第61次東北ボランティア 報告

 2016年2月21日(日)午後2時半,JR朝霧駅前に京都,大阪,山
口県から大学生ら9名が参集。津田尚樹(第23,37次)さんの妹沙也
香さんが周南市からかけつけた。
 本田寿久事務局長が参加者を励ます。
 翌朝,予定通り,JR石巻駅で毎日放送局の新保記者と合流。3.11
から5年目を控え,復興の実態を機構と共に報道するのが目的です。
 門脇小学校前から津波が襲った方向,門脇町,南浜町が無人化し
ている光景に釘付けになります。
門脇町,南浜町に住むことができるようになっても戻る住民は
戻るだろうかと参加者の思いによぎります。家を失った檀信徒た
ちの皆さんは,高齢になった今,再建してもだれも住まないので,
自分の住居として墓に所持金をつぎ込みます。
 毎回,語り部をしてくださる西光寺の樋口伸生副住職の案内で
本堂を拝見していました。仮納骨堂には3.11以降に逝去された檀
信徒の位牌も目立つようになっていました。次の世代に寺を渡す
ことができるのかと自問する住職たちの心の苦悶が伝わってきま
す。樋口副住職は「行政の動きは遅い」と語られます。
 本堂債権が遅れ,待ちきれずに離檀もあるようです。
 寺院再建の見込みがたたない住職たちの心の悲しみに感情移入
するのがボランティアの務めですが,なかなかできず申し訳ない
気持ちに覆われています。

ゴーストタウンと化した南浜町を12名は歩きます。

ゴーストタウンと化した南浜町を12名は歩きます 2016年2月12日

29称法寺

29奥州牡鹿湊石巻図

江戸時代の門脇町 称法寺が載っている

 田村美歩(神戸大学医学部)さんの初日の感想

 私がこのボランティア活動に参加しようと思ったのは大学3回生
も終わりに近づいてきた1月,大学生活を振り返って他人のために
何かをしたことがないと気が付いたからです。
 さらに,東北へのボランティア数が以事の6%にまで減少してい
るという報道をテレビで見て,東北でボランティア活動をしたいと
いう気持ちが強まりました。

 1日目の今日は門脇小学校へ。地震,津波,さらには火災と次々
に天災に見舞われた校舎の中は当時のまま残されており,震災の悲
惨さを物語っているように感じました。
 小学校のすぐ前にある墓地が震災直後は津波に流されてしまって
いたこと,寺院と宗教の問題,亡くなった多くの方の埋葬をめぐる
問題など,メディアでは積極的に報道されない事実や今後の課題が
多く存在することも知ることができました。

 震災後,仮設住宅ではなく自宅で生活しておられる方々にお話し
を聞くことができました。
 すべてで共通していると感じたことは,元の暮らしを取り戻すに
はお金がかかるということ,津波や震災直後の記憶は非常に辛いも
のであること,震災かしら5年が経過しようとしている今,復興の
程度に差が生じてきているということです。
 当時の体験をお話しいただく際,苦しそうにお話しされている方,
できれば思い出したくないという方もおられました。
 貴重なお話しを直接お聞きした私たちには,考え,伝えていく使
命があると感じました。                 
                          田村美歩

20160222南浜町

2016年2月22日撮影

29震災前の門脇・南浜町

                   津田彩也香(金沢医大)

 本日は,たくさんの方の貴重なお話しを聞くことが出来,東北ボ
ランティアをするにあたって神戸国際季刊誌支縁機構を選び本当に
よかったです。始め,小学校の横に位置し墓がたくさん見える場所
でのお話しでした。確かに,とても風が冷たく寒かったのですが,
3.11のとき,私達とちがい何の用意をしてないまま様々なかっこ
うで避難され,実際はもっと寒いまま逃げるのに必死だった石巻の
みな様のことを思うと,3.11の恐怖と自然の残酷さを心にとめてお
こうと聞く方にも力が入りました。なぜ東北のお墓は大きいのか,
お寺の住職さんの苦悩,思ってもみない大きさの津波に火災がかさ
なるという災害のおそろしさ,なぜ人が黒くなっていたり,津波の
水が黒かったのか,今まで知らなかったことを次々知り,ただ今ま
で報道を見て一部を知っているつもりでいた自分が,少したりとて
疑問に思わなかったことを知り,本当にたったの一部だったのだと
改めて思います。その後,実際に3.11を体験された阿部捷一支所長,
佐藤晴美さんたちのお話を聞けたのですが,みなさん本当に自分が
体験されたことをつつみ隠さず話してくださり,震災直後の苦労,
そして5年経った今の現状と苦悩。前私が別の所に学校で東北ボラ
ンティアに行ったとき,3.11のことを自ら聞くのはタブーという感
じで,実際に体験された方というより第3者からのお話しが多いと
いう印象でした。しかし,今回実際の体験者だからこその生の声を
聞くことが出来,私も多くの人々にこの悲惨さと真の復興について
もう少し考える必要があるように思いました。お昼から,沿道の整
備をしたのですが,本当に重労働で,お年寄りの方が1人ですると
どれだけ大変なのだろうとボランティアの重要性を実感しました。
又,子供世代が本当に少なくなっていることや,小・中学校などの
学校への通学の大変さを目にすることが出来,今自分が囲まれてい
る環境がいかに幸せなのか,日々に感謝しなければならないと思い
ました。その後,1度津波に巻きこまれながらも紙一重で逃げること
が出来たおばあさんのお話を聞くことが出来ました。聞いているこっ
ちの背筋が凍りそうな話で,ドラマに出来るのではないかと思うほ
どのお話しでした。私自身将来命に携わろうとしているので,尊い
命を一つでも多くのお話しを聞き,1つでも多くの景色を目にやき
つけ,3.11のことを忘れることがないように,いつ自分にもおきる
か分からないので,生かせるところ,吸収できるところは吸収し,
活動したいと思います。本当にありがたいお話と経験をさせていた
だきありがとうございました。           津田彩也香

