第5次ネパール・ボランティア

第5次ネパールボランティア 2017年5月8日~13日

2017年から,故人の残した預貯金は「カヨ子基金」(英語名“Kayoko Fund”)として海外被災地の孤児のために用います。

⇒「カヨ子基金」 ボランティア道の母 

「カヨ子基金」

 「カヨ子基金」 里親募集中 Kayoko Fund

孤児たち MCH(Manahari Children Home)マナハリ・チルドレン・ホーム 2017年6月24日 Kayoko Fund

「カヨ子基金」で通学できるようになった孤児 2017年6月24日 Kayoko Fund

「カヨ子基金」を報道する各紙

「カヨ子基金」 マスコミ各紙 Kayoko Fund Kayoko Iwamura

「カヨ子基金」 『クリスチャン新聞』(2017年6月25日付) Kayoko Fund Kayoko Iwamura

「カヨ子基金」 『中外日報』(2017年5月24日付)。 Kayoko Fund Kayoko Iwamura

『クリスチャン新聞』(2017年2月26日付) Kayoko Fund Kayoko Iwamura

 

 海外の孤児たちの教育費に用います。日本と比べて,物価は十分の一ほどです。ネパール,バヌアツ,ベトナムの親を自然災害などで失った貧しい子どもたちが大人になることができるように,毎月,一口3千円ずつ自動引き落としを通じて,あなたのお心をお伝えください。

 郵便振替     口座 1434096549731  加入者名  カヨ子基金
  ※ 自動引き落としの手続きの詳細は,⇒ 「里親お申し込み」
  ※ 不明は事務局にお尋ねください。

 海外の被災地において,弱者に寄りそう活動を行うことにより,地域の子どもたちにとって安心して生活,教育ができるよう切においのりします。宮田佳典 2017年2月5日

第5次ネパールボランティア  2017年5月8日~13日

オープニング・セレモニーと選挙戦のネパール訪問

完全原稿 ⇒ 第5次ネパール報告

5月8日(月) 関空を平澤久紀兄と離陸
 早朝5時半に,平澤氏をハイエースで,迎えに行き,関空に村上裕隆代表が送ってくれました。 
 広州で乗り換え。激しい豪雨と雷のため飛行機内では常にシートベルト着用のサインが表示されていました。同日,深夜近くの23時半にカトマンズ空港に到着。外は激しい雨が降っています。二人は,だれもいなくなった空港のフロアでいつものように睡眠をとります。「ボランティア道」では,直通の航空便に乗り,ホテルに泊まったりすることはありません。海外被災地訪問には,いくつものトランジットで乗り換え,一番安い航空券で現地入りします。「ボランティア道」とボランティアの相違点については,2017年3月10日に,ラジオ関西で放送させていただきました。野外活動を主とする青少年団体は,水とトイレがあれば子どもたちを連れて行き,体験活動を楽しみます。一方,「ボランティア道」は水とトイレがない被災地などへ足を踏み入れます。
 毎回逗留するダリットの居住地には,深夜零時を回っているので,中止しました。最下層のダリット層は一般の人々から襲われないように,高さ2メートルあるブリキの塀で閉めているからです。ダリットの人々は気質が穏やかで,親切です。横浜事件の「路上で生活をしている人」たちへのおじん狩りを思い出します。1983年2月5日,横浜市寿(ことぶき)町の須藤泰造さん(60歳)が山下公園で中・高生(14~16歳)10人たちから殺された事件です。全身に暴行を受け,肋骨が4本も折られた上,公園のごみ箱に入れられ,引きずり回されました。「あいつは大型ごみだ。反社会的な存在だ」,と。逮捕後,少年らは「なぜ逮捕されるのかわからない。ごみを処分した」と人を殺したという認識はありませんでした。子どもたちによる無抵抗の「路上で生活をしている人」たちへの襲撃事件はそれからも後を絶ちません。
 深夜カトマンズ空港にいたのは,二回目の同行者平澤久紀氏と二人だけです。猿が玄関口から侵入し,私たちの近くに餌を求めてか,近づきました。

カトマンズ空港で野宿

 野生動物が都会での生活に順応できるようになるのは,自分たちの生息場所が狭められ,餌が得られなくなったせいでしょう。人間と同じようにお菓子類でも平気で食べるようになっています。エコロジー,つまり生態系が変わって来ています。神戸国際支縁機構が目指している「田・山・湾の復活」は人間と野生の生き物の共存です。最貧国のネパール,南太平洋のバヌアツ,シリアなどでも必要と気付かされます。日本では,緩衝帯と言われる「里山」がほとんどなくなってきたために,山で生活していたサル,シカ,クマなどが人間との境界線を越えて,平気で入り込んで来ています。薪や炭づくりのために,伐採をして人間が手入れをしていた里山がなくなり,野生動物はいきなり街に来るようになっています。森林開発も大きな要因です。建材としてよく売れるスギ,ヒノキばかりが植えられるようになりました。木の実をもつ広葉樹林が消えてしまったのです。国土の七分の一の森 は人間の利益追求のために損なわれてしまいました。
 野生動物が人間を襲うのは,元はと言えば,住み処,食べ物,環境を奪われたことが原因です。カトマンズのサルも人間のエゴに翻弄されているのかと自問しました。
 空港では,いつものように,ネパール紙幣に交換,プリペイドのSIMを購入。
 
