第4次ネパールボランティア報告

第4次ネパールボランティア報告

2017年から,故人の残した預貯金は「カヨ子基金」(英語名“Kayoko Fund”)として海外被災地の孤児のために用います。

⇒「カヨ子基金

 海外の孤児たちの教育費に用います。日本と比べて,物価は十分の一ほどです。ネパール,バヌアツ,ベトナムの親を自然災害などで失った貧しい子どもたちが大人になることができるように,毎月,一口3千円ずつ自動引き落としを通じて,あなたのお心をお伝えください。

 郵便振替     口座 1434096549731  加入者名  カヨ子基金
  ※ 自動引き落としの手続きの詳細は,⇒ 「里親お申し込み」
  ※ 不明は事務局にお尋ねください。

 海外の被災地において,弱者に寄りそう活動を行うことにより,地域の子どもたちにとって安心して生活,教育ができるよう切においのりします。宮田佳典 2017年2月5日

「カヨ子基金」『クリスチャン新聞』(2017年2月26日付) Kayoko Fund

2017年1月8日(日)~1月15日(土) 報告


 一年で最も寒いネパールに2名で向かいました。登山の熟練者である平澤久紀氏は,コンパクトな荷物で参加され,強行スケジュールにも決して音を上げることもなく,現地の人たちに溶け込まれました。

 関空に二人を村上裕隆代表が送迎。

出発直前 関空にて 2017年1月8日

 2年前の大震災の爪痕はほとんどと言ってよいくらい復興していません。

 初日の夜は,ダリット Dalit 不可触民(ヒンドゥー社会の中でも最下層階級 「触れると穢れる人間」「困窮した人々」「押しつぶされた人々」「抑圧されている人々」)『ヴィシュヌ法典』(100~300年頃)の宿泊場所に泊めてもらいました。住民票に相当する身分証明書を所持していないダリット層はライフラインのない生活をしています。 
 夜10時頃まで,たき火で身体を温めて,横になります。ダリット層を襲う連中から身を守るためねぐらの周囲はブリキなどの塀で囲み,人が入ってこないようにしています。

 東北,熊本もそうですが,ネパールには「復興」という文字が永久に訪れないかのような衝撃を受けます。そんな中でもネパールの人々はたくましいです。「日本の自殺願望者を連れてきたい。いっぺんで萎えた心が吹っ飛ぶ」と平澤兄が発しました。一日中,車,人々のあいさつ,動物の鳴き声がうるさく飛び交いますから,やおら人の声もでかいのです。

 ダリットたちと暖を取るボランティア道は旅行ではありません。学校教育,ボーイスカウトなどの団体はトイレと水が必須です。しかし,ボランティア道は水とトイレがない地帯にゴキブリのように入っていきます。ですから,ホテルや宿などに宿泊することはせず,寝袋を持参して,被災者や,人権を抑圧されている人共に起居します。東北ボランティアも70回以上足を運んでいますが,一度も旅館などの宿に泊まることはありませんでした。

ダリットたちと暖を取る

 ネパール全体,どこへ行っても水は非常に貴重です。一滴も無駄にできません。

カトマンズ市街地

カトマンズ市街地

 喧騒な街並み,信号がなくてもクラクションで間一髪の運転を乗り切ります。多神教のネパールでは基本的に殺生を好みません。レストランなどの壁にも地獄絵図があります。動物をむやみに殺すと地獄で責め苦に遭う有り様を人々は信心しています。宗教心が幼い時から培われ,性道徳についてもモラルは高いです。道路のいたるところににわとり,牛,やぎなどがいます。ひかれることもなく,ゆうゆうとラッシャアワーの中を闊歩しています。


 東北ボランティアは,「心の復興」が著しく遅れていますが,ネパールはどこもかしこも劣悪な仮設住宅です。東北以上に目に見える復興も進んでいません。

 クラウドファンディングで目標額100万円達成。孤児たちのための施設建造費として昨年9月に引き続き,手渡しました。歓迎式典が開かれます。≪動画参照≫ ダラムサリィの孤児たちが集まりました。

ダラムサリィでの孤児たちの歓迎

ダラムサリィ・チルドレン・ホーム1階

2階 完成予想図

ダラムサリィ仮設住宅

 住民の95パーセントは仮設住まいです。震災前の家に住める人は10人にすぎません。21人が死亡し,150戸の家屋は撤去しなければなりません。一部屋の仮設に大家族が住んでいます。夏は暑く,雨期は雨の音がうるさく眠りに就くことができない劣悪な状態です。

 ダラムサリィには,昨年9月も東北ボランティアによって他者のために時間,体力,交通費を用いるようになった神戸国際支縁機構の大学生たち村田義人君,谷口浩平君の二人が訪問し,学校に通えない子どもたちに救援金を手渡していただきました。

 日本で言えば,東京大学に相当する国立トリブバン大学(Tribhuvan University)を卒業した夫婦ハリ・マハラジャン夫妻が,孤児たちのために情熱をもって取り組んでいます。現地のコミュニティやCCHにおいても,絶大な信頼を得ている青年実業家です。奥さまは料理が上手であり,学校の教師です。ダラムサリィの復興はこの夫婦の肩に掛かっていると言ってもよいぐらい,村民達から信頼されています。
 土地も村の有力者から提供されました。2年毎契約更新になっており,無償です。

ダラムサリィ・チルドレン・ホーム 統括責任者 ハリ&サラワスティ夫妻

 孤児たちは,ライフラインがない状態で,生き延びるためには,ダラムサリィ・チルドレン・ホームが早く完成することを願っています。2017年5月には入居可能になる予定で急ピッチで進められています。
 マナハリでも昨年9月から孤児たちのために,マナハリ・チルドレン・ホームの建造が始まっています。