20160222称法寺

石巻市唯一の浄土真宗称法寺 2016年2月22日撮影

震災から5年を経ても,復興は厳しいことに参加者は驚きます。

震災から5年を経ても,復興は厳しいことに参加者は驚きます。

20160222門脇町地蔵

門脇町地蔵 2016年2月22日撮影

           村田義人(第2次ネパール参加者 京都工芸繊維大学)

 2月22日14時30分,JR朝霧駅前に参加者9名と村上裕隆リーダー(以下リ
ーダー),岩村義雄代表(以下代表)と本田事務局長が集合しました。今回
は向かうメンバーが10人ということで,支縁機構のハイエース1台で向かう
ことになりました。全員が自分の荷物を足元などに置き,窮屈な状態で向か
いました。そこから自動車道に乗って幾度か休憩を挟み,無事2月23日6時
25分,石巻市門脇(かどのわき)町の門脇小学校前に降り立ちました。
 降り立った我々が目にしたものは,住宅の少ない,広い工事現場と見て取
れるような街並みと,大きな墓地でした。西の方には日本製紙の石巻工場の
煙突が見え,朝日が見える方には日和大橋という橋がすこし遠くにかかって
いるのが見えました。両者とも少し遠いところにあるにも関わらず,視界を
遮るものはほとんどありませんでした。自動車道路のIC周辺や,市の中心の
幹線部などに比べると,閑散としているといえば聞こえは良いですが,一重
にゴーストタウンという言葉が似合っていたと思います。
 我々参加者は,代表から石巻の5年の歩みや政府の対応など様々な話を聞
かせていただいて,その後門脇小学校の内部へと進入しました。中は津波で
押し流された上に,火災によって焼け爛れていました。そこでも我々は代表
のお話を聞かせて頂きましたが,あまりに凄惨な光景を目の前に,耳に入っ
てくる言葉もかき消されてしまうような感覚を得ました。散らばる資料やカ
レンダーなどは平成20年台の廃墟には似つかわしくない新しいものばかりで
した。壁に掛けられていた額縁入りの賞状などは,津波によって紙が濡れ皺
の入った後に,火災によって燃えているという非常に奇妙な残骸が残されて
いました。
 その後我々は門脇の町へと繰り出し,称法寺という浄土真宗の寺院へと向
かいました。大きな本堂が遠くからも見え,ここは無事なのかと思われまし
たが,近づくと本堂の外壁は全て無くなり,屋根があるだけで完全に野ざら
しとなっていました。周辺は開拓地かの如き工事現場と数多の墓地しか見え
ず,しかし振り向いてみると先ほど門脇小学校があった北側の方向には行政
の方針で造成されている新興の住宅がいくつか散見されました。広大なすす
き野の中にはよく見ると,住宅の土台の跡がたくさん残されており,これも
先ほど申し上げた通りゴーストタウンの雰囲気を醸す一因となっているかと
思われました。
 門脇,南浜町を後にし,日和大橋を徒歩で渡ります。大は旧北上川,小は
町の溝まで,多くのゴミ,特に岩の残骸が沈んでいるのが見えました。それ
を片付けるなど,行き届くもくそもないというのは,もうこの段階でははっ
きり認識していました。その後我々は支縁機構のハイエースとミラーで市内
を巡ります。市内の小さな道の周辺であっても,家はぽつぽつと建っている
程度です。私は北海道を旅したことがありますが,北海道の広大な畑と山に
囲まれ,家は殆ど無いという過疎地域の風景をこの石巻の市街に重ねました。
一見豪邸に見える家の扉だけがなかったり窓が消えていたり,完全に放置さ
れているというなどという状況も決してめずらしくありませんでした。これ
はこの日に限ったことではありませんでしたが,残った建造物には津波がこ
こまできたという限界点を示すシールが,それぞれ2階や3階相当の場所に貼
ってありました。
 その後我々は市内の渡波(わたのは)東部地区へと移動する際,松原町と
いう場所へと立ち寄りました。ここは津波に寄る被害人口の密度が最も高か
ったという場所だったそうです。辺りを見回してみると,なけなしの防潮堤
と,立ち並ぶことは確認できる薄い松林しか視認できず,東の方を眺めてみ
ると数キロ先の山の麓まですすき野と電柱しか見えないという有様でした。
 渡波3丁目では,支縁機構の阿部捷一支所長のお話を聞かせて頂きました。
阿部支所長の自宅の前の道路は,震災時に地震や津波の影響で80センチから
1メートルほど地盤沈下した為,満潮時に万石浦への水路の水位が上がって
そのまま道路が冠水するという状況だったそうで,道路のアスファルト舗装
も傷んでいるのが見て取れました。未だにこれは解決しておらず,満潮時に
は土嚢を積んでなんとか対応しているそうです。震災はいつ来るかわからな
い,援助が到達するまでには3日かかる,そのために,3日間の備えをしてお
き,避難場所を決めておくことが大事と重ね重ね仰ってました。そして,震
災時は必ず自分の命を確保するという意味で「津波てんでんこ」とも仰って
ました。災害が起こった後は,何よりもまず「人命救助」などが最優先とな
るため,消防士,ボランティアや自衛隊もそちらが最優先となるため,一応
生き残った人や,家が残った在宅被災者,いわゆる「2階族」などは,ある
意味後回しになるそうです。家などに流入した泥などを除去する際には,道
周辺まで運び出さないとボランティアが回収してくれないなどもあり,年配
の人には非常に辛いと仰ってました。しかし,「自分たちは牡鹿半島のおか
げで,波が弱