2012年1月15日(日)午後5時半,新たに4名が加わり,JR朝霧駅に集まりました。折しも,阪神淡路大震災から17年目を迎える時に同じように被災に直面した東北,石巻市渡波に若者たちが,ボランティアに参加。

 「私が,10歳,小学校5年生の時に,阪神淡路大震災がありました。当時,私は奈良市に住んでいました。しかし,メディアを通して,今でも忘れることのできない場面がよみがえります。逃げまどう人々,火災,がれきのためきれいな神戸の街並みから色はなくなり,モノトーンに変わり,同じ年齢の友だち,子供たちも押しつぶされ,いなくなってしまいました。子供心に『どこに行ってしまったんだろう』と考えても,考えても答えがわかりませんでした。何もわからなかった時,全国からたくさんのボランティアの方々がリックを背負って神戸へかけつけたのを見ました。倒れて跡形もなく壊れた家のために,見も知らない人たちが,自費でかけつけてきたことは今でもときどき思い起こすことがあります。東日本大震災が起こった時,私の体を電流が突き抜けるように,『津波で襲われた人たちはどこに行ったの』と問う自分がいました。同時に,なにも資格がないけれど,“私でもなにかできるかしら”と思いによぎりました。昨年,12月には,宮城県石巻市の9ヵ月経ていても何も復旧,復興,再建されていない街並みを見て,ショックでした。」と藤居遼さんは語ります。(ラジオ関西 1月17日午後5時15分放送 収録原稿から抜粋)。

 昨年9月に,機構に委ねられている四反(40アール)の田んぼ。冬期湛水(たんすい)のため,水が田を覆っていました。田んぼにも雪が降り,水鳥たちにも最も厳しい季節を迎えます。「ふゆみずたんぼ」(冬水田んぼ)とは,江戸時代の農法で,厳寒の時期にも水を田に溜めておくやり方です。湛水にすると,水温の方が高いので,水田が凍りにくく真冬でも,イトミミズ,ユスリカなどにかけがえのない生息環境になります。水さえあれば,サヤミドロや,アオミドロが氷の下でひっそり,しかも力強い生命力で育ちます。

 

  機構に委ねられた田 渡波字根岸前78,79,80,81番地 12/01/17

 自然の生態環境をたいせつにしようと立ち上がった阪神間からの一行。農・漁ボランティアの二班に分かれて作業をしました。第一日目は,地元の要請者であられる石巻市渡波地域農業復興組合の阿部 勝代表が温かく迎え入れてくださいました。

 

   阿部勝さん          日本の「農」復活ここから 毎日新聞

 農地を宅地造成にしようとする利権の触手が被災地のいたるところにあります。石巻市渡波の80ヘクタールも危うく全部,農地がなくなってしまう市議会の決議が11月26日にありました。神戸からの農ボランティアががれき撤去,雑草刈り,排水路など取り組んだ場所を宅地にするという布告です。県は,津波の塩害という名目で作付けを許可しません。除塩や,ヘドロ除去がなされなければ稲作は無理だという理由です。しかし,地元の農家の方たちは一刻も早く作付けをしたいのが本音です。ちなみに渡波は江戸時代から有名な塩田です。土壌が他の地域と比較しても肥沃ではありません。45㎝しか,土がないのです。除塩と言っても,二度にわたる台風による大量の豪雨で塩分やヘドロは流し出されていました。昨年10月,東北大学の研究者,今年1月12日の大崎市の検査で,塩分濃度が0.1以下だという報告がなされています。つまり,米の生育にはなんら問題がないのです。むしろ,隣の登米市などでは,平素から,塩をまいて,マグネシウムや微量元素が米の成長に役立つことを研究して,実施している地域もあります。したがって,宮城県の「除塩」のため栽培を禁止する方針は,復興特需をもくろむ経団連,大企業の企みが見え隠れしています。そんな厳しい状況の中,勇断して,若者たちに米作りの機会を与えた阿部さんの度量には感心します。ましてや冬期湛水は,無農薬,無肥料による米作りですから,農薬,肥料を販売する関係者からの反対圧力は想像を絶するものがあります。ご本人は泣き言を一切おっしゃらないですけれど,おそらく阿部さんは四面楚歌の立場に置かれていることでしょう。

 阿部さんは,3.11で弟を失いました。70歳になり,代々の農法は反収の利益を追求する農業,20,30年後のムラ社会はどうなるかを真剣に憂うようになっておられました。明治になって,富国強兵政策に連動して,いかに儲けるかが農業の最大の関心事となりました。ところが,過疎,高齢化,少子化で,若者たちは,農家を嗣がないのです。農一本では生活していけないからです。

