙が,頬を伝うのではなく,人知れず地面に直接落ちているに違いありません。それは,石川啄木の詩の1節を引用すれば,「しっとりと涙を吸える砂の玉,涙は重きものにしあるかな」という水準の悲しみと辛さの涙です。
 今後,周囲の人たちは,その若いお母さんの話にとことん耳を傾ける必要があります。生きる意味を教えてはいけない。それは傲慢です。むしろ,生きる意味を一緒に考えることが必要です。死ぬ順番が変わるだけでも人間としてはつらい。その若いお母さんの場合,死ぬ順番が変わるどころか,死ぬ順番を無茶苦茶にされ,生活と人生の土台を根こそぎ奪われたというべきです。それにしても,彼女の家族たちはどこへ行ったのでしょうか。

g. あるおばあさんの深い悲しみ
 死ぬ順番が逆転したことに無念の思いに沈んでいたおばあさんに牡鹿半島の避難所で出会いました。ご自身は猛烈な勢いで襲ってくる津波から必死に裏山に逃げました。傘を杖代わりにとにかく逃げました。しかし,高校生の孫は津波にのまれ,帰らぬ人となりました。「自分が代わりに死ねばよかった」とつぶやいていました。海鞘(ほや)の種付けの仕事も奪われ,一人さびしく,種付け用の仕掛けを眺めていました。生きる楽しみである大切な孫の存在を奪われたそのおばあさんの悲しみはいかばかりぞや。私は,再会を期して,そのおばあさんを抱きしめました。お孫さんはどこに行ってしまったのでしょうか。

h. 祖父母,母親を亡くし,家を破壊された学生
 石巻市の北東にある雄勝町に向かう途中,北上川,地元の人たちの間では「追波川」と呼ばれている雄大な川の堤防は,壊れていました。工事車両が通れるように,鉄板を敷いた仮設道路が作られていました。津波は海から川をさかのぼり,大きな鉄橋を引きちぎり,鉄橋の一部は川に突き刺さり,堤防を越えて山間部のふもとまで押し寄せ,田んぼや畑を台無しにし,たくさんの民家を破壊していました。地震発生から1か月半が経過しても,行方不明者の捜索が続いていました。
私が担当している卒業論文のクラスに所属する学生は,津波で祖父母と母親と家を亡くしました。彼女の家は,荒れ狂った追波川の堤防の近くにありました。私は,それとは知らずに彼女の家を何回か目撃しています。あとでそれが彼女の家であることを知ったのです。彼女のお母さんの遺体は,泥にまみれ,故郷の新潟まで車に乗せて運ばれました。潮のにおいと泥のにおいが混じったような何とも言いようのないにおいが立ち込める車の中で,彼女は母親の遺体と過ごしました。一家で仲良く暮らしていた彼女のお母さん,祖父母はどこへ行ったのでしょうか。

i. 夫に先立たれた女性
 美しい漁港で知られる雄勝町も完全に破壊されていました。さらに,山を越えていくと,名振という漁師町があります。そこのコミュニティセンターで避難生活を送られている方々とも出会いました。夫を津波でなくされた女性は言いました,「死んだと知って,頭の中が真っ白になった」と。死というのは,通常の思考回路では受け止めがたいことがわかります。死というのは,法律や手続きの適用外にあるのかもしれません。彼女は明るく振舞っていましたが,周囲の人たちと避難生活を送ることにより,支えられているという印象を受けました。人は愛する人の死に直面させられた時に,周りの人たちの有形無形の支え,言葉が必要です。それにしても,彼女の夫はどこへ行ってしまったのでしょうか。

j. 見失われた死
 それから私には忘れることのできない死があります。3月11日の地震・津波発生後,私は「大地震・大津波ボランティアセンター」を立ち上げました。「大地震・大津波ボランティアセンター」といっても,実は私だけなのです。つまり,誰にも束縛されずに,気が付いた時に自分で動く文字通りの自由な「一人ボランティア」です。何かの後ろ盾を必要とするようなボランティアは,真のボランティアではないような気がするからです。自分の名前で動かなくては話になりません。
しかし,私は3月中,気が動転していました。落ち着かない日々を送りました。そんな中,私は大切な知り合いの死を見失ってしまったことを9月に知りました。「死を見失う」「見失われた死」というのは,奇妙な言い方かもしれませんが,その知り合いとは,神戸でずいぶんと公私共にお世話になり,交流した良き人物でした。彼は高校の教師をしていましたが,昨年,病気にかかり,声帯摘出手術を受け,翌年,つまり,今年の1月の中旬に帰らぬ人となりました。彼は,手術を受けることで,声が出なくなる前に仙台にいる私に電話しようと考えました。しかし,私の携帯番号がわかりませんでした。「自分の手術のことを話したら,新免さんは仙台から吹っ飛んでくるかもしれない。だから手術後に元気になってから連絡すればいいだろう」と彼は考えました。フランクルの名著『死と愛』の中の表現を使わせていただきますと,彼は「態度価値」を示したことになります。しかし,残念ながら,その後私は彼と生の言葉を交わすことはありませんでした。彼は,容体が悪化し,息を引き取ってしまったからです。
 私は,彼が亡くなった経過を彼が亡くなって8か月後に奥さんの手紙を通して知りました。お手紙を読みますと,病院の対応に釈然としないものがあります。彼は実は,16年前の地震の時には,被害の大きかった長田区に住んでいました。彼もまた被災者であったのです。しかし,自力で大学に通った苦労人らしく,震災後も困難にもめげず,生徒の評判もよく,潔く生きた教師でした。
彼の奥さんは,私の携帯番号を知り,彼が亡くなってから2か月後,すなわち,東日本大震災発生の数日後,私に電話をくれました。彼女は夫の死を伝えようとしても,私自身が震災のことで気が動転し,十分な受け答えをしていなかったことがお手紙を通してわかりました。奥さんは「もしもし神戸の~です」と繰り返し言ったそうです。でも私は,「もしもし,ああ,どうも。こちらはライフラインが全くダメで・・・」という言葉を繰り返すのみだったそうです。その時の私の声が何か非常に異様なものに聞こえたそうで,私の妻が無事であることを確認したうえで,あちらから電話を切ったそうです。
 そのあたりの様子を私は奥さんのお手紙を通して知らされました。「なぜもっと冷静に話が聞けなかったのか」と忸怩たる思いがあります。まさに,私は彼の死を見失ってしまいました。彼もまたどこへ行ったかわかりません。

