第2次ベトナム・水害ボランティア 2017年3月6日-11日

村上裕隆代表が関空に送迎

 香港にて,福岡真悟兄&ウィルシー夫婦のもてなしを受けた。

左からウィルシー姉,福岡真悟兄,山下芳輝兄,
筆者の右が福岡謙悟君,思織ちゃん Pastor Yoshio Iwamura

 昨年8月,不思議な導きで福岡真悟ファミリーと家内 岩村カヨ子と共に過ごすことができた。逝去する直前,妻がとても愛した香港在住の福岡真悟兄&ウィルシー夫婦が突然の帰神し再会。不思議な神さまの業であった。

岩村カヨ子 福岡真悟家族と 2006年 Kayoko Iwamura

 山下芳輝兄もレストランにかけつけてくれた。香港在住ながら,神戸でお世話になった恩人たちだ。香港は裕福な繁栄した都会であり,路上生活者はいないと案内してくれた福岡真悟親子は言っていた。「大陸から一攫千金を求めてやってきて,失敗する人はいないのか」,と尋ねたりしたが,反応はなかった。ビクトリア・ハーバーの名所に来ると,海外からの観光客がおおぜいいる。ものみの塔の伝道者たちが中国語の66巻の立派な聖書を手渡す。すぐ隣で,ゼッケンをつけたキリスト教のグループの人たちが,「そんな聖書はサタンのものだから,捨てて,こっちの新約を持って行きなさい」,と3分の一くらいの大きさの聖書を無理に手渡そうとする。ネパールやバヌアツに行った時も,ものみの塔の人たちは少数言語の新旧約聖書の版を所有し,自分たちで印刷し,分厚いにもかかわらず無料で配布している。日本でもギデオン聖書の新約聖書が配布されている,言語数から見れば,ものみの塔の『新世界訳』聖書の方が100以上の訳があり,群を抜いいている。それも無料である。アフリカなどでは,自国の言語でしか読めない部族にとり,最初に触れる聖書は『新世界訳』聖書だ。長期的な視点から見ると,誤訳だからいけないという斬り込みだけでは問題があろう。

王家志さん Pastor Yoshio Iwamura

 旧九龍駅近くで野宿をしている香港生まれ,香港育ちの女性王家志さん(66歳)に出会う。道行くひとたちも喜捨している。案内してくれた福岡謙悟君(16歳)も香港にこうした路上生活者がいることをはじめて知り,次に出会った野宿者には積極的に自分から声をかけるようになった。

 摩天楼がそびえる香港の街並みから,ベトナムに入る。しかし,ベトナム経済は,中国と並んで,アジアでも群を抜く高成長と 安定性を示している。日本のメーンバンクの支店がインドシナ半島に二店舗あるのも,ベトナムだけだ。ハノイとホーチミン市に。政府の強いリーダーシップが他国の景気下降と異なる安定性に寄与している。2010 年以降,ベトナム国内の不動産バブルとインフレを退治するため政府は引締めに転じた。その結果,景気は鈍化したが,2011 年になると,20%を超えていたインフレ率は足元で 5%を下回った。第1次ベトナム・水害ボランティア[2016年11月13日(日)~17日(木)]に参加した学生たちが驚いたのはベトナム人の約束に対する責任感の強さである。アジアはネパール,インド,タイにしても一般にエネルギッシュであり,勤勉に働く。しかし,ベトナム人の正直さ,労働力の質の高さと低賃金は,日本の若者以上に優れていると日本の学生の目に映ったようだ。屋台のような安価なレストランでカエル料理を食べていた時の体験は忘れられない。「働かざる者食うべからず」の共産主義を理想とする国にもかかわらず,高齢のみすぼらしい物乞いが,食べている乗客の近くに来て,ベトナム語でお願いをする。料金の安いお店であり,若いカップルや,高校生たちでにぎわっている。植地亮太(第42次,丹波水害,ネパール)君も,内心,だれも相手にしないだろうと思っていた。ところが,高校生でたいしたお小遣いがない者でも,寛大に施しをしている。紙幣ばかりのベトナムでは,10円くらいの紙幣もあるから,差し出しやすいのかもしれない。店内を見渡すと,物乞いにそっぽを向く人はいない。わずかでも与える。日本では考えられない光景である。10分ぐらいすると,違う物乞いが入ってきた。やはりみんなは応じる。店は混雑しており,忙しいにもかかわらず,店員達も追い出そうとしない。社会主義圏でこんなことが許されるのか,と頭が混乱する。拝金主義の日本人には理解できないだろう 。

