傾聴ボランティア

 ここにいる人は
 一度は泣いている

 あのとき
 すぐに。

 あのとき
 ずいぶんたって。

 このあと
 いつか不意に。
       (『神戸 これから 激震地の詩人の一年』(安永稔輪
           神戸新聞総合出版センター 1996年 144-145頁)。 
 

 余震によるサイレンの音に,耳と目をふさぐ子ども
たち あの日を思い出すから

 心の復興が軽んじられています。夜,眠る時,静まると遠くの波の
音を聞いただけで,あの3.11の時のどす黒い津波が襲ってくるの
です。余震があり,今でも警報がなります。しかし,連絡網がありま
せん。自治体もまだできていない地域もあります。震災後,行方不明,
後追い自殺,蒸発した人がいます。宮城県石巻市渡波も国道398号
線の道路はめまぐるしく車の往来が取り戻しました。まだまだ道路沿
いの家屋は倒壊しています。仮設住宅,みなし仮設に入らず,全壊し
た家を修繕して住まざるを得ない在宅被災者も旧渡波地域に約4,000
人います。ボランティアは忘れ去られた被災地への「ほっとけない」
感性を行動に移している作業です。そうした人々に寄り添い,共に一
ヶ月に一度,お出合いする働きが傾聴ボランティアです。

傾聴ボランティアを通して学んだ 震災から4年半

季刊誌「支縁」No.13(2015年11月3日発行) 第一面から

 神戸から宮城県石巻まで,ボランティアのためこれまでに12万㎞,
約1800時間を車で通い続けています。地球をすでに3周したことに
なります。参加者も2千人を超えています。大学生,高校生,中学生,
小学生,浪人生,社会人,フリーター,ニートなど性別に関係なく老
若何女が参加しています。
 3.11の最大の被災面積の石巻市は震災前,人口は16万825人いま
した。1万人以上減少し,2040年には10万9021人,2060年には,
7万7千人になると言われています。(「石巻日々新聞」2015年8月11
日付)。津波,地震で全壊になった家は2万2357戸もあります。石巻
ではまだ1万人以上が仮設住宅(プレハブ住宅)住まいです。6~540世
帯の仮設団地は133箇所あります。自治体が民間賃貸住宅を借り上げ
る「みなし仮設」(民間賃貸住宅)に5327世帯1万4036人が住んで
います。5年にわたる国の集中復興期間は終わろうとしています。

 仮設住宅から公営住宅

 災害救助法によると仮設住宅にいることができる期間は原則2年。
石巻は5年に延長してきました。阪神・淡路大震災の時は,がれきが
なくなればそこに家を建てることができました。しかし,津波による
東北は地盤が低くなったこと,津波が将来再び襲うかもしれない恐怖,
仕事がない理由で同じところに戻れないのです。さらに東京オリンピ
ックや急激な建設ラッシュによる作業者,資材,重機も極端に足りま
せん。建築の働き手が少なく,工期の大幅な遅れが出ています。阪神
・淡路大震災では仮設住宅には4年目で1割しか残っていませんでした。
5年目で仮設住宅はほぼなくなりました。一方,東北は自治体が国に
交渉して5年から一年延長して6年にしようとしています。4回目の延長
です。4年半を経て,東北被災地域の復興住宅に住める割合はまだ1割
だからです。中には,2階だけが残った家を修理したり,復興住宅,災
害公営住宅の家賃を払うゆとりのある人たちは仙台や,違う地域にいな
くなります。150世帯あった仮設団地の住人が半分近くに減ったところ
もあります。隣近所との関係は公営住宅に入れたとしても,新たな課題
になります。2月4日には,52歳の方が石巻市の災害公営住宅で独りで
なくなっていました。孤立死などの問題があります。

