※ 2011年5月以降,「神戸国際支機構」の名称は,「神戸国際支機構」に変わります。
  (ツキや「縁」起を担ぐなんて,言わないでください。 被災地の方と共に生きるようになった
 からです。)

ボランティアは二回目以降 敬称略


被災地便り ④                         5月1日

 JR朝霧駅に参加するメンバーたちが降りた。田辺裕章君,土橋由佳さん,日高敬太氏たちである。28人乗りマイクロバスと本田寿久事務局長が運転する7人乗りバンの二台が2時,神戸国際支縁機構の東日本大震災対策支援本部に到着した。15人の参加者が集った。関係者を含め現地で総計24名のボランティアが石巻市で仕えた。

 二回目の準備には,「東日本大震災支援全国ネットワーク」の情報Jが役立っている。西本金物の薪ストーブ,NSEF国際協力緊急支援機構の感染症対策用の噴霧器や,次亜塩素酸水原液やキーコーヒー提供のコーヒー器具類などをバスの後部座席に積み込んだ。血圧測定などの医療用品なども席を占めた。年齢層は,20代前半の若者たち,大学教授,語学研究科,英国人たち,工務店経営者など,多彩な顔ぶれである。

1.岩村義雄  第二回 東日本大震災東北支援本部 代表
2.本田寿久  同 事務局長
3.久宝 実    同 久宝工務店
4.勝村弘也  手をつなごう東北-兵庫 神戸松蔭女子学院大学教授
5.原田義彦  神戸国際支縁機構                                                 6.安立 昇   同                                                            7.ドーン・ボルトン    同
8.ソニア・ストイコヴスカ 同                                                    9.田辺裕章   同
10.山本智也  第一回 東日本大震災東北支援派遣
11.村上裕隆  同
12.吉谷拓海   ボランティア
13.北村 徹    手をつなごう東北-兵庫 同志社大学院生
14.土橋由佳龍谷大学経営学部2回生                                            15.林 倫子□□神戸国際支縁機構
16.植田千恵  同
17.日高敬太  同,NPO今治センター
18.阿曽沼温良 NPO今治センター
19.新免 貢     宮城学院女子大学教授
20.庄司宜充  兵庫県南部大地震ボランティアセンター
21.坪井 智     神戸松蔭女子中高校教師
22.小川雄大  平和の鐘プロジェクト
23.瀧 大輔     神戸国際支縁機構,手をつなごう東北-兵庫,ホームページ作成者
24.吉川美由紀  東北救済プロジェクト 宿舎提供

 第一回目(3月20日~24日)は初動の時期であり,またボランティア自粛の中で,東北へ7人で向かうことは稀有であった。未曾有の被災に何かをしなければと心動かされた企業,各教会,各ボランティア団体からも背中を押すように支援,協力があった。現地にたくさんの物資を運んだ。課題としては,① 物資は有り余るほど各地の救済本部には届いていたが,各避難所には届いていない。② 現地の復旧には,がれき処理が優先課題であったが,重機がない。③ 行政やボランティアがぜんぜん手を付けていない被災場所が多かった。

 課題を解決するために,マンパワーが必要なことは言うまでもないが,パワーシャベルのような重機の確保に東奔西走した。重機の運転免許は早ければ,二日で可能。約2万円である。資格をとって参加する予定であった斉藤 潤君はハンセン氏病慰問のつきそいが関係して,参加を断念せざるを得なかった。

 マスコミで注目される気仙沼,宮古,陸前高田,大船渡,釜石などは政府がてこ入れし,復旧から復興へ相当の資金を投入することだろう。しかし,石巻市渡波町,門脇町,南浜町,雄勝町などは復興どころか,復旧すらおぼつかない。避難所について,行政もボランティアも見向きもしていない観がある。つまり,報道で注目される地域は復興の鎚音も迅速になされるだろうが,見捨てられた地域は家屋,生活の回復はなされないわけだ。まさに生存権が脅かされている。だから,今回は重機の導入,衛生面の配慮,医療などの配慮を優先した。しかし,二回目ということもあって,物資を応援してくださる企業,諸団体は撃滅した。そこでボランティアがそれぞれ手弁当で計画し,参加費によって,交通費,食費,滞在費をまかなうことにした。全国から有志が参加を申し込んできた。

 久宝氏は一人で,マイクロバスのドライバーとしてほとんど仮眠もとらず,新名神高速道路,東名高速道路を走った。先導車を運転する本田にとっても大型免許を運転する久宝のタフさには脱帽した。港北サービスエリヤで吉谷拓海君が仲間に加わった。ツイッターを通して,神戸国際支縁機構のボランティアの存在を知って申し込んだ30歳の若者である。


仙台市太白区にて

 仙台市に早朝着くと,阿部頌栄先生からクッキーを受け取り,金 纓先生に再会し,全員がご自宅に歓迎された。阪神淡路大震災と同じように水屋の食器類が壊れたり,テレビが倒れた経験を話された。今回参加の最高年齢86歳のメンバーは震災まで不和であった親戚に訪問し,和解することができるドラマがある。高齢者の安立氏の参加を背後で祈られた小紫義弘先生や菅原洸人画伯の寛大な支援が今回の多彩なボランティアグループへの後ろ盾になっている。宮城学院女子大学で新免 貢教授と被災地の復興をどうするか,連帯しながら,「手をつなごう 東北-兵庫」の今後の活動について意見見交換をし,翌日,合流することを確認した。

 前回の経験を通して,地元の要望を優先するために,がれき撤去を行なう。石巻市の壊滅的な町の三箇所に重機を入れて,作業を行なう。女性たち6人が避難所向け3000人用のクッキーと機械で挽いた温かいキーコーヒーを提供する。とりわけしょんぼりした子供たちの心のケアに専念する。英国人,オーストラリアの女性たちはボランティアが一度も訪問したことがない被災場所に専ら訪問する。三陸沿岸では,110人の親をなくした子供たちがいると報道されていた。68人の阪神淡路大震災よりずっと多い。生前,親御さんたちは自分たちがいなくなり,子供たちが取り残されたらどうなるか考えていただろうか。そう思うと涙を禁じ得ない。外国人の女性の参加は笑顔をもって被災の子供たちと接する上では大きく寄与した。

