「ご迷惑をかけて,すみません」「お世話になります。ありがとうございます。」

 神戸新聞,毎日新聞もボランティア参加を呼びかけてくださいました。急遽,参加できなくなった方もいたり,3人で向かうことになりました。マスコミ関係者には感謝しています。こんな少人数ははじめてです。

 漁ボランティアの「からさし」作業や,傾聴ボランティア,林ボランティアも機構に依頼されていました。なにより先月手で田植えした無農薬,有機の宮城県石巻市際前の田んぼの雑草が気になります。関西では,3年を経ると,宮城県石巻市の復旧,復興,再建が終わっているように誤解しています。ですから参加人数が極端に減ってしまいました。現地で期待して待っている方たちに,どう弁解したらいいものか申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 家内<参照>カヨ子は参加者が少ないなら,一ヶ月ぐらい休んだらどうかとも助け船を出しました。心房細動のため決して健常者と言えない妻が東北ボランティアで留守の間に発作でも起きたらと考えると,休む選択肢もいいかとよぎります。しかし,仮設住宅で3年近く生活し,終(つい)の棲家が見つからない石巻市の被災者たち,独居死,余震のたびにPTSD(心的外傷後ストレス障害)のように寝つかれない方たちのことを思うと,配偶者には心の中で手を合わせて,東北ボランティアへ向かうことになります。もっとも機転の利く妻が留守をしていないと,問い合わせの多い事務所ですから,<参照>カヨ子なしに自分ひとりでは何一つこれまでしてくれなかったことは確かです。

 本田寿久事務局長がJR朝霧駅前に送迎のため,いつものように来て,出発前に参加者に励みになる言葉をかけてくれます。福島県に重荷をもっているため,職場の関連で福島県の被災地訪問を継続しています。

 運転技術が巧みな村上リーダーと交替で通い慣れた東北道を走ります。四駆のハイエースは救急車とまったく同じ仕様なので,運転しやすく,快適です。寛大に提供してくださった玉の肌石鹸株式会社の三木晴雄社長は恩人です。スピードを出しすぎないように,安全に留意して向かいます。どこのサービスエリヤで休憩し,給油すればよいか40回も通っていると精通しています。おかげで,最後のサービスエリヤである菅生では2時間以上仮眠をとることができました。

門脇・南浜町

   廃墟と化した門脇・南浜町 1900世帯の内,約500人死亡

 6時半には静寂な石巻市街地,市役所横を通り抜け,石ノ森萬画館を左手に見ながら,門脇小学校前にたどり着きます。中州にあった日本で一番古い木造建築の石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂は津波で損壊が大きく,郷土の文化遺産として全体がどこかに運び出されて修理中のせいでありません。

 西光寺の敷地には祈りの杜があり,いろんな宗教の方が手を合わせるスポットも今春にできました。維持に東奔西走している樋口伸生副住職がはじめてこられた溝口さんに震災時の語り部を流し出してくださいます。奥さまも来られて,時間を忘れて,楽しい歓談をします。お墓には死んでからも差別されている漢字があるのを指摘されて唖然としました。石巻にも隠れキリシタンの墓もけっこうあることもわかります。
 「祈りの杜」のメモリアルセレモニーに出席したハリストス正教会の田畑隆平司祭もはじめて西光寺の境内に眠る教会の信徒の墓の訪問について,親しい関係ができたために,堂々と訪れることができるようになりました。

墓 壊 墓十字架 祈りの杜

 死後,「壊」を刻むのは普通ではないと樋口副住職が解明 右端 「祈りの杜」

 予定時間が大幅に過ぎたため,いつもなら被災の倒壊家屋や長浜の堤防決壊場所で旧渡波について説明をしますが,省いて,阿部捷一支所長のご自宅へ行きます。人数が3人ですから,復旧した1階の応接間にあげてもらい,石巻の歴史,なぜ阿部,安部姓が非常に多いのか,カッパの物語の起源などについてご夫妻とも話しこみます。
 佐藤金一郎ご夫妻の家に訪問したらお昼時になってしまいました。

 一次(生産)+二次(加工)+三次(販売)=六次の阿部都さんのおいしい昼食によって,機構のボランティアは助けられています。味が美味だけではありません。栄養価が高く,ボリュームもあり,なんといっても値段が高くないのです。参加者のみなさんは喜んで,昼,夕食も注文なさいます。通常,20名以上の参加の場合,調理がたいへんなので,希望通りの回数が実現しないこともあります。