 歯抜けのようになる仮設住宅団地

 「また一軒出て行った」と取り残され,行くあてがないがない被災者
は焦りがつのります。狭い部屋です。「大の字になって一度は寝たい」
と私たちに訴えます。床や柱が傾いたり,雨漏りなどでかびがはえ,健
康にも支障をきたしています。「いつまでここでがまんしなきゃならな
いのか」「もう限界」「拭いても拭いても湿気でカビだらけなのよ」と
将来の見通しが立たない怒り,くやしさ,ストレスがたまっています。
うつ病,日中何もやることもないから引きこもり,アルコール依存症も
珍しくありません。自力で家を造るにも貯蓄がありません。消費税があ
がり,貯金も10万円以下の人が増えています。高齢,無職,担保がない
ので銀行なども貸してくれません。「だれも私たちのことなどかまって
くれない」「借金ばかりが残っている」「とうちゃんはもういない」と
孤独を耐え,波の音による不安な夜を過ごす人たちについて忘れてはい
けません。
 ですから,私たちの傾聴ボランティアはこれからです。
 仮設住宅,復興住宅,公営住宅のどこでも若者たちは訪ね,支え合う
縁を大切にしていきます。石巻バイパス用地近辺でシバザクラを植えた
り,木村褜治さんのアイデアに従い,花を沿道に植えたりします。
 ひとりも孤立死に直面しなくなるまでです。

ネパールにおける傾聴ボランティア

季刊誌「支縁」No.12(2015年11月1日発行) 第三面から

 4月25日,第1次バヌアツからの帰途,伊丹空港でネパール大地震の
情報が入りました。
 阪神・淡路大震災がボランティア元年と言うならば,20歳の成人に
なってもいい時を経ています。つまり独り立ちできるほどたくましく
なっていてしかるべきです。ところが,バヌアツの被災地に日本の若
者の姿はありませんでした。気持ちがあっても行動力が顕在化してい
ません。内向きとも言えません。4年前の東日本大震災の悲劇も忘却
してしまった観があります。のど元を過わすれてしまう無関心の寒気
団が日本列島をずっぽり覆っているようです。
 ボランティアは経済的にゆとりがあるならできる働きだと思ったら
大間違いです。豊かな暮らし向きを追い求めるのに到達点はありませ
ん。貪欲は際限がないのです。すなわち東北ボランティアにしても参
加なさるのは,一般に,学生,高校生,フリーター,専門家にしぼら
れてきます。バヌアツに日本の若者が馳せ参じていない理由は,福沢
諭吉が肖像画である紙幣の偶像のとりこになっているとしか言えませ
ん。

ネパール ダラムサリィ 娘を亡くした母親 2015年5月14日

ネパール ダラムサリィ
娘を亡くした母親 2015年5月14日

 今回,残念なことに参加できなかった学生たちがいます。東北ボラン
ティアに参加した若者です。津波てんでんこで生き残った方々の傾聴
ボランティアに携わり,よそ者だからこそ心の澱を吐露してくださっ
た被災者たちの地獄絵図は,ボランティア参加者を打ちのめしました。
「いのちとは何か」「なんのために生き続けるのか」「だれのために
生きるのか」と自問を迫ったのです。被災体験談が自己本位な人生観
を変えたのです。経済的に保障された豊かな生活よりもっと価値のあ
る人生への火付け役の役割を果たしたのです。大学で手堅く単位を修
得して,上位の企業に就職し,良き収入を得ることばかりが人生の目
標ではないことに気づいたのです。快適な生活を追い求めるあまり,
他者のことを考えなかった生き方が東北ボランティアを通じて,転換
したのです。自分より他者のために少しでも役立ちたいとの選択肢に
覚醒したのです。だからこそ,時間,体力,交通費を犠牲にしてでも
他者のために仕える方を決意しました。ところが,「待った」がかか
ります。親,大学,周囲は本人を諫めます。「危ないからやめなさい」
「そんなことしても儲からない」「将来,生活にゆとりができたらや
んなさい」と反対されます。
 なぜバヌアツに日本の若者がボランティアに出向いていないかの理
由です。
 同じアジアのネパールへの参加希望の大学生の芽は摘み取られてし
まいました。

 ネパールに行くことを聞きつけた人たちの内,学生を除いて,計4
人で被災地ネパールに向かいます。ネパールと日本の友好のために岡
部和香さん(HIKIVA ヒキバ Hirakata Katao International Volunteer.
Associationの略)バヌアツでもこいのぼりなどを提供してくださった
栗須哲秀さん(神戸スイミープロジェクト),の荷物3人分を均等にし
て搭乗手続きをします。支縁物資の重量オーバーを免れるためです。岡
部さんは東遊園地(神戸市中央区市役所南隣)の炊き出しでも手伝ってく
ださり,宮城県石巻市渡波の農ボランティアにもご一緒する予定です。
ヒキバはネパールの学校及び子供たちへの教育支援,学校及びその付
属設備の建設支援,教材支援と里親 ・里子制度による,里親に目に見
える里子への直接支援を行っています。栗須さんも東北での田植えの
際,こいのぼりをあげる計画があります。第51次東北ボランティアに
参加したくキャンセル待ちであった皆木祐介さん(神戸製鋼に勤務,26
歳)はカトマンズ空港に一日遅れで合流します。

