牡鹿半島 聞き取り調査 (3)  名振

石巻市名振コミュニティセンター 聞き取り調査 岩村義雄
                     2011年7月13日

 2㎞ほど北へ移動する。「名振避難所」というマジックでベニヤ板に書かれた50センチの看板。左に曲がると,阿部氏が約束していた曹洞宗満照寺に入った。

  名振入口        雄勝町名振コミュニティセンター 入口

 畑山貫梁住職(55歳)と温和な登美子夫人が待ちかねていたように,避難所に案内した。仮設住宅が並ぶ隣に,2000年建造の旧船越小学校名振分校がある。児童の数が少なくなったあおりで,市町村合併するのに交換条件として分校ができた。阿部氏もかつて校長であった。住民に慕われる校長として,地域の役員会に必ず出席することは条件であったようだ。体育館のような建物がある。入口に名振コミュニティセンターの表示がある。すでに32戸の仮設住宅のそれぞれの玄関などの前にはちょっとした園芸があった。入居を待ちきれない人々の息づかいが伝わってくる。センターの入口では,菖蒲の生花を水切りしている女性にあいさつをすると,「お待ちです」と中へ案内された。女性の避難者が多いせいなのか,さつばつとしていない。200人ぐらい収容できる分校が避難所になっている。名振村の主だった方々が8人ほど待っていた。丸く向かい合った。自己紹介した。新免氏は名振に三回目の訪問である。

 

                          秋山文子,ボランティア,永沼豊子,大和美代子,藤野せい子
                            中山時徳
                 高橋喜代夫,  畑山貫梁,  岩村義雄,  新免 貢,   阿部捷一

 震災直後,名振湾の住民はいっしょにコミュニティを築いた。90戸の内,14戸だけ残ったにすぎない。残った14軒の家も地震で家具や水屋の茶碗など粉々になった。死者は名振で一人,行方不明者一人である。さらに雄勝町に出かけて行って被害に巻き込まれた二人を含めると4人が犠牲者である。屋根の瓦は,4月9日の余震で落ちてしまった。ライフラインもだめになり,全員着の身着のまま避難所に集まってきた。損壊しなかった家にあるものを共有してひもじさをしのいだ。おにぎりを日に一人一個ずつだけ配ってがまんした。二日目になると消防団員がプロパンや灯油などをがれきの中から探して来た。だれの所有物か主張することなく,皆で順番に利用することを暗黙の内に了解していた。味噌汁と朝と夕におにぎり一個ずつの二回になった。昼は残っていたパンやバナナを口にした。20日間,支援などの食料が届くまで助け合った。地区会長の大和久男さん(56歳)は地域の復興で不在であったが,指導力があったと話の中でよく出てくる。漁業が盛んな一方,高齢化が著しい。大和さんは「若い世代が住みたいと思うよう,イタリアの海辺の街並みのように,風土に合った美しい漁村をつくりたい。観光客が集う復興のモデル地区を目指したい」と願っている(5)。雄勝では各地区の住民代表で組織する「雄勝地区東日本大震災復興まちづくり協議会」が市の復興計画に地元の意向を反映させようと,5月から会議を重ねてきている。さきほどの船越の中里孝一氏も参画している。被災してから一番の問題は,ライフラインの町水道の断水であった。お墓に用いている山水道を用いることにし,二日後にはメーターを付け替えて,対応した。その結果,トイレも可能になった。村人の信心の場所である寺の水も緊急時に解放されたわけである。ワカメなどを拾ってきたり,煮炊きに使用する燃料として,山から薪を拾ってきたりした。大釜で,水を湧かして,吸い物を作った。洗濯などは冷たい沢の水を利用した。全員の食事の煮炊きについては係がまかなった。まさにサバイバルであった。コミュニティの結束の絆は固かった。寺も毛布をはじめ惜しみなくすべてを提供した。氷点下であっただけに,輪になって身を寄せ合うようにして村人の体温で極寒をしのいだ。着の身着のままであった。20日間は入浴もできず,過ごした。朝起きると消防団が三つの釜に湯を沸かして炊事に備えていてくれたことを感謝していた。村には玄米が残っていた。いつまでも支援物資が届かない中で,洗米機もなく,食べるものは底をつき途方にくれた。一升瓶に玄米を入れ,長い細い棒でつついて,根気よく精米をする。まず瓶の中に玄米を入れにくく,モノがない不自由さを味わった。小学生の子供や,5歳の子も初めての体験である。一ヶ月もすると炊事を4つの班に分けて,一週間毎に,トイレの清掃は一日毎に二人ずつの交代制の当番を決めるようにしていった。190人が耐乏生活で生き延びた。日中はラジオ,有線放送で情報を収集した。地元新聞「河北新報」が定期的に避難所に届くようになったのは3ヵ月後である。他の地域についても同じような被災があることもだんだんわかってきた。陸の孤島からの雪解けである。名振の情報もマイナス面も書きたくないから,実態が伝わっていなかったのだろう。明日から仮設住宅に入居する直前の避難所生活の総括をお聞きすることができた。