k. 自死へと追いつめられた被災者の非業の死
 津波発生後,各避難所には大勢の人たちが狭い空間に押し込まれ,不便な生活を強いられました。その様子を取材した海外メディアは,「困難にもめげず,秩序を守る東北の被災者たち」という表現を付けて写真入りで伝えました。阪神・淡路大震災の時にも同様の報道がなされました。実際は,あちこちに遺体となって転がっている人の服から財布を抜き取ったり,津波で壊れた家に侵入して窃盗を働いたり,車からガソリンを盗んでタイヤをパンクさせたり,コンビニを略奪したり・・・。本当はいろいろなことがあったのです。阪神・淡路大震災の時にも同様のことがありました。そういうこともまた,震災です。そんな状況の中で人が必死に耐えている姿を「秩序を守っている」としか言い表せない表現力と想像力の乏しさとを実感させられます。喜んで苦難に耐えているわけではないのです。人に見せるために行儀よくしているわけではないのです。
 一人の女性が我が子を抱いて,そのまま海に飛び込んだことがありました。その女性は夫が津波にさらわれました。避難所に避難しました。幼子が「わぁーわぁー」と泣きました。異常な状況の中で,子供が泣くのは当然です。同じように非難している周囲の人から「うるさい!」と言われ,その後,海に身を投げたのです。追い詰められた死です。震災の犠牲者としてみなされていますが,正確に言えば,津波を生き残ったにもかかわらず,追い詰められて死んだ人です。「津波被害に会ったこと」と「周囲から受け入れられなかったこと」との二つの苦しみを味わった被災者であり,犠牲者です。その人がいなくなったことは,後でわかりました。彼女の絶望の叫びと海に飛び込む音も,決して聞かれることはありませんでした。それくらい避難所の状況は過酷なものがあり,人々の心に余裕などありません。その母子はどこへ行ったのでしょうか。ああ,慟哭!
 私たちの社会にはいろいろな縛りだらけで,様々な局面で人は人生の選択を狭められています。どこからでもスタートできる社会ではないのです。「東北がんばれ!」「全国の皆さん,ご支援ありがとう」という被災地のあちこちで見かける表向きのメッセージは,「死にたい人は勝手に死ね!」という暗黙のメッセージでもあります。それを無神経に送り続けている乱暴な社会です。生きることは簡単であるなどと言うべきではありません。そういうことを平気で言えてしまえる人は間違いなく悪人です。

l. 中学生の死,教師の死,親の死
 中学生と言えば,将来にいろいろな夢を思い描ける年代です。豊かな可能性があります。しかし,中学生も亡くなりました。私は,修羅場と化した被災地の真っただ中にある中学校の女性教師にインタビューをし,ご自身の震災体験のお話を伺いました。激しい揺れ,大きくひび割れした地面,襲ってくる津波の猛烈な勢い,あたりにマネキンのように転がっている遺体,食べ物が届かない避難所生活,お年寄りを背負う臨月寸前の妊婦・・・。です。授業再開を急がせる教育委員会の指示が,授業どころではない被災現場の実態から遠くかけ離れていたと彼女は証言しました。彼女の教え子もなくなりました。「とってもいい子だった」と言っておりました。親も「どうして自分の子が・・・」と言って泣いたそうです。教師より早く教え子が死ぬ。親より早く子供が死ぬ。これはむごいことです。亡くなった中学生がどこへ行ったのかもわかりません。 
 その中学校では,一人の外国人の女性教師も亡くなっています。彼女の両親がわざわざ被災地を訪れたことは,新聞でも話題になりました。彼女には婚約者がいました。本当にむごいことです。地震発生後,彼女は自宅に携帯電話を忘れたということで,取りに帰ろうとしました。危ないからと周囲はとめましたが,それを振り切って必死の覚悟で取りに行きました。しかし,猛烈な勢いで迫ってきた津波にのみこまれて亡くなりました。自転車に乗った彼女が津波にさらわれていく様子を見た生徒もいます。トラウマにかかっています。羽交い絞めにしてでもとめるべきであったと生き残った人たちは言っています。婚約者を残したその外国人教師はどこへ行ったのでしょうか。
 学校の校舎で避難しながら,生徒たちは親の出迎えを待っていました。次々と生徒たちが親や関係者に引き取られていきました。「生きていてよかった」と抱き合う親子。しかし,何名かの生徒たちには誰も来ませんでした。つまり,親が亡くなったのです。これからどのようにしていくのでしょうか。「がんばって!」などと簡単に言えるでしょうか。親たちはどこへ行ったのでしょうか。