寝たきりのガシン 2015年9月2日

寝たきりのガシン
2015年9月2日

「社会的弱者に笑顔を そして共生」(2012年6月26日)

 2012年6月26日(火),宮城県石巻市伊勢町に代表他,二名,看護師
石原寛子さん,社会福祉士吉川 潤さんが戸別訪問を始めました。病院
では,患者さんの方から容体について話してくれます。しかし,在宅
被災者戸別訪問では,私たちの方から,3.11の時の体験や,現在の
心身のコンディションについてお尋ねしなければなりません。各戸の
チャイムを押すのには相当の勇気がいります。「忙しいからけっこう
です」「あんただれ」とか,けげんな顔をして断られないか不安がいっ
ぱいです。
 3.11直後に,キャッシュレジスターが襲われていたセブンイレブ
ンのコンビニ前で,メモ用紙を購入して,出発です。一軒目は留守でし
た。二軒目で,遠藤トシ江さん(82歳)が出てこられました。チャッピー
と名付けられた犬が吠えますが,温かく迎え入れてくださいました。遠
藤さんご夫妻とは,縁ができて,毎月のようにお顔を拝見させていただ
いています。その度に神戸からのメンバーはもてなしてくださいます。
したがって,戸別訪問に自信のない人は必ず,お連れします。

左 石原寛子さん, 右 吉川 潤さん  2012年6月26日

遠藤トシ江さん

左 看護師 宮本ひろみさん 右 吉川潤さん      2012年8月1日

季刊誌「支縁」No.1 第四面から

 

 当機構では農・林・漁の活動に加えて,2012年6月から在宅被災
者の訪問を始めました。震災と津波の被害によって未だコミュニテ
ィが機能していない,伊勢,浜松,黄金浜(こがねはま),渡波など
を中心に新たな地図を作る計画です。また在宅被災者の心のケアの
ため寄り添い,孤立死を防いで,命をつなぎ,一人ひとりに本当に
必要な支援の手の情報を記録し,地域の再生へとつないでいくため
に何か手伝えることはないかということも併せて伺うために一件ず
つ訪問しています。

 願わくば町の模型も作りたいと思っています。

 お話を伺ったある女性の体験を紹介します。Aさん(60歳女性)

 地震の時には,近所の水産加工の工場に勤めていた。地震後すぐに
解散の指示があったので比較的すぐに自宅に戻った。その後「津波が
来る」と人から聞いて渡波小学校まで避難に向かうが,すでに津波が
一階を抜けていた。

 「学校も水がぶち抜いて行ったから,『入ってくんな~どこさか逃
げろ~』って叫ばれた。」そこで小学校の近くの家の二階へ避難した。

 「知らない家うちさ逃げた時は,子どもたちが車の上さ乗ったまま
『助けてくれ~』って流されていくのも見た。でも私らも降りて行か
れないんだもん。」

 近所でも多くの方が被害に遭ったという。

 「伊勢町地区で37人亡くなったって新聞で見た。この近所でも,こ
の向こうの家のお孫さん,後ろの家もその隣のうちも一家みんなで亡
くなった。そこはおじいさんとおばあさん,娘さんでトラックに乗っ
てるのを見たのが最後。足が悪いおばあさんでしたから。車ごと津波
に持ってかれて,向こうの家の後ろで3人とも遺体で見つかったって。
息子さんも村の消防団の活動によって国道で亡くなった。」

 その後,水が引くのを待ち小学校へ避難した。「(学校には)三日
しかいなかったけれど,一つの教室に80人くらい入れられた。座ると
ころがないくらいでした。食事の割り当ての時に『教室と廊下で80人
分だから,一枚のパンを四人で分けるように』って言われたもんだか
ら覚えてる。」

 寒さと狭さで不安な数日を過ごした後,船の仕事で海に出ていたご
主人と,三日後に再会出来た。また一週間の間は子どもの安否がわか
らなかった。自転車で,避難所へ行き情報を集めるためにカレンダー
の裏に書いて回った。テレビ局やラジオ局にも問い合わせをしたとい
う。

