第15次東北ボランティア報告 未完

第15次東北ボランティア                  2012/07/29-8/2

 三陸道の道路沿いには,ヤマユリが群生している。ユリが咲いている沿道は全国の山には少なくはない。香りの強いヤマユリは珍しい。兵庫県では見られない光景である。窓を開けると,芳香で包まれる。
 ボランティアのメンバーが「また来ます」と石巻市渡波の方々のところで,告げて,手を振り,自分たちの住む地域に戻る。それっきり被災地に戻って来ないと,地元の人たちが寂しげに語る。東北人は粘り強いし,弱音をよそ者に吐露することはなかなかない。いったん親しくなり,家族同様になると,「血は水より濃い」というより,第二のふるさとになる。それほど歓迎してくださる。「また来ます」の言葉を守りたい。嘘つきにはなりたくない。だから,また被災地に足が向かう。なぜなら表面ではなく,実状は少しも復興していないからである。

 田んぼアートのコウノトリの輪郭が目立ち,地元で評判になっている。
 

 医療関係者が毎回加わってくださっていることも感謝である。農業高校生ではなく,一般の高校生が5人,教育関係者が4人の構成であることも新鮮であった。

 1. 岩村義雄
 2. 山本智也   リーダー
 3. 村上裕隆   スタッフ 
 4. 畑尾寛大   高校生 
 5. 三好皓裕   〃
 6. 岡田和磨   〃 
 7. 鬼頭庸介   教師
 8. 澤武じゅん  高校英語教師 
 9. 引地祐太朗 高校生
10. 宮本なおみ 看護士
11. 吉川 潤      スタッフ 会計
12. 須藤正貴     高校生
13. 影澤龍一   関西学院大学生
14. 乾 祐子    教師 

 農ボランティアは,田んぼの雑草除去に取り組んだ。長靴のため足元がすくわれてしまうので,素足で入る方が作業しやすい人たちもいた。今までの参加者と異なり,また,猛暑もあって,ボランティアは難行苦行に映ったにちがいない。これまで参加した延べ70人以上の農業高校生たちは学校引率者である岡田武司先生,辻誠先生たちの厳しい指導があって,礼儀正しい,きびきびした動きをしていた。
 7月下旬から8月にかけての時節である。5人の高校生たちも5分もすると,汗が噴き出て,手を休めてしまう。「がまんをしない」「しんぼうしない」「しんどいことはしない」という世代。ゲームや,携帯に浸かりきった生活とは180度異なる工程である。体つきにしてもお百姓さんとは比べものにならない。ひとときも手を休めない農家の阿部勝さん親子も,すぐに座り込んでしまう高校生たちにたじろいでしまう。東北に来て,はじめて代表も「帰りなさい」と叱るという荒技を用いた。もちろん,大学生や,一般の参加者にはそんなにストイックに接したことはない。日数を経るに従って,5分が10分,10分が20分と休憩なしに作業を続行するようになる高校生たち。3日目には,同じコミュニティで今回はじめて苦楽を共にする教師たちも高校生たちの変わりように目を見はる。実にたくましくなった。ボランティアは自衛隊の体験入隊にまさるだろう。言葉使い,朝目ざめるとすぐに身辺整理,消灯時には夜更かしをせずに就寝する。高校生たちにはめんくらうことが多かったにもかかわらず,順応した。彼らには大学受験試験免除してあげてほしいと思わせられるほど,成長した。顔つきや,言葉使いも変わってきた。

 じゃがいもの収穫 岡田和磨君 修空館をはいつくばってきれいにする畑尾寛大君

 石巻市には,仮設住宅に1万5千人,「みなし仮設」に1万6千人と言われている。前者には石巻市の約160人の見回り組が昨年10月11日以降,健康や,孤立死がないように心のケアで訪問している。しかし,在宅被災者,一般に二階族と言われていた1万5千人にも訪問するマンパワーが極度に不足している。
 先月,機構が訪問した伊勢町の続きを三人で戸別訪問する。震災時の壮絶なドラマを聞かせていただき,圧倒される。1時間以上にも及ぶ体験談だが,ほんの数分にしか思えない。それほど生々しい地獄絵図である。
 先回に引き続き,2回目の吉川 潤さんに報告の一部を掲載させていただく。前回は看護士の石原寛子さんであったが,今回は,宮本なおさんがご一緒である。