 ちょうど,第1次訪問の直前,11月10日に,ベトナム政府はオールジャパンのニントゥアンの原発建設計画について白紙撤回を国会決議した。日本は,経済産業省の補助金(「低炭素発電産業国際展開調査事業」)や委託事業を通じ,日本から28億円もベトナムの原電に流し込んだにもかかわらず,徒労に帰した。ニントゥアン原発に,日本側は官民で売り込み,税金を使い,トップセールスを繰り返したが,報われなかった。ベトナム人の思慮深い判断に脱帽する。日本なら浪花節調というか,義理立てのウエットの関係が決断を鈍らせるだろうに。クアンビン省のホアン・ダン・クアン書記長兼人民代表委員会委員長とは11月1日に兵庫県庁で会っている。日本にベトナム各地からの視察団が来日していた。クアンビン省の水害地帯にぜひ来るように言われた経緯もあって,第1次ベトナム訪問の11月15日に,ダン書記長と再会ができた。

クアンビン省外務部広報誌 2016年11月16日

 何が目的でベトナム視察団が来日していたかは知らない。しかし,想像できることがある。来日の一行は各地を訪問している。おそらくフクシマ原発の顛末は耳にせざるを得なかったのではないか。多くの人たちがふるさとを失ったこと,「原発さえなければ」と書き残して自殺した酪農家,除染・賠償・廃炉の費用がどんどん膨れ上がっている。13兆円を超えたため,東電は払いきれない。フクシマのメルトダウンの被害額は膨らむ一方。損害賠償や廃炉費用を国民にさらに転嫁する事情も明白である。さらに,40年超の老朽原発も相次いで再稼働を日本政府は促進している。脱原発へ「勇気ある撤退」ができない足枷手枷を読み取ったにちがいない。ベトナム政府は原発立案時には原油価格が高かったので,原発導入を国会で決議したが,3.11後の状況を考慮すると他山の石ではなくなる。フクシマと同じような損失を被らないうちに早期に計画を中止する判断をしたことはドイツ,南アフリカの先例があり,納得できる英断である。

 第2回目のベトナム訪問は難行苦行になりつつあった。離日前から,歩くのもつらかった。香港での交通機関の乗り継ぎ,バス停,地下鉄など何度も利用するために多くの時間,体力を要した。足を前に出すのに腰が痛む。新しい靴のせいだろうか。身体がなまっていることが大きな原因だとわかっている。