5月9日 選挙一色の街並み
 朝6時半,カトマンズのハリ・マハラジャン氏(36歳)や数人に携帯で連絡をしました。ネパール人は早起きなので,早朝に電話しても失礼にはなりません。クラウドファンディングを通じて集まった82万円に,機構が18万円を添えて,100万円にして送金したお金が建設に有効に用いられているかどうか,胸をふくらませながら,ダラムサリィに向かいました。

≪動画参照≫マダデヴ川 2017年5月9日

 今年1月に訪問した時,子どもたちに歓迎された地域です。
 当初の予定では,5月にダラムサリィの方が今回招かれたマナハリ・チルドレン・ホームより先にオープニング・セレモニーをする予定でした。ところが政治,行政の混乱の中で,ダラムサリィ・チルドレン・ホームの許可がおりなかったのです。賄がないとスムーズに申請が通らない体験をしたハリ・マハラジャンは日本に連絡してきました。そこで,名称を変えて,仕切り直して申請することを提案しました。ダラムサリィ・チルドレン・ホームという福祉部門が窓口になっているからです。今度は,NNC(Nepal Neighbor Circle),「ネパール隣人サークル」という新しい名称で,福祉の色彩をトーンダウンして申請したところ受理され,承認されました。そのため約3ヵ月,着工がずれてしまったのです。

「カヨ子基金」ネパール Kayoko Fund

 早朝から,20年ぶりに行われる県規模の≪動画参照≫選挙で,ネパール中いたるところ,立候補者のポスター,宣伝,政党のカラーで埋め尽くされている印象です。
 地方選挙は三日後の日曜日14日に投票が行われます。283の地方自治体の市長、副市長、区長、区議会議員の座をめぐり、5万人近くが立候補しています。首都カトマンズ(Kathmandu)には878人の立候補者がいます。
 大地震後,世界各地のドナー機関から救援金が届いていてもネパールの民は恩恵を享受していません。中央集権化した政府システムや,中央官僚の省庁利益に対する民衆の爆発は頂点に達した観があります。道路,上下水道,流通について脆弱な行政マネジメントによるため息をあちこちで耳にします。任期は5年にもかかわらず,政治的混乱のために,20年間も地方選挙がなされてきませんでした。地方議員は存在していないため,中央政権は自分たちの遣わした官吏,つまり役人と,それぞれの地方の政党の有力者たちが,なあなあでとりつくろってきました。したがって,住民の声がぜんぜん届かない行政でした。ちょうど江戸時代に幕府の役人が地方の藩ににらみをきかせて,言いなりにさせる構図と似ています。
 ネパールも日本と同じ小選挙区制です。小選挙区制は二大政党の場合有効ですが,一つの政党が強いと大きな政党にだけ有利になります。つまり,少数者はなかなか議席につながらないのです。少数派は常に少数派のままです。小選挙区制の下では投票しても死票になるだけで,政治的に代表となる可能性はないのです。日本で政治に無関心な人がいるのもやむを得ません。一方,ネパールの今回の地方選挙で,熱狂した民がそれぞれの小さな政党を支持している光景には考えさせられました。決して,あきらめてはいけない情熱です。バクトプールでは83%の投票率です。『Himalayan Times』(2017年5月15日付)
 過半数には遠く及ばなかったとはいえ,ネパール共産党マオイストは220議席(比例100)で第一党になりました。パンガや,ダラムサリィでよく見かけたネパール共産党統一マルクス・レーニン主義は103議席獲得し,第2位のネパールコングレス党の110議席に続いています。
 マオイストはネパールの既成の政治政党と違います。大都会カトマンズからではなく「農村から都市へ」,人民の味方という毛沢東主義理論を振りかざして成長してきました。貧しい農村を基盤に,国政にどのように影響を与えるか正念場です。貧しい者に寄り添う神戸国際支縁機構と共通の働きがあります。
 とりわけネパールで,貧困者,人権を無視された層,異教徒に対して,積極的な働きかけをしようとするダラムサリィのNNC(Nepal Neighbor Circle ネパール隣人サークル)の中心になるハリ&サラワティ・マハラジャン夫婦のヴィジョン,行動,活動に期待しています。夫婦はそれぞれ支持政党が異なります。夫はネパール共産党統一マルクス・レーニン主義,妻はネパール共産党マオイストです。政治の話になると普段仲の良い二人も一歩も相手に譲歩しないと笑いながら話してくれました。現在,ネパール政府は政策実行が麻痺しています。ひとつにある政党による猛反対が起こると,足枷手枷で実現に至らないのです。ハリ・マハラジャン夫婦はそれぞれ異なる政党を支持していますが,ネパールをよくする上では協調できると言います。つまり,全政党制メカニズム(All Party Mechanism)です。自分たちの言い分だけを主張するのではなく,他の政党の意見も取り入れる寛容さです。決して,思想のため非寛容になるということはありません。
 宗教も同じです。独善的に,ヒンドゥー教だけがよくて,イスラーム教,キリスト教,仏教に排他的な政党もあります。非寛容な政党が今回も立候補していましたが,多数派にならなくて良かったです。米国のように排他的なトランプ政権が反面教師になり,フランス,韓国,ドイツなどで,健全な選択がなされたことは,ネパールにも見られます。
 ちなみに,奥さまのサラワティの父Dhan Lal Maharjanはマオイストを代表するひとりであり,40年間,大学で会計学を教えていたインテリです。お会いしましたが,政治家臭さもなく,扇情的に民衆をたきつけるタイプの候補者ではありません。信念をたんたんと貫く人柄が人気のある理由ではないかと印象に残ります。今回の選挙でタルケスウオール市長に選ばれました。私たちの孤児,夫をなくした独身女性,高齢の独居者に対する働きにも理解を示していただけるようなので,握手をしました。
 入所予定の孤児たちとも再会しました。