 宮城県東部に位置する石巻市は,牡鹿(おしか)半島の付け根にある。連日多数の船舶が国内外から入港し,湾内には数多くの工場や倉庫が建ち並んでいる。江戸時代から海運で栄えている。「三十五反の帆を巻き上げて 行くよ仙台石巻」(宮城県民謡・遠島甚句より)。 川村孫兵衛[1575-1648]は難問中の難問である北上川中・下流域の改修工事を行なった。毎年八月の初めに「川開き」が盛大に行われるようになったのも孫兵衛の業績を記念している。

 行政との連携によるボランティア活動の開始として,石巻市役所に訪問し,生活環境課沼田氏と現状について,説明を受ける。市長室に案内され,亀山紘市長と岩村が面談。市長は,地域のコミュニティの統合を成就して支援していく決意を語る。石巻専修大学の環境学の学者らしい風貌と,対応策についても賢明な視点がある。

 石巻駅前や市役所付近は以前と比べて,かなりきれいになっていた。非政府組織(NGO)「ピースボート」などが清掃作業をしたからだろうか。散水車が水をまいた後,長靴に手袋を着けた若者らの姿はゴールデン・ウィークにも見かけた。ボランティアは1週間ごとの交代制で,毎週50人から100人規模のボランティアが送られている。
 当初,ボランティア自粛により,石巻市にやってきたボランティアは受け入れられず,返された。情けないことに,津波発生から約10日後にようやく認められた。行政のボランティア拒否によって,最大の被災面積をもつ石巻市の復興が他の諸都市から取り残されるのではないかと市民は不安に思っている。「5月1日~5日まで,東北へボランティアに向かいます。現地から要請されています。現地で,合流できる他の団体の方がおられたら,ご連絡ください。携帯 070-5045-7127。」とツイッターで告知していた。そのおかげもあって,関東をも含めて三人が申し込んできた。

 市役所を出て,植田千恵さんが仲間に合流した。石巻専修大学のボランティアセンターに飛び込みで行っても,受け入れられず,途方に暮れていた。まったく無防備に,単独でテントをかついで行ったところでなかなか現地は受け入れてくれない。つまりボランティア振り分けなどで石巻災害復興支援会議もパニックに陥っているから,団体ではなく個々の申し込みにきめ細かく対応できる状態ではない。ましてやゴールデン・ウィークのため,全国からやってくるボランティア団体で,大学のグランドはテントが随所に設営されている。本音と建て前ではない。東北の被災地の人々は腹を空かしていても,弱音をはかない気質があることも関係しているだろう。厳しい風土と闘ってきた地域の特性を知らずして,押しつけボランティアならば,挫折感を味わうだろう。植田は現地でボランティアから神戸国際支縁機構の訪問の情報を聞き,携帯で連絡をしてきた。石巻駅前でグループに加わった。彼女をはじめ多くのボランティアが3月11日以降,玄関払いになっている。GWで石巻市渋滞の原因がボランティアだということになれば,ボランティア自粛につながりかねない。三陸海岸地域は400kmにわたり壊滅しているのだから,ボランティアを規制してはならない。若者の時間,体力などの自主的な動機を尊重する制度を大人はもっと考えろと言いたくなる。たとえば,ハーバード大学はボランティア経験があれば入学できる。日本もボランティア体験が就活,入学に有効な社会にすべきだろうに。医療は治療(cure)。しかし,治療の場である避難場所は衛生状態が悪く,感染し肺炎などを併発している。無医村に遣わされ,喜んで赴く医学生たちのスピリットに期待したい。医師の資格をとることより,医術を施す動機を優先すべきだろう。石巻市で医療のボランティアグループを見かけた時は胸をなでおろした。

 渡波町に行く前に,門脇町,6y南浜町に立ち寄ることにした。日和町の狭い通りを巧みな運転で向かう。途中,ピースボードが作業を終えて,全身にこびりついたドロを洗浄機で洗い落としていた。一行は,東松島市の損害を車窓から見てきたが,顔色が一変した。惨状を目の当たりにして,言葉を失う。同じ宮城県の湾であっても被害の温度差がある。テレビなどの報道で見るのと大きな違いがある。魚介類やヘドロなどの腐臭が鼻をつく。次に目に乾燥したヘドロの粒子が襲う。画像では伝わらない壮絶なシーンである。

 地震の震源地が三ヶ所所ある。岩手県沖,宮城県沖,福島県沖である。とくに宮城県沖地震による津波と,福島県沖地震における津波が重なって押し寄せた区域とそうでない区域の違いも関係している。
 川村孫兵衛[1575-1648]の銅像が日和町の高台から見守る門脇町,南浜町。治水,港建造で石巻市を東洋一にもたらした孫兵衛の予測をはるかに上回る規模の自然災害だ。復旧の見込みは皆無と言っても過言ではない。町の一番北に位置する門脇小学校も船が体当たりして炎上していた。船の燃料が原因らしい。3階に避難した児童たちは渡り板によって北側の日和山に逃げて助かったそうな。日本製紙工場から門脇小学校までの周辺の家屋は一晩中燃えていた。高台の日和幼稚園も不運であった。大街道地区,蛇田地区の5人の園児は送迎バスに乗ったまま,津波に巻き込まれた。南浜町,門脇町を含めると,同幼稚園だけでも9人が亡くなっている。14日,変わり果てた姿でワゴン車の周囲でバスの園児たちが見つかったそうな。日和山町周辺は無事で,南浜町,門脇町の避難者の内,1000人ほどが高台の泉町にある門脇中学校に今も避難生活をしている。阪神淡路大震災では3万5千人ががれきに埋もれた。その際,隣人の協力で,8割が助かった。10日目である20日,がれきの下から80歳の女性と16歳の少年2人が最後に救出されたのも門脇町。それにしても,津波の威力は恐ろしい。生き埋めから救われるチャンスはまずないのだ。
 ボランティア一行は自分たちに何ができるだろうか,胸に去来しながら門脇南浜町を後にした。

 二度目の訪問のあいさつのため,石巻専修大学の石巻災害復興支援協議会を訪問。事務局中川政治氏から各ボランティア団体と共闘しながら,医療支援など進めていくことができればと話し合う。各ボランティア団体からの報告に基づいて,復旧の方向性を模索しているゆえに情報の提供を依頼された。団体として,ボランティア保険に加入。個々の成員を登録し,来年の3月31日まで有効の証明書をもらった。