 ベトナム国ダナン空港から眠られない乗り継ぎ。手荷物を持ちながらの移動は単身ゆえに不自由だ。席に置いておいて,手洗い,軽食を買いに身軽に動けない。置き引きなどほとんどない国だが,自分のものは管理する責任があるからである。ダナン駅から夜行列車も堪えた。戦後すぐの日本の夜行列車の香りがする。4人の上の寝台に移るのも疲労困憊した身体にはきつかった。手洗いに行きたくても,簡易ベッドで通路を占領している乗客をまたぐ力も残っていなかった。終点の駅かどうか,目的地のドンホイ駅に何時に到着するかも英語で尋ねてもだれにも通じなかった。深夜,おちおち眠りにもつくことができない。結局,7時間後,未明の4時過ぎ,駅に停車しそうなので,ドンホイ駅かどうか同じ部屋の人に聞こうにも熟睡している。終着駅ではないと気配でわかるので,停車を待つ。するとプラットホームにドンホイのベトナム語がうっすらと見える。乗り過ごすとたいへんなので,あわてて荷物をまとめ,二階から飛び降り,プラットホームに間一髪で降りる。息がきれる。プラットホームのベンチの上で荷物を点検。しかし,周囲は月光もなく,暗闇で,何がなにかわからない。タクシーの運転手がさかんにどこへ行くのか尋ねる。英語は通じない。ロムナンの宿舎まで「いくらか」と尋ねる。「5万ドン」,日本円で約400円なので,乗せてもらうことにする。神戸ならさしずめ1万円は覚悟しなければなるまい距離。普段なら歩くところだが,朝8時過ぎの面会の約束までに,たとえ1時間でも一眠りをしたい。思いきってタクシーに乗る。宿舎前に着くと,真っ暗。玄関が閉まっている。運転手も申し訳なさそうに,乗客を降ろさざるをえない。暗いものだから,後ろのトランクの手提げをひっくり返して,集めている。不安だ。尋ねる人もいない。玄関のドアをたたくこと10分。入口からフロントに単車が7台に乗り上げている。人が宿泊する場所か,それとも単車置き場なのか見分けが付かない入口だ。単車をかきわけて眠そうな顔をして出てきたフロント係りに予約済みを言うとようやく,お客さんとして玄関を開けてもらう。パスポートを預け,部屋に案内される。眠る前にシャワーでもと期待しながら,部屋の前に立つと,中からチェーンロックされている。待つことまた10分。フロントのタイさんはお構いなしに,中で寝ている宿泊客に開けるように促す。中に入ると先人の客たちがベッドで寝ている様子が気配でわかる。タイさんが2段ベッドの上に寝るように合図する。内心,「おいまた上か」と,閉口する。よじ登る体力がもう残っていない。寝静まっているので,音を立てないように,共同トイレの方に行き,そこで3時間,座って時間をつぶす。フロントに行くと,全然様子が変わっていた。単車はなく,ドイツ,アメリカ,韓国からの宿泊客が朝食を楽しそうに食べている。なごやかな国際社交場になっていた。

 朝8時,予定通り,クアンビン省から被災地へ案内するスーさんとアンサンと再会。場違いな正装した二人と運転手にタイさんたちもびっくりしている。タイさんは小生を海外からのパッカーのひとりぐらいに思っていたのだろう。なにしろ6年間,ボランティアでは同じシャツを着ているから,あちらこちらすり切れている。離日前に,断捨離のため数時間かけて片付けに来てくれた妹有子に襟,袖や,ポケットの穴を縫ってもらっている。「海外に行くのに,他に着るものはないのか」,と姪の由美子にもけげんな顔をして言われたが,家内が買ってくれたシャツだから捨てる気がしない。今でも二人三脚で行動しているのだから,という思いが強い。世界どこへ行っても,路上生活者とすぐに仲良くなれるのもこのシャツのおかげだと自負している。フロントは服装,持ち物から判断して,貧しい宿泊客と思っていたにちがいない。共産党の国際外交省は運転手付きで宿舎に迎えに来てくれた。快適なトヨタ車に乗り込む。役人は韓国の高級車,ベンツ,トヨタの車の3種を使い分けている。長旅の労をねぎらってくれる。昨年11月に,学生たちと第1次ベトナム・水害ボランティア訪問以来,期間をあまりおかず,ベトナム再訪問できたこと,学生たちの近況について話題にしながら,アントイ地区に向かう。

 ドンホイ駅から50㎞以上離れている被災地である。水害被災地域にはホテルはなく,ゲストハウスらしきものがあるにすぎない。ダナン飛行場からは神戸~仙台間の距離なので,ボランティアを目的とする場合,現地で車がないと,移動時間に3日間の一日分は要する。ボランティア道は効率,能率より,かたつむりのような動きなのであせる必要はない。道中,様々な情報を入手する思いがけない機会も生まれる。現地に親しい知り合いができる利点もある。団体行動,人民軍のように一律の動き,いちいち上官の許可を得ずして自分の意志で行動できることも魅力である。
 途中から,役人たちを乗せた黒い起亜自動車K7と合流し,2台が連なる。舗装が水害で損傷しているどろだらけの細い道を高級車2台が走る。泥出しがまだ終わっていない家が散見する。アントイ小学校の会議室で具体的な孤児支縁について質疑応答がはじまる。