m. 新1年生の死
 それから,東日本大震災では,1名の新1年生を含む3名の学生が亡くなりました。その中の1名は,私が担当する人間文化学科のゼミに入ることを希望していた学生であることを知らされました。海に近いアルバイト先のコンビニで津波に襲われ,尊い命を奪われました。とても残念です。私には説明がつきません。大学1年生になるはずの彼女はどこへ行ってしまったのでしょうか。

n. 惜しまれる死
 さらに,大変惜しまれる死もありました。私の教え子が9月に急死したのです。当時出張のため静岡方面に向かう新幹線の車中で学生の突然の訃報をメールで知りました。私は新幹線の中で泣きました。景色が見えなくなりました。沼津駅からお父さんに電話をかけました。「お父さん,悲しいね。何と申し上げていいやら」と自分の気持ちを伝えました。お母さんは電話に出て話ができる精神状態にはありませんでした。葬儀が震災の大きな影響を受けた宮城県北部の栗原市のお寺で営まれました。
 彼女は,私が担当するゼミの中心的存在でした。花でした。前期のゼミの最終回には,総合司会を務め,社会における暴力の発生は抑制できるという立場を表明した良き学生でした。7月3日が私の誕生日なのですが,その時には突然の「ハッピー-バースデイ」をみんなで一緒にやってくれた学生でした。
 彼女の死は,ほかの学生にも影響を与え,ショックで失語症になった学生もいます。私自身も,彼女の死を忘れることができません。私は,彼女のお母さんから事情をお聞きしましたが,お母さんにもよくわかりませんでした。「先生,何か聞いていましたか」と言われたのですが,私にもわかりません。お察し下さい。お母さんには,彼女の書いたレポートを全部返却しました。葬儀の後,お父さんとお母さんと一緒に私は泣きました,「わからない。悲しい。残念!」と。
 後期の第1回目のゼミでは,出欠をとる際,彼女の名前を呼びました。彼女が使っていた机の上に花を置いて,「ありがとう!」の一語を書きました。私はゼミの学生たちに彼女の死を伝えました。そして悲しみをこらえて言いました。「親や教師よりも早く死んではいけない。死ぬ順番が変わるのはつらい。でも,彼女は今ここにいるような気がする。このあと,この教室に入ってくるかもしれない。だから私は今日早めに来て,彼女の姿を廊下で探していた。今のところ彼女は来ていないようだ」と。私は涙をこらえて,言葉を選んでそういうことを学生たちに伝えました。
49日の法要の前日,私は,彼女が眠るお寺の墓に直接お花を届けに参りました。そして,お寺の一室に案内されました。そこはまるで彼女の自宅の部屋のようでした。祭壇にはたくさんのお花と写真が飾られていました。私は彼女宛の手紙をしたため,それを祭壇に供えました。手紙ではこう書きました。「クラスを盛り上げてくれてありがとう。あなたとはもっともっと話がしたかった。また必ず来ます。安らかにお眠り下さい」と。
 私は,急死した彼女の死もまた,今回の震災の死の中に加える必要があると感じています。若い人の死は,本当に「悲しみの死」であり,「悔やまれる死」です。今も考え続けています。彼女はどこに行ってしまったのだろうか。

(4) リスボン大地震
 私はここで,1755年11月1日午前10時前に発生したリスボン大地震を思い起こしています。万聖節の礼拝中の出来事でした。大司教座の所在地であるリスボンが未曾有の大混乱に陥りました。当時のポルトガル唯一の週刊誌(the Gazeta de Lisboa)は,この地震について,地震発生の5日後に次のようにきわめて短く伝えています。

 今月1日は,この町の大部分を破壊した地震と火災のゆえに,何世紀にもわたって記憶されることになろう。幸運にも,王家財務局の金庫も,それから,多くの民間人の金庫も,瓦礫の中から見つけ出された 。

 犠牲者数,被災状況などについて本当は詳細な報告がなされるべきですが,これには当
 時の政治的な統制が働いていたとされています。また,当時のマスコミでは,国内のニュースよりも外国の王室の動きのほうがよく取り上げられていたそうです。したがって,上記の記事も,外国からの情報の翻訳である可能性もあります。自国の被災状況に関するあまりにも簡潔な報告には,そういう背景があります。
 その被災状況が桁外れであったことも多くの証言から確認されていますが,この地震が与えた思想的影響も決して小さくありません。その具体例を紹介します。最初に,ルソーを取り上げます。この地震の受け止め方をめぐって,ヴォルテールへの反論を表明した1756年8月18日付「ヴォルテール氏への手紙」の中で,ルソーは,「(聖職者や信心家は)純粋に自然的な出来事にもつねに神を介入させる」 と言って,聖職者や信心家を厳しく批判しています。こういう批判は,現今の諸宗教にもある程度有効です。人間世界で起きている閉塞状況をいかに打開していくかは,人間が自分自身で考えていかねばならないことです。すぐに超自然的言説を持ち出すと,本当の課題や問題の本質が見えにくくなります。観念と現実とを逆転させてはならないのです。しかし,ルソーは,以下の言葉からも明らかなように,神の摂理を疑っているわけではありません。

 それぞれの物質的存在は全体のためにできるかぎり,最善に配列されているし,知性と感性とを備えた存在はめいめい自己自身のためにできるかぎり最善に按配されている。
 ・・・自然は我ラガ通リガカリノ客トシテ地上ニアルコトヲ望ンダノデアッテ,住人トシテデハイササカモナイ 。

 ルソーは,リスボン地震の場合,犠牲者が多かったのは,互いに密集して住んでいたからであると冷静に観察しています 。また,ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)は,人間の無制限な自己改善能力が不幸の原因であることを論じた部分を含んでいますが,その長い注において,ルソーは,災難や災害に関連して次のように述べています。