 今はない伊勢町尼寺跡   地図,記録備品を携行。

○在宅被災者訪問 聞き取り調査  7月31日(火)~8月1日(水)

 岩村先生、宮本さん、吉川の三名で向かう。震災前の詳細な地図を元に、伊勢町1丁目を中心に震災後の現状がどのようになっているかを震災体験も伺いながら訪問して回る。

・三浦M(59歳女性)・・・伊勢町1-44
 地震後、海岸線に近い松原町に住む、足の不自由な母を車で迎えに行き自宅に戻った。その後すぐに波が来るのが見えた。腰まで水に浸かりながらも自宅の2階に避難し、一命を取り留める。今となっては、足の不自由な母とどうやって2階に上がったかは覚えていない、と。
 母を移動させられないため、小学校への避難はせず、自宅の2階で生活を送る。食べ物は買い置きの水や袋菓子で食べられそうな物を食べ、近所とも分け合った。またトイレは袋に新聞紙を敷いて対応した、と。
 去年の12月に改修工事が済んで今は落ち着いて生活できていると話される。
 隣家は、夫婦と娘さんが亡くなり、息子さんのみ生存している。向かいの家は祖父母とその娘、高校生の孫がいた。母である娘さんは仕事で蛇田におり、帰ってくるのに2日かかったという。
 地震後、三浦さんは「家にいるのは怖いから車にいた方が大丈夫かな」という話を向かいの祖父母としたが、その後の津波で祖父母と孫の3人が車ごと流されてしまい、「助けてー。おじいちゃん、おばあちゃん、起きてー。」という孫の声が響いていた。3日くらい辺り一帯は水が引かなかったが、孫は助け出される。しかし祖父母は亡くなり、その後2日は道端に遺体がそのままになっていた、と。
 まさか津波が来るとは思わず(祖父母と)車にいても大丈夫かなという話をしたことや、助けられなかったことについて、どうしようもできなかったという気持ちはあるが、夜中じゅう聞こえていたお孫さんの叫ぶような声が今も耳を離れない、と涙ながらに話される。
 チリ地震も小学校1年生の時に経験したが、浸水は床下くらいまでであったので、まさか今回こんなことになるとは思っていなかった、と。 

・H海里くん(中2男児)
 (現在渡波中学校が開校されていないため、バスで稲井中学校へ通学している)
 訪問時は、家の方は仕事で海里くんが一人で留守番中であったが、話を聞かせてくれる。
 当時は渡波小学校6年生。地震後、お母さんが学校まで迎えに来てくれ、一応2階へ逃げた。
 家族は無事だった。クラスの友人は一人亡くなった。一番困ったことは食べ物がなかったこと、渡波小学校まで支援物資をもらいに行ってパンとかを食べていた。  夏には長浜へ泳ぎに行くこともあったが、震災後は行っていないと話す。