NNC(Nepal Neighbor Circle),に入所予定の孤児たち

 第1回目に傾聴ボランティアをした際,地震で孫を失った方,妻,子どもを亡くして悲嘆した方たちも再訪問しました。悲嘆とは,喪失した対象のいない現実と生涯向き合い続けるプロセスが継続します。ですから,再会するだけで,お互いに黙っていても通じる関係があります。抱擁して慰め合います。
 妹をなくした兄アニス(15歳)は,当初,暗い顔をしており,ぜんぜん笑顔がありませんでした。今年の1月もまだ家の下敷きになった妹のことがトラウマになっているせいか,私たち一行と出会ってもあいさつもできませんでした。今回は,昼食に招いてくれました。そこで明日のマナハリ行きに同行することになります。選挙のため,学校,職場は休日になっています。

5月10日(水)  MCH(マナハリ・チルドレン・ホーム)のオープニング・セレモニー

「カヨ子基金」を受けている孤児たち

 早朝,5時半,私たち一行を乗せて,マナハリに向かう四輪駆動の車で出発しました。ハリ・マハラジャンとマナハリのアデッシュ・スイングとは面識がありません。4月に施設は完成していました。隣接の食堂がまだですが,トイレもできています。
 昨年,村田義人(第61次,第2,3次ネパール)君や,植地亮太(第42次,丹波水害,第2次ネパール)君,谷口浩平(第61次,第3次ネパール)君たちが訪問し,日本からの惜しみない支縁を築いた場所です。
 ドライバー以外に,5人が道中を共にします。悪路を走ります。普通の乗用車ならば,ぬかるんだところで立ち往生してしまいます。すると長い列ができます。時候は一年で最も暑い月です。古い中古車ならばエアコンが効いておらず,蒸し風呂のようになります。道路整備がお粗末なことからも,政治が機能していないことを思わせられます。すれ違う車はインド製のタタがトラック,バス,乗用車で圧倒的に多いです。ネパール政府は日本からの中古車輸入を禁じています。バヌアツやベトナムと違います。とりわけ日本の中古車は人気があり,長持ちしますから,ネパール国内が中古車で占められてしまうことを避けるため,海外からは新車しか輸入できない法を作りました。ちなみにインド製のタタや,韓国製が増えているのは,家電と同じです。技術にあぐらをかいて,開発国の低所得者層を相手にせず,金持ちの視点でビジネスを追い求めているといつしか取り残されてしまいます。庶民の味方になる視座が日本メーカーには欠けています。儲けばかり追求していると足元をすくわれてしまうのです。
 片道約6時間ゆられます。あの屈強と思えるハリ・マハラジャンも,アニーシャも酔いました。窓からもどしています。
 切り立った峻厳な山,峠,谷を越えます。車窓から見る光景はがらっと変わります。5時間後に,ヘドウダという都市に入るとカトマンズと同じように喧騒です。日本なら地方へ行くと,シャッター通り化しています。一方,ネパールの場合,どんなに僻地のようなところに足を伸ばしても,シャッター通りはありません。ひとつに人口,そのうち子どもが多いのです。そこからは平地を通過します。のどかな田園風景になります。茅葺きの屋根の家もありました。牛,やぎ,あひるなどが目に入ります。
 午前11時12分に,現地に着きました。道中,あとどれくらいで到着するのかと,何度も問い合わせが入りました。皆さん待ち構えていました。地元の方たちもうれしそうな表情です。マナハリで最初の孤児の施設MCH(Manahari Children Home)マナハリ・チルドレン・ホームの開所式のため,晴れがましい空気が充満しています。青年たち,民族衣装で着飾った女性たち,子どもたちがホームの近辺でにぎわっています。今か今かとオープニング・セレモニーを待っておられました。

孤児の施設オープニング・セレモニー

 午後2時,50人ほどが集まったホームで,プログラムはアデッシュ・スイング師(36歳)が進行を務めました。若者たちの男性だけで合唱し,ホームを祝福します。マナハリのキリスト教会の牧師が奉献の祈りを捧げます。つづいて日本からの支縁によって建造されたことを司会者は述べ,筆者を紹介します。≪動画参照≫祝辞を述べることになり,英語で語ります。「皮膚の色,国籍,宗教の壁を越えて,孤児のために日本とネパールの協力関係ができたことを感謝します」,と。続いて開所を宣言しました。皆さんから大きな拍手をいただくと,地元の応答として,日本からの二人にネパールのスカーフを首にまとってくださいました。日本からは,金斗絃画伯の5枚の絵,菅原洸人画伯の絵がホームに贈呈できましたことはネパールの人たちにとって大きな喜びとなりました。

