最大の被災面積の倒壊住居跡 2年8か月経って,家の人たちはどこへ行ってしまったのでしょうか。

魚町

収穫祭

20131102田山湾告知  朝日新聞より

 渡波地区振興協議会(吉野雄一会長)主催の収穫祭「田・山・湾の復活」―渡波秋祭りが11月4日に開かれた。渡波婦人会須田勝子会長率いる婦人会が入念な準備をされ,当日の鹿肉汁,牡蠣汁,海苔汁,おにぎりなど400食などの調理に腕をふるう。丹野一雄宮城県漁業協同組合委員長,阿部勝渡波地域農業復興組合代表,阿部正春宮城県漁業青年団体連絡協議会会長が寛大に収穫物を提供。渡波獅子風流保存会津田富士義氏の演技の際,会長,鈴木健一石巻森林組合代表理事組合長,安倍清義大宮区長の三人が舞台に上がった。米谷富宏渡波支所長が「田・山・湾の復活」の祝辞を述べ,来賓席には,丹野清市会議員,木村褜治沢田区長をはじめ,地域の区長たちが列席。南川鉄弥渡波事務長と,須田勝子さんの名司会で10時半から3時まで続く。小野寺脩館長による若返り体操,ひいらぎ会(尾形ヒサ子会長),はねっこ踊り(遊美会吉野八重子さんたち)に拍手。婦人会などの女性パワーによって宴が豊かな集いになる。亀山繁氏,樋口伸生住職夫妻や地元の記者たちも来会。阿部捷一氏の下に神戸からのボランティア20名(3名は船で海苔の収穫)は会場設定など裏方に徹する。提供する石鹸,洗剤がすぐになくなってしまったが,兵庫県からの毛糸の靴下を手にして参加者は喜んだ。来年の秋祭も楽しみに,千葉幸一副会長が閉会をしめくくり,解散した。

20131114石巻かほくa  「石巻かほく」より

よさこい踊り

  縁のある長浜幼稚園から万石浦幼稚園園児による よさこいソーラン
  (北川禮子園長)

獅子風流

 需要文化財 渡波獅子風流保存会

20131127収穫祭     石巻日日新聞より

 佐藤金一郎ご夫妻は,二日間,養殖に出るメンバーのためご協力くださった。早朝,5時45分に岸壁から出帆するのに間に合うように晴美夫人は3名ずつを泊めてくださり,頭が下がります。収穫祭のため,昨年に引き続き,鹿肉を協力くださり,会を盛り上げたことに感謝します。

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  寒い早朝,渡波湾の沖で丹野典彦氏に指導してもらう漁ボランティア

海苔養殖体験
報告者:菅野増徳 

 「海苔の養殖船にはベテラン船員しか乗れない。それがルールである。しかし今回初めてそれに乗船できることになった。しかも,繁忙期にそれを体験できることの意味は大きい」代表からの説明である。
 私は,第二班として最終日の11月4日(月)に乗船する機会を得た。
 参加者は村上リーダー,藤本裕馬さんと私の3名。 

 11月3日(日)夜から雨。
 同じ雨の中,楽天イーグルスがプロ野球日本一を拙み取った。
 第一班に続き佐藤金一郎さん,晴美さんご夫妻のご好意で,暖かい布団で寝かせて頂けることになった。佐藤金一郎さんは,渡波第三地区の自主防災部長を務めておられ,我々ボランティアにご夫婦で被災の経験などを語って下さる御縁の深い方である。 

 11月4日(月)4時30分起床。
 未練たっぷりに心地よい布団から這い出すと,湯気の上がる握り飯が用意されていた。晴美奥さんが早くから起きて握って下さったのだ。米の一粒一粒に味わいがあって,この上なく美味しい。そして何よりもお心遣いが御馳走であった。心身ともに暖まった我々は,長靴と雨合羽を着込んで,丹野水産へと急いだ。

 元々雨が降っているため合羽を着ているのだが,丹野さんも合羽を用意して下さった。船上作業用なのであろうか重厚な作りの合羽で,船上作業のハードさを暗示する。船員の皆さんと共に丹野さん運転のトラックで港に向かう。特に紹介がある訳でもなく一言二言の挨拶だけで乗り込んだ。海の男とはこのようなものであろう。 

 海苔の船は,全長が12メートル程であろうか,平らな長方形の船体で,操舵室(部屋ではなく風防のみ)が船尾にあるためデッキが広い。岸壁を蹴って船首から乗り込む。先ず目に付くのが大きなフォークのような物体だ。まるで細い柄の巨大なフォークを真上から船首に突き刺したようにそびえ立っている。高さは4メートルを超えているかもしれない。次に目にしたのが左舷(船尾から船首に向かって左)のデッキ上に据えられたローラー。電柱を3メートル位の長さに切ったような物が胸の高さで台の上に横たわっている。 

 どこに立てば良いのか,どこに座って良いのかさえも分からないうちに船が動き出す。港を出た船は飛ぶような速さで海上を走り,数分で最初の筏(いかだ)に到着。   
 石巻で行われる養殖は,約13メートルの水深を利用した浮き流し式栽培法と呼ばれるもののようだ。これはオモリと浮きで筏を固定し,その筏に目の粗い網を張って育てる方法だ。網の目は一目が官製ハガキくらい,網の大きさは幅約90センチ,長さは20メートル程もあるだろうか。筏は3本のロープに樹脂製の浮き(細長いパイプの両端を塞いだ円筒形)を等間隔に固定した縄梯子状で,全体の長さは60~70メートルもあると思われる(終日睨んでいたのだが,目測できなかった)。その幅は180センチ位で,網二枚分だ。筏には浮きと旗で目印がつけてあり所有者が判る仕組みのようだ。
 本日行った作業は主に次の二つである。
 1,二枚合わせの網を一枚に分けて筏に張る。
 2,筏から成長中の海苔が着いた網を外し,養分補給と薬効の液に浸し,再び筏に張る。