 神戸国際支縁機構のメンバー20名は渡波町の要請者である佐藤金一郎氏にあいさつに行く。佐藤氏とは3月の時から情報交換が始まった。重機の持ち込みに関して,置き場所や,作業場について事前に何度も連絡をして,お膳立てをしていただいた。神戸から重機を運び込む前に,石巻市役所と岩村が連絡をとることになっていた。環境課の沼田裕光氏は日夜奮闘し,疲れているにもかかわらず,石巻市復旧のために重機の用い方について,自己責任などを条件に調整してくれた。行政のワラをもすがる気持ちがひしひしと伝わった。先発で現地入りした阿曽沼氏からも,パワーシャベルについて地元の要請と行政の許可の依頼について,神戸国際支縁機構へ問い合わせが何度も入った。

 現地では炊事を本田が担当。焼きそば定食を作成。女性チームの宿舎がある鹿又(かのまた)梅の木に久宝はマイクロバスで送迎する。「東北救済プロジェクト」の吉川さんが鹿又駅まで迎えに来てくれた。宿泊費は一人一泊2,000円である。鹿又付近は津波の被害はなく,地震だけのため,大きな損壊はなかった地域である。92歳になるおばあちゃまも温かい笑顔で宿泊者を歓迎した。高齢者の安立たちを佐藤金一郎ご夫婦は自宅に泊まるように執拗に勧めた。ボランティアの原則は被災者個人に迷惑をかけないこと,よしんば被災者が希望されたとしても近隣にまで騒音や,景観を損ねるようなことができないので,固辞した。しかし,佐藤氏の熱意に根負けして,年長の方たちだけが泊めて頂くことになった。5月に入っていても,ストーブ,こたつがないと,寒い。夜の避難所の人々の健康が脅かされている。薪ストーブがなかなか重宝した。調理や,暖房に役立つからである。阪神淡路大震災でもボランティアで貢献した西本金物のストーブは実に安価であり,強力な武器であった。 建築の専門家である久宝は倒壊した街並みを二人で巡回している時,岩村に語った。地震,津波による被害が少ない家があるのはどうしてか。ベタ基礎がしっかりしているからだと説明した。ベタ基礎とは言葉のとおり基礎のベース部分全体に鉄筋を入れ,コンクリートを流し込んでいる。一方,阪神大震災の時,布基礎の建物はほとんどが倒壊していた。2005年,元一級建築士が手抜き工事に対して構造計算書を偽造してから,20項目ほどの検査がなさるようになった。その結果,さらに,建物が堅牢になっているからだと話した。少々の地震では家が沈みにくく,傾きにもびくともしないそうだ。おまけに地面からの湿気もほとんどなく,渡波町三丁目でも,少し高台にあった佐藤氏周辺の5軒ほどは,畳を乾燥させ,ライフラインが復旧したら,生活を取り戻せることになっている。もっとも船がぶつかってきた場合には,お手上げであることは言うまでもない。3月に訪問した時には,なかった漁船も渡波湾に停泊していた。津波発生時,沖にサーフィンのよう波を利用して沖に漕ぎ出した船は今回も見かけた。さらに,漁に出ていた船と,他の地域から支援に来た船が加わり,7艘になっていた。漁場で生活する漁師たちの中には,波と共に市街地に流れ込んだ船をなんとか修理して生活のめどを付けたいと考える者もいる。

被災地便り ⑤                             5月3日

 朝食はラーメン定食である。鹿又への送迎は国道398号線を使う。石巻駅近辺はゴールデン・ウィークのためボランティアたちの車の影響で混雑している。予定の二倍以上かかった。女性たちは,宿舎で入浴ができ,朝食もとることができる。一方,男性たちは,滞在時間が限られていることもあり,道の駅である「上品(じょうぼん)の郷」や,加護坊温泉さくらの湯に連れて行ってあげることもできなかったことが代表としては悔やまれる。3日の朝,携帯でやりとりしていた高知県の小川雄大君が合流。スコップを背中にぶらさげて,ヘルメットをかぶり,チームを明るくするメンバーが加わり,一層活気づいた。 チームを三つに分けることにした。一つ目は衛生班として一軒ずつ訪問し,手洗い,床,家具などに噴霧器で殺菌のため,巡回する。北村をリーダーに,山本,村上,吉谷,田辺,小川の6名で構成する。二つ目は,避難場所に女性チームがクッキーやコーヒーなどを届ける。陸前高田での奉仕が忙しいのか,予定通りに坪井氏の乗用車がこない。急遽,行き先を変更して,渡波町の公民館,小学校,保育所の避難所に行くことになった。避難所 渡波公民館は救済本部もある。3階には50人避難している。遺体安置所にもなっている。メンバーは原田,安立,ドーン,ソニア,土橋,林,植田である。渡波小学校に避難にしている被災者数は約800人。体育館に300名,校舎に500名である。35班をつくり,集団生活する上での取り決めや情報共有をしている。三月では体育館に2000人避難していた。今は800人だから1200人ぐらいは家に戻ったことになる。三番目に,重機を操縦する「NPO今治センター」の阿曽沼,日高の働きである。二人は長野県の三人と,最初から取り組んでいる藤本氏の計画の下で,パワーシャベルを用いる。倒壊した家や,がれきで埋まっている家を一軒,一軒片付けていく。渡波小学校の近辺はとくに破損がひどい。被害を受けた自動車の大半に損害保険金が支払われないとはいえ,パワーシャベルで勝手に処分ができない。所有権があるから。むずかしい問題である。