 そんな時,昨年,夏,神戸と石巻市渡波と連絡をとりあうようになりました。9月2日にお会いした時,阿部さんは2反を委ねるように腹づもりをしたのです。数日後,石巻市渡波地域農業復興組合が立ち上がりました。阿部さんが代表に選ばれていました。10月から,兵庫県立農業高等学校の生徒を含めた農ボランティアが,取り組みだしたのです。すると,隣接の鹿妻小学校の清元吉行校長が,田植え,水田生物研究,稲刈りなどに全面的に協力してくださると,10月16日に申し出てくださいました。

 地元の農家の方たちと,協働で二日間,がれき処理に取り組みました。農業委員の小林さんが何をしたらよいか,指示してくださいました。現在の農業についてよく研究なさっておられる方です。

 

 

   村村下有美さん          榊原英朗さん

 二日目も,農家の方たちが,阪神淡路大震災で亡くなった哀悼の意を表し,神戸からの一行との縁が絆に変わっていきました。

 

  初日と異なり,排水溝が津波の土砂で埋まっているのを開通させる肉体労働に専念しました。阿部勝徳さんと,4人はスコップで,雑草がすでに根っこを張ってふさいでしまっているU字溝などを二人一組となってとりかかりました。おそらくペンより重たいものを持ち慣れていない薬剤師榊原英朗さんも,一時間もすると閉口してしまったそうです。ところが一緒の奉仕者である村下有美さん(社会福祉協議会職員)に「たいへんでしょう。少し休憩をなさったらいかがですか」と誘いかけても,黙々と,休まずに重労働に専念される女性パワーに圧倒されました。夕刻,「元気の湯」で汗を流すときに,代表に,「結局,お昼以外は,休憩なしにぶっ通しで,働き,手に豆ができました。しかし,なかなか充実したボランティアでした。自分でもここまでできるとは思ってもいませんでした。」と酷使した筋肉を温泉にじっとつけながら,しみじみと語っておられました。村下さんは,「阿部勝さんの娘さんが山ひとつ超えた中学校へバスで通っていること 丹精こめて作られてきた田んぼが売られていること それには利権がからんでいること 人的被害がなくてもそれぞれに苦労されている事を知りました。 被災地の方が辛く,苦しい思いをしながら自分はこれまで一体何をしてきたんだろう と無力感を感じることもありました。それは他の参加者も感じたようで『もっと早くボランティアに来ればよかった』と言っていました。」と,語っておられます。

  16日には,石巻刷新会議が午後7時から丹野一雄委員長宅で開かれました。

  宮城県漁業協同組合丹野一雄委員長宅 藤居遼撮影

 東北地方の唯一の海苔産地として,石巻湾と松島湾があります。石巻湾支所のノリの年間生産は7200万枚,約6億円で,カキの4億円を上回ります。県内では七ケ浜支所,東松島市の浦戸支所でも海苔の養殖が試みられています。海苔の収穫で忙しい時期に地域のために,阿部卓也石巻湾支所支所長も招いて,会合を開くようにしてくださいました。日本で最も良種のカキ,海苔が養殖されている渡波湾万石浦に注ぎ込む下水で,海水が汚染されないことも大切です。海に一番たくさん排水を出すのは,農家です。肥料,農薬は漁業関係者にとって歓迎されない元凶です。東日本大震災の後,石巻市渡波地域農業復興組合の阿部勝さんが無農薬,無肥料の米作りを始めたことは海苔養殖に携わる丹野さんにとっても,朗報です。養殖ノリの芽が「バリカン症」問題,赤腐れ病(Red rot)もノリ養殖に,ノロウイルスは牡蠣養殖に大きな損害を与えます。したがって,湾に注ぎ込む排水も自然生態と大きく関係しています。どうしたらきれいな水を循環させることができるかが今回の会合の大きな目的です。

  石巻森林組合 鈴木健一代表理事組合長  阿部勝代表 丹野清市会議員

 山も田や湾に注ぎ込む水源の河川を生み出します。田んぼで米などが生育し,海で海産物,魚類などを食する石巻市渡波の人々,子供たちが安全に営みをすることができます。その日,石巻市で林業,漁業,農業のそれぞれの代表者がはじめて一同に会します。石巻市渡波でも建造物,臨海工場地帯,農地などの復旧,復興,再建はなかなかめどつかないと言われています。被災地の20年後,30年後の展望について腹蔵なく話し合う機会となりました。石巻刷新会議という名称で定期的に集まり合うことになりました。丹野一雄さんの奥様がよくもてなしてくださいました。地元の丹野清市会議員も立ち寄ってくださったりして,思いがけない実り豊かな会になりました。

