Volunteer-Do (= The Principle Way of Volunteer)

2016年5月1日(日) 東京大学本郷キャンパス

完全原稿 ⇒ 「キリスト教とボランティア道」
英文完全原稿 Complete manuscript of  English ⇒ “Christianity and Volunteer-Do” 20160501

20160501東京大学にて

『石巻かほく』つつじ野⑧ ボランティア道 (2017年11月21日付)   Volunteer-Do (= The Principle Way of Volunteer) “Ishinomaki Kahoku”, Tsutsujino ⑧ (November 21, 2017)

『石巻かほく』つつじ野①~⑨ (2017年10月30日~11月28日)のすべてをご覧になりたい方
 
Volunteer is not a “movement”, but its more “activities” of “unpaid”, “voluntary” and “dialogue”.
Firstly, we do it “unpaid”. Participants pay own travel expenses, food expenses and accommodation expenses to go to the site. From the economic view, it is “unpaid working” and seems lost. There are a custom of reciprocity in Japan. If someone helped you for planting rice, you will help harvesting in return. It has become an adhesion to join communities together. However, the volunteer-do never sells a favor and does not as for return. We continue our activities with donation from hearty people. The word volunteer derived from English word “will” and it is also originally from “volo (on one’s own free will)” in Bible.
Secondly, it is “voluntary”. It is distinguished from “奉仕 Houshi (= to serve)”. “Houshi” is the originally from “to serve in honor”. Japanese dictionary defines “Houshi” as “Serve without consider the interests of the state, society and authorities”. It includes the hierarchical relationship between a “servant” and a “recipient”. When “奉 Hou” got together with “亻(=person)”, the idea to think that appropriate to give salary was born. From the Meiji Restoration, “paid” led by the “government” became common. Such as transportation expenses are allocated. After the Great Hanshin-Awaji Earthquake, NPOs were born nationwide like bamboo shoots after the rain. And paid-volunteers increased without noticing it. If the activity cannot be sub-organization of the “government” and out of subsidy, it will fade away.
Thirdly, “dialogue” is the life line. If there is a “groan”, we immediately go to the place. You cannot be close together to the victims on the desk. It is an onsite-based activity. To be together means completely to fit into the situation and convenience of the other person. There is no chance to swing to the position that I want to do volunteer but I want to do something fun now. It doesn’t ask for conditions, qualifications and experiences. It shows a way of life through smiling, tone of voice, and “氣 Ki” of attitude. It based on individual activities, not movements. Volunteer-Do is a way of life, so any one can do volunteer work. 

季刊誌「支縁」ボランティア道 No.21(2017年11月10日 4頁)。

「田・山・湾の復活」の完全原稿 その一~その十四 「田・山・湾の復活」 季刊誌『支縁』 No.1~No.14 (2013年2月3日号 4頁)
英文「田・山・湾の復活」その一~その十四 Complete manuscript of  English ⇒ “Resurrection of Rice Field, Mountain, and Bay” Quarterly journal “Shien” From 20121103~

Part 13: Stand Alone                                 Shien No.21 (20171110 p.4)  

Kenji Miyazawa [1896~1933] is the great person from Tohoku region. Kenji had not written any book about “disaster”. Interestingly, his birth year is 1896. There was the “Meiji Sanriku Tsunami” that established the word “Tsunami” as a global common language in that year. The total 21,915 deaths is still the highest number of victims of the Tsunami. It is also after this time that this place became known as “Sanriku” in Japan. A year when Kenji passed away in 1933, there was the “Showa Sanriku Tsunami”. Kenji’s lifetime began in the year of the disaster and died in the year of the disaster. If Kenji was still alive at the time of 3.11, what kind of action did he do? It is written in his book “Haruto Syura, Vol.3” that “Go one by one as if you got encouragement like fire on your back”. He was not a type to make his action just because everyone else does by organizing groups or parties. Therefore, he probably stood “alone” against the idea of “authorities” that locate people, who came from entire Japan to do volunteer, from 9am to 5pm with letting them wear numbers, and also for the Self Defense Force that does not know on the geography of the affected area and the nuclear power plant that caused meltdown.