 午前中は,衛生班が6名,避難所訪問に9名,重機を扱う6名が分かれて地元の要請に基づいてそれぞれのボランティア活動に取り組む。家が流されない所も一階は水でアウト。二階で生活ができる人は戻りつつある。渡波三丁目を皮切りに噴霧器を持って,各戸に土足のままあがり,散布する。地盤が変化し,一階で家族団らんくつろぐ食事の間はもうない。炊事することができない。冷蔵庫がなくなっているのは当たり前だが,所有者がわからない自動車や冷蔵庫がごろごろと庭を占領している。ドロ出しが終わった家に戻っている家庭だけを対象にする。畳が取り除かれている床にはあちらこちら傷みがある。ヘドロの臭いが3月の時よりは,無くなっているとは言え,地面から湧き出てくる水はヘドロ,下水もふくまれているせいか異臭である。玄関前にはドロ出しをした土嚢が山積みになっている。行政ががれきや土嚢を運んだのは50日間で1回だけにすぎない。次にいつ来るかわからないと住民は不安げに語る。各戸のサイドや,前にある排水溝はがれきとヘドロで埋め尽くされている。大潮毎にあふれ出て,生活に支障をきたす。一日に二回,満潮時には冠水があり,道路や,玄関先は水浸しになる。満潮に冠水 復旧は気の遠くなる話しである。道路のがれきを撤去した地域のライフラインの電気,水道の一部が回復した。しかし,自分の生まれ育った家に帰るしか選択できない人はどうなるのか。生活を奪われた住民はこれからどうすればいいのか。つまり新しい家を建てるなどとうてい考えられない。家に戻ってもローンや,生活設計をどうするのか,不安がいっぱいである。日本列島は4枚のプレートの上にある。したがって,地震が多い。東日本大震災は阪神淡路大震災と異なり,縦揺れではなく,横揺れが続いた。阪神淡路大震災の余震は,1995年が2360回,1996年が180回,1997年が109回だった。徐々に体感する余震が気にならなくなっていった。余震と言えば,過去10年に日本全体で起きたM5以上の地震は年平均120回程度である。東日本大震災以降,東日本では1カ月足らずで3年分を超えている。地元では,余震,津波に対して高所恐怖症のように,フォビアがある。滞在中も余震があった。しかし,地元の人は平然と震度4と言ったにすぎない。なぜわかるのか,不思議だった。実は,5だったら携帯の警報がなるようになっている。いずれにしても,余震による津波をかなり怖れている。渡波町の防波堤は決壊した。長浜幼稚園も呑み込まれた。渡波町には逃げる高台もない。たとえば,4月7日深夜の余震は住民をおののかせた。復旧していた地域の停電。道路は渋滞,恐怖からクラクションの鳴りっぱなし。車を捨てて走る人。「こんなとこ車止めんなよ, まだ津波来ないぞ」と怒号が飛び交う。翌日の午後には,水道も止まった。東日本の余震は揺れだけではない。「グォ~」という何とも不気味な地鳴りがある。一度聞くと,足がすくんでしまう。樹木や場合によっては山そのものも揺れる。広範囲にわたって音が発生するために,低く不気味な音となっている。

 ボランティアは二階での生活を余儀なくされている各家を訪問する。岩手県が民間賃貸住宅に被災者が入れるように,家賃の目安6万円や,敷金や礼金も負担すると4月21日に発表した。福島県も,宮城県も公営住宅や民間アパートの借り上げをして,生活家電器具なども無償で提供すべきだろうに。まさしく,善は急げ。仮設住宅をどうすべきだろうか。なにしろ三陸沖の山間などで,人が住めそうなところはすでに住みつくしている。物理的に場所が足りない。学校のグラウンドに仮設住宅を建てれば,教育の機会が奪われる。教育が復興の大事な柱だからである。阪神淡路大震災の時,孤独死を迎えた体験から,ただ建てればいいのではない。コミュニティを造りあげる向き合った住宅環境が大切であり,課題は大きい。海を生業にする人にとっては,海岸線近くに住みたい。

がれき処理

 ボランティアは家の人と言葉を交わし,親しくなると殺菌の申し出がある。続いて住人はボランティアに排水溝のドロ出しを遠慮がちに依頼する。スコップでどろを土嚢に入れて,一輪車で運ぶ作業に専念する。30歳以下の若い男性たちの出番であった。3月に引き続き,渡波町の人々との交流を深めていった。

 2万1千戸の町民の内,半分は避難した。行方不明者の実数は市役所でもまだ把握できていない。1,800人とも推測されている。来る6月11日には「失踪宣言」がなされる。だが,死者の数は増え続けることを覚悟しなければならない。一方,減るはずの行方不明者数は減らない。阪神淡路大震災では行方不明者数は3人だけだったのに。石巻市の行方不明者2,770人。三県で約14,500人。しかし,特例で震災から3ヶ月経つ6月11日には,「死亡推定」される。(民法20条では1年)。相続や,ローンをどうするか,司法のボランティアも必要であろう。これからの将来の暮らしを考えると避難者は眠られない日々が続くだろう。仮設住宅の要望数は少なくとも1万人の避難者の3千戸が必要と見積もられている。つまり三人一家族で計算すると,三千戸ぐらいになろう。しかし,行政は200~300戸ぐらいを用意するのが精一杯と告知している。焼け石の水であろう。住民がいくら声を大にして叫んでもがれき処理は進展していない。道路が片付いていないということは,曲ったり,倒れている電柱を修理することもかなわない。電気なしの生活を強いられる生活の復旧にはまず重機が必要なのだ。復旧なしに復興などとうてい無理だ。挟むパワーシャベルが理想的である。重機はリースに一日約10万円。しかし,「NPO今治センター」のおかげですくいあげるパワーシャベルは無料奉仕である。阿曽沼や,日高たちの慣れた働きにより,佐藤金一郎氏の依頼がはかどる。がれき処理は気が遠くなる量がある。現地に来る前に耳にした。重機の持ち込みや作業が,現地の雇用の機会を奪いそうになるなら,そっと身を引くべきという意見である。しかし,日給7,000円で重機を操作する世代の人たちは実際にはほとんどいない現実があった。パワーシャベルなどを見かけることは少ない。

 がれきは宮城県村井嘉浩知事によると1800万トンと言われている。一般のゴミの

23年分に相当する。環境庁によると,宮城県の年間の廃棄物処理能力は約80万トンである。阪神淡路大震災はがれきが1400万トン,通常処理能力の約8年分であった。処分に約3年を要し,3,200億円かかった。京都大学の平山修久特定准教授によると,被災地域5県の津波廃棄物発生量は約2670万トンとも見積もられている。電化製品・鋼材・家電製品・車両・工場等の化学物質などの廃棄物がある。分別してレアメタルの回収,バイオエタノールなどの用途も新たな仕事の機会に役立つかもしれない。しかし,埋め立てには環境面のリスクが大きすぎる。埋め立てて,山下公園を造った関東大震災[1923(大正12)]の時代の生活スタイルとは異なる。埋め立て地全体で液状化という問題の因果関係も明らかにしなければならない。なぜなら仙台を含めて,三陸沖は天然の牡蠣などの良い養殖場が散在するからである。海の汚染という人災の原因になろう。しかも宮城は国が定める重要漁港14個の内の3つ 漁獲高全国15位以内の漁港3つを抱えている。漁業が主観産業だから埋め立てはできない。阪神間と異なり,遠浅でないこともがれき処理の埋め立てはむずかしい。政府主導のシステムがなければ解決できないだろう。参加者の本田も,西日本などの遠隔地に船舶による搬送したらどうかと提言する。日本の広域で廃プラスチックや建物廃材などの破砕処理を受け入れるべきだろう。272市町村が協力を4月20日に表明した。同時に他の自治体に迷惑をかけることになるのだから,被災地でも新たな焼却炉を建設し,可燃物の処理に取り組むべきだろう。