ミヤコ弁当

 午後1時過ぎには,女川町住民の仮設住宅がある石巻市沢田の木村褜治区長が首を長くして私たち一行を待っておられます。3人しかいないので落胆しておられる心情が伝わってきます。なぜなら仮設住宅前の石巻バイパス沿道のシバザクラ植樹は約1キロはあるからです。親しくしている木村氏の願いどおりにやりとげようとファイトがわいてきます。地面を覆っている黒いビニールシートには碁盤の目に線が入っています。暑さ1.5ミリぐらいです。約20センチ間隔にハンマーで打ち下ろすようにして穴を開けます。振り下ろす力任せにシートを破っていきます。炎天下ですから10分もすると汗が噴き出ます。開いた穴の底に油かす肥料を入れ,深さ約5センチの穴にシバザクラの苗をポットから出して,村上リーダー,溝口さんが植えていきます。一箱に20のポット苗が入っています。

 シバザクラが育ってシート上に繁茂する際,邪魔者としてスギナがはびこります。つくしが終わって,根っこが一面に広がるスギナを取り除く作業にとりかかります。

 シバザクラ

仮設住宅前沿道

 シバザクラは来年の4月半ばから5月半ば頃まで沿道を覆います。

シバザクラ

ボランティア合間

 沿道の南側に女川町で被災した方々の仮設住宅がだけがあります。見渡す限り田んぼと林ばかりです。近くにコンビニ,ガソリンスタンド,病院などの建物はいっさいありません。永住するように建設されていない家屋構造ですから,住人たちの忍耐には頭が下がります。女川の仮設住宅の方たちは好意的です。齊藤さよ子さんは三人がさぞ暑くてのびてしまっているだろうと,冷えた手作りのゼリーを差し入れしてくださいました。斉藤さんは女川で被災し,何もかも無くした上に,住むところがありませんでした。目の不自由な92歳の母親と二人,どう暮らしていけばよいのか目の前が真っ暗になりました。女川町にかけあってもなかなか仮設住宅に入る便宜を諮ってもらえません。途方にくれていてもらちがあかないので積極的に仮設に入居できるように男勝りに交渉したそうです。その結果,30キロ離れた石巻市沢田の仮設住宅になんとかやってくることができました。現在,石巻バイパス仮設住宅のブロックの副会長としてお世話されています。帰り際に,石巻地方に生息する山野草の「しどけ」を鉢に入れて,プレゼントしてくださいました。ここの人たちの温かい気持ちを「しっとけ」と感謝しました。ちなみにしどけは漬け物にしたり,天ぷらにすると少し苦みがある高級な山の幸です。
 中村熊夫さん(71歳)は津波で奥さまが犠牲になり,生きる希望を一時期見失い,ご苦労をなさっています。中村さんも神戸からの若者たちのボランティアをいつも声をかけ,笑顔で迎えてくれています。中村さんは会長として艱難辛苦を体験した人たちの世話をこまめにしておられます。
 田んぼの雑草刈りや,シバザクラ植樹などにもくもくと作業をされる溝口さんの勤勉さには脱帽です。10人でもできない範囲を3人でやり遂げた二日目の午後3時頃,石巻日日新聞の阿部達人記者が植樹について取材にこられ,女川の被災者たちの体験談,木村区長の環境美化計画についても耳を傾けることができ,良い交わりができました。「いつからオガッていますか」と阿部記者が尋ねるのです。「しばらぐ 見ねうぢに ずいぶん オガッたごだ」。「オガル」とは「成長する」という意味です。東北弁にも3年してようやく慣れてわかるようになってきました。

20140627シバザクラ植樹

 溝口さんが「わたし,こんな作業が好きなんです」とおっしゃる言葉にも圧倒されました。ボランティアから帰ってきて,維持会費をご協力してくださる際,神戸市西区の契約している畑で「路上で生活をしている人」のための耕支縁にも参加したいと願い出られました。働き者でいらっしゃる方がご参加くださっただけでも感激でしたけれども,機構の地道な耕支縁活動にも関心を向けていただき,家内<参照>カヨ子と共に神様に感謝しました。

 二日目の昼休み,車で移動し,際前のヒトメボレの田植えの様子を見に行きました。雑草がはびこっています。僕と村上リーダーは田靴(やわらかい長靴)を履いて,田んぼに入り,抜いていきます。溝口さんは長靴で水田に入り,雑草抜きに黙々と取り組みます。長靴が脱げてしまうことなく,器用にバランスをとって作業をされます。北海道におられた時,農業の心得があったことをお聞きし,なるほどとわかりました。