 幾多の都市を全滅させたり,転覆したりして,その住民を何千も死なせた火事や地震を,皆さんが考慮に入れるならば,要するにこれらすべての原因がたえずわれわれの頭上に集中する危険を皆さんが合わせ考えるならば,われわれが自然の教訓を軽蔑したことに対して,自然がいかに高い代価をわれわれに支払わせているかが感じられるであろう 。

 ルソーの指摘は,一見冷淡に聞こえますが,災害が絶えないが現代に対しても,自然と人間との関係のあり方について示唆を与えてくれています。実際,住宅密集地域が地震によって建物倒壊・火災などの大打撃を受けるのは,16年前の阪神・淡路大震災の例を見ても明らかだからです。今回の東日本大震災の場合は,自然と暮らしが接近している所ほど壊滅的被害を受けました。
 次に,カントは,この大地震をきっかけに,その後の余震のこと,その前の年からの気候の異変も含めて,地震に関する一連の論考を発表しています(松山壽一訳「昨年末頃にヨーロッパの西方諸国を襲った悲運を機縁として地震の原因について論ず」1756年。「1755年末に大地の大部分を見舞った地震による数々の椿事に関するイマヌエル・カント修士による歴史と博物誌」1756年。「近年認められた地震に関するイマヌエル。カント修士の再考」1756年) 。

 われわれは安んじて地上に住んでいるが,その屋台骨はしばしば地震に見舞われる。また,われわれは呑気にドームの上にものを建てているが,その弓なりの状態は時折揺れ,いつ陥没するかもしれない 。
 われわれ人間は地べたに張り付いた存在でしかないことが,上手く表現されています。
しかし,カントは,人びとが体験した災いや絶望の念を述べるよりも,地震という自然の出来事の原因を追求しており,彼の論考は神学的・思想的問いにまで深められています。
 人間は神が命じた自然法則から好都合な結果だけを期待するという権利を持たない 。
 人間というのは死ぬために生まれてきたというのに,われわれは何人もの人が地震で死んだことに耐え切れない。人間はこの地では異邦人であり,財を所有していないというのに,われわれは財が失ったことに絶望する。財というのはいずれ遠からず自然のあまねき成り行きによっておのずと打ち捨てられるであろうに。
・・・人間は自然に順応することを学ばねばならないのに,自然が人間に順応してくれるように望んでいる 。
 しかも,カントは,リスボン地震を短絡的に神の裁きとみなすことに反対しています。
 だがわれわれの見るところでは,限りなく多くの悪人が安眠をむさぼっており,地震はある国で昔から住民の新旧にかかわりなく起こっていて,キリスト教国になったペルーは異教の国だった頃と同じように地震に見舞われ,それらの国々にまさって無罪だとは僭称できない多くの都市が端から地震による荒廃を免れたままである 。
 カントによれば,「永遠の庵を結ぶようには生まれついていない」にもかかわらず,人間は「神の配在の唯一の目的」であるとうぬぼれています。「自然の手段をはるかに超えた無限に高次の諸目的」を目指すことが神の摂理に合致しているとカントは主張しています 。人間はこの地上で食っていくだけでも容易ではないはずですから,これらの主張は観念的です。しかし,理性の限界内にある重要な主張として,これを評価できます。
 18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールは,リスボン大地震の影響を受け,思想的転換を経験したと研究者は指摘しております。それまで彼の楽天主義を支えていたのは,イギリスの詩人アレクサンダー・ポープ(Alexander Pope;1688-1744年)の未完の『人間論』(1733-1734年)であり,また,「ありうる世界での最善の世界」というドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz;1646-1716年)の考え方であると言われています 。ポープは,『人間論』の中で,「自然全体は汝の知らぬ技術にすぎず,すべての偶然は汝には見えない指示なのだ。すべての不調和は理解されない調和で,部分的な悪はすべて普遍的な善なのだ。さらに,誇りにもかかわらず,誤れる理性にもかかわらず,一つの真理は明白だ。――あるものは何であれ,正しいのだ」 と述べています。
 それに対して,ヴォルテールは,「もしもポープがリスボンにいたら,『すべては善である』などという勇気があったでしょうか」と手紙で書いているそうです。楽天主義を否定すべき論拠としてリスボン大地震を受け止めたヴォルテールの『カンディド』では,主人公がリスボン湾で遭遇した地震がもたらした惨状を見て,「世界の最後の日が来た」(“Voici le dernier jour du monde!”)と叫んでいます 。また,同じ主人公が,「楽天主義とは何です」と質問されて,「ああ,それはだ,ね,何もかもうまくゆかぬのに,すべては善だといいはる,まあ,気違い沙汰さ」と答えているのは非常に興味深いものがあります。リスボン大地震発生時,ヴォルテールは,ライバル国プロシアのフリードリヒ2世(1712-1786年)の宮廷おかかえの詩人となることを受諾したため,ルイ15世(1710-1774年)により追放されてジュネーブにいました。地震発生の3週間後,ヴォルテールは,リヨンの銀行家で相談役でもあるトロンシャンに送った手紙(1755年11月24日付け)において,次のように述べました 。