 くどいが,復興の前に,まず復旧である。

 新幹線,空路再開におおはしゃぎをしてもらいたくない。大手企業の猛烈営業マンが座席を占めているではないか。新幹線などより,在来線を優先させるべきなのでは。現地にいると,被災地が元の生活にぜんぜん復旧していないのに,報道はなぜ復興が進んでいるような印象を与えようとするのか首をかしげてしまう。ボランティアに出かけた人ではなく,現地の被災者,避難者の声,息づかいをインタビューにほとんど出さないのはどうしてかも気になる。芸能人の慰問,炊き出しを大々的に報道する。辻煙のような短期間の滞在の後,被災者のライフスタイルが何も変わっていないことをじっくり報道すべきなのではないか。東日本大震災復興構想会議議長の五百籏頭 真氏は語る。関東大震災[1923(大正12)]の時と比べれば,メディアはよく機能し,朝鮮人虐殺などの悲劇は起きていない。確かに,阪神淡路大震災の時と同じように,在日差別とか,被差別部落の人々との分け隔てはなかっただろう。マスコミの果たす役割は大きい。しかし,原子力発電所問題は大本営発表であり,原発が先にありきの発想が否めない。国のメンツばかり考えて,「風評被害」を恐れている。国家の存続より,ひとりの人の命の方がはるかに重い。人の命を軽んずる国はやがては滅びる。原発問題は今回の被災地便りでは扱わず,別の機会にとりあげたい。

石巻市渡波町の自立防災

 5月3日午後1時には,石巻市32の区長会会長である末永秀雄渡波町区長が町民を集めて,神戸国際支縁機構の物資を提供。米の配給はあるが,すぐに底をつくのでたくさんの住民が列を作った。町内には「神戸国際支援機構より救援物資品の配布を行います」とカラーのチラシが配布されていた。岩村が「神戸で震災を経験した若者たちが恩返しにやってきました。何もたいしたボランティア活動ができていませんが,皆さんと共に生きていきたいです」と語った。末永区長に代表が米を渡すと拍手が起きた。米は行政から配給されるが,すぐに米びつの底が見える状態になる。一人2.5㎏ずつに制限して,本田,林,土橋が配布。血圧計などは山本,衣類は北村,村上,安立,植田,石灰は吉谷,田辺,小川などが一輪車に乗せて運んだりして約1時間,配布した。残った片付けはドーン,ソニアが取り組んだ。ボーイスカウト経験者の原田は記録に画像を撮る。 提供のイベントの後,区長を囲んで,カレーライスを食べた。76歳の末永区長は,1960年のチリ地震の際,万石橋が被害にあったこと,やかんを持ったままあわてて逃げようとした体験などを語った。津波を教訓に,丘を高くして,4メートルの高さに備えて堤防を築いた。

 しかし,予想をはるかに上回る津波を前にして無力であったことを話した。区長の家も損壊しており,妹さんの家に待避している。3月11日以降,地殻変動により,渡波の地域全体では,水位は30㎝は上がったことになる。避難していた人々もゴールデン・ウィークには戻ってきて,ドロ出しをする。二階はなんとか住むことができる。しかし,一階は黒い津波によって畳は二度と使えない。おまけに一日二回,満ち潮になると,いたるところから水が地表に湧き出てくる。道路が復旧しても,買い物などに車がないと出かけることはできない。なぜなら車は流されてしまって交通手段がなくなっているのが当たり前だからである。厳しいことには,他に行く場所がないから避難場所から帰って来ざるを得ないという反応が多かったことである。 ボランティアの自粛,復旧のためのがれき撤去や,仮設住宅問題などが他の地域と比較して遅延した原因は何だろうか。人生経験豊富な区長や,佐藤金一郎防災部長たちは嘆いていた。たとえば,役所の防災本部の人選があまりにも年齢的に若輩者たちを新たに抜擢したこと,リーダーシップの欠如,政治家の無能により,対応が遅れた原因であった。役所も対策本部を設置しても,課長クラスを部長クラスに昇格して新しい課長クラスの手腕ではこの災害を乗り切れないと。対策室のリーダーたる者の経験不足が被害の実態を把握できず,有効な対応策を実施できなかったことが致命的であることを吐露していた。さらに,復旧工事受注なども地元の大手の業者の言いなりになってしまっているのではないかと不満の声もあった。東北の自治体の連携は行われているのだろうか。重機を持ち込む時に,各市町村によって対応が異なるからである。市長自身は学者であり,優秀である。側近に川村孫兵衛のような生活困窮者,弱者などに対する長期的なヴィジョンがない。行動力,先見性,指導力もないと嘆息する声が多い。碁盤の目のように道路を整理する良い機会であるにもかかわらず,都市計画がずさんになっている。地盤が下がった浜は緑地公園にしたらよいとか,土地を買い上げて,地面を1m~2m高くして,街の造成を根本から改造する勇断が求められている。市の財政として28億円ほどしか資金はない。市の労組と掛け合ってリーダーシップを発揮して,「今回はがまんしろ」と2割カットするのも一案であろう。ところが,支持基盤である団体には強く言えない弱さが露呈している。石巻市は財政面でも国から援助を取り付けることができていない。国に5,000億円ほど要請して市の復興に取り組まなければならないだろう。東松島市,宮古,気仙沼,大船渡,陸前高田,女川などは国が威信をかけて,復旧と復興を遂行しようとするが,石巻市のような地域の被災地は見捨てられ,やがてはマスコミの話題にも上らず,風化してしまうだろうとつぶやいた。すなわち1年経っても,5年,10年経ても何も変わらず,ゴーストタウンのままであるだろうという空しさが被災地を覆っている。東北新幹線が4月29日に全線開通。仙台市では華やかな生活スタイルの回復。マスメディアも今後,政策や,権力争いの記事ばかりを占めるにちがいない。すると,被災者たちのことはいつしか忘れ去られてしまう。 渡波町の人々のボランティアに対する社交辞令とだけは決して思えない。もしボランティアが真っ先に被災地に入っていなければ,避難所から自分の家に帰ることすらできなかった。ドロ出しやがれき撤去をしてくれた無名のボランティアたちの働きは感謝されている。すれちがう住民がボランティアに対するあいさつは生き神様に対するようである。遠方からやってきた若者たちは,どんなに辛い労働であっても疲れがいやされる。 被災地では何が必要だろうか。義援金もしかり。しかし,何よりも地元の方々が依存心により人任せで復旧,復興を願わず,自ら立ち上がる精神態度であろう。