名振 被災者 「教育がすすめばすすむほど,過疎が進む」

永沼豊子さん:「阿部校長先生,ご無沙汰しています。その節はお世話になりました。」
阿部氏:「お久しぶりです。息災で何よりです。こちらのことが気になっていたのですが,なかなか連絡ができませんでした。」
岩村:「ここの避難所には,小学生とか子供さんはいらっしゃるのですか。」
畑山氏:「5歳の子,小学生がひとり,中学生がひとり,高校生がひとりいました。今は学校に行っていません。みなさん,名振の方ではなく,明神から逃げてきた子供たちでした。」
新免氏:「前回,名振の守次さんから海で生活している者と,都会でサラリーマン生活している人たちと置れている立場はぜんぜん違う。県の方が沿岸地域に民間の会社を導入して,外の資本を入れて,被災地を拡大していくというプロジェクトは海と一緒に生活された人々にとっては,非常に困ることだし,漁師は海から恵みをいただいたけれども,守ってきたのも漁師たちである。だから海の生活を大事にしながら,復興を考えなきゃ。雄勝町で魚の量販店ができても意味がない,と聞かされたままでしたが,どうですか。」
藤野せい子さん:「ぜんぜん違うから,海の生活を第一にした復興を願っています。」
畑山氏:「漁業で生きる人たちにとって,大企業が来て,力をもってくることはゼロだから助かるが,温かいものがないといけない。やがて不景気になると企業は撤退してしまうと,大変なことになる。終わったからと,もうオイシイところはなくなったから,はい,さよならと,赤ちゃんのような状態で見捨てられたりしたら困るわけです。」
岩村:「今の時代,安ければ消費者はとびつく,量販店も一円でも他店より安くする。かつては消費者とお店は密接なつながりがありましたでしょう。電気屋さん,酒屋さん,お米屋さんなどと,修理してもらったり,家にとどけてもらったり,いつまでも良い関係がありました。しかし,今は消費者にも問題があるわけですが,値段で物事を決める傾向がありますよね。それでは地域に根付かないのではありませんか。」
畑山氏:「名振の自分たちは自立を目指しています。大企業が入ってきて,漁師さんが市場で捌きたいモノを流通経路で販売する途中の経費を見込んで,安く買いたたいて,地元が潤わないようなことではいけないのです。直接,消費者に販売できるようにするにはどうすればいいのか思案しています。豊漁になるとべらぼうに値を買いたたかれてしまうことだってあるでしょう。安定した将来をまさぐっているのです。」
新免氏:「三陸海岸側も世界で有数の漁場です。しかも養殖技術は日本でもトップクラスです。地元の方々にとって生命基盤になっています。最初は経済的に大きな力が必要でしょうが,皆さん方の生活を再生させることが本筋でしょう。」
畑山氏:「そうです。」
新免氏:「皆さんが守っていく意識が何よりも大切ですよね。再生していく上で,もし大企業が介入してきますと,町の雰囲気は変わってくるわけです。」
中山時徳氏:「津波による,この地域の問題のひとつは原発を無視できませんね。」
新免氏:「前回,ヒアリングの際,大和さんの奥さんは女川に原発が出来るとき猛反対なさったそうですね。」
岩村:「女川原発が牡鹿半島に存在することによって,むしろ地域に有利なのではありませんか。」
女性たちが声をそろえて:「いえ,不安がいっぱいです。雨が降った時とか,みな,不安がありますよ。」
畑山氏:「名振は女川原発で恩恵はぜんぜんありませんね。フクシマ原発により,魚があちこちに移動するので不安はあります。魚はあっちへ行ったり,こっちへいったりしますから,あっちへ行ってはいけないとか,言えないですからね。」
岩村:「女川原発の現在の停止は,津波によるのではなく,地震によることが明かですね。世界一の発電機の技術を持っていますが,止まりましたね。フクシマ原発にしても,報道は津波による被害一辺倒ですが,疑わしいものです。」
中山氏:「原発の構造はフクシマ原発も女川も同じだろうに。女川の方は建設費を倍にしているわけでもないし。」