マナハリ・チルドレン・ホーム

 寒くて,夜眠られない気候。しかし,ネパールの子どもたちは靴下を履いていないし,靴すらもない。貧しいというより,最貧国であっても,子どもたちは大人になることができるのか,日本からのみなさんの応援にかかっています。菊池則子さんをはじめ,日本から寛大な救援金をいただき,マナハリ・チルドレン・ホームも5月に完成するのを子どもたちは待ちきれません。

,マナハリ・チルドレン・ホームが5月に完成するのを子どもたちは待ちきれません。
 5月には,オープニング・セレモニーを計画しています。

マナハリ・チルドレン・ホーム 現場監督 アデッシュ・スイング


 パンガにおいてもジャナク事務局長たちが建設計画を始めています。
 いずれも,土地は現地提供,運営資金は現地の事務局が負担し,神戸国際支縁機構は建造費の100万円を支縁します。合計3か所で完成を待っています。

 こうした貧しい子どもたちが学校に行き,教育を受けられるように,「カヨ子基金」を設けて,日本人の里親になってくださる方を探すことを現地で決意しました。毎月,ひとり一口3千円の支縁があれば,孤児たちは学校に通い,基本的な生活をして,大人になることができます。

「カヨ子基金」ネパール Kayoko Fund

首都カトマンズで見かけた清掃トラック。

ネパール行(岩村先生に同行)2017.1.24
2017.1.8~2017.1.14平澤久紀

 真に厳しい体験でした。この1週間は私のこれ迄の人生経験を遥かに超えたものでした。私が岩村先生の話を聞いてネパールへの同行を決めたのは、出発の1週間前でした。
 本当は余りしっかり聞いていなかったのです。私はのんびりした所があるので、適当に返事したのでした。中国の成都で仮眠してカトマンズに入国したのが1月8日。雑踏と喧騒の中で待つこと3時間。友人は私達が諦めかけた頃、悪びれもせずやって来た。その人は、体格の良いスポーツマン。聞くと案の定、空手道場の先生だった。
 空港を30分も進むと、埃の中で道路沿いに店を開いている。思い思いに敷物を敷き、生活用品を売っている。こんな埃の中でも買い物をする人がいるのだ。車で約1時間走ったが、その間、ずっとそんな店が続いている。途中で彼の友人も加わり、会食する。英語と中国語の会話だが、書けば何とか意思は通じる。シュウマイの様な中華食、鳥の辛煮、ポテト、そして私は強い酒で夕食をする。大いに喋り、大いに彼らの将来の夢を聞いたことだった。応援できないか考えよう。彼は東京で「和道流空手」を習ったが、ネパールで孤立している。
 その夜は、ダリットの施設の中で泊めてもらう。彼らは、犬以下の不可触民。岩村先生は何処へでも潜り込む。特殊交渉能力があるのか。他人が躊躇することも、さらっとやってしまう。先生には、怖いとか躊躇とかの言葉が通じないようだ。
 先生は神様に全てを委ね物事を進めるから怖いものが無いのだ。死ぬことを何とも思ってないのじゃないか。そんな場面をこの後、私は、何度か経験することになる。

 翌日、ハリ・マハラジャン夫妻が颯爽とオートバイで迎えに来る。タクシーで後を追いかけてマナハリに向かう。50人ほどの子どもたちと先生方、お母さんが出迎えてくれて、歓迎会が始まった。歌と踊りに私も歌の返礼。この周辺は地震によって壊滅的に破壊されてしまった。住民は家族の様で助け合って生きてきた。あちこちで、「マナステ!」「マナステ!」の挨拶が飛び交う。私達はチルドレンホーム建設候補地を2箇所見て回ったが、奥地に広くて平らな場所が見つかった。良い所だ。カトマンズのハリ・マハラジャンの事務所に戻り、役人に来てもらって「契約書」を作成する。私と岩村先生の合作でOKになった。その間、約2時間。締結後、関係者でパスタを食べに行く。役人のお姉さんも途中から参加する。彼女は2人の子供を産んだ後、病気になって妹に看てもらっている。ここには、差別も無く普通に生活できる社会がある。貧しいが助け合いの社会が残っている。

 私は昭和18年生まれ。子供の頃、皆貧しくても元気だった。食べ物は少なかったが不満は無かった。親達も生きるのに一生懸命で、子供達は放ったらかされた。だから、子供達は自分達だけで野山を駆け、田んぼを走り、トマトを盗み、柿を取って食べた。誰も文句も言わず、見逃してくれた。「貧しくても楽しかった。」「何でも自分で作った。」「自由だった!」ネパールのダラムサリーにはそんな空気が存在する。私の子供の頃と違うのは、上に立つ人の質が違う。日本から送った援助金が末端の貧しい人に届かない。そんな社会は異常です。若い一部の教育を受けた人達が立ち上がった。彼らは訴える。「資金を何とかして下さい。やり方を教えて下さい。その後は、私達が責任持って頑張ります。」
 日本の皆さん!この貧しい子供達が教育を受け自分達の国を再建する応援をしようではありませんか!子供達にチャンスを与えてあげようではありませんか!
きっと、あなたにも出来ることがあります。ほんの小さい事で良いのです。

 最後に一つ事!小さい子供達に!
 頑張れ、痩せガエル!
 頑張れ、青ガエル!
 殿様ガエルになってネパールを救え!
 自分の足で立ち上がれ!
 勉強して祖国を救え!

 私達ができるのはそこ迄です。

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