 今回,渡波以外の被災地訪問は,「東北救済プロジェクト」の吉川美由紀さんからの情報に基づいている。女性チームの宿舎をも提供してくれた。石巻市で育った彼女は医療の奉仕に専念している。吉川さんが嘆息していた地域には,石巻市門脇南

雄勝町

浜町,雄勝町などである。二ヶ所は渡波の隣接する長浜町,松原町,栄田町,魚町(さかなまち)と同じように全滅地域である。行政もほとんど手が回らず,ボランティアも行っていないと耳にしていた。初日に石巻市役所環境課で,聞いたところ,やはりそこまで手が回らないと正直に情報提供をいただいた。避難しているだろうと思われる学校などを詳細に教えてもらい,訪問することを打ち合わせした。 雄勝町は神戸松蔭女子学院大学の勝村をリーダーに午後に避難所に行くことができるように,避難場所の副校長を佐藤氏に紹介してもらい,訪問することになった。雄勝中学校は二階まで津波が来た。渡波の拠点ベースから,約45分,庄司の運転する車に原田を乗せて向かった。雄勝町の大川小学校を訪問しようと神戸松蔭女子学院大学の学生たちが三日間で集めたメッセージ付きのクッキーやキーコーヒーや,ユーモアあふるる人形を子供たちへと息をはずませて向かった。ところが,役場で避難所と言われていた学校は無残にも廃墟同然であった。108名の在校生がいた。死者68名,行方不明6名である。野球部が活動していたのか,庄司によると,グローブなどが散乱していた。別の学校に避難していることが通りかかった人からやっと聞き出すことができた。行政も把握できていない被災地は散財する。米などの配給をしているにもかかわらずに。新北上川が直角に蛇行する低地の集落は津波の藻屑と化していた。自然災害を受けやすい地区は土地代金が安価であり,裕福な層が住居を構えない。行政もそうした集落に対しての対応が後手に回る傾向がないだろうか。低地集落の人々はいかんともしがたい宿命を恨むかのようにこぼす。 陸前高田に訪問していた坪井が差し入れを持ってボランティアグループを励ましにきた。若者たちは昼間の肉体労働をいやすシュークリームをほおばって食べた。

 曹洞宗の輝實山洞源院は炊き出しを行っており,約400名の避難者を受け入れ,今も130名が避難生活を続けている。避難者が交替で当番を決めて自分たちで自炊,配給などをまかなっている。炊き出しはともすると,自活する意志を奪ってしまい乞食根性に陥ってしまうという批判もあるが,寺はよくやっている。 サンファン・パークにも50名ほどの避難生活者がいる。

被災地便り ⑥                              5月4日

 朝6時半に起床。サンファン・パークから眺める渡波町は津波前と何も変わらないように見える。しかし,町に行くと,壊滅状態であることは言うまでもない。つまり航空写真や高台からの目視はあてにならない。インターネットで渡波町の航空写真のコメントによればたいした被害がなかったように書き込まれている。無責任きわまりない。人が新たに住む家を建てることを認めない発令が出されるといううわさも尾ひれを引いて疑心暗鬼を生んでいる。渡波町三丁目の戸別訪問を始めた。蛇田の避難所からようやく家にもどってきた阿部捷一氏の夫婦,仙台からの息子さんがいた。阿部氏とは,初日会話した。「家が残っていてよかったですね」「でもあちこちひび割れていて住めない」のような対話である。行政が動いていない時,ボランティアが最初に町に来たことについて何度もお礼を述べておられた。夫婦は他に行くところがないから,自宅に戻ってきたと言われた。石巻市適応指導教室の室長をしていた方である。自閉症の子供たちを教育してきた。石巻市では地震直後,一斉に携帯が使えなくなった。三年間音信が途絶えていた教え子から震災直後,メールが携帯電話に不思議にも入った。20歳になる青年はかろうじて携帯電話がつながり,津波の恐怖体験を恩師である阿部氏に訴えることができた。災いが人と人とのつながりを強めることができたのである。携帯やパソコンは津波によって使用不能である。東北電力が渡波町三丁目に電線を他よりいち早く復旧させたが,電話が使えないため,パソコンのインターネット,メールやファクシミリのやり取りはできていない。災害が来たときに役立つという売り込みの光プロバイダーもまったく役に立たない。元校長でもあった阿部氏のお隣り,またそのお隣りの方も3月11日の大波にもまれたと寂しげに語った。防災意識が強かった三陸沖海岸なのに,津波第一波の引いた後,位牌,現金や預金通帳を取り帰った人は犠牲になったという。親や祖父たちから散々聞かされていたが,若い人々の犠牲者について,謙虚に年長者の語る言葉に素直に従っていれば,助かっただろうと忸怩たる思いで,語った。教育者としての無念さがにじみ出ていた。 家の前は,がれきが山積みになっていた。一階は当然のことながら住めない。通院のため,自動車に乗っていた夫婦は必死で土地勘により,安全場所に逃れることができた。
 復興構想会議議長の五百籏頭真(いおきべ まこと)氏は4月22日,神戸で語った。生き残った漁師たちは遺体が「21日目」に体の炭酸ガスによって,浮かび上がる時だという。米軍も,自衛隊も遺体捜索に4月1日から三日間大規模に取り組んだが78遺体を発見したにすぎない。第二次世界大戦の時,よく口ずさまれた歌と同じではないだろうか。「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば 草生(くさむ)す屍大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめかへりみはせじ」。「トモダチ作戦」として米軍は震災後に復旧に努力している印象がある。五百籏頭氏はフォーラムで,「米軍がよくやっている。しかし,英国がドイツ軍の大空襲で国が危なくなった時に,あれほど親密であった米国は英国を見限った。日本も松岡洋右外務大臣が1940年9月に三国同盟でドイツを選んだ。ところが,危機的な大空襲に踏ん張った英国を見て米国は助けるように方向転換した。だから患難に耐えると米国はパートナーとして日本を助けてくれる」と語った。東北支援も同様と聴衆に訴えた。しかし,国難の時に,たとえば仮定の話ではあるが,中国が日本を分断して,新たに中国の東海省と日本自治省に分断するような武力介入が万が一あったとしても,米国が日本を必ず守る保証はないだろう。「トモダチ作戦」と言っても,無償の友情ではない。3月31日に,政府は今後5年間米軍に約1880億円を支払い続けることを決めた。