Our organization encountered the family divorce and loneliness through volunteer listening at the affected area. We are painfully aware of our “helplessness”. It is apt to be in “Nihilism”. “There is no use of doing” is a common lethargic reaction. However, for the Volunteer-Do, when you feel of “helplessness” is a point.

“Sympathize” is the basic motivation. It is fine that you cannot clean muds nor remove the rubble. However, Everyone can sympathize with the unfair death, lonely death and anxiety.

Kenji recommended standing “alone” to “sympathize” and “share sufferings”.

2016年10月17日 <参照>ボランティア道の母逝く

2015年1月9日,阪神・淡路大震災20周年にあって,ボランティア
元年からの小さな働きについて,ラジオ関西のインタビューを受けま
した。

ボランティア道看板

村上裕隆君 ひょうご青少年活動フェスティバル実行委員会で展示

はばタン文字

 

東北ボランティア参加者集合しました!
 青活祭フェスティバル,2018年2月25日,神戸市元町商店街とタイアップ。
 神戸国際支縁機構の展示パネル,募金活動,ヨガ体験など。
 村上裕隆代表中心に,宮田佳典チーフ,藤井真代(第8次,26次,34次,添え書き),ネパール訪問重田大輝君(第17,19次),バングラデッシュ訪問仲井勝巳さん(第29,42次)など34名。
 同日に県民会館で機構の総会が本田寿久事務局長の開会あいさつでスタート。維持会員の平野昌司市会議員も出席されています。4つの議案が採択されました。

イタリア募金 「ふれあいの祭典 丹波ふれあいフェスティバル」にて 2016年10月30日

丹波の森あいフェスティバル」で神戸国際支縁機構はブース出展。2016年10月29,30日,神戸市西区で栽培した無農薬,有機の野菜を提供。谷口浩平君(第61次,第3次ネパール・ボランティア)が参加団体のすべての実行委員長を務めました。若者たちが募金を訴え,万年赤字のボランティア団体を支えます。

20150208デュオ神戸e

本田寿久事務局長作成の看板が会場で際立っていました。本田洋子夫人もかけつけてくださいました。

「震災後のボランティア道」 ラジオ関西 2015/01/09 午後6時30分~45分

                     (社)神戸国際支縁機構
                         代表 岩村義雄

<序> 阪神・淡路大震災は1995年1月17日午前5時46分に起きた地震により,6,434名,東日本大震災は2011年3月11日午後2時46分に約2万人の命が犠牲になりました。あれから20年,また4年,都市機能は一見回復したかのように見えますけれど,人間が置き去りにされたように思います。人間復興が大事ではないでしょうか。
 いとおしい人との切ない別れに,「千の風になって」の歌詞を聞いて涙ぐむ人も少なくありません。
 「借り上げ復興住宅」の入居期限は20年です。一人暮らしの高齢者が多く,終(つい)の棲家(すみか)をも求めています。そこから出て行かされると,入居後築いてきた人間関係はおざなりになります。JR兵庫駅前の訪問しているキャナルタウンも90%が高齢者ですが,どんどん追い出されるように移転しています。
 阪神・淡路大震災がボランティア元年と言われます。あれから20年,ボランティア道とは何でしょうか。

(1) ボランティア道とは何か

 ボランティアは被災者が人生行路を誤らないように,苦海をいたずらに漂わないようにします。寄り添うように小さな働きを通じて,人々との関わりをもっています。
 日本人だけでなく,人間は「○○道」とよく使います。茶華道,武士道,騎士道などございます。聖書でも「道」[ギリシア語 ホドスホドス]は(人生の)行路,生き様,生き方を意味します。
 ボランティアも人間である以上,時に判断を誤ることもあります。たとえば,丹波水害時のように,ボランティアはいらないと断わりの行政発表があったとしましょう。もうボランティアの役割は終わったと関わりをやめてしまう早合点です。ドロ出し,がれき処理,物資援助から少しずつ軌道修正し,傾聴ボランティアに軸足を移していきます。「咲くまでは草と呼ばれる野菊かな」とさりげない触れ合いを続けていこうとします。見た目の回復や情報の荒波に翻弄されることなく,ぶれない働きを続けることが求められます。
 1995年からボランティアのグループは表札のないお年寄りの家を戸別訪問してきたり,身寄りのない方の身元引受人になったり,家事,買い物,散歩などにご一緒したり,メディアにも注目されない働きがなされています。 ボランティアは社会全体の制度を決め,運営に貢献するのではありません。制度を支えるエネルギーを提供するのでもありません。ボランティアは外見上,わからないように縁の下の力持ちとわきまえます。聖書の「隣人を愛しなさい」を黙々と実践します。