金斗絃画伯の贈呈

菅原洸人画伯遺作 4号

 プログラムの最高潮は,4月下旬からホームに居住している5人の孤児たちが前に整列したときです。
 両親がおらず,家もなかった子どもにとり,マナハリ・チルドレン・ホームはかけがえのない存在場所になりました。「ぼくはここが大好きです」,とアンジット・ラマ君(6歳)は満面の笑みを浮かべていました。
 平澤久紀氏は,泣くまいとがんばっておられましたが,頬に伝わる涙を禁じえなかったようです。
 子どもたちは新しいホームが自分たちのものだという感激をまだ実感していないのか,別の部屋から隣の部屋へと何回も入ったり出たりしていました。菅原よ志子夫人から贈呈された絵が寝泊まりする壁にすぐにとりつけられたので,子どもたちも何度もくいいるように眺めています。ハリ・マハラジャンはたいへん刺激を受けたようで,行政のいやがらせで献堂が遅れているダラムサリィの孤児のホーム完成に向けて,「ぜひダラムサリィのオープニング・セレモニーにもみなさん来て欲しい」,と宣伝していました。金斗絃画伯の絵をダラムサリィのNNC(Nepal Neighbor Circle)にも欲しいと願っていました。
 来会者には,女性たちが腕によりをかけた盛大なごちそうがふるまわれました。何度もおかわりをすすめられ,若者たちも動けなくなるほど食べました。それでなくてもネパールの人はよく食べます。ごはんはどんぶり三杯分を一回でたいらげます。大きなお皿の上でライスとダルスープや野菜などを右手でかきまぜます。それが咀嚼です。つまり手で食感を味わい,噛むような具合です。口に放り込んだらすぐに飲み込みます。ですから歯でかむことはしません。年配の方でも,よく召し上がります。平澤兄もよく食べる方ですが,ネパール人には負けると脱帽されていました。
 マナハリとダラムサリィが姉妹団体として協力するきっかけにもなりました。アデッシュはキリスト教会牧師,ハリ・マハラジャンはヒンドゥー教と宗教が異なっても,同じ年齢です。意気投合し,ネパールの将来のために力を合わせて変革していこうと固い握手をします。出会いが人生を変えるのです。孤児など人権が軽んじられていることに,心を痛めていた二人です。それぞれの地域で期待されているリーダーたちが手をつなげば,ネパールの将来も変わるでしょう。
 帰路,家族同然にもなったアデッシュ夫妻から泊まっていくようにと言われます。翌日,パンガに行く約束をしているので,別れを告げます。帰路,アデッシュ師から,「本日は感動しました。人生最高の日でした」,と3度も携帯に入りました。 
 帰途,二人はまた車に酔ってしまいました。せっかくのごちそうを全部,もどしてしまいかわいそうでした。
 深夜にもかかわらず,ハリ・マハラジャンの家に泊めてもらうことになります。

5月11日(木) パンガ
 ジャナク・ラル・マハルジャン Janak Lal Maharjanや,ビゴッシュ・マハルジャンたちと再訪問を約束しています。パンガはダラムサリィと同様,大震災により集落全体が壊滅的なダメージを受けました。おそらくネパールで最も早く,自発的に若者たちが復興のためにたちあがった地域です。被災した4日目にCDMC(Community Disaster Management Committee コミュニティ災害対策協議会)は発足しました。ジャナクは事務局長として,若者たちを組織して,行政に依存せずに仮設の住宅,学校,幼稚園などを作りました。日本からは救援金がぜんぜんどこにも届いていない中で,神戸国際支縁機構は支縁してきました。ただし機構は孤児を中心とした活動のため,パンガには孤児の数が少なく,天涯孤独になってしまった子どもがいないので,孤児の施設を作る計画が実現に至っていません。
 2015年5月14日に被災者を訪問した際,「死」の反対は「命」ではなく,「よみがえり」と通訳してもらったら,どういうわけか,村中に,死者をよみがえらせる日本人が来ているといううわさが広がりました。そんな中で,圧死寸前で助かった負傷者のところへ案内されました。その内のひとり夫を亡くしたドゥルガ Durga さん(72歳)に再会します。当時は骨折のため歩けず,泣き崩れていました。それ以来,ネパール訪問の度に必ず,立ち寄っています。学生たちだけで訪問するときも,同じような境遇のチョリさんたちに日本にいる時から,ジャナクに連絡をとってもらっておきます。今回は,ハンディキャップのある方の家に行きました。精神状態が安定しておらず,かつては凶暴だった方が足を切断してしまいました。
 ティッカさんの家に行く途中で,ちょうどパンガに着いた日本人女性に出会います。今年の1月に,ネパールで出会った唯一の日本人です。伊藤さなえさんという京都大学の博士課程で研究のためパンガのCDMC(Community Disaster Management Committee コミュニティ災害対策協議会)に支縁している方です。なぜ日本人に出会わないかは,機構が訪問するのはダリット層,孤児,被災者など弱者がほとんどのため,観光地などに足を延ばさないせいです。