 雑草刈り脇前

 せっかちな僕は抜き残しをしながら,皆よりどんどん先に行くと,亀山さんから「大将は,ヒエも育てるんですか」と冷やかされました。恥ずかしながら,イヌビエの短く,細かいものが結構残っていたのです。亀山さんは震災で酪農を廃業されましたが,幼い頃から農家で育っていますから,またたくまに雑草を抜いてしまわれます。短い長靴でもバランスを崩さず,移動します。つま先から泥に入り,かかとから足を抜くようにすると長靴が脱げてしまわないと教えたりしてくださいました。

 やり残しのシバザクラの沢田地区に後ろ髪をひかれるようにして戻ります。
 今回は,居宅介護支援事業所の仮の場所確保に時間を用いるゆとりはありませんでした。訪問できたのは丹野典彦さんの海苔づくりの現場に行くと,差し入れの冷えた飲物をいただきました。7月は前からの申し込みがすでにありますから,次回はいつものように農・林・漁のお手伝いをさせていただきますと,謝りながら,あわただしくあいさつをしました。「牡鹿新聞」社で,3回目の田植えの記事が掲載されている号を余分にもらい,亀山さんにも読んでもらうことができました。

20140523第3回田植え

 若い時から ずるがしこく,人を押しのけて這い上がって楽をしてきた人生。定年退職をして,悠々自適の生活に入る年代に,耕作,田植え,稲刈りなど肉体労働しようとは夢にも思っていなかったのが,慣れない手つきで鋤,くわを用いて土と格闘しているのです。一昨年,1回目の稲刈りで左肩が固まり,手が上がらなくなりました。一年間は左腕が使えず,村上リーダーたちに鞄を持つのも助けてもらわねばならない有り様。当初,複数のレンタカーで東北へ通うため,長距離ドライブ運転の影響で両膝に水がたまり,正座ができず,階段の上り下りに難渋していました。腕,ひざがなおったら,今回,神戸に帰ってよくみると,雑草抜きで指が二箇所,変形。不平,ぐちを言ってあわれみを受けようとしているのではありません。喜んでいるのです。骨がゆがんできて,痛みがあろうとも,体力がだれよりもあるのです。つまり,人生は帳尻が合うようになっていることが痛いほどわかります。神様がそうさせてくださっているのでしょう。かつて人を動かしても,自分は指一本動かさず,おいしい生き方をしてきました。その反動を刈り取っているにちがいありません。だから感謝なのです。きちんと清算ができいると胸を張れるからです。たとえば,家族のように接していた戸村若文氏たちは僕のために手足になって労苦してくれた時代がありました。今はこの世にいません。僕みたいな罪深い者に陰で常に支えてくれた彼らの荷を背負う機会が与えられました。彼らが心から願った差別,偏見,抑圧のない社会が来るように,「田・山・湾の復活」のために喜んで体力を用いていきたいと願っています。
 目の前で,孤独死,孤立死に直面する人々,親をなくした子ども,生きる場がない被災者たちは教えてくれます。自分は何も持たないようであっても,豊かなものを持っていることに気づかせてくれます。妻がおり,実の子のように仕えてくれる若者,そして体力が僕にはあります。金銀のような冨はないですけれど,三つもあるのはぜいたくというものです。共生,共苦,苦縁をもってつながっていける恵みを感謝したいと思います。
                                           岩村義雄

 

 溝口さんのレポートです。

 震災から3年あまりもたち,東北にも,ボランティアもはじめてで今さら…と自責の思いと少しの緊張感を もちながら第40次東北ボランティアに参加させていただきました。JR朝霧駅で出迎えていただいた岩村代表の奥様が,はじめて見送るために駅に来ていただ いたとお聞きし,車中とてもありがたい気持ちで出発することができました。感謝です。
 被災地に立たたせていただき,迎え入れてくださった西光寺 の樋口副住職,阿部捷一支所長,沢田の木村区長,田んぼの亀山繁さん,朝食をごちそうしてくださった修空館の小野寺ご夫妻,阿部 勝さんご夫妻,勝徳さん,奥さまの都さん,みなさんあたたかく家族のようにもてなしていただきました。芝桜の植樹や,機構の田んぼの雑草取りの作業の合 間,地元の方々にお話を聞かせてもらうことができました。作業日程を終え,疲れの残る中で帰路の14時間あまりの運転をしていただいた岩村代表と村上リー ダー。  
 帰り際、代表が「“迷惑をかけてすみません。”から“お世話になります。ありがとうございます。”の世界に変えていきたいんです!」と,手をあげて見送ってくださったお姿。感謝です。
 4日間で体験させていただいたことは大きく,私自身の現在,過去,未来を振り返り,思い描き,今,静かにヴィジョンを探し求めている状態です。今回,何もできなかったうえ,約束の報告レポートも思いをうまくまとめることができず申し訳ないです。今後もお世話になります。
                                           溝口智子