(2) 日本特有の復興姿勢

 約20年経ち,LSA(生活援助員)がおられても60パーセント以上の被災者が独居,孤独,激しい高齢化で見離されています。認知症,家賃の値上げ,健康面のむずかしさにほんろうされています。
 日本は国土が狭く,他国との陸続きの国境もありません。狭いからこそ根付の国として手先の器用さによってきちんと完全なものを造ることができます。一方,大陸では細部にこだわるより,本質は何かを常に問い,探ります。 仮設住宅にしても,家の中はきれいにしていますが,周囲は物を整理せずに雑然としています。チェルノブイリ原発事故の後,農家を見渡してみますと,景観が日本より整っています。
 私たちは自分の範囲を決めて,きちんとまじめ,誠実にやろうとします。ですから内と外が異なるのです。
 神戸市長田区の御菅(みすが)西地区は震災で約8割が焼けました。制度として,復興区画整理事業が行われました。被災した住民の8割は元の場所に戻ることを望みましたが,実際に戻ることができたのは3割足らずです。
 復旧,復興,再建をなんとか制度で解決しようとしてきました。ハコモノのプロジェクトを考え出します。神戸空港,地下鉄,先端医療技術などです。前より立派なものを造ろうとします。バブル経済がはじけ,地価は下がりつつあったにもかかわらず,まだ右肩上がりの成長へとあせります。震災前より立派に,より大きく,高くという発想で復興が進められてきたのではないでしょうか。

(3) 制度より人間をたいせつに

 敗戦70年ですが,敗戦直後は「人間とは」の問いを日本人はすべからず真剣に考えたのではありませんか。
 阪神・淡路大震災という未曾有の艱難辛苦を体験して,避難所などで隣人や見も知らない人,在日コリアンなどと心から会話する機会が生まれました。東日本大震災が4年前に起きた時も夢のような共同社会が瞬間風速ですが生まれました。 石巻市では住民の半数以上を高齢者が占め,存続が危ぶまれているところに大地震,津波が襲いました。いわゆる「限界集落」です。集落維持ができません。 震災失業,人口流出,消費税があがり,2007年,夕張メロンで有名であった夕張市が破産宣告をしたように,次は自分たちの街もそうなるとこぼす人たちが少なくありません。日本の復興はこの程度なのに,原発再稼働,リニア,オリンピックとはあきれかえります。現代人の貪欲さが被災,被曝,孤独死,孤立死を忘却させ,他の人を顧みなくさせています。

 したがって,制度では人を救えません。人は人によってしか変えられません。不安,独居,孤独に寄り添うのは制度ではできません。人間です。復興から立ち直った寺社仏閣,教会,宗教施設は単なる風景にしかすぎません。愛する者を失った哀しみ,自分だけが生き残ってしまった哀しみ,親しい者の哀しみに寄り添えないことの悲しみ,他者の哀しみを自分の哀しみに感情移入できるのは人間だけです。ボランティアは悲しみを入れる器です。

<結論> きれいな野菊と見るのは人々の目であり,評価にすぎません。自らはそうした人の目を気にせず,黙々となすべきことを行っている姿こそ尊いもの。人知れず,仕えていくのです。ボランティア道とは一人ひとりは痛みつけられた人々に支え合って,つながって織りなす共同体の下働きです。

 季刊誌「支縁」No.11 第三面から

 現地の人たちの痛み,苦しみ,くやしさに寄りそうには機構の力はあまりにも微力です。
 「人の苦しみをやわらげてあげられる限り,生きている意味はある」 と,ヘレン・ケラーは書きました。