 これは何と痛ましい自然現象ではありませんか。どのようにして運動の法則がありうる世界での最善の世界にこれほど恐ろしい大災害を引き起こすのか,われわれはそれを推測するのに手を焼くことでしょう。われわれの隣人である10万の蟻たちが蟻塚のなかで一度に押しつぶされ,おそらくその大半が言葉にならない苦悶のなかで息絶え,瓦礫のなかから引き出すこともできない。ヨーロッパの果てで,リスボンが瓦解するなかで,あなたのお国から行った何組もの家族が崩壊し,お国の何人とも知れない商人たちの財産が損なわれたのです。人間の暮らしの戯れというのは,なんと悲しい偶然の戯れではありませんか! 説教者たちはなんというでしょうか,とりわけ異端審問の庁舎がまだ無事に立っていれば,の話ですが。すくなくとも審問官の神父たちは,ほかのもたちと同じく押しつぶされてしまったものと思われます。このことから人間たちが学ばなければならないとすれば,それは人間を断じて迫害してはならないということです。なぜなら,あの忌々しい坊主どもが狂信者たちを火あぶりにしているとき,大地はそのどちらをも呑み込んでしまうのですから。

 さらに,彼は,「リスボンの災厄に寄せる詩」と題する234行長編詩を書きました。
 「すべては善なり」と叫ぶ,誤まれる哲学者たちよ,駆けつけて,眺めるがよい,この恐るべき廃墟を,この残骸を,この瓦礫を,この痛ましい燃え殻を,互いに重なり合ったこの女たち,この子供たちを,あの砕けた大理石の下に散らばるあの手足を。不幸に見舞われた10万人の人間が大地に呑み込まれ,血にまみれ,引き裂かれ,まだ動いているものは屋根の下に埋もれて,救いもなく,苦しみの恐怖のなかで,みじめだったかれらの日々を終えようとしている! [・・・]あなたがたは,この累々たる犠牲者たちを見て,こういう気なのか,「神が天罰を下したのだ,かれらの死は罪の報いなのだ」と。いかなる罪を,いかなる過ちをこの子たちは犯したというのか,押しつぶされ,血まみれになった母の乳房にすがるこの子たちは。姿を消したリスボンは,歓楽に浸るロンドンやパリよりも多くの悪徳に耽っただろうか。リスボンは壊滅した,そしてパリでは人はダンスを踊っている。
 この憤りの声とは対照的に,上述のように,ルソーは,『人間不平等起源論』の中で,被災状況は人間の側が招いた結果であると受けとめています。それに対して,ヴォルテールは,「お遊びでしかない哲学的な議論をやめることご勘弁願いたい」という趣旨のことを手紙で述べています。絶望から諦めの境地に至ったヴォルテールの思想的転換が,『カンディド』(1759年刊行)の最後のセリフ(「我々の畑を耕さねばならない」)に反映されているかもしれません 。彼は晩年作男として過ごしたとも言われています。
 メソジスト運動の創始者ウエスレー(1703-1791年)は,スペイン語の諺に「リスボンを見なかった者は,何も良いものを見たことがない」(qui non Lisboa ha visto, non ha visto cosa boa)と言われているほど繁栄したリスボンについて,ウエスレーはそれについて次のように述べています。
 ポルトガル在住経験者から,国王はダイアモンドで散りばめられた大きな建物を持ち,鋳造された金であれ鋳造されていない金であれ,ヨーロッパ中の他の王子たちのすべてを合わせたものまさる量の金が蓄えられている 。

 リスボンの繁栄は,ヴォルテールの『カンディド』における架空の「黄金国」,すなわち,黄金に満ち溢れた「エルドラド」(Eldorado)――南米のベネズエラあたりにあると言われていました――に関する描写からすると,これは決して誇張ではありません。17世紀末にブラジルでダイアモンドや金が発見された時,多くの同時代人たちは,ポルトガル人がこのエルドラドを見つけたと思ったそうです。ただし,伝説によると,エルドラドでは,何の不足もないから犯罪も起きないため,牢屋もなく,感謝することばかりなので,朝から夕方まで神をたたえているそうです。これは現実のリスボンとは違っていたはずです。
 確かに,リスボンには約25万人の人口の内,10%以上が修道会に所属していました。しかし,航海時代からどころか,フェニキア人,西ゴート人,ムーア人の時代にまでさかのぼる交易の積み重ねがもたらしたリスボンの繁栄の陰で,ポルトガル国の大半は中世以来の貧困状態の中に呑み込まれていました。必ずしも一般大衆を食わせるだけの国内資源が十分ではありませんでしたので,輸入に頼らざるを得なかったと言われています 。繁栄の陰に貧困ありという観点をしっかり持っていなければ,自然災害の深刻な実態は見えにくくなります。
しかし,ウエスレーは,自然災害によってドン底に突き落とされた人たちの状況を神の裁きと結び付けて,次にように語りました。
 われわれは,ポルトガルからの最新情報について何と言おうか,数千の家屋,何千人もの人々がもはや存在しないとは,風光明媚な都市が今や瓦礫の中にあるとは?世界を裁く神が実際にいましたもうのか。今神は血の報いを求めて糾問を行っているのであろうか。もしそうであれば,その場所で神がやり始めても何ら驚くに値しない。というのは,そこでは,血が水のように地に流され,勇者たちが,徹底的に卑劣な仕方で,そして野蛮な仕方で,ほとんど毎日,そして毎晩,虐殺されてきたのに,一方,そのことを考慮し,心にとめる者は誰もいなかったからである。彼らの血は,どれだけ長きにわたって,地から叫んできたことであろう?さよう,ポルトガルの異端審問所が自分だけに名乗った称号である血まみれの憐みの家,あらゆる宗教の醜聞,そしてまた,人間の本性の醜聞が,いかに長きにわたって,天をも地をも侮辱したままであることか!神は言いたまえり,これらのことのゆえに私は報復しないであろうか,わが魂はこのような都市に恨みを晴らさないであろうか?