アントイ小学校前 Pastor Yoshio Iwamura

孤児の実態について質疑応答。

 外務省の二人は英語が堪能である。「学校だけで19人の孤児が通学に困難を覚えている」,と校長が報告。画像。神戸国際支縁機構は,費用100万円を2か所支援し,施設を建造する。孤児のための建造物の見積もり,期間,完成時期を尋ねる。6月にオープニング・セレモニーが出来ると提示される。次に,孤児の教育費について,他国の被災地との関係と,ボランティア道の母による「カヨ子基金」がはじまったばかりのため,里親支縁を5人から始めるように依頼する。

 役所関係者,学校関係者10名と共に,水害被災地の孤児の住まいを戸別訪問する。行政は当初,孤児はいないと胸を張っていたが,行く先々で両親がいない子どもの世話をする祖母,祖父が見いだされる。日本と同様,福祉に携わる「官」はおしなべて,嘘をつくつもりではないが,悲劇の実体について把握していない。日本円にして約1万円に相当する献金をわからないようにそっと,世話をしている身寄りに手渡す。ちゃんとした舗装道路ではない。水害により,復興が手つかずの集落の迷路に入っていく。女性達も,地元でありながら無知であった状態に無力感のため,意気消沈している。役人達も態度が変わってきた。尊大な印象を部下に見せていた長も目を赤くしながら,道案内をする。
 ベトナム全体が禁煙の空気が欧米と同じように強くなっている。しかし,地方の「官」の役人達は四六時中,喫煙している。20年前の日本の役所と同じである。仕事中に不謹慎とか,女性の前では控えるとか,他者への思いやりは習慣のせいか麻痺している。最近では北朝鮮でも,人が集まるところでは禁煙がいきわたっていると言う。ベトナムのここでは,身近で吐き出す煙を吸わざるを得ないため喉がおかしくなった。日本に戻っても,しばらくは喫煙OKの飲食店は避けようとの思いが強まった。

 最初に案内されたのはあどけない10歳の少女である。笑顔がない。鼻筋の通った整った顔立ちなのにどこか寂しげである。両親がいない。家とは思えない納屋のような所に祖母と二人暮らしである。窓や明かりがないため,昼でも真っ暗である。アントイ小学校に通っている。訪問した日は国際女性デーのため,休日。

 次は,失業している病の父親,母親が川で捕った魚などで食いつないでいる。小学校2年生の子どもが着ざらしで,ほころびている服で迎えに出た。

 被災した地域は広いだけに,「官」,コミュニティのお世話係,婦人会ではきめ細かい世話はできない。

 最悪なことに,大人,子どもたちの双方にベトナム戦争[1964年8月-1975年4月30日]時の「枯葉作戦」 defoliation operationの後遺症があることだった。米軍と南ベトナムの反共主義ゴ・ディン・ジエム大統領[1901-1963]による枯葉剤の中にダイオキシン類が入っていたために,ベトナム人およびアメリカ軍兵士に被害が現れた。隠れ場となる森林の枯死,およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であった。人的被害,奇形出産など今も苦悩している。
 2017年3月3日,ベトナム訪問中の天皇皇后両陛下は,結合双生児で分離手術を受けたグエン・ ドクさん(36歳)とハノイで面談。日本では「ベトちゃん・ドクちゃん」の愛称で知られる。ドクさんは,下半身が兄のベトさんとつながった状態で生まれた。ベトナム戦争で米軍がまいた枯れ葉剤の影響とみられる。