靴磨きはダリット層の仕事 20170512

 伊藤さんは貯金すべてを寄附したり,日本に帰ってから知人達にもパンガの窮状を伝えて,仮設住宅建設資金を提供しておられました。砂漠で水を発見したようなさわやかな思いになりました。CDMCの寄附者リストにも載せるのを控えておられたため,日本からの寄附はないと思い込んでいました。日本人でこんな奇特な方がおられるんだとわかった時,思わず涙が出ました。1月も今回もお互いに,わずかな滞在時間に巡り会え,ジャナクと協力しておられたパートナーであることがわかり,不思議でした。
 ジャナクもアデッシュ,ハリと3人とも36歳です。3人はそれぞれ出会ったことがない関係でしたが,孤児のために立ち上がり,協力関係ができるならば,ネパールの将来にとって明るい材料です。
 パンガでは救援金を孤児の施設ではなく,クリニックにしてほしいという協議になりました。建設費は孤児のためのものなら100万円ですみます。クリニックになると1000万円です。10か所も作ることが可能な金額です。ネパールは平均寿命が低いのです。出生時平均余命は地形区別では山岳部49.8年、丘陵部65.1年、平野部62.4年です。地方へ行くと,60代の人はほとんどいません。50代でお年寄り扱いです。安土桃山時代にタイムマシンで戻ったかのようです。なぜ寿命が短いのかの理由は,衛生状態が悪く,医療費が高く,貧しい人達は病院に行くことさえできないからです。病院の数も少ないのです。
 パンガ地区にクリニックを作るということなど神戸国際支縁機構は引き受けられません。5月18日の理事会に報告はするものの,期待をしないようにと釘をさします。
 夕刻,パンガからカトマンズの有力者のひとりジャカミ氏を訪問するため,約40分タクシーに乗ります。ジャカミ氏にクリックについて相談します。ジャカミ氏は建築の経験も豊富であり,政財界に知人も多く,何かヒントを得られればと話しました。病院,クリニック建造は法外な価格です。ネパールの小規模なクリック建造費が1千万円というのは現地価格では1億円規模になります。事業家でないとできない懸案事項です。
 バガワティ夫人の姉はパンガにいるもののしばらく会っていないという話になりました。話しているうちに,今日パンガで訪問した家がバガワティさんの姉の家であること,その姉の孫ヨジュー(14歳)がハンディキャップであり,昨年なくなったことなどの話題になり,驚きます。なぜならヨジューとは2015年の傾聴ボランティア以降,訪ねていた少年のことだったからです。車いす生活のため,通学もしないにもかかわらずほがらかな天真爛漫な子どもでした。立ち寄るのが楽しみだったのです。妻カヨ子の自宅療養のため,昨年はネパール,バヌアツなどの訪問を控えたため,葬儀にも出席できませんでした。昼パンガにいる時,ジャナクにヨジューを訪問したいと尋ねてわかった次第です。訃報を聞くと,目頭が熱くなり,号泣してしまいました。ヨジューの祖母がバガワティの姉パルバティだとは知りませんでした。衝撃はパルバティ夫人が夫と住んでいるところに招き入れられた家でした。全壊ではなく,とても人が住むに似つかわしくない在宅被災です。4階から5階にあがる階段も今にも折れてしまうのではないかというはしごのような木材,それも廃棄処分の朽ち木のようなものです。体重をかけずにそろりと登ります。家具らしきものはありません。太陽から遮断された薄気味悪い部屋に息をひそめて生活をされています。行くところがないのです。かつて裕福であり,多くの土地をもっていたそうですが,今はどん底の生活です。希望のひとかけらもありません。ご主人も高齢で仕事は工芸品づくりだそうですが,さっぱり売れないと言われていました。ひときわ目立つのが4,5歳の孫の写真でした。ご夫婦は寂しそうに昨年なくなったとつぶやかれました。その写真の子どもこそ筆者が訪問していた14歳のヨジューだとパガワティさんから聞かされた時,なんと世間は狭く,人との縁は妙なものとしばらく口がきけませんでした。

パルバティさんの家から見た隣家。

 パガワティさん夫婦の逆境を妹のバガワティさんに伝えます。急遽,姉を翌日訪問してみようということになります。ジャカミ氏はパンガで義理の姉を訪問してくれたこと,ヨジューと知り合いだったことを聞いて,目が潤んでいました。その夜はダリットのところで宿泊する予定でしたが,泊まっていくようにしきりにすすめられました。翌日,「岩村記念病院」を訪問するというと,長男のニラージ氏が休日なので自分の車で連れて行ってくれるということになりました。

5月12日(金) バクタプルの岩村記念病院
 カトマンズから東へ15キロのバクタプル(Bhaktapur)に向かいます。ここも被災で世界遺産が大きなダメージを受けました。
 岩村記念病院について,日本の 「クリスチャントゥデイ」 では2016年3月に官警によって岩村邸は破壊され,養子の子どもたちも血だらけになったとの記事がありました。ランジット・マリクフー病院長と10時半に面談します。岩村昇[1927-2005]氏は1993年にネパールの無医村での医療活動や各国青年の農業支援した功績でアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受けました。1962年から18年以上もネパールにおいて貧しい人達からは医療費を取らなかったことが,今でも岩村記念病院に引き継がれています。
 2年前の被災によりCT検査機や,MRA検査機が旧式であり,使用できなくなっています。CTにしても1500万円+送料+関税がかかります。今後,病院が維持できるように,日本からの寄附を機構に依頼されてしまいます。