 

 丹野一雄さんのご紹介で,私たちは本田巧さん(60歳)の海苔収穫,および天井まで浸かった家屋のがれき撤去をお手伝いをさせていただきました。渡波湾にはかつて20軒の海苔業者がいました。しかし,津波に呑まれて亡くなったり,船がこわれてしまったため,8軒が断念せざるをえなくなっています。2名の海苔関係者が亡くなっています。 
 渡波湾沿いにある本田さんの海苔製造用の納屋に伺いました。かつては1億円ほど投資していた海苔生産に必要な機械があった工場です。隣の住居も天井まで津波がきたため,仮設住宅住まいです。仮設から通って,水浸しになった機械を新調にしたり,モーターを付け替えたりしています。再開するには莫大な資金が必要なため,かなり躊躇したようです。先代の両親が1955年頃にゼロから海苔を作りだしたとのこと。長男の知章さん(32歳)と話し合い,一念発起で,89歳になるお母さんトシ子さんの「私たち夫婦は機械も何もない時代,海から海苔を取ってきて,攪拌して,深夜まで不眠不休で働いてきたべさ,そんでがんばっぺしかねーで」と言われ,心機一転してやることになったそうな。すると工場で溶接の仕事をしていた三男の巧太さん(27歳)も海苔養殖に就くことになりました。

本田トシ子さん 家から裏山をよじ登った。隣の家の方は津波で亡くなりました

 神戸からの漁ボランティア4名は,まず,壊滅になった本田さんの家のがれき処理を手伝いました。トシ子さんは今でも現役で海苔の選別に手際よく,目を光らせて働いています。休憩の時,トシ子さんは,質のいい本田のりのできたてをとってボランティアのメンバーにストーブで焙って,「ほら,食べてみぃ」と差し出してくださいました。焙ると磯の香りが部屋に立ち込める,これが本来の美味しいのりの味なのか,神戸の都会で暮らしている私たちは感激しました。軽く焙って深緑色になったら食べ頃,柔らかいのに歯応えがあって,味付けのりじゃないのに天然アミノ酸の甘みが口に広がります。

 それから海から戻ってきた船に昼から乗せてもらい,養殖場に向かいました。

 大田隆行さんのうしろが本田巧さんの住居。取り壊しの予定。右が海苔の納屋

 寒いことは予想していましたが,海上は冷え込みます。午前中のがれき撤去の時は暑いくらいでした。足の裏にカイロをしたり,インナーソックスも役に立ちません。夜は零下5度。巧太さんは,言いました。「この仕事をはじめて半年じゃけど,いまだに足の裏の冷たいのにはどうしようもないべ。がまんするしけぇーない」と。寒さが身にしみて,のりの摘み取りを始めても,手が冷えて感じがなくなるので,舟べりに手を打ちつけて,手に活を与えるそうです。10分も続けていると手が赤くなり,冷たい感じがなくなってきます。海苔摘み作業は,夜明け前の暗いうちに始まり,夜10時頃まで続きます。渡波湾から石巻湾まで,およそ半時間,海苔摘みの小さな作業船(適採船)で向かいます。のり漁場の中程から沖合でないと,良いたねはつきませんから,渡波湾ではなく,石巻全体が見渡せるところにまで行きます。自分の棚と他人の棚とを間違えぬように確認できるボールに持ち主の名前が書いてあります。船でいかだに乗り上げると網が損なわれます。黙っておけばだれがしたかわからないそうです。ちゃんと持ち主に謝罪をするのが礼儀だそうです。陸も海も人が見ていないところで,他人の持ち物を損なった場合,どうするかで人間性が表れると知章さんは言っていました。