 地がお前を今にも飲み込もうとしている。お前を守るものは今どこにあるか?・・・もし助けになるものがあるとすれば,それは祈りだ。でも,汝は何に向かって祈るのだろうか。天の神に向かってではない。お前は,神が地震と何ら関係などないと思っているからだ。そうではないのだ。地震は,大地自体か包み込まれた空気のどちらからか,あるいは,地下の火または水から自然に起るからだ。それならば,汝が祈るならば(ひょっとして汝は今まで一度も祈ったことがないかもしれないが),それはそのどれかに向けられねばならない。「おお,大地よ,大地よ,大地よ,汝の子らの声を聞きたまえ!おお,空気よ,火よ,ここにいます!」。それでお前は聞こえるだろうか。お分かりの通り,そんなことはありえない。そうすると,こんな時に逃れる相手が他に誰もいないというこの状況がいかに嘆かわしいことか?直接的な必然的因果関係とは万事が単に自然の純然たる結果にすぎないという命題は何と不快なことであるか!

 ウエスレーが言っていることは,当時のカトリック神学者と同じ程度に頑迷固陋な面があります。しかし,リスボンの破滅に神の裁きを見るウエスレーの考え方には,カトリックの異端審問批判という別の水準の批判も含まれている点に注意しなければなりません。また,マサーチューセッツのジョン・ロジャーズ牧師(The Rev. John Rogers)は,自然を神の意思の現われと解し,不信仰,貪欲,高慢,道楽,贅沢三昧,不正義,偽りなどが,地震の発生を促すと説きました。もっとも彼は1758年,キリストの神性を疑問視した非正統的考え方のゆえに教会から追放されましたが 。
 南米ブラジルでのキリスト教伝道で名を挙げたイタリア人イエズス会士ガブリエル・マラグリーダ(Gabriel Malagrida)は,『地震の真の原因に関する見解』(Juízo da verdadeira causa do terramoto)と題するパンフレットの中で次のような煽動的なメッセージを語り,悔い改めの重要性と再建の無意味さを説きました。
 痛ましいことにリスボンは今や瓦礫の山である。この場所を復興させる何らかの方法を考えつくのがあまり難しくなければなあ!でも,その方法は断念され,町の避難民たちは絶望の中に生きている。死者たちに関して言えば,このような災害が地獄へと送った罪深い魂たちの何という大豊作!この地震が単なる自然の出来事であるなどと偽るのは言語道断である。というのは,もしそうであるなら,神の怒りを神の怒りをそらす必要はないわけで,悪魔でさえわれわれみんなを取り返しのつかない破滅へと導きそうな誤った考えをこれほど考案することはあるまい。聖なる民は,地震が起こることを預言したが,将来を顧慮しない町の罪深い態様は相変わらずであった。今や確かに,リスボン大災害は絶望的である。あらんかぎりの力と決意を持って悔い改めの課題に取り組むことが必要である・・・
 カトリックの聖職者たちは,こういう裁きのメッセージで煽って,人々を悔い改めさせるように仕向けていきました。
 これに対して,リスボン再建を視野に入れて ,カトリック権力から特権を奪い,改革を進めようとするカルヴァーリョ(1699-1782年; Sebastião José de Carvalho e Melo)――ポンバル公爵――は,国外の啓蒙主義の影響を受けた者たち(“Estrangeirados”)と共に,地震を超自然的な出来事とする宗教的解釈を拒否し,理性の光が宗教的反啓蒙主義に勝利するはずであるとの思いを強くしていました。つまり,宗教的ドグマによる天罰の脅しと救いの約束で生存者たちを震え上がらせることができるのであれば,科学は自然世界のメカニズムを明らかにし,無知から人々を解放できるとカルヴァーリョらは考えたのです。カルヴァーリョは,「この神の裁きの苦しみに対応するために何がなされねばならないか」との当時の国王ホセ1世の問いに対して,「死者を葬り,生存者に食わせなさい」と進言し,国王はリスボンの再建を彼に託すことになります。
 しかし,近代合理精神の祖デカルト(1596-1650年)や近代科学の範となったニュートン(1642-1727年)を支持することは大きな犠牲を伴うものでした。そういう考え方を持つ者たちは,大学を追われたのです。一方,自然災害を神の裁きとするメッセージは,ポルトガルに限らず,ヨーロッパの他の地域でも普通の人たちに受け入れられていたかしれません。というのは,大災害を神の裁きとする説明のほうが,難しい学問的な議論よりも共鳴を得やすいからです。地震を自然現象と看做す科学的な立場をとる神学者たちでさえ,形而上学的な原因を積極的には却下しにくかったようです。フランシス・ベーコン(1561-1626年),ジョン・ロック(1632-1704年),デカルトらの新しい考え方に触れる機会は結局,聖職者たちに抑えらます。啓蒙主義の時代でありながら人々が啓蒙されにくいという逆説がここにあったようです。
 最後にゲーテを取り上げます。リスボン大地震に関連して,これが父なる神のやさしさを疑わざるを得ない出来事であったことを彼は正直に述べています。彼の父親は法律学で学位を取得し,その書斎は貴重な蔵書で飾られていました。そのような幸福の中にあった少年ゲーテの心の平安が初めて根から揺り動かされる異常な世界的事件が起きました。それがリスボン大地震です。それについてゲーテは,自伝の中でこのように書いています 。