 資格,技能,体験が豊かな人たちは軍隊(自衛隊),政府,行政と連携しながらプロジェクトを実施できます。ハコモノを造るには周到な企画,運営機関,実施する財政が伴います。
 幼い子ども,とりわけ孤児,働きの大黒柱を失った女性,独居の高齢者は,一番後回しになります。阪神・淡路大震災や,東日本大震災は良い実例です。被災から立ち直るには,手厚い思いやり,気遣い,ケアが必要です。ハコモノの復旧,復興, 再建が緊急,迅速,潤沢な資金が投入される一方で,忘れられている陰があります。見捨てられ,息をひそめている哀しみがあります。光と闇の二極です。孤児や寡婦にとり,空港,地下鉄,高度な医療施設とは無縁です。
 ボランティア活動も二極性があります。潤沢な資金を用いて,外観を震災以前に戻す作業は歓迎されます。一方,目立たないゲリラのような訪問活動は地味です。マニュアル,周到なスキル,資格を効率よく展開するのでもありません。行政,専門家,医師たちが到着する前に,息も絶え絶えの人たちのところにだれよりも早く赴むきます。ライフライン,衣食住,健康に必要な生活を失った人たちの状態を見つけ,近づき,手当し,お世話します。時には,食べ物,生活費,応急手当を施します。
 機構は後者に徹します。目立たない仕える働きです。パイオニアの精神,サバイバルに必要な智恵,徹底して仕える謙遜さが求められます。話し合う友として,語る対象を失った人たちの呻きの孤独に隣り合わせるのです。「喜ぶ人と共に喜び ,泣く人と共に泣きなさい」 (ローマ 12:15)と寄りそうのです。西暦1世紀,マリアとマルタは兄弟のラザロがなくなり,悲しみに打ちひしがれていました。「イエスは,彼女が泣き,一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て,心に憤りを覚え,興奮して,……涙を流された」 (ヨハネ 11:31-35)と記録されています。宗教者であろとなかろうと,哀しみの息により,横隔膜の筋力が弱っている人に出会うならば,感情移入するものです。 「終わりに,皆心を一つに,同情し合い,兄弟を愛し,憐れみ深く,謙虚になりなさい 」 (Ⅰペテロ 3:8)の気持
ちに揺り動かされます。「同情し合い」(ギリシア語 スムパセーススムパセース「共に」+「痛む」の意。英語sympathy ≪同情,あわれみ,同感≫の語源)が動機になります。
 つまり,同じ痛みを共有します。共苦を自然体で表します。「心を一つ」(ギリシア語ホモフレーン ホモフレーンa「横隔膜を一つに」の意)
になってはじめて他者との間柄性が生まれます。

 苦縁には,社会的な資格,学歴,技術は重要ではりません。へりくだりの精神が何よりもたいせつです。他者のために役立ちたいという志があればだれでもできます。
 ボランティアは専門家でなければならないというわけではありません。弱っている人に感情移入できる人ならば特別な資格,訓練,知識がなくても務まります。つまり最も大切な資質は心です。なぜならば,辛い思いをしている人と横隔膜で接するからです。
 2011年からの学生たちの東北ボランティアでの働きを通じて,確信します。まったくの素人であっても,被災地では強力な助けになります。道路を造ったり,破壊された岸壁を修復したり,手術などの医療を施すわけでもありません。家族,友,家屋を失った人たちのそばに存在しているだけです。「人間」(じんかん)に居合わせているようにします。孤独さ,不条理な死,明日の生活を不安な人たちと向かい合います。
 「独りぼっちではないんです」
 「神戸の僕たち,私たちは続けて来ます」
 「みんなで乗り越えましょう」
 と心でつながる契機,「支縁」が「死」んだ生活に息吹を吹き込みます。共生, 共苦,苦縁によるコミュニティの誕生です。

季刊誌「支縁」No.12 第三面から
 第2次ネパール・ボランティア報告   植地亮太(第42次,丹波水害)