 6時半に起床。渡波を基点に,三つのボランティアの形態を昨日同様に展開する。吉谷をがれき撤去班リーダーに,山本,村上,田辺,土橋,林の6名で構成する。渡波三丁目の玄関が開かない,家の基礎にひびが入っている,余震で割れている住居を重点的にドロ出しなどに専念する。若い体力,忍耐力,克己心が最も求められる。ドロ出しを土嚢にスコップで入れる際,女性二人も服に臭いヘドロが付くことを気にせず,黙々と働いていたと山本は報告している。波打ち際から隣接する集落である。毎年やってくるつばめが低くなった軒下に不安そうに巣作りを始めようとしていた。避難場所訪問に,熱いコーヒー,高級なクッキー,丹精込めて書いたメッセージの小片をつけたクッキー類を届けた。勝村,北村,原田,安立,ドーン,ソニア,植田が朝食後から迅速に動き出す。午前8時半から神戸国際支縁機構の対策本部から何度もお湯をわかしてはピストンで渡波町救援本部の区役所,渡波小学校に持って行った。午後1時まで,配給を待つ人々や,避難所の人々のために,小学校の一室を借りて,喫茶店を開いた。安立の腹話術にも子供たちは喜んだ。

 そんな避難所でもっとも悪評だったのが,宗教家の布教活動であった。行政がなぜ宗教中立を主張するのか。それ行け,どんどんのように被災地で宣教する無神経さに腹を立てているからである。自分たちの教勢を拡大することに汲々とし,病んでいる人たちに感情移入していないからである。医療関係者は末期症状の患者に接する宗教者に期待する反面,宗教者に絶望がある。宗教家に危惧すらしている。なぜならば避難場所でトラクトを配り,大きな声で祈り,布教活動をする実態に嫌悪感を抱くからである。場違いな宗教家の近視眼的な独善性に警戒感を強めている。自分たちだけが救われるなどという狭量な押し売りなど言語道断だろう。自分たちの教団,教派に対するだけの互助組合のようなボランティア活動は地元の人々から見れば,異質に映る。まさに宗教家の方が大災害だ。歴史的に弱者の生存権のために尽くした奈良時代の行基[668-749]のような宗教家のみが淘汰されることを知るべきではないだろうか。信仰者ならば募金をいくらしたとか表に出て目立つな。右の手でしたことを左の手に知らせるなと言いたい。ただ弱っている葦に行動をもって仕えよ。宗教家の売名行為はもうたくさんだ。今回のボランティアチームの中には数名のキリスト者もいたが,いっさい伝道活動をしなかった。避難生活や,復興に関する不安に対するケアをだれがするのかという命題に対して,宗教家が本来なすべきことがあるだろう。避難場所の間仕切りを持って行ったもののプライベートに役立っていると思えばこそ。しかし,仮設住宅が遅々としてはかどらないので,避難場所に長期滞在することになろう。プライベートより,お互いに心の通じ合うコミュニティを優先しなければならないかどうかの学術的検証は課題として,今後,宮城学院女子大学の新免教授たちの調査に委ねたい。

はさむパワーシャベルが早急に必要

 重機を用いるにあたって,神戸国際支縁機構は石巻市と交渉した。その結果,自己責任でパワーシャベルを使用しがれき処理にかかる承認を得た。さらに重機を置く場所を佐藤氏が調整した。すくい上げるパワーシャベルを「NPO今治センター」が用意した。現地で判明したのは,がれきをはさむパワーシャベル,それも小回りの効く小さなパワーシャベルが有用であることがわかった。がれきは見渡す限り。いくら重機があっても気が遠くなる。小学校の東隣りで作業をしていた日高は午前10時に5万円が入った財布を見つけた。警察に届けることになる。地元の人たちがライフラインの復旧を自分たちで獲得するまで,ボランティアは橋渡しをするに過ぎない。あくまでも前面に出て復旧に取り組むのは現地の人たちの郷土愛,再建に対する熱情,復興へのヴィジョンが中心でなければならないだろう。 最終日,東北自動車道を長距離バスに乗って,神戸市垂水区の瀧 大輔君が引き継ぎでやってきた。ボランティアセンターで合流。ボランティア登録,保険に加入する。6日に来る5名の若者たちのリーダーである。石巻専修大学のキャンパスにテントを張り,ベースとする。瀧は5日には,パワーシャベルを用いたグループに属しボランティアをする。仲間が来る前に,吉谷,村上の両名により説明を受け,引き継いだ渡波町三丁目のドロ出しにも従事する。 ボランティアは受け入れ先がないと断られる。ゴールデン・ウィーク中の全国からやみくもにやってきても作業に従事できない。震災直後にやってきたボランティアも泣く泣く帰宅せざるを得なかった。ボランティア元年から16年。連休を活用。神戸とは異なり,コミュニティも連綿と続いてきた地域。命がけで共に生きる気持ちがなければ,東北人の気高さの前になす術がないだろう。自粛されていた3月の当初とは異なり,今回は,石巻市の随所にボランティア団体が訪問しているのが目立った。石巻専修大学のキャンパスのグラウンドも登録されている団体のテントがひしめきあっている。 私たちのチームは寄り合い所帯である。高齢者,外国人女性,はじめてのボランティア,初対面,地域,職業も様々である。いわばにわかに構成されたコミュニティである。指令ひとつでマニュアル通りに一致して作業することを優先したくない。ボランティアひとりひとりが地域に溶け込み,弱者の視点から共生することを第一に考えていくべきであろう。管理社会では,詳細なところまで行動規範をチェックして,能率よく働く。しかし,効率や数値を追求するのではない。今回のチームも極めて,参加した人たちは自ら志願して集まっただけのことはあって,順応性,積極性,創造性が高かった。ドロ作業であろうが雑用であろうが喜んでするメンバーたちであった。まったく異なる背景から集まったが,打ち解け,ひとつの運命共同体を作り,疲れている人々に仕えることができた。和辻哲郎が唱える「人と人との間柄」を大事にする社会を目指したい。東日本大震災が価値観の転換になることを期待しよう。弓なり状の日本列島は原発によって風前の灯火。明治維新から150年,富国強兵,拝金主義の毒牙と引き換えに,累々と築いてきた自然豊かな風土,生活の営み,伝統文化などの遺産を差し出してよいものだろうか。世界観の見直しを今すれば間に合うのだから,「悔い改めよ!」と叫びたくなる。 無数の倒壊した家屋,工場,商店など。いつになったら元の生活ができるか,だれも答えられない。渡波町の2万1千戸の半数は自分の家に戻れる見込みがない。海産物屋が全滅で海の幸をほとんど口にすることができなくなっている。もし仮設住宅や新しい住居を願うなら,戦争時発動と同じように,政府が土地を買い上げねばならないだろう。山の近くの田畑を開墾し,自分たちの生存に必要な主食,野菜などを生産していく開拓者精神が求められよう。自ずと,およそ50歳以上の人ならば,仮設住宅を確保していく方向性になろう。居住に関しては,おおざっぱに三つに分類できる。30パーセントはそのまま居住できよう。補修すれば,30パーセントは住むことができるようになろう。しかし,30パーセントは廃棄処分しなければならない。3月の「現地便り」で言及したように,過疎の町,村の復興を従来のやり方ではできないだろう。仮設住宅にしても,阪神淡路大震災の時,孤独死を迎えた体験から,ただ建てればいいのではない。コミュニティを造りあげる向き合った住宅環境が大切である。避難者,これから強制退去の数を考えると眠られない。神戸のように石巻市などが前より,よくなる保証はないのだから,新しい法律を作るべきだろうに。法律がなければ行政は動かないのだから。