 1755年11月1日,リスボンに地震が突発し,すでに太平洋に慣れていた世界中に異常な恐怖の波紋をひろげた。商業都市で,同時に海港だった,宏壮,華麗な首都が,突如として世にもおそろしい災禍に見まわれたのだ。大地は震動し,大洋は逆巻き,船は砕け散り,家々は倒壊し,教会や塔はその上に重なりたおれ,王宮の一部は海水に呑まれ,見わたすかぎり,廃墟の中に濛もうたる黒煙と火の手があがっていたから,亀裂を生じた大地は火焔を吐くかと思われた。6万の人間が,一瞬前までは安楽な生を営んでいたのに,いっせいに滅亡してゆき,その中で,もはやこの不幸を感ずることも,考えることもできなかった人々こそ,一ばん仕合せだといわねばならない。火焔はさらに猛威をたくましゅうし,それとともに,ふだんはかくれていたか,それともこの出来事のために釈放されたかした犯罪者の群れがあばれまわった。生き残った不仕合せな人々は,掠奪,殺戮,あらんかぎりの暴行にさらされ,このようにして自然はあらゆる面から,ほしいままに暴虐のかぎりを尽くしたのである。
 事件の報道に先立って,この異変の前兆ともいうべき現象が,ひろい地域にわたっておこっていた。多くの場所で,微弱な振動が感ぜられたし,方々の温泉,わけても療養地の温泉がただならぬときにとまったこともわかっていただけにひとたび地震の知らせがはいると,その衝撃は大きく,報道は最初は概況であったが,次いでくわしい惨状が迅速に伝えられていった。それにたいし,信心厚い人々は反省をなし,哲学者は慰めの論拠を求め,僧侶は戒めの説教をおこなうことをおこたらなかった。こうしたさまざまなことが重なり合って,世界の視聴はしばらくのあいだは,もっぱらこの一点に向けられ,そして異国の不幸によって昂奮した人心は,この突発事件の広汎な被害について,各地からますます多くの詳報がはいってくるにつれて,自分自身や家族の身を気づかって,いよいよ不安に閉ざされた。まったく恐怖の悪霊がこれほど迅速に,これほど猛烈に,地上一面を戦慄させたことはかつてなかったにちがいあるまい。
 少年はこれらすべてのことをくりかえし聞かされたので,少なからず心を打たれた。天地の創造者で維持者たる神,信仰箇条のお一条の説明によって,ひじょうに賢明で,いつくしみ深い存在として少年の心に描かれていたその神が,正しい人も不正な人と変わることころなく,ひとしく破滅させられ,それは,万有の父たるお方のなさるべきことではなかった。こうした印象から立ち直ろうとして,いたいけな心はむなしくあがいたが,賢者や神学者でさえも,こういう現象をどう見たらよいかについて,一致した見解が取なかったのだから,幼い心にはなおのことむりもなかったわけである。

 ゲーテが自叙伝において言及しなければならないほどのこのリスボン大地震の出来事は,とにもかくにもヨーロッパ中を震撼させた自然災害でした。以上,述べてきたように,人々は言葉を失い,一方,思想界も宗教界もその意味を考察することを迫られたわけです。
阪神・淡路大震災と今回の東日本大震災を体験した今のわれわれも,次の時代に「いのち」をつないでいくために,同様の課題があるはずです。私は,一大学教員として,宗教者として,そして,市民として,そう思います。
 私の考え方の基本にあるのは,震災の中の死を考えながら,死者からの問いかけに耳を傾けながら,安心して暮らせる社会の土台をいかにして作るかということです。まずは,死者の問いかけを聞き,被災者のうめきの声を聞いてから思索を構築すべきです。大地震は地の基が震い動く出来事として体験されます。恐怖を覚えて当然です。地震を自然現象であるとする科学的認識は,その素朴な恐怖心を和らげるのにあまり役位に立ちません。天変地異は,形あるものは壊れるということを思い知らせます。「防災,戦争抑止,経済基盤の確立」を国家の基本とするというような大げさな議論よりも,だれもが安心して暮らせる社会を作ることのほうがよほど死への恐怖を和らげると期待されます。