岩村記念病院 ランジット・マリクフ院長

人手に渡った岩村邸 2017年5月12日

 ランジット院長は,病院内すべてと岩村邸を案内されました。岩村昇の養子たちが不運にも暴力をふるわれ追い出されたことなど,事件の顛末を話されました。決して,日本のメディアで言われているようにキリスト教に反対する口実で警察が乱入したのではないことなど経緯についても苦渋に満ちた顔で話してくださいました。
 病院は岩村昇先生の精神を継承し,医療費が払えない貧しい人達のために運営をしており,岩村昇医師が無医村の山間部で仕えたように,病院がない辺境地にクリニックを作るヴィジョンがあることを話されました。資金がなく,実現に至らないので,機構の力を借りたいと嘆願されました。
 昨日のパンガに続いて,規模の大きい支縁を弱小の機構に願い出られたとしても,限界を超えています。日本国内における東北ボランティアですら,毎月交通費の赤字をくぐり抜ける青息吐息であることを説明します。そんな赤字でも,自分の利益のために働いていない機構だから,信頼してお願いできるのだとたたみこまれます。
 神さまはこれ以上,機構に重荷を与えないでくださいと心の中で祈ります。同姓だからと言って,岩村記念病院は,機構の働きの外だからです。
 誰もが飲み水,仕事,そして教育について心配しています。共産党系であるマオイストが強いのも身近な民の要求に応えているからです。確かに,政府,行政がする水源のための開発,失業者への職の斡旋,教育費の無料化などは民に安寧をもたらすでしょう。しかし,寿命に関係するばかりか,人の生涯で喜びをもって生きていくために必要な健康に機構はどれだけ貢献できるか挑戦を受けました。機構は東北ボランティア,熊本ボランティア,丹波水害,炊き出し,「田・山・湾の復活」など取り組んできました。
 世界保健機関(WHO)憲章は,1948年,「健康とは,完全な 肉体的,精神的及び社会的福祉の状態」と3つの条件を定義しました。つまり「肉体physical」「精神 mental」「社会福祉 social well-being」です。しかし,1999年に健康の新たな定義として,肉体的・精神的・社会的だけでなく,「霊的 spiritual」も良好であることを加えました。政教分離が過度に行きすぎた「官」では,スピリチュリアティについて拒絶してきた経緯があります。タブー視してきた日本の厚生省や学術会は「スピリチュアル(spiritual)」の適切な訳語も定まらないありさまです。
 これからも機構は魂の健康に励むため,ボランティア道を貫き,被災者に寄り添っていきます。そうした働きを継続して行くうちに,孤児の施設の建設基金が備えられたように,クリニックなどを建造する資金も与えられると信じます。

