テレビ放映されるボランティア

 

  第31次東北ボランティア報告
     9月15日-18日


                                                                

 台風18号が日本列島に接近してくる予報,東北も免れない情報がある中,総勢17名は雨降りしきるJR朝霧駅を出発。日曜日は一週間で最も忙しい仕事に専念する本田寿久事務局長が駅前で参加者にあいさつをする。道中の安全と,実り豊かな体験ができるように励ます。事務局長は「神戸国際支縁機構」でホームページを立ち上げている。 

 第30次は男性が多かったのに対して,第31次は女性が多い。大阪から和歌山大学,立命館の男子学生が参加,三田に実家がある鳥取大学の女子学生,福岡から山西由子さん(第24次),広島で東北ボランティアに同期に参加の方たちの同窓会を開いたりする小島芙美子さん(第21次,第24次)たちは初参加の皆さんに現地がいかにメディアと異なっているかを車中で話す。今回は姉妹で仲良く参加した小山夏未,若菜さんもいる。

 稲刈り後の稲穂の「稲架掛け」(はさかけ)を組み立てる大きな竹,縄なども車中に積んでいる。山本智也事務局員の寄贈である。田平夢宇夜君(第23次)と協力して事務局の廃材なども処分してくれている。機構は若者たちの普段からの企画,運営,実施の力がなければ成り立たない。

 本降りの宮城県

 石巻市に到着。門脇小学校前で樋口伸生住職が語り部の用意をされていたが,雨が強くなってきたので本堂に一行を招き入れる。

 

   門脇小学校前      西光寺本堂に十字架を運び込む

 2週間前に,阪神・淡路大震災で被災した超教派の「阪神宗教者の会」東北追悼と復興の祈りが訪問した際,西光寺の敷地内にイスラム教,キリスト教,神道などの宗派を超えた森のモニュメント「祈りの社」に置いてもらう十字架も搬入した。2メートルもある鉄製の重い十字架は賀川豊彦[1888-1960]の起こした教会が解体した時の由緒ある記念の痕跡がにじみ出ている。仏教の寺においても違和感がないのは不思議である。 → 

 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世が着座した御堂で震災の実体験を聞き,参加者は祈りの大切さについて目が開かれる。ほとんどが無宗教であり,神妙な面持ちであった。

 台風が午後3時に直撃するために,農林漁のボランティアを急遽,中止することになる。兵庫県広報課,サンテレビ関係者の収録班と共に阿部捷一氏を皮切りに語り部を聞く。

 

 渡波3丁目の遅々として進まない被災状況について,関西方面のメディアの東北復興の華々しさととの乖離についての大学生たちは驚きを隠せない。
 佐藤金一郎ご夫妻も家の中に10人を招き入れる。いつも晴美夫人はわが子がふるさとに戻ってきたように笑顔で歓迎してくださる。

 松原町の被災を松原和夫さんは一部を迎え入れて話す。

  季刊誌「支縁」第4号の1ページの写真の一軒残って写っている家である。面積当たりの犠牲者数では東北3県ではおそらく一番高いところであろう。

 テレビ番組製作者も傾聴ボランティアを収録する。29日(日)午前8時半にサンテレビで視聴できる。

 おりしも石巻滞在中,京都の桂川氾濫,嵐山の浸水など,参加の若者たちにとり,被害はなにか遠い国での出来事のように思えるほど,道中,片道約千キロ,15時間近くの行程である。むしろ石巻における午後の突風や大雨のことをみなはしきりに気にかけている面持ちである。安全には留意するが,自然の猛威でダメージを受けている現場に立つ意義も大きい。レスキュー,防災,救命などの訓練を受けていないだけに引率者としては,地元との連絡を緊密にしながら緊張する。 

 豪雨にめげず,午後1時から長浜町の傾聴ボランティア,鹿妻の養蚕,沢田の沿道に とりかかる。

 

 雨具を着ていても役に立たず,下着までぶぬれになり,ボランティアにいそしんだ。ある参加者の傘は強風のため,傘もばらばらになっていた。戸別訪問に12名が班ごとに別れて,取り組む。約3時間,在宅被災者はびしょぬれになった女子学生たちの熱意に打たれる。震災時の心のおりを流し出す。ICレコーダーやデジタルカメラを濡らさないように余分な神経を使っての傾聴ボランティアである。