・中島Mさん(76歳女性)・・・伊勢町1丁目1-69
 地震後、外に出て「怖いね」と近所の人と話をしていた。そのちょうど40分後には津波がきた。
 携帯ラジオで、女川に津波が来て壊滅状態であるとの情報を聞き、避難することにした。伊勢川に津波との大津波情報の放送もあった。寒かったのでコートとショールをはおり、携帯電話、貴重品を入れたバッグを持ち、地震で倒れた位牌を風呂敷に包んで逃げた。その時には、家や材木などを飲み込んだ津波が見えた。海からだけでなく、先に回り込んだ波が山手からも迫ってくるのが見えたという。
 渡波小学校まで逃げるつもりだったが、「間に合わないから2階に逃げろ」という声が聞こえ、途中にあったアパートの2階に逃げた。一緒に逃げていた息子さんは一足先に小学校前まで向かっていたが、呼び戻した。アパートの2階から5時間ほど津波が町を襲う様子を見ていた。寒さを凌ぐために、2階の部屋のノブを壊して避難した人たちと一晩過ごした。
 次の日に渡波小学校へ避難し3階の図書室で28日間過ごした。電気や水もストーブもなくとにかく寒かった。トイレが1階になっており、トイレの度に上がり降りするのが大変だった。学校には日本赤十字病院(愛知、岐阜、愛媛)の医者が在駐していたのでよく診てもらった。
 その後3カ月は息子さん宅で生活を送っていたが、去年の7月末に自宅に戻った。親戚は仮設住宅で生活する人も多いし、また津波がくるかもしれないと言う人もいて迷った。でもやっぱり我が家がいいし、次津波がきた時はもう死んでもいいと思っている、と。
 1階を洗浄、消毒してガラスや障子を入れ替えた。「不思議とクロスについた波の跡はいくら拭いても取れない、この思い出と一緒に生活していくんだね」と、壁紙の波の筋を触りながら言われる。
 健康面について聞くと、しばらくは地震や津波が頭を離れず、夜は眠れない日が続いたという。立っていられない程の揺れ、聞いたことのない音、真っ黒の波が山のようになって家や材木を飲み込んで近付いてくる恐怖があった。どうやって逃げたかもはっきりは覚えていない、と。
 また身近な親族ではお嫁さんのお父さんが亡くなる。仕事に出ていたお嫁さんは車ごと流され、助け出されたが5日間意識不明であったと聞く。避難所を探して歩いたが、なかなか見つからず15日間無事を確認できなかった。また運ばれたところが、急きょ避難所としての場所を提供していた葬儀屋であったために、それだけ時間がかかったようだ。当時、学校や公的な機関ではないところも避難所の役割を担っていたことも窺えた。 
 またチリ地震の時には岩手県の宮古にいたらしいが、浸水は庭までくらいだったと言われる。 

・斎藤Fさん(60歳)・・・伊勢町1-69
 地震の時には、近所のたらこ加工工場(ヤマサ)に勤めていた。地震後すぐに解散の指示があったので比較的すぐに自宅に戻れた。
 「津波が来る」と人から聞いて渡波小学校まで避難するが、すでに津波が1階を抜けており入れなかった。小学校の近くの家の2階へ避難した。逃げた際、車の上から「助けてけろー」と助けを呼ぶ声が聞こえたが、何もできなかった。近所で消防団の方や車に乗って逃げた人も大勢亡くなる。伊勢町地域だけでも37名が亡くなったという。
 その後、水が引くのを待ち小学校へ避難するが、一つの教室に80名も入っており、1枚のパンを4人で分けて食べた。寒さと狭さで眠れない日が続き1週間しか居ることが出来なかった。
 あまりの寒さから、3日後に自宅の2階にある羽根布団を取りに行きくるまっていた。周りの人の目もあるため、朝の3時に起きてこっそり持ってきたという。
 渡波小の現状として、食べ物やおむつの不足、衛生面がよくなかったと言われる。保育所の父兄が中心となり、近くのセブンイレブンや道に落ちている缶の飲み物を子ども優先で飲ませたという。
 伊勢町にはボランティアは来なかったとも言われる。
 1週間の間は子どもの安否がわからなかった。自転車で、避難所へ行き情報を集めるためにカレンダーの裏に書いて回った。テレビ局やラジオ局にも問い合わせをしたという。
 斎藤さん夫妻は、河南町の親戚宅、大曲の娘さん宅に身を寄せ、今年の2月から自宅に戻っている。始めはもう元の場所に住みたくないとも思ったが、歳も考えるとやっぱり住むことにした、と。
 まだ自宅の改修工事は終わっていないが、お金がかかるので、納屋を建てたり、駐車スペースにはコンクリートを流したりするのは見様見真似で夫と一緒にした。今までしたことはないが、必要に迫られてしている、「おかげで真っ黒に日焼けした。」と笑顔を見せられる。
 今では生活は落ち着いてきた。九州の山津波(7月に起こった九州北部豪雨)の心配をしているところだ、と。
 自治体は復活していないが、近所付き合いがあるので助け合って仲良くしている、と話されコミュニティ毎の結束の強さを窺わせる。 