神戸と石巻の関係

 神戸市は東北のどこかと姉妹都市提携をして,移住,基金,就職に貢献すべきだろう。とくに阪神淡路大震災を体験した神戸は,東北の最も被災面積の広い石巻市との相互交流を深めるべきであろう。

 21世紀機構研究統括の林敏彦氏の言うように,「ドイツでは,GPSの利用によって,車なども移動を把握し課金の公正性を実施している。高速料金の課金,一般道路は無料という矛盾を解決する方法をモデル区域として東北に導入すべきだろうに」などの提言が成就されるとよい。中越地震の時も地域の交通モードを一元化したように,東北の単線の鉄道,高速自動車道,国道などを鳥瞰図法で地域のファンドを立ち上げねばならない。つまりいくら新幹線,空路,海上アクセスの復興をしても,在来線の鉄道を復旧しなければ,回復は望めない。被災者にとって,社会保険などの共済制度はどうなっているのか。3月に現地に行った際,コープ生協のトラックをよく見かけたが,どのように網羅されているかについてだれも統括して,把握していない。東日本大震災の経済被害は16~25兆円と。しかし,実際は二倍近いだろうに。復興を名目に消費税アップについて安易に発言する政治家がいる。恐ろしいことだ。年金暮らしの被災者が買うキャベツ150円も,金持ちのベンツの1500万円も同じ税率である。もし復興税を一律に人頭税のように徴収するなら悪法であろう。それよりも欧米のように食料品は非課税にすべきではないか。東日本大震災は,報道では「被災者」という言葉が用いられている。しかし,福島県の場合は,明らかに「被害者」。双方,生存権が脅かされている。神戸方面に移動せざるを得ない方たちの養護施設,老人ホームなどの入居の際,保証金,敷金を免除する情報のネットワークを立ち上げたいものだ。東北の復興の知恵,方法,施策は,将来,阪神淡路大震災より大きな規模の地震が再度,阪神間を襲った時に役立つように神戸国際支縁機構はシンクタンクのひとつとなれればと願う。「東日本大震災支援全国ネットワーク」に参加しているおかげで,多くのボランティア団体とも情報を共有することができている。現在,連帯する団体として,「東日本大震災支援全国ネットワーク」,「手をつなごう 東北-兵庫」,「NPO今治センター」,「新生田川共生会(ホームレス自立支援の会)」,「東北救済プロジェクト」,日本基督教団「長田センター」,「FREE HELP」,「阪神宗教者の会」などがあげられる。アメリカの「Center for Women and Families」など多くから,支援物資の内容,運搬方法など神戸国際支縁機構に問合せが来る。スマトラ沖の津波,四川省,ハイチ,チリ,トルコなど復興になんとか緒に就いたと思いきや,東日本大震災。もはや日本だけの問題ではない。世界の良心が共に痛む時代であろう。国家,国境の枠を越えて,世界はみんなでひとつになる機会だろう。日本がひとつになる以上のことが望まれている。4月11日に,「死」についての講座を始めた。「生」と死はコインの裏表のようなものである。しかし,「死」を経験した人はいないので,みんなで考えてみたい。医師,弁護士,哲学者,教育家,芸術家などの講師には無理を言ってお願いしている。神戸・三宮・KCC会館を用いている。

 二回参加した21歳の大学4年生の山本は言う。ボランティアは緻密な計画で動くものではない。現地自体がパニック状態である。住民と同じ空気を吸い,同じ食べ物,同じ不自由さを味わう体験を通して,はじめて東北と神戸の者の心がひとつになる。管理された働きではなく,一人が万人のために,万人が一人の賀川豊彦[1888-1960]の精神,行基のような行動,川村孫兵衛や中江藤樹[1608-1648]のような治水の技術,田中正造[1841-1913]のような自己犠牲的な政治家の生き様が待ち望まれるだろう。

 何も無くなってしまった町の空に,次々に咲いた大輪の花。「はるかのひまわり」を東北の地にも咲かせたいとひまわりの種を佐藤氏に本田はプレゼントした。踏まれても根強く忍ぶ東北人のアイデンティティの典型であられる佐藤氏と,遠方から来た若者たちを自分の子供のように温かく迎えてくださった奥様には頭が下がりっぱなしである。東北と神戸の絆が今後も深まるように祈った。

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若者たちが東北支援に向かうための義援金を受け付けています。

ユンボ 三トン以下のはさむパワーシャベル三機,ダンプ三台の提供を求めています。

緊急 石巻市の二つの小学校の仮設校舎について,建設など支援してくださる方ご連絡ください。

郵便振替     口座 00900-8-58077 加入者名 神戸国際支援機構

三菱東京UFJ銀行 462(三宮支店)  普通   3169863  神戸国際支縁機構