 その他に,筏を船で曳いて移動させた。メカ好きな私としては二基で300馬力を誇る船外機の鼓動が脚から伝わって楽しかったが,残念なことに筏はほとんど定位置を離れないようだ,動かしたのは一基だけであった。丹野さんは船を自由自在に操る。全く見事としか言いようのない操縦で感動した。
 乗船の際に目を引いた二つの装置はすぐにフル稼働することになる。
 簡単に言うと,船の先に付いたフォークを倒して筏を船の上にすくい上げ,それに手作業で網を結んでゆくのだ。このとき筏はローラーの上にセットされているので,ローラーの回転で船が筏と平行に移動するのである。船長以下3名が横並びで,二枚の網を平行に張ってゆく。70センチ位の間隔で結んで留めるのだが,筏には藻が絡み付いていたり,結ぶためのロープが外れていたりと一定の速度を維持するのは容易ではない。網を外す時には逆回転させる。
 私はこのローラー操作をさせてもらったが,細かな調整に慣れなくて緊張する持ち場であった。村上リーダーと藤本さんも網の準備,コンテナ洗浄,薬液投与など船首付近で忙しく働いていた。作業の終盤,収穫前の海苔を見る機会があった。「いい出来だ」丹野船長も皆さんも表情が軟らいだ。それまで気がつかなかったが,この海は透明感がある。何と表現すればよいか「軽やか」と云うべきだろうか「明るい」と云うべきか,そんな色合いなのだ。暗いうちから海に出て小雨のなかの作業だったからかも知れないし,私の先入観で黒っぽい色に見えていただけかもしれない。日が射していれば,穏やかな波に揺れる海苔はもっと鮮やかな色合いに見えたのだろう。

 「初物」と,丹野さんからひとつまみ手渡して頂き,今季初の収穫を味わう。船の空気が一気に和やかなものに変わった。海水で塩気は濃いが,生海苔の風味と甘みがそれに勝って舌にひろがる。おかげで寿命が3年のびた。港を出てから戻るまでの約10時間は,昼食も休憩の時間も最小限に抑え,ひたすらこの作業を重ねる。
 海苔が生長するのは10月から4月までの間。成長にはおよそ一ヶ月掛かるため,11月頃からやっと収穫時期に入る計算だ。小雨降る中,海上での作業は体が冷えきって辛い作業であったが,養殖を生業とする方々にとっては,この時期こそ最も仕事がはかどる時期なのではないだろうか。雨など取るに足らないことであろう。
 長い東北の冬がどれほど厳しいものか私には想像もつかないが,決して穏やかではないだろう。黙々と作業を続ける皆さんの姿がそれを語っている。

 初日に代表から受けた説明が蘇ってくる。この時期に乗せていただけることは異例なのだと…。
 その大切な時間を我々に分けて,貴重な経験をさせて下さった丹野水産の皆さんへ改めて感謝の気持ちが込み上げてくる。

 午後4時 港に戻り今日の作業は終了。その後,丹野さんが工場を案内して下さった。工場には海苔を商品化するための設備が完備されており,出荷するまでの一切の行程を行える。私は,摘み取った海苔は次の加工場に送られるものだと思っていたので,一貫生産されていることに感心し非常に興味がわいた。収穫後の海苔を商品にするまでの行程は両手の指では足りない。工場内には何台もの機械が並んでいる。圧巻なのが最終行程を全自動でこなす機械だ。12畳の部屋が丸ごとその機械だと言えば大きさの想像が付くであろうか。幾つもの行程を経てペースト状になった海苔がこの機械から出てきた時には,おなじみのあの海苔の姿をしている。
 この工場で,日に6万から12万枚の生産量があるとのこと。海苔は摘み取られたその日のうちに加工が完了するが,牡蠣殻に潜り込んだ卵を取り出す所から始まって,出されるまでに約一年かかっている。知恵と工夫それに汗の結晶なのだ。
 機械も工場も真新しく見える。伺うと,この工場も1メートル近く浸水したのだそうだ。工場は約70センチ嵩上げ(かさあげ)がしてあり,12畳の乾燥機もメーカーが分解整備,塗装して組み直したとのことである。

 船上での作業に没頭していると,この海が多くの人や車,家,町そのものまでも飲み込んでしまったあの海と同じものであるとは思えなかった。非常に静かで穏やかな海である。もし,自分がここに住んでいたら伝承を守って,それこそ「津波てんでんこ」に逃げられただろうか。
 丹野さんのお話では,養殖業者の船は大半が害を免れたそうだ。昔から津波の予兆があれば必ず船を避難させる場所があり,それを守って被害を抑えることが出来たのだ。
 傾聴作業でお会いした皆さんや,多くの方々から伺った話には,過去の小さな津波の経験があったために却って判断を誤ったという例を,幾つも聞かせていただいたのだが,養殖業者の皆さんは経験からではなく歴史に学んで害を免れたと云う実例を示されている。 

 私達はこの先何十年何百年という時間を経てもこの歴史の教訓を次の世代に引き継ことが出来るのであろうか。東北を襲った地震と津波,加えて人間の利己主義と無責任が生んだ福島の原発事故。見ない振りさえすれば,聞かない振りさえすれば不都合な真実も存在しなくなるという,我々日本人特有の世界観を持つ限り悲観的である。一方,歴史から学んだ強固な基礎の上に立って考察し,認めたくない不都合から目をそらさずに知恵を絞る姿勢がスタンダードになるならば,我々は世紀を超えて豊かに生きてゆけるであろう。