                                    以上

ネパール(2017年5月8日~13日)に,孤児の施設のオープニング・セレモニーに絵画が提供されます。

菅原洸人画伯遺作 4号

(株)チュチュアンナの上田利昭社長が孤児のために靴下を提供。

(株)チュチュアンナ支縁

金斗絃画伯からの傑作

第5次ネパールボランティア参加者体験報告 今回も二回目の挑戦 平澤久紀

ネパール報告(2017,5,8~5,13)  2017,5,20

 1月にネパールに出かけたが,その目的は貧しい子ども達の施設を3か所建設する事であった。今回のネパール行の目的は,
  ① 建設された建物のオープニングセレモニーを行う。
  ② 施設関係者に会って,その後の進行状況を確認する事,である。
 以下はその経過報告である。
5月8日(月)
 早朝5時20分に自宅を出て,関空の食堂で食事を済ませ,出国手続きをする。
 5時間のフライトで,私と岩村先生は,中国の広州に到着した。乗り換えの待ち時間を食堂(店名「康師傳」)に陣取って,先生はパソコンで原稿作り,私はタブレットを掲げて周りを見て回る。私は,広州には40歳の時に来た。貧乏旅行だった。当時素朴だった街並みがすっかり変わってしまっている。今は全ての風景が,けばけばしくなってしまったようだ。人口も増えたのだろう。
 何故かよそよそしい。
 1月に来た時はお金の用意が無かった。今回は中国紙幣の元を持ってきたので,少し豪華な食事を二人でする。台湾でブームになっている牛肉麺が中国でもよく売れている。二人で,野菜,酢の物,肉野菜,牛肉麺,ご飯の定食を注文する。お腹が一杯になった。暫く御馳走にはありつけないだろう。
さて,搭乗場所を探す。1月に来た時は,急に場所が変更になって,広い空港を走り回ったから,今回は確めて移動する。外は強雨。ここで,約1時間待って搭乗する。機は天候が悪く,ひどく揺れた。眠っていても揺れて何度も目が覚める。
 カトマンズ着は深夜23時。ビザの申請(3千円),両替(3万円:26,400ルピー)を済ませる。手続きは終わったが,先生は到着が遅れたので迎えを断ったと言う。深夜で迷惑をかけるからと。そんなところが先生らしく謙虚なのだ。空港警備の軍人が自動小銃を持って見回っている。しつこいタクシーの運ちゃんが付きまとう。誰も居なくなったので,私は横になる。先生も横になる。猿が私達の周りをうろうろしている。別に驚かない。
5月9日(火)
 朝,豪雨で目が覚める。よく眠った。昨夜遅くまで乗らないかとねばっていたタクシーを呼び出してダルマスタディーに向かう。
 こんなところも先生らしい優しい配慮がある。雨も止んだ。約30分で懐かしい川沿いの村に出る。汚い風景にも目が慣れてしまった。
 先生は途中タクシーを止めて動画中継をしている。川の中州に住んでいる人達は静かに生きている。地震で追われても中州に居を構えてどっこい生きている。逞しい民だ。
 途中,友人のマハラジャが迎えに出ていた。「ナマステ!」坂を上った所にたしか家がある筈だ。到着した。マハラジャの母親, 奥さん,その妹が迎えに出てくる。「ナマステ!」甘い紅茶を頂く。砂糖汁のような紅茶,しかし,美味しい。やがて調理が始まり,炒めた鶏肉,豆入りスープ,野菜の炒め物,ご飯で朝食。実家に帰ったような感覚である。
 近所に住んでいるアニーシャとアニース姉弟もやってきた。元気そうだ。弟のアニースはすっかりひきしまった顔つきに変わっていた。1月来た時より逞しくなった。
 食事後,近隣住民で地震で孫を亡くした家族を見舞う。隣の爺さんも婆さんも亡くしたという。
 家に戻ると,周辺の女性達が何人もやってくる。マハラジャの母親の仲間達だ。写真を撮る。皆,明るくてよくしゃべる。婦人会の人達で手芸やその他共同の仕事をしているらしい。楽しい時間を過ごし,我々は今日はここに宿泊する。
5月10日(水)
 翌日早くマラハリへ出かける。マハラジャがジープを用意してくれる。運転手を入れて6名。泥濘の中を進むとやがて晴れて,今度は道路が埃で前が見え難い。途中,休憩と食事をして,12時前,マナハリ到着。迎えに出た牧師と熱い握手をして,すぐ建物を見る。すっかり出来上がっていた。後は窓を付ければいいだけだ。オープニングセレモニーの準備をする。何事もゆっくりペースなので,ここは郷に入り,のんびりしよう。女達は食事の用意を始めている。3つの部屋の1つを調理室にして,ワイワイ楽しそうだ。鶏をニンニクと香辛料で炒めて,野菜炒め,豆入りスープ,漬物。参加者は約35名,(男性15,女性10,子ども10)始めに岩村先生が英語でスピーチ,続いて牧師先生の挨拶。マハラジャも主賓席に座る。マハラジャは刺激を受けたのか,ベッドの位置や敷物のことを熱く主張していた。多弁である。柱の間に渡したテープでテープカット。私もお手伝いで,子どもには膨らませた抱っこちゃん人形を渡す。この子ども達には両親が居ない。貧乏なあまり親が逃げ出したり,死んだり。
 何故か涙が出る。健気に生きる子どもに私は弱いのだ。その後の食事と歓談。牧師を助ける学生や一般客との答弁。瞬く間に帰宅 の時間が来る。我々は帰らないといけない。「シー,ユー,アゲイン!」(元気でな!)9月に又来るよ!
 帰り,猛スピードで進む。マハラジャが車に酔ってダウン。アニーシャも体調が悪そうだ。休憩して松の葉を探すが無い。(松葉は酔い薬になるらしい)途中の食事も急いで済ませ家路を急ぐ。
 ヘダウダという街に到着したので,休憩を兼ねて買い物をする。包丁とスプーンと食器はマハラジャの母に土産として。私は日本では手に入らない銅の鍋を買う。アニーシャがしきりに値切ってくれる。逞しい!
 午後23:30 家に到着。車の音を聞きつけて門が開く。アニーシャが遂に屈みこんで吐く。我慢していたのだろう。意思の強い子だ。私はすぐ寝る準備をして,横になる。あっという間に眠っていた。さすがに私も疲れたようだ。先生はその後洗濯をして,冷水をかぶって体を清めたという。驚くべき体力の持ち主だと感心する。
5月11日(木)
 パンガ行。タクシーで出かける。運ちゃんが道を間違えて,さんざん蛇行して到着した。
 私には,ここの状況が少しも分からない。先生の説明も無いし,施設を作る話もない。京大院生の伊藤さなえさんに偶然再会して,一緒に震災で被災した爺さん,婆さんら3人を見舞う。献金をする。これで数ヶ月は食べることができる。皆必死で生きているのだ。皆で食事に行き,腹一杯ご馳走をする。彼等は常日頃は粗食なのだ。
 選挙が1週間後に始まるので,施設建設どころではなさそうである。どうやら,共産党(穏健派)が有力らしい。マハラジャの奥さんも選挙で今日も帰らない。父親が立候補している手伝いだという。夫婦で選ぶ候補が違うという。民主的だ。
 だから,ダルマスタディーの施設建設は選挙後になるという。のんびりしているのだ。日本の常識を持ち込んではいけない。時間の観念が緩いから,「時間通りに」という言葉は要らない。タクシーで,ジャカミ先生宅へ行く。今晩はここで泊まる。
5月12日(金)
 かつてネパールで無料医療を実践していた「岩村記念病院」の調査をする。病院は官警によって襲撃されたのを聞いたと岩村先生はいう。ジャカミ先生の息子ニラージが病院をネットで調べてくれて,住所が判明。さっそく行ってみることになった。岩村先生は行動する人だ。判断も超早い。ニラージが先導してくれる。この若者は本当に良い人だ。
 病院では,ランジット先生が対応してくれて,我々の訪問の事情が分かったので,Dr. 岩村の話や病院内の案内を詳しくしてくれる。Dr. 岩村の旧居があるというので,案内してもらう。約30分の所にあり,周囲は豪華な一等地。しかし,そこは,誰かが既に購入していて,商業施設が建設中であった。300坪位の住居地の中。帰りに3つ星と思しきレストランで食事をする。何と,トイレに紙があった。ランジット先生はウイスキーを飲む。私も飲む。大いに歓談してお開きとなる。ランジット先生は数か月後に日本に来るという。そう言って,自分で運転して帰っていった。飲酒運転だぞ!
 私は疲れて少ししんどくなって,帰ってからすぐ眠った。岩村先生もよく眠っている。今日もいびきが部屋中に轟いている。
5月13日(土)
 今日は帰国の日。朝食はゆで卵と茶。出発ギリギリにジャカミの奥さん,ニラージの奥さん,子どもも抱いている。その上,ニラージの弟が送りに間に合う。いいタイミングだ。
「ナマステ!」「ナマステ!」又,会いましょう!
 私と岩村先生は,うんざりする通関と長時間の待合時間をさらりとこなし,関西空港に降り立った。私はセブンアイに飛び込んでまず久し振りの焼酎を1本飲み干した。
 神様,お守りありがとうございました。