『西日本新聞』(2017年3月3日付)。

 「ベトコン(越共=ベトナムの共産主義者による解放戦線)」の思想を人民からは感じない。むしろ家族主義の印象を受ける。仏教の影響が強いのだろう。なぜベトナム人の心を仏教はつかんでいるのだろうか。ひとりの仏僧の焼身自殺 Self-immolationを忘れてはならない。ベトナムは80パーセントが仏教徒である。ベトナム戦争時代,ローマ・カトリック教会信徒のゴ・ディン・ジエム[1901-1963]南ベトナム大統領はカトリックを優遇し,仏教徒弾圧,圧政を敷いた。そこで,≪動画参照≫仏教僧ティック・クアン・ドック[Thich Quang Duc 1897-1963] がサイゴン(現・ ホーチミン)で,ベトナム政権への抗議として1963年に焼身自殺した。燃え上がる 炎の中でも微動だにせず坐禅を組み続ける。即死ではない。人体から急激に水分(リンパ液や間質液)が流失していくことによる脱水症状による衰弱死であり,意識はある。クアン師の元に,絶命に至るまで,ベトナム人たちが走り寄り,膝をついて頭を下げた動画報道が全世界に流れた。クアン師の一命を賭した働きにより,今のベトナムがあると言っても過言ではない。ベトナムでは焼身自殺をボンゾ(bonzo)と呼ぶ。「ホンゾ」は「凡僧」(日本語)がフランス語を経由してできた語である。

 ベトナム戦争勃発は日本軍の盧溝橋事件[1937年(昭和12年)7月7日]は日中戦争[1937(昭和12)-1945]の原因と似ている。アメリカ駆逐艦が北ベトナム魚雷艇の攻撃をうけたというねつ造が原因である。トンキン湾事件(1964)により,北爆が開始され,戦争が一段と深刻化。2001年11月には,米国ジョンソン大統領とマクナマラ国防長官の電話会談,「トンキン湾事件をベトナム攻撃の口実として使う」したことでよく知られている。このトンキン湾事件は今でこそ,アメリカ軍部と政府によるでっちあげの事件である。戦争の開始には正義もない。

 アントイ小学校地域を訪問し,枯れ葉作戦で5歳の車いすの男の家に案内された。3歳の妹に挨拶をしていると,近所から水害により家の屋根まで覆いかぶさった女性スーさん[Le Thu Oay 85歳]がよろよろした足取りでやってこられた。≪動画参照≫ スーさん

スーさん[Le Thu Oay 85歳] Pastor Yoshio Iwamura

 日本から孤児のためにやってきていると聞きつけ,会うやいなや,「がんばる」と繰り返し,日本語で話しかけられた。戦時下の日本兵により強制徴用の時,覚えた言葉だ。72年の歳月を経て,謝罪することができ,周囲のみんなも涙ぐんだ。

 米軍の枯れ葉作戦により後遺症,右手の指が第2間接からないダト君[11歳]の家に案内された。
 母親は家の奥の畳一畳ほどの広さの間仕切りの中で腎臓透析をしていた。父親はいない。中に入ることを許され,あいさつをする。父親なしの子育て,それもハンディキャップがあるタン君を育てる母親の気持ちを思うと,無力感に打ちのめされる。