・阿部Mさん 47歳女性  高1、中2の子どもを持つ
 地震後、小学生の子どもを車で迎えに行き、そのまま家族4人で旦那さんの実家のある祝田の山手へ避難した。防災のアナウンスは聞いていないが「津波だ~」という年配の方の声が山の下の方から聞こえた。山の奥の方にいたので津波は見ていない。
 「まさか津波が来るとわかっていれば、車では行かなかった」と言われるが、同じように子どもを学校まで迎えに行き、そのまま車で流されて亡くなった親子もいると聞く。避難の判断の早さが生死を分けたと考えられる。
 震災後4日目で自宅に戻り、2階で暮らし始める。支援物資は届かず、冷蔵庫の中の食べられそうな物や買い置きの水、知り合いがくれたおにぎりを分け合った。知り合いや親戚で亡くなった方も多いようで、特に身近な親族では、旦那さんの妹を亡くし、夫婦間であっても未だに話題にはしないようにしているという。家族4人が無事で「生かされた」と感じていると話す。
 子どもはしばらくの間、恐怖心から家を出ることができなかったが、今は元気に生活を送れている、と。

 在宅被災者訪問グループと,養殖のグループが合流して,石巻市役所に表敬訪問。

  復旧で多忙な中,とつぜんの訪問にもきさくに合ってくださった。

 仙台在住の東北工業大学の小島正美教授とのフェイスブックでの交流が始まった時に,深澤ひろ美さんという女性経営者ともご縁があった。私たちボランティア一行をわざわざ石巻市まで労をねぎらうため,差し入れをもって来られた。及川美佳さんや,深澤りささん(9才)も一緒だった。「都」で昼食を一緒に入手。「都」とは地元で人気の新しく開店した弁当屋さん。阿部勝徳さんの奥様が地産地消の「都」を始めた。いわば「六次産業」のモデルである。

 たくましくなった高校生,惜しみなく運転をしてくださり,園芸の面でも際立った働きをなさった鬼頭庸介先生,二日間にわたって,いもほりの名人になられた澤武じゅん先生,乾 祐子先生たち教育者たちの高校生たちに接する態度にも励まされた。
 4泊5日の充実した東北ボランティアが無事に終えることができた。
 養殖ボランティアでは,海苔の網の修理が複雑であり,結索法を学んだことのない者には手品の世界であったようだ。

 広島県からひとりで参加した高校生 引地祐太朗君,初日は長距離の不慣れな旅で内蔵の調子がすぐれなかった三好皓裕君はみちがえるほど精力的に作業に従事。須藤正貴君も明るく皆から愛された。厳しい代表の言葉にも音を上げなかった高校生たちの笑顔に感謝。山本智也リーダーのやさしいフォローがあったことは言うまでもない。修空館館長の差し入れにもいやされた。阿部勝ファミリー,阿部捷一ご夫妻,佐藤金一郎ご夫妻,私たち一行を神戸から支えているこれまでの参加者,理事たち,支援してくださる方々のおかげである。地元の丹野清市会議員も夜遅くまで,自然環境をいかに取り戻すかを力説。カフェテリアが閉店しても,バス停留所で延長線のお話しに,高校生たちも耳を傾けた。岩手県の佐藤正弘氏,昼食時に訪問して励ましてくださった石巻日日新聞の水沼幸三氏にも感謝したい。JR朝霧駅で高校生たちと抱擁して帰途についた。

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