第4次ネパールボランティア体験報告 

ネパール行(岩村先生に同行)2017.1.24
2017.1.8~2017.1.14 平澤久紀

 真に厳しい体験でした。この1週間は私のこれ迄の人生経験を遥かに超えたものでした。私が岩村先生の話を聞いてネパールへの同行を決めたのは、出発の1週間前でした。
 本当は余りしっかり聞いていなかったのです。私はのんびりした所があるので、適当に返事したのでした。中国の成都で仮眠してカトマンズに入国したのが1月8日。雑踏と喧騒の中で待つこと3時間。友人は私達が諦めかけた頃、悪びれもせずやって来た。その人は、体格の良いスポーツマン。聞くと案の定、空手道場の先生だった。
 空港を30分も進むと、埃の中で道路沿いに店を開いている。思い思いに敷物を敷き、生活用品を売っている。こんな埃の中でも買い物をする人がいるのだ。車で約1時間走ったが、その間、ずっとそんな店が続いている。途中で彼の友人も加わり、会食する。英語と中国語の会話だが、書けば何とか意思は通じる。シュウマイの様な中華食、鳥の辛煮、ポテト、そして私は強い酒で夕食をする。大いに喋り、大いに彼らの将来の夢を聞いたことだった。応援できないか考えよう。彼は東京で「和道流空手」を習ったが、ネパールで孤立している。
 その夜は、ダリットの施設の中で泊めてもらう。彼らは、犬以下の不可触民。岩村先生は何処へでも潜り込む。特殊交渉能力があるのか。他人が躊躇することも、さらっとやってしまう。先生には、怖いとか躊躇とかの言葉が通じないようだ。
 先生は神様に全てを委ね物事を進めるから怖いものが無いのだ。死ぬことを何とも思ってないのじゃないか。そんな場面をこの後、私は、何度か経験することになる。

 翌日、ハリ・マハラジャン夫妻が颯爽とオートバイで迎えに来る。タクシーで後を追いかけてマナハリに向かう。50人ほどの子どもたちと先生方、お母さんが出迎えてくれて、歓迎会が始まった。歌と踊りに私も歌の返礼。この周辺は地震によって壊滅的に破壊されてしまった。住民は家族の様で助け合って生きてきた。あちこちで、「マナステ!」「マナステ!」の挨拶が飛び交う。私達はチルドレンホーム建設候補地を2箇所見て回ったが、奥地に広くて平らな場所が見つかった。良い所だ。カトマンズのハリ・マハラジャンの事務所に戻り、役人に来てもらって「契約書」を作成する。私と岩村先生の合作でOKになった。その間、約2時間。締結後、関係者でパスタを食べに行く。役人のお姉さんも途中から参加する。彼女は2人の子供を産んだ後、病気になって妹に看てもらっている。ここには、差別も無く普通に生活できる社会がある。貧しいが助け合いの社会が残っている。

 私は昭和18年生まれ。子供の頃、皆貧しくても元気だった。食べ物は少なかったが不満は無かった。親達も生きるのに一生懸命で、子供達は放ったらかされた。だから、子供達は自分達だけで野山を駆け、田んぼを走り、トマトを盗み、柿を取って食べた。誰も文句も言わず、見逃してくれた。「貧しくても楽しかった。」「何でも自分で作った。」「自由だった!」ネパールのダラムサリーにはそんな空気が存在する。私の子供の頃と違うのは、上に立つ人の質が違う。日本から送った援助金が末端の貧しい人に届かない。そんな社会は異常です。若い一部の教育を受けた人達が立ち上がった。彼らは訴える。「資金を何とかして下さい。やり方を教えて下さい。その後は、私達が責任持って頑張ります。」
 日本の皆さん!この貧しい子供達が教育を受け自分達の国を再建する応援をしようではありませんか!子供達にチャンスを与えてあげようではありませんか!
きっと、あなたにも出来ることがあります。ほんの小さい事で良いのです。

 最後に一つ事!小さい子供達に!
 頑張れ、痩せガエル!
 頑張れ、青ガエル!
 殿様ガエルになってネパールを救え!
 自分の足で立ち上がれ!
 勉強して祖国を救え!

 私達ができるのはそこ迄です。

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