 木村褜治沢田区長が被災体験のみなさんに声をかけてくださる。女川の被災者の仮設住宅の集会所には6人が集まってくださった。

 

  全員の家は無くなった。家の基礎すら残っていないと言う方もいる。

 仮設住宅は50人待ちの状態でなかなか入れなかった。「95歳の母親は片目が不自由であったにもかかわらず,仮設住宅の許可が得られず,町長に直接抗議してやっと入居できたんです」と斉藤さよ子さんは語る。 中村熊夫氏(69歳)は奥さまの一子さんが近所に安否を確認していた際に津波に呑まれたと言う。「女川でも少し高台にあったので,非難訓練はなかったし,398号線沿いの南側の集落15人全員が亡くなったんです。家内は8月に大貝で見つかりました。」とご家族を亡くして,仕事を失くして,泣くしかない人たちである。 

 第30次から,ボランティアは「きれいさを残して」立ち去る伝統が確立している。朝,宿舎で起きると,掃除に専念する。小野寺脩館長先生ご夫妻のご好意に与り,「ごちそうさま」と感謝を残して,それぞれの現場に別れて向かう。 

                                                                                                    

 二日目は初日と打って変わって,炎天下の作業になる。昨日の達成できなかった続きをする。

シバザクラの雑草刈り    ゴールデンマリーの苗植え

    阿部勝徳氏と大豆畑の雑草刈り

  

  京都薬科大学の院生大槻恵莉さんは帰宅直後メールをくれる。「被災地でさまざまなことを感じましたが、それ以上にこのような活動をずっと続けてきていらっしゃるこの団体の方々の存在に強く心を打たれました。この4日間で感じたさまざまなことを、うまく文章にできるかどうかはわかりませんが、様々な方々の尽力と御縁のおかげで出来たこの経験を無駄にしないよう、感じたことの120%を書けたら良いなと感じております。必ず一週間以内にレポートを送りますのでお待ちください。」

 石巻を離れようとするとき,多くの参加者はすっかり石巻のとりこになっていた。引っ越ししてきたいと願う者もいれば,阿部勝さんのやさしい笑顔に忘れられない思い出を語らないながら,後ろ髪を引かれるようにして帰路についた。

 JR朝霧駅で,参加者全員の名前を赤林 幸さんは覚えており,皆さんから拍手された。はじめて出会った人々がひとつの家族になった四日間。メールアドレスなどをを確認し,再会を約束し,解散した。

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ボランティアに参加して

                                                                                                                           池田 理紗

 私がこのボランティアに参加した理由は、長い大学の夏休みを有効に使いたいと思い、かねてから東北へボランティアに行きたいと思っていたので参加させていただきました。

 石巻の渡波に着いた時の率直な感想は「何もない。」でした。震災から二年以上が経過していて、最近は原発の問題のニュースばかりで被災地の復興のニュースはほとんど目にせず、それなりに復興は着々と進んでいるものかと思っていました。私が見た光景はそんな予想とは大きく異なり、がれきこそないにしても壊れかけた構造物や壊れた車が山積みになっているだけで、雑草ばかりが広がっていました。そこにはたくさんの住居や店があったとは到底思えませんでした。想像以上に復興は全然進んでいませんでした。まだ生々しく残っている住居を見させていただきましたが、1階の窓ガラスはすべて割れ海側の壁は壊れ生活用品や服などはあの日のまま散乱していて津波の破壊力を感じました。

 

 被災の体験談を聴かせていただき、震災当時は生き地獄だと思いました。必死に家族を助けようとしたにもかかわらず体力が尽き最愛の家族を失くす辛さは、私には到底分かることのできないほど、深い傷であると思います。今でもその傷に苦しみ、自ら命を絶つ人も多くいると知りました。命が助かった人と命を失った人は、本当に紙一重であったとしり、私は生かされている存在だと感じました。被災をしなかった私がこの時期に何かの縁で東北に訪れたのは何か意味があるのではないかと思います。私にしかできない何かがあるのではないかと強く感じました。 