 海苔養殖場

 本田さんの海苔養殖のいかだがある地点に着きました。震災前は170ほどあったのが,今は100に減ってしまっています。長さが約70メートル(30間×1.8㍍)を二つつないだ幅3.3メートル(11尺)の網についた海苔を巻き上げて収穫します。震災の影響で例年より遅く,11月28日から5月頃まで毎日,休みなしに朝早くから夜遅くまで働きます。一網で大体乾のりにして二千枚位ののりをつみとるのに,約一時間位かかります。色の濃いのりが網にびっしりとついていました。一日に,3万枚から7万枚の水揚げをしないと,新しい機械のローン返済などのやりくりができないそうです。私たち漁ボランティアは,一年で一番忙しい時期に,手伝っているのか,邪魔しているのかとても気がかりでした。本田さんは,よくできた息子さん二人がおられることを誇りに思っておられます。「勲章のようだ」とも話されていました。
 5月~7月は,網の修理や,9月の種付けに備えて,準備します。ですから同じ湾で,牡蠣の養殖と兼任できないほど忙しく働きます。

 


本田巧太さん 大田隆行さん

  1月も,海水中の栄養分も多いので,色沢の良好な,軟らかいおいしいのりがとれます。しかし,知章さんは,浮かぬ顔をして,網をたぐり寄せて,言葉を放ちました。「こいつめ。」と赤腐れ病(Red rot)の海苔を見て,嘆息していました。

 Ⓒ 赤腐れ病(Red rot) 2012年1月17日午後2時28分 石巻湾 撮影 岩村

 さらに,10分ほどすすめると,船を停め,知章さんはネットをたぐり寄せました。「これはバリカン症と言って,育たないんです」「原因は何ですか」「湾が汚れるのはいろんな理由が言われています。湾の岸壁の工事のコンクリートによる灰(あぐ)とか,はっきりはわかりません。」「田んぼの肥料,農薬や,生活排水も大きな原因ではないか,私たちで因果関係を調査してみます」と約束しました。

 Ⓒ バリカン症 2012年1月17日午後2時32分 石巻湾 撮影 岩村

 摘んだ海苔は自宅の作業場に運び込みました。心地よい疲れを覚えて,初体験をしたボランティアたちも充実した満足感で午後3時半に渡波湾に戻ってきました。

 午後に収穫した海苔

 全自動海苔乾燥機で抄きます。上潮のきれいな海水で大きな笊の中に入れて,ちょうどお米をとぐようにして,よく洗います。こののり洗いをよくすることで,良い乾のりができるそうです。製造も,のりを入れれば水洗して細断し,自動的に簀に抄いて乾燥機の枠に取りつけ,乾燥終了後,乾のりを簀から剥がす機械にかけられ,生のりから乾のりになるまで約3時間で,2~3千枚の乾のりができあがります。’

 

 全自動機械

 出来上がった海苔は,品質を揃えて箱詰めして漁業協同組合の品質と等級を検査するところに運びます。農とは異なり,漁の場合は,自分の海苔をご近所に配るぐらいはできますが,直接,店へ持って行って売ることはできないようです。
 17日,漁ボランティアは本田さんご家族に見送られました。農ボランティアは,阿部勝ご夫妻,勝徳さんご夫妻に寒い中,見送ってくださいました。熱い絆を噛みしめる働きでした。

 第一次産業の農業,漁業,林業に共通していることがあります。参加者も語っています。「『いいものを作れば,いい値段で売れる』時代が来ればだと思いますが,食物については,その年ごとの豊作・不作による供給とお客さんのニーズによる需要のバランスに左右される事が難点ですね。」と述べていますように,収入が安定していません。ですから,就活でも,農林漁に若者は関心を示さなくなっています。製造業に対しても,技術,職人の勘,伝統には距離をおいています。一見,企業は毎月のサラリーを保証しているかのようです。しかし,産業は安定しているとは言えません。太陽の沈まない国,スペインや,ポルトガル,また産業革命を起こした大英帝国ですら,経済は停滞しています。
 不安定に思える農林漁の基盤がないと,日本列島の民は生存できないのです。関西空港から沖縄まで980円で行ける飛行機のチケットが売り出されたそうです。「安い」ものに人々は狂奔します。子供の時,「安かろう,悪かろう」と祖母や,大人からよく聞かされたものです。今では,大量販店などに,人々は列を作って群がります。国内で生産された質の良い食に対して,値段を考える前に安全,栄養,健康に寄与する賢明な判断を民衆がもつようになることが望ましいでしょう。

 就農を決意した山本智也さん,村上裕隆さん

 「わたしの与える実りは どのような金,純金にもまさり わたしのもたらす収穫は 精選された銀にまさる。」(箴言 8:19)。

 石巻で農業,漁業,林業の指導者が初顔合わせをされました。願わくは,日本の食をまかなう山,田んぼ,海が協働で新しい国作りの刷新ができる夜明けになることを期待します。