新免氏:「島根県の松江に,原発がありますが,ご高齢の方が多いところです。7割~8割が高齢者です。そんな所に立派なサッカー場や,照明付きのテニスコート,オリンピックのバレーボールの体育館,室内プールなど施設が整っています。だれがそんなところでやるのかなあと首をかしげます。日本の電気料金も原発対策やそんな風に使われているのです。最初,そこの漁師さんたちは猛反対だったのです。漁業権を守るという姿勢でした。ところが,5000~6000万円の保証が出るという経済の問題をつきつけられた。今も賛否両論がありますが,生活の問題もありますし,むずかしい問題です。しかも貧しい所だったから,貧しい漁師さんたちに原発の話が持ち込まれた時,反対運動もありましたが,結局,経済が潤うことを選んだのです。5000万円という現金も魅力があったのでしょう。非常に貧しい地域であり,海で生活する人たちも,草履を履いて山を越えて,魚などを売りに行かねばならないのです。本当はそのような生活をなさっている方々でも…。」
畑山氏:「確かに,名振でもみんな女川原発を反対しました。過疎をとるのか,発展をとるのかという選択をつきつけられたんです。過疎というのは寂しい。原発はいろんな問題を含んでいるから,ジレンマがあります。」
中山氏:「原発はこわい。なにかあったらコントロールできないんですよね。」
岩村:「名振の方は全員が原発に反対なさったのですか。」
中山氏:「はい。20年くらい前,女川原発建設の時,原発の何キロ以内はお金をくれたんですよ。ここ名振は離れていたので,そんなのにあやかった人はいなかったけど。」
岩村:「名振の人はみんな女川原発に反対したそうですが,反骨精神ある人,あまのじゃくに原発賛成はひとりもおられなかったのですか。『悪魔辞典』で“誘惑”という項では,どんな人でも誘惑される,ただし金額が多いか,少ないかとありますが。」
畑山氏:「原発の問題より,もっと大きな問題ですね。おいしいものが目の前にぶらさげられるとそれに飛びつくのは…。」
大和美代子さん,秋山文子さんたち:「名振からバスで,何回も反対運動に行きました。大雪になって,スコップで雪をかいて,一時間をかけて女川まで行って反対してから20年になるわね。」
岩村:「16年前,阪神淡路大震災の後,長田区にはたくさんのケミカルシューズの小さな会社がひしめきあっていました。火災でほとんどが壊滅状態になりました。日本の運動靴などの8割を生産していた地域です。ところが,震災後,行政は,復興大プロジェクトを立ち上げ,神戸空港とか,医療先端都市などを優先しました。小さな産業はある意味では見捨てられたのです。神戸空港にしても住民の多くは反対しました。しかし,行政はビックプロジェクトを優先し,零細企業を見殺しにしたと言ってもいいような方向に向かいました。今や,空港は赤字路線でお荷物になっています。第三次産業より,漁業や農業などの第一次産業が大切なのです。発展という目の前のにんじんを追いかける馬が走っていくようだと,後で取り返しのつかないことになります。発展の代償は大きいのです。」
新免氏:「早く舟をなんとか操業できるといいですね。」
畑山氏:「一日も早く海に出て行きたい。先日も梵天を立てるのに,生き生きしていました。」
女性たち:「ワカメ,ホタテ,ホヤをとりに行く。漁師は海に関わらないと生きていけね。」
中山氏:「三トン以下の舟があればいいんだが。一艘1000万円くらいかかるから…」
岩村:「備えられるといいですね。名振は発展を望まれますか,それとも過疎に耐えられますか。」
畑山氏:「持論ですが,教育が進めば進むほど,過疎が進む。」
新免氏:「当たっていますね。世の中のシステムがそうなっているからです。知識を教えれば,教えるほど,人々は漁業,農業から離れていく世の中でしょう。」
岩村:「教育と言えば,野口英世のお母さんのように教育熱心な場合がございます。人様のお役に立てるように教育すればよいのですが,人を押しのけて,お金儲けさえできればよいのだと学歴をとらせるのなら,ご住職がおっしゃるように寂しい限りですね。人を出し抜いて,金儲けの教育,ラベルの教育では困ります。」
畑山氏:「そうなんです。」
岩村:「今,猫も杓子も大学へ行く時代に,日本の価値観で欠けている視点をご住職はおっしゃっていますね。教育が進めば進むほど,過疎が進むとは的を射ていますね。」