右手の第2関節から先がない。Dat君。

 4時間近く,歩きっぱなしである。ベトナム人もタフである。歴史上唯一米国に勝った国だけに一般に強靱な精神力がある。国際女性デーの式典に向かう。

 国際女性デーの歓迎会に招かれた。腕によりをかけて男性達がごちそうをつくり,テープルに設定し,着座までアッシャーする。はなやいだ雰囲気はさきほどまでの闇の世界と対照的である。ベトナム女性達は喜びにあふれ,にぎやかである。アルコールをさかんに勧められるが,断る常套手段の「最高のお酒しか飲まないんです」,と応じても熱心にすすめられる。ベトナム女性はよく働き,家庭的だから,近年,韓国の裕福な男性はベトナム女性をめとると先回,耳にした。1945年8月,日本の無条件降伏により,帰国すれば連合諸国に戦犯として処罰されるのが怖かった。さらにベトナム女性に対する憧れがあった少なくとも800名の日本軍下士官たちはベトナムに残留したと言われている。
 谷本喜久男[1922-1990]は陸軍中野学校二股分校出身の諜報担当将校であった。残置諜者としてのインドシナ残留を決意した。1954年に帰国するまで,ベトミンの教官として軍事教育を指揮したり,戦闘に参加訓練した。ベトミンとは,ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟である。インドシナ共産党(のちのベトナム労働党,今のベトナム共産党)の中核となっていた。
 日本軍が1941年に南部仏印進駐したことが日米関係の決定的な決裂をもたらした。1941年11月26日,日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案であるハル・ノート(Hull note)につながる。ハルはインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退を求めた。当時,ベトナムにとり,フランスと日本の支配について「一つの首に二つの首枷(くびかし)」と揶揄していた。
 大戦末期の 1945 年3 月,日本軍は米英軍の上陸作戦に備えて「明号(めいごう)作戦」を発動,ベトナム,カンボジア,ラオスの 3 国を名目的に独立させ,三国を日本の実質的軍政下に置いた。日本の敗戦により,1945年8月17日にベトナム八月革命が勃発し,ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言した。日本が東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリで降伏文書に調印した9月2日には,ベトミンはベトナムの最後の王朝であった阮朝[グエンちょう 1802-1945]を倒していた。フランスはこれを認めず戦争に発展した。1954年にジュネーブ協定が結ばれるまで独立戦争は続いた。その結果,北緯17度線が軍事境界線となり南北に分断された。
 敗戦直後,
連合諸国に戦犯として処罰されるのが怖かった日本兵士たち。好条件(二階級特進,高給,結婚斡旋など)でベトナム独立戦争に参加し,フランス軍との戦闘に参加を求めるベトミンのビラがサイゴン市内に目立った。ベトナム女性に対する憧れがあった日本兵士達も残留した。

 「ひまわり」という映画の哀愁をおびた主題歌がよみがえった。ベトナム残留日本軍兵士と現地女性との生活を選んだという記録の活字からメロディーが響いてきた。戦争がイタリア人アントニオとジャアンナの仲を裂き,人生の行先も変えてしまった。もう後に戻れない二人の悲哀の映画のストーリーである。

 国際女性デーの宴では,ベトナム人女性の控え目な立ち振る舞いは戦争による家族との別離で辛酸をなめている残留日本兵の心を魅了したのもうなずける。ベトナム訪問中の天皇,皇后両陛下は3月2日,戦争後のベトナムに一時期とどまった元日本兵の家族と,首都ハノイで面会している。『毎日新聞』(2017年3月3日付)。
 戦争は幸福の基本単位である家族のつながりを破壊する。

 3日目は,ベトナムの学校訪問と,小学校の歴史教育について説明を受ける。幾冊かの教科書を入手する。戦時下の日本軍のインドシナ半島侵攻と,フランス統治からの独立について記述されている。しかし,戦後,残留した日本軍将校がベトナム軍養成に寄与した内容がどのように記載されているか,探したが,見つからなかった。
 次回の孤児の施設などのオープニング・セレモニーの際,授業参観を兼ねて,もう少しベトナムと日本の関係の轍を調べてみたい。

 ベトナムを離れる直前,国際局の女性たちがプレゼントをくださった。ワイシャツである。「次回はぜひこれを着ていらしてください」,とのメッセージである。ベトナムの人たちから見ても,みすぼらしく見えたシャツ。見るに見かねてのご厚意である。帰路,トランジットで立ち寄る香港で穴だらけになった登山用の厚い靴下を見て,山下芳輝兄が靴下をプレゼントしてくれる。ボランティア道は人にしてもらうためではなく,人にさせていただく構図が逆転し,反省するばかりの第2次ベトナム訪問であった。