 東北ボランティアに参加して,自分のためだけではなく,他の人々のために少しでも役立ちたいと考えるようになり,8月30日~9月7日,もてるものとして体力,時間,少しのお金によって,海外ボランティアに挑戦しました。生まれてはじめて訪問する外国,それも4月25日に阪神・淡路大震災以上であったネパールです。カトマンズ空港に着くと,ネパール人の熱気,笑顔,談笑の勢いに驚きました。道行く車,単車,自転車もエネルギッシュです。豊原正尚副住職にチベット仏教の寺院に案内されました。
 初日の夜は,岩村代表は貧しく定職,持ち家,結婚において差別されているダリット層と親しくなります。泊まるホテルも地震でだめになっているから寝袋を持っていくぐらいに思っていました。しかし,違うのです。ボランティアは家や家族,財をなくした人たちに寄りそうために,野宿するのだと言われます。大切なモノを失った人に感情移入するには,「~してあげる」という上からの目線では心が通じません。実際,東北ボランティア,前回のネパール訪問やバヌアツなどでもボランティアはホテルに泊まりません。貧しさ,乏しさ,空腹を共有してこそボランティア道なのだと学びました。初対面にもかかわらず,彼らは見知らぬ日本人のために,地面に寝床をつくってくれたり,温かい人情味あふれる接し方に心打たれました。寝袋がとても暖かく感じ,休みました。
 ネパールも日本も同じ多神教の国です。日本の「能」の筋書では,旅人が一夜の宿を乞うと必ず門前払いです。「一見さんお断り」なのです。日本とネパールはずいぶん異なるなあという印象です。日本のJRや乗り物で出会う初対面でも家族のように受け入れ合うようになればいいなあと寝床で思いながらいつしか熟睡していました。

第三面①20150901ビゼソリ寺院清掃後

ビゼソリ寺院 左端 筆者 隣 代表 右端 村田義人さん

 フォークや箸を使わず,右手で食事をし,道ですれ違う人にも「ナマステ!」(こんにちは)とあいさつする習慣にもすぐに慣れました。二日目は,ネパール人の心のふるさとであるビゼソリ寺院 Bijeswori templeに連れて行かれました。そこで一緒に行動している大学生村田義人さんと清掃ボランティアをしました。旅行者と異なり,現地の人たち,被災した人々と共生するボランティア体験は与える側というより受ける側の感動,未知の人たちとのつながり,縁がとても強烈でした。してあげたという感覚はなく,むしろ「サンキュー」と言われたりすることによる励ましをこちらがたくさんいただきました。ネパール人は物質的には決して裕福とは言えません。しかし,よそ者であろうとなかろうとふところが広く,惜しみなくもてなしてくれます。私たちがぜいたくをしないで,ボランティアの格好,態度,笑顔をしていること,被災地で少しでも役立ちたいという気持ちが伝わり,そうしてくださったのでしょう。

ネパール報告会各紙カラー

新聞寄せ集め 2015年9月16日,県民会館で報告会

 3日目は,マナハリという田舎に行きます。アデッシュさんの家族や,キリスト教会にも泊めていただき,お腹がはちきれるほど食事などで歓待されます。ボランティアは貧しい人たちと共生するということの体験を深めていきます。大都会のカトマンズは,震災後,約3ヵ月を経て,倒壊家屋を脇目にお金持ちはどんどん元のぜいたくな生活に戻っていく面が見受けられました。一方,数時間離れた地方に行きますと,つつましいながら,親,家,友達を失った子ども,孤児たちは歯を食いしばって耐えています。私たちにできることは限られています。孤独な子どもたちに寄りそうことによって,彼らが大人になったとき,同じように,寂しい思いをしている人たちに積極的に近づくことができるようになればいいなあと思ったりしました。
 未知であった国に出かけ,庶民はどこの国でも正直であり,お互いに受け入れあうという見聞を深める機会を与えてくださった神戸国際支縁機構に感謝します。たとえお金がなくても,言葉が通じなくても,文化がちがっても世界中の人たちと親しくなれる自信が深まりました。大学を卒業して,日本と海外を結ぶさらなるチャレンジをしたいと願うようになりました。おそらく国内にいただけなら思いもしなかった契機でしょう。ありがとうございました。

クリスチャン新聞(2016年10月23日付)

クリスチャン新聞(2016年10月23日付)