 被災した方々の多くが口にしていた言葉が「まさかここまで津波が来るとは思わなかった。」でした。それを聴き私は、意識の問題で多くの命が救えたのかもしれないと思いました。宮城県は過去に何度か地震はあったのですがそれによる大きな津波はあまりなかったため、自分たちの人生経験から津波は来ないのではないかという思いから、避難が遅れたのだと知りました。また、構造物では津波は防げないという話も聞きました。防波堤も必要だが子供でもお年寄りでも避難できる道や方法を提示して、時間はかかってもいいから人の命をどう守るかを世界に発信してほしいとおっしゃっていました。どれだけ頑丈で高い防潮堤を作り上げたとしてもまたいつそれを超える大きな災害が来るかわからない。市民の安心を得るためには、構造物のハード面ばかりではいけない。津波の恐ろしさと津波から避難することの重要性と避難の方法を徹底して教育し定期的に防災訓練や講演をして防災意識をずっと持続させていくことが大切だと思いました。今まで私は学校などで行われる避難訓練はいつも受け身で参加していましたが、地震が来たらすぐに高い場所に逃げる。これがみんなの意識の中に定着していたらどれだけの人々の命を救うことができただろうか。それを考えると、防災意識の徹底がどれだけ重要かが本当の意味で分かりました。 

 ボランティアに参加することの意味について考えました。私の出した答えは、被災地に足を踏み入れることに意味があるのではないかということです。被災しなかった人にとって東日本大震災はニュースでしかありません。テレビの中の世界です。しかも、報道も少なくなり少しずつ忘れられようとしています。それでいいのでしょうか?私は嫌です。あの大勢の人の命が奪われたあの日のことを忘れてほしくありません。だから、自分の目で見て、震災の事実を受け止めたいと思うし、他の人にも受け止めてもらいたいと願います。それは、被害者のひとたちのために。また、震災の教訓を生かして救われる人たちのために。

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 小山夏未です。以下報告レポートです。お世話になりました。
 震災から2年半。この時期に,一体私に何ができるだろうか
 こうしたことを考えながら,このボランティアに参加していた。参加する事でこの疑問が全て解決できた訳ではないが,実際に石巻へ行き,そこで被災者の話を生の声で聞いたりする中で,感じるもの・考えさせられるものがあった。

 被害の大きかった渡波や門脇は,既に瓦礫が撤去され,ところどころ家が建ち,辺り一面,生い茂った草が広がっていた。(後に,そこには,かつて住宅街があったこと,手がつけられずに無造作に生え続けてしまったということが分かった。)11つの家をよく見ると,津波の爪跡が残っている。壁の損傷,解体工事,小学校の修復工事。お寺は,未だ手が付けられずに残っている部屋もある。復興はまだまだだ。

 その中で私たちがおこなったのは,被害を受けた在宅者11件を訪問し,話を聞いていくこと,そして,新しい地図作り,農林業の手伝いなどである。お話を聞く中で,このようにおっしゃるかたがいた。

「私たちは,家が何とか残り,リフォームでき,家族と一緒に過ごせている。しかし,ここには,仮設住宅で暮らしている人や家族を失っている人もたくさんいる。私たちよりも,そうした人たちの話を聞いたりしてやってほしい。」

 実際,仮設住宅で暮らす人はまだたくさんいる。一方で,そうした仮設住宅や在宅者11軒全てを訪問する人材はかなり不足しているらしい。そのような中で,ボランティアで訪問していき,被災者の話し相手となって少しでも心のケアに繋げたり,必要な支援を聞き取ったりすることは大切なことかもしれない。ただ,今回訪問させていただき,きちんと被災者の声を聞き取れたかどうか,分からない。もっと今の被災者に寄り添えたのではないか,自分の力の無さを悔やんだ。

 そして,話を聞き取っていくには,いくらか時間が必要である。今回も,数軒しか訪問できなかった。在宅者一軒一軒をできるだけ早く訪問するためには,沢山の人手が必要だと感じた。

 34日はあっという間だった。移動に時間がかかるため,実際に現地にいれるのは2日のみ。できることはほんの僅かかもしれまない。ただ,私たち11人の取り組みが積み重なり,少しでも被災地への力になれたなら,幸いである。