(5) 痛みと悲しみを忘れない想像力
 私は,「悲しみにも終わりがある」という境地に至るほどの年齢には達していません。だから,私は悲しみを忘れたくありません。悲しみは語られ,語り継がれていく必要があります。そのことが,健全な市民社会の土台ともなります。人の痛みと悲しみに想像力を広げる市民が社会の空気を作っていく大きな力となります。制度だけでは,世の中は健全となりません。制度には抜け道が必ず用意されているからです。事の理非を見分ける空気と,人にやさしい視線と想像力が必要です。
 ところで,戦争のあるところには必ず孤児が生じます。今回のような大震災においても,孤児が生じました。いつの時代にも裕福な者と貧しい者,恵まれた者と恵まれない者がいます。貧しい者の存在は世の中からなくならないかもしれません。第2次世界大戦では,民間人60万人が殺されました。日本国内の人口が密集した都市がアメリカ軍からの空からの爆撃を受けて,1千万人が住む家を失いました。そして,10数万人の戦争孤児が生じました。孤児たちの中には,寝る所も食べ物もなく,巷をさまよい歩く浮浪児になった者が3万5千人いたと言われています。おなかがすいてたまらない,人が集まる場所に行っても誰も食べ物をくれない,ごみ箱をあさり,腐ったものを食べる,中毒死する,人の食べている弁当を盗む,トマトを盗んで逃げる途中車にひかれて死ぬ,地下道のコンクリートの上でごろ寝,髪の毛は伸び放題,服はボロボロで吐き気がするような体臭・・・。周囲から,周りの子供たちから「野良犬,ばい菌,臭い,汚い,乞食」などと呼ばれ,人間扱いされませんでした。親せきや知人に預けられても虐待を受け,お金目的のために利用される孤児もいました。施設に入っても,動物園の動物のようにオリの中に入れられ,オリの中から枯れ枝のような細い腕を伸ばし,「食べ物をください」と訴えました。これらの戦災孤児には何の保証もなされず,軍人関係者には補償金が支払われる。これでも人間の国でしょうか。
 想像してみてください。親鳥は,雛に餌を運び,食べさせます。危険が迫れば,親鳥は雛を守ろうとします。そのように守り,育てる親を奪われ,生きる手段をなくして放り出された孤児たちの魂の訴えを。想像してみてください。食べ物がなくて餓死する子供,腐ったものを食べて中毒死する子供の悲惨な境遇を。想像してみてください。衰弱して死ぬ子供,寒さの中で凍死する子供,殴られて死ぬ子供の弱さの極みを。想像してみてください。「おかあさん!」と叫びながら自殺する子供の絶望を。想像してみてください。涙も出ない小さな魂たちの悲しみと行き場のない孤独を。
 親が戦争で殺されなかったなら,少なくとも戦争孤児にはならないはずです。戦争は大人が引き起こします。なぜ,大人にひどい目に会わせられないといけないのか。だから,私は思うのです。「やはり,戦争はすべきではない」と。「人類の福祉に貢献するが学問の社会的・公的責任であるとすると,人殺しや人を支配することに直結する学問はどこか奇妙である」と。「逆に,人を殺さない方法,人をつぶさない方法,いかなる人をも生かす方法を創り出していくことに対して学問研究のエネルギーが注がれねばならない」と。今回の原発事故に関連して言えば,短期間のうちにこれだけの大災害をおこしてしまう科学技術は,やはりどこか奇妙なのです。生命基盤と生活基盤を壊す学問から生み出される技術は,間違いなく,眉唾物です。
 16年前の大震災も今年の東日本大震災も,科学技術がもたらした災害であることを忘れてはなりません。戦争と同様,科学技術の災害は人災です。特に,原発事故はそのことを証明しました。原発が未完成の技術であることが明らかとなり,原子力神話は崩壊しました。私たちは放射能汚染が広がりゆく中で,捨てられていいのでしょうか。やはりこの国の形はどこかおかしい。さらに,私は思います。「私たちの人生や社会のいろいろな問題を学問は何一つ解決できていない」と。知識の積み重ねや論理の組み立てだけでは,人の苦しみを何一つ和らげることはできないのです。
 私たち人間には必要なのは想像力です。人の痛みに想像力を広げることです。苦難の中にある人間には,心臓が鼓動を打っている同じ血肉の人間が必要です。「未曾有の大震災だから仕方ない」「放射能被害は国民等しく我慢しなければならない」という受忍論が出始めています。私たちはやはり,「いのち」のかけがえのなさにこだわりたい,それを共有したい。「いのち」の中に人間存在を位置づけることが大切です。

 <結論>私たちは生まれてくるときにも,親を選べないまま,生まれ,どういう環境で生まれるかによって人生も大きく変わります。運や恵まれた環境も実力のうちだとおっしゃる方は,人の痛みがわからない相当の悪人と見受けられます。そして,私たちは,豊かな老後とは縁遠い中で,死ぬ時も実は一人で死んでいくのですがが,死んでどこへ行くかもわからないのです。ここで,「滅びの場」「忘却の国」「闇と死の陰の国」「再び帰らぬ所」「ちりだからちりに帰る」などといった聖書の表現を持ち出しても意味がありません。死を定義しても,それは一つ論理でしかありません。むしろ,人間は見る影もなく死んでいくと言うほうが,最も正直です。これは人間の限界です。「死を逃れる道,これだけは見出し得なかった」と古代ギリシアの悲劇作家ソフォクレスは『アンティゴネ―』の中で述べている通りです。「死」を逃れる道がないとすれば,残されているのは,自分を越えたものとの関係しかありません。見失われた死においても,最後はそこにたどりつきます。だからこそ,失望で終わるのではなく,自分で「絆」を創り出す「良い人」になりましょう。
 それとともに,そのような人生の不可思議である「死」に直面させられても,そこに向き合っていく志が大切です。不安にかられて沈み込んでもいい,わめいてもいい。それが人間だ。「何事にも驚くな」とラテン語のことわざを持ち出されても,所詮は無理なことです。すでに述べましたように,私たちには,周りのサポートが本当に必要です。いやそれどころか,ありとあらゆることが必要となってまいります。
ここにいる皆さん,一人暮らしの人に声をかけてください。ここ神戸においても被災地の東北各地においても,声をかけてあげてください。「お見舞い申し上げます。私は何もできません。でも,とても心配しています。一緒にお茶を飲みながらお話をお聞かせください。生きていてください」と。神戸でもそうでしたが,仮設住宅から通っている子供たちが学校でいじめられました。「あいつは仮設住宅から通っている」と言われることが度々ありました。世の中がそういう視線を送り,そういう暗黙の声が,陰湿ないじめの形となって人を苦しめます。いじめられている子どもを抱きしめてあげてください,「君はちっとも悪くはないのだ」と。そのようにして,言葉だけではなく,実際に自分で「絆」を作り出してください。自分が取り組むべき課題が見つかります。世の中の問題点が見えてきます。私は学生たちに常々訴えています,「大学の授業に出席しているだけでは,そういう大切なことはわからない。大学のキャンパスの外に出て,課題を見つけてほしい。大学のカリキュラムや研究室の中に世の中の課題があるわけではない」と。
 「震災の中の死」をどれだけ語れたかは自信がありませんが,私のような,取るに足らない未熟な者でさえ,人生を棒に振ることのないように生きたいと願っています。