 Aさん夫妻は,河南町の親戚宅,大曲の娘さん宅に身を寄せ,今年
の2月から自宅に戻っている。始めはもう元の場所に住みたくないと
も思ったが,歳も考えて住むことにしたらしい。

 「まだ自宅の改修は終わっていないんです。お父さんとコンクリー
ト流したり,納屋建てたり…。今までやったことないのにさ。この辺
みんなそうですよ。大工さん待ってられなくて,来たり来なかったり
だから。おかげで真っ黒になって。」と笑顔を見せられる。

 3月11日から一年半以上が経とうとしている現状で,人々は壮絶な
体験をしているにも関わらず,心のケアは手つかずの状態と言えます。
気丈に生きている人を前に無力感を感じずにはいられません。しかし,
私たちに吐露されることで抱えているものを軽くしたり,一歩踏み出
すきっかけにしていただければと考えます。

伊勢町 佐瀬むつ子さん 2012年8月21日

 季刊誌「支縁」No.2 第四面から

  伊勢町のレポートは前回に続きます。地震の大きな揺れの後,娘
さんと手をつないで逃げ,一命を取り留めた豊嶋さん親子がはじめて
話された体験を紹介します。母親(80代)とその娘さん(50代)です。
11月20日の渡波公民館の収穫祭にもご出席くださいました。

 大きな揺れの後,二人は避難所の渡波小学校へ向かいました。雪が
降っていたため長靴を履き,傘をさして逃げました。「私たちは,も
う一度地震きたら家が倒れんじゃないかと思って,逃げなきゃってい
う気持ちだけだった」。途中,避難所指定の渡波小学校も危ないと聞
き,渡波駅ホームのフェンスにつかまっていた時に津波に呑まれてし
まいました。ずっと互いの手を離さなかった二人は,幸い近くにいた
男性数名に引っ張り挙げられてかろうじて助かったのです。その際,
水を飲んでしまいました。「ヘドロっていうより,ガソリンのような,
汚物のような,もう海の水の色じゃなかった。」 全身濡れてしまっ
たため,震えが止まりませんでした。駅前に車で避難していた女性に
さいわいなことに着替えを借りることができました。続いて,駅前に
止まっていた巡回バスに入れてもらい,暖房の効いた車内で一晩過ご
すことができたのです。助け合いによって命拾いをすることができま
した。

 運転手は証言していました。海岸線を走っている時,日和大橋から
海を見ると,すり鉢状態にえぐれているのを見て,こわくなったそう
です。機転を利かせ,すぐに渡波駅まで引き返していたのでした。家
は堤防が決壊した海岸からまっすぐ400メートルのところにあります。
一階は津波に流されてしまったので改修中は親戚宅に身を寄せ,2012
年5月に戻ってきました。ここにいるのは怖いのでどこか別の場所に
引越したかったのですが,一から建てるとなると,直すよりお金がか
かるためやむなく戻ってきたのです。

 「長浜の海水浴場もよく行きました。泳いだり,散歩もよく行って
たのに…あの津波以降,一度も行ってない。見たいは見たいような,
しかし,行きたくないも行きたくない…ここ離れていても夜になると,
すごい波の音が聞こえてきます。」

 二人は1960年に起きたチリ地震も経験しています。娘さんは5歳
でしたが,当時のことをよく覚えています。「大宮神社に逃げた。
お父さんが海を見に行ったら,おばあさんが『(津波が来るから)
逃げなきゃないよー』って。あの時は床下(浸水)ですんだ。」
今回「駅の方へ逃げずに,二階にいれば水没しなかったんですよね。」
避難の仕方については,チリ津波を知らない比較的新しい住人が多い
せいか,心の備えができておらず,あわてふためいて逃げるのがみな
精いっぱいだったと思います。

 「車に荷物積んでいる人を見て,『いいよね~車ある人たちって』
ってつぶやきながら,逃げました。しかし,町内の連携プレーという
か『逃げっぺし』って声を掛け合うことが必要だったと思うのに,悔
やまれますよね。」

 海には堤防があるから大丈夫と逃げなかったご老人もいました。家
にいる奥さんを迎えに行って流された人,家族を失った人たちを思う
と,ただこう,ぺろーんとして生きてていいのかって思います。(私
たちが)生かされた命とおっしゃられるけど,いい方たち,立派な方
も多く亡くなってっからね~。」と,