新免氏:「荻浜中学校で教育実習指導に行った時,仙台で教えていた先生たちは牡鹿半島に転勤してくると違いがあると言っておられましたことに驚きましたね。なんでもかんでも受験の仙台と異なり,体が強くなり,厚着をしたまま遠泳ができるとか,必ずしもすべてが大学へ進学しなくてもいいんだよという考え方なんですよ。仙台市内の人とは基本的に考え方が違うんです。それでびっくりしたと聞きました。都会とは違った暮らし方があることをもっと大事にしないといけないでしょうに。そうしたものを大事にしたから東日本の沿岸沿いがかなり繁栄したと思うんですね。今,そこにも都会の考え方が導入されたら,漁師さんは大学を出ないといけない時代が来ることになってしまいます。窮屈になります。」
阿部氏:「教育が進めば進むほど,過疎が進むという場合,教育の中身が問題です。子供たちのことを考えると,子供たちの地域を大事にしていく。いい自然があるわけですから。」
新免氏:「北海道の留萌という所の隣の町では,若い人が戻ってくるために,工場などを造って受け入れているのです。すると若い人たちは定着するのです。工夫している自治体もあるのです。」
畑山氏:「この近くに指浜(さしはま)という場所があります。決して広い漁場ではありませんが,若い人たちが来ると,仕事場を譲るのです。私たちは真似るのではなく,いいところを取り入れたりいいですね。今日のような掘り下げた話し合いができるのは少人数だからできるのですね。もし大勢おられたら本音で話せません。」
岩村:「女性の発言の機会は人数が多くなるととくに少なくなりますね。母国語と言いまして,ご家庭では女性の方がはるかに雄弁なんですが。女性たちの働きは大きい。皆さんのこれまでの耐えてきたお姿は美しいですね。」
畑山氏:「普段から,お盆,彼岸の時,村人と共に食事会などを親の代も続けてきました。」
岩村:「平素から,コミュニティを継続する機会をなさってこられたからこそ,この度も大きな災害に一致団結して耐えることができたのですね。円熟したご住職がおられた意味は大きいですね。ところで,女性の皆さんは,お隣りにある仮設住宅についてどう思われますか。神戸で大地震の時,仮設住宅はいろんな問題がありました。一端,ご自分の家にすっこんでしまいますと隣の人たちとのつながりがなくなってしまったんです。後追い自殺など,孤独死の問題も捨ておくことが出来ません。名振の女性にとりまして仮設住宅はどんな印象ですか。」
永沼さん:「まだどなたも入居していないんです。明日からの予定です。まだわからないですね。避難所とちがって,プライバシーは守れるけれど,会話がなくなってしまいますね。その点が心配です。」
岩村:「向き合っていくことができないですね。仮設住宅の構造とか建て方はどう思われますか。」
藤野さん:「中を覗く程度でまだはいっていません。釘を打てないとか,棚が少ないし。」
畑山氏:「ふとんは四人家族でも四枚,五人家族でも四枚なら話にならない。そういうことがなんとかならないかな。上は見えていないんです。」
新免氏:「神戸では,仮設住宅に入ったけれど寂しいから,避難所に戻った方もおられるんです。」
阿部氏:「仮設住宅に入ると自立しないといけないから,自分で店を見つけて買い物をしないといけないんです。渡波町では生協さんは閉店しました。車も津波でなくなりましたから,今でも片道40分ほど歩いてイオンに買いに行っています。」
岩村:「ところで,生活保護を受けておられる方や,ハンディキャップの方は名振におられないのですか。」
畑山氏:「おひとり老人ホームにおられた方が亡くなられたケースがあります。」
新免氏:「仮設住宅に入ると,神戸でもそうでしたが,二年で出て行かないといけないんです。」
畑山氏:「仮設住宅で顔をつきあわせる機会がなくなったりしても,一緒にお茶を飲んだりする場として寺の働きがある。教育とか,伝達とか,トラブルの相談など寺の果たしてきたコミュニティの要として代々の機 能もあります。」
岩村:「ご主人は津波の時,怖かったことでしょう。」
高橋喜代夫:「はい,わたしは88歳になります。震災の時,わたしは海辺にいました。堤防が真っ白に見えた。第一波の津波が引いた時,坂を登り,8人で消防団員と一緒に車で逃げたんですが,危ないからと言って,車から捨て,畑を走って,杉山に登りました。」

