第32次東北ボランティア報告
2013年10月13-16日,台風26号が東北に接近する直前であり,快晴が続いた。JR朝霧駅で13名が集合し,自己紹介する。大学生たち以外に,藤丸秀浄住職や,司法書士なども加わる。栫和彦さんの運転は,予め綿密な道路情報を入手し,道路通行止め,天候異変による迂回,渋滞などについて調査した上で,安全運転に心がける。初日,二日目で,傾聴ボランティアが記録した分量は8時間以上にわたる。レポート作りがたいへんである。出発前夜,事務局に吉川 潤事務局員がICレコーダーを届けたので4台あり,4人が戸別訪問で用いることができた。若者たちの献身的な支えや,留守中にも事務局を推進する本田寿久事務局長,岩村カヨ子事務局員のおかげで東北ボランティアに行ける恵みは感謝である。
月曜日早朝,復興がぜんぜんすすんでいない茫漠の石巻市の被災地に初回の参加者はがく然とする。
画像のみ
紫色の上着は福井智也君(関西学院大学),右隣は中村翼君
(甲南大学),右端は金谷篤諮さん。
「田んぼアート」班 鯨の何を持っていますか,菅野増徳さん。
そのうしろで両手で顔を赤らめている馬庭花穂さん(島根大学3年生)。
左端 津田富士義さん,左から二番目,村上裕隆リーダー。
真ん中は峯野理絵さん。山本智也事務局員が提供した
竹材を用いての作業。
寒い夜,母親が子どもにそっと毛布をかけるように,鳥に
食べられないように,津田さんが網をかけてくださっていた。
左端 鍋島 隆班長,佐藤和夫さん,樋爪義広さん。
11月4日の収穫祭について,渡波婦人会で話し合う。
峯野 理絵
先日,神戸国際支縁機構のボランティアに参加させていただきました。
神戸から石巻市まで陸路を通じて(バスで)行く事で,震災の起きた東北が遠い国の話ではなく私たちの住む日本国内の出来事だと実感出来たように思います。
私は,石巻市 渡波地区のお宅に一軒一軒お伺いし体験談をお聞きする傾聴のボランティアをさせていただきました。お会いしたみなさんは親切な優しい方ばかりで,このような東北の人たちが震災で大変な思いをされたのかと思うと胸がつまりました。
おうちを訪問していくなかで,「ようやく当時の事を話せるようになりました」といった声や,あるお宅で被災時の写真を見せていただいたのですが,少し前までは見たくもなかったという声が聞かれ,まだまだ心の傷は癒えていないのだなと感じました。
あの津波の事を思い出すと夜も眠れなくなるといった声も聞きました。
この位置まで水が来たんだよ~とお宅の中の実際の位置をしめされると,信じられない気持でした。ですが現実には水は来ており,想像すると本当に命からがら逃げたんだと理解できました。
避難所では,人の良い面と悪い面を見たとの事でした。
極限の状態では,人間は欲が出てくるようです。多めに食糧や物資をもらって行く人,愚痴を言いだす人など。極限の状態で純粋な人間でいられるのかどうか,自分にも置き換え考えたいテーマだと思いました。
また,大勢の人がいる避難所の中で声を掛け合って助け合って過ごすのは,勇気や忍耐を要する事で苦労も多かったのだろうと思いました。
避難所からご自宅に帰られる状況になって,喜ばしいはずなのに・・残る人を思うと自分だけ申し訳ない・・など,複雑な心境を語ってくださいました。
お話を聞いていくと,それぞれの人が複雑な気持ちを抱えて過ごされてきたのだということが分かりました。ここは宮城県だけど隣の福島県のことを思うと気持ちが苦しいなどという声もありました。
嬉しい報告もお聞きする事ができました。
再就職先が見つかりました,自宅をリフォームして住めるようになりました,海水に浸かった土で作物が出来なかったけど,ようやく自宅の畑で野菜を収穫できるようになりました,個人でラーメン店を営業しています,などなどです。
津波で色々失っても気持ちを奮起させ頑張って生きる人たちを見ると,こちらが勇気をもらえます。諦めない気持ちがあれば人間はなんでも出来るのでは,と思えるようになりました。
大阪に戻った後では,東北大震災と原発事故の話が人事ではなくなりました。ニュースでも注目するようになり,行く前と後では気持ちが全く違います。ボランティアを経験できて良かったと感謝しています。今後も東北のために自分に出来る事からしていきたいという気持ちです。
樋爪義広氏の報告
石巻市・渡波で思ったこと(津波てんでんこ)
第32次東北ボランティアに参加させていただき10月14日,石巻市渡波(わたのは)地区を訪れました。
ここは海岸に近く,今はあたり一面の広大な空き地でセイタカアワダチソウが黄色く咲き茂っていて,その間にポツリポツリと無事だった家が残っている。多数の死者,行方不明者が出た地域だという。震災当時に何度もテレビなどで見たが,あの凄まじい2メートル超の津波に襲われては家屋などひとたまりもなく押し流されて壊滅,そこに取り残されていた人々には過酷な運命が襲いかかったことであろう。
ここから高台まではかなり離れていて,直ちに津波を予想して避難すれば助かったのかもしれないが,人間,経験した範囲内でしか判断・行動できないのはしかたがないことではないだろうか?一生に一度も経験のないこと,まして貞観以来なら1000年に一度の大津波に,私だったらはたして的確に避難行動をとれただろうか。私にはとてもそんな自信はない。しかし,避難するか否か,その判断が生死を分けたのだ。
日頃,いかに善良であろうと誠実であろうと,愛情深く,人格者であろうと(なかろうと),津波の際はそんなことには全然関係なく,判断の適否で生死が決定する。(私は大川小学校の悲劇のことを考えている。)
このとき,判断する本人が,自身のみならず,妻子,父母兄弟,あるいは,引率する生徒について,避難すべきか否かの判断を下さなければならない責任ある立場に置かれているときには,判断を誤って自分だけ生き残ったら,その人は(責任感が強いほど,善良であるほど)一生負い目に苦しむことになるだろう。
上記の石巻・大川小学校では壊滅的な人身被害があったのだが,これと対比して,釜石市の小学校では防災教育の成果で,奇跡的にほとんど人身被害がなかった。これは「津波てんでんこ」ということ,つまり津波のときには,肉親であろうとも他人であり顧慮する余裕はない,他を顧みていては自分が助からない,だから各自てんでバラバラに,できる限り高所に避難しろ,ということが元々の意味ではないかと思うが,これを教えていたとして「津波てんでんこ」という言い伝えの言葉?がマスコミで取り上げられ話題になった。津波防災の標語としてまことにもっともで今後も有用なものであろう。
でも私は,「津波てんでんこ」の防災上の有用性は大いに認めるが,もし私が,この大津波に渡波で遭遇したらどうだっただろうかと想ってみた。家で逃げ惑い,妻も子も目の前で流されていくのに,私は恐怖のあまり,いやそうではなく恐怖を感じる余裕もなく,手を差し伸べることができない,なすすべもない。流れる妻子の表情が眼に焼き付くが,私には哀憐の情も罪悪感も生ずる余裕がなかった。それで万一私が助かって人心地がついたとき,他人には決して告白できないまま,心中ひそかに「津波てんでんこ」だったなぁと,悲嘆に暮れることはないだろうか。罪悪感にひしがれ後悔することはないだろうか。
この津波で,そんな善男善女の悲劇があちこちで生じたのだと「津波てんでんこ」をわが身に引き付けて考えてしまいました。人間が善良であろうとなかろうと,人間に一顧の価値も認めない地震,津波の非情のこともいまさらに考えさせられました。