 複雑な心境を語られました。

 当時の反省点に立って,震災体験を冷静に振り返っておられます。
見も知らない私たちにはじめて証してくださいました。

 当機構は,在宅被災者訪問の活動を続けていきます。年末12月7
日,M7級の巨大余震がありました。避難勧告に高齢者や,耳の不
自由な方たちと連絡が神戸からとれませんでした。現地も連絡網が
ないのです。

 石巻市旧渡波地域で居宅介護支援事業所を開設できればと願いま
す。余震が多い地元での生活を続けていくため心のケアを必要とし
ている方々の助けになりたいと思っています。

季刊誌「支縁」No.3 第三面から

 石巻市旧渡波の地域には,在宅被災者が四千人ほどいらっしゃいま
す。総合病院もありません。ケアマネージャー,介護士,ヘルパーも震災前とちがっておられません。防波堤,高台移転,道路工事など二千二百六十
億円の行方に福祉関係はゼロです。仮設住宅(1万5千人 約7,297
戸)に160人ほどしか見回りがいません。みなし仮設(1万6千人)
には年末から20名の見回りが採用されましたが,10名になっていま
す。一方,在宅被災者(1万5千人)には見回り,行政,ボランティア
が一度も訪問していない地域があります。機構は昨年6月から,戸別
に訪問しています。民生委員たちと協働で地図作りに取り組み,まち
づくりに仕えています。ひとりひとりが地図と蛍光ペンを持ちながら,
次回に備えて留守宅なども記録していきます。

 伊勢町,浜松町,黄金(こがね)浜(はま)町の住人の間では,震災時
に体験した試練を第三者に吐露(とろ)する機会はないようです。「神
戸から来ました」と語る若者たちが外部の人だから話がしやすいかも
しれません。したがって,家族を失ったご近所の方たちの前ではお互
いに話せない生き残った時の体験を話されるのです。心の奥にしまっ
ていたおりを打ち明けていただきます。被災者がたまっていた思いを,
阪神・淡路大震災の時点で生まれていなかった,または幼かった若者
たちには安心して吐き出されるのです。毎月お会いするうちに相手も
待っておられ,縁で結ばれています。被災者とボランティアの互いの
心が重なり合うのです。

「牡鹿(おしか)新聞」発行所の平塚淳子さんの体験(2013年2月19 日 神戸夙川学院大学教員山脇敬子氏と共に)

 「牡鹿新聞」社は,1949年創刊以来,地域の人々の暮らしを伝え
続けてきました。現役記者の平塚俊夫氏(88歳)と息子平塚宏行氏
(44歳),淳子さん(44歳)の三人で切り盛りしています。震災当
時,自宅兼発行所は,海岸沿いにあったので3メートル近い津波が押
し寄せ,天井まで浸かり,印刷機械が稼働不可能になりました。一階
は全壊,二階まで水がきました。

 半年を経て発行再開しています。震災前の三分の一の千部を発行す
るまでに回復しました。女川を含めて町では大切な情報を記事にして
います。(NHK総合 2011年9月26日放送)。その土地は地盤が緩
んでいる恐れがあるために,いまだに水が引かない状態です。そこを
あきらめ,200メートル離れた場所に引っ越しです。

 渡波地域の亡くなった方が掲載されている牡鹿新聞(2012年9月7
日付)を出してこられました。一面に,渡波地区で亡くなった547人
の名前,年齢がぎっしり書かれています。県警発表に基づいて,遺族
が公表を希望した名前のみで,正確ではありません。なぜなら行方不
明,死者数の正確な調査はすすんでいないからです。

 淳子さんは牡鹿新聞にある一人の名前を指さし,「ようこは私のお
ばなんですど…,避難しようと思って迎えに行って一緒に逃げたんで
すけど,目の前で死んだので…」と話されました。
 淳子さんは,夫と協力して両親や近所に住む親戚を見つけて,車で
避難をしました。すると津波がきました。
 「考えたら三百六十度くるっとまわった感じでしたね,今思うと潮
の流れだったのかも…。ここまで浸かってしまったため車を置いて逃
げようとしました。おばは高齢で足腰も丈夫な方ではありませんでし
た。おばを引き上げようとしましたが,できませんでした。…津波で…,
夫のおじも犠牲になりました。」

                                          (次号に続く)