 約1時間半にわたる,被災者たちの体験談をうかがうことができた。結束力によって生き延びられたおひとりおひとりの粘り強さは感銘を与えた。少々ではへこたれない気概である。第一番目に,「教育が進めば進むほど,過疎が進む」という見識,第二番目に,人類の高度の科学文明崇拝の象徴である女川原発への不安,第三番目に教育,医療,産業,ヴィジョンの四本柱が復興しないと生活が再建できない課題も浮き彫りになった。同じ被災を味わった地域同志である。東北と阪神間は共通の課題をつき合わせていければと祈らざるを得ない。お茶を何度も入れてくださった永島さんのもてなしにも感謝したい。

雄勝町名振コミュニティセンター

 

名振 将来

 ボランティアが持ってきた焼きそばを避難所の事務所でごちそうになる。事務は中山さん(70歳)がひとりで担当している。避難所から仮設住宅に皆さんが移動しても,中山さんは管理を続ける。当初,90戸で137人,明神地区から30人,唐桑から3人,大須から3人,工事者4人などもコミュニティセンターに避難していた。河北総合センター(ビッグバン)にも移動したりした者もいる。7月4日現在, 29家族が名振での生活を復旧するように願っている。7月5日に仮設住宅,電気の復旧,山水道があるので,別段飲料水には困らない。9日に希望者は電話線を申し込むことができる。32戸の仮設住宅に空き部屋もある。なぜなら医療,子供の教育のために,移転せざるを得ない家族がいるからである。大崎市などのアパートを賃貸して住む手段をとろうとしている。そのためには災害障害見舞金や,災害援護資金貸付などを利用するしかない。部落では5月31日以降,1世帯に18万円ずつを石巻市役所に行って受領した。二次に二名が6月27,28日に55万円を受け取った。他に県から10万円,国から100万円の義援金が出る予定だということだが,いつのことか情報が入ってこないそうだ(6)。今後,仮設住宅に入ると,自分たちで食糧を購入して,自炊の生活が始まる。名振方面には,食糧を購入できる店はない。車で巡回して販売する店から入手することになる。生活力のない家庭は避難所に戻るしかない。そこでボランティアなどからの支援物資を受け取り,命を永らえることになろう。 名振の人々の名簿を五度も書き写し,住民の氏名などに精通している中山さんは地場産業であるワカメの養殖,鰹の餌であるエサイワシ養殖の復興についての青写真を語った。集落に住む多くの人にとって,集落コミュニティは生活の基盤であるばかりでなく,人生そのものである。今,名振でもっとも必要なものは漁業再開への突破口である。舟や船外機である。家も財も津波にもっていかれた漁師たちにとり,新船はたとえ国が三分の一,県が三分の一を負担してくれても,自己資金三分の一は大きい。なぜなら高齢でローンの購入をし,投資することで生計が成り立つだろうか不安は大きいからである。産業の復旧への道のりは遠い。震災前のような漁は当面難しいだろう。しかし,漁業によって日常生活が少しでも復興することは,被災地の方にとって,極めて大きな一歩で,嘆きから希望へと変貌していく契機になるだろう。
 中山さんは定年の60歳まで船会社に勤務していた。その後,定置網の網興しなどに積極的に従事しており,養殖の技術にも精通している。定置網の復活にもホッカイという重しが必要であることなどを熱く語る。中山さんはフィリッピンの船員5人を雇って仕事をしていたこともある。勤勉なアジア人は漁業に向いていることを体験として語った。牡鹿半島にも3人のインドネシア人が女川と雄勝町に勤務しているが,日本人に負けないほどの技能修得の器用さがあると述べる。本国でも彼らの流出を惜しむぐらいだそうな。労働人口が日本全体で減少している今日,多民族多文化を受容していくモデルケースとして牡鹿半島の地場産業の再生の糸口があるように思えた。かつて伊達政宗[1567-1636}が支倉常長[1571-1622]を欧州に派遣し,東北を日本から世界への窓口しようとしたように,現代のサン・ファン・バウティスタ号の出奔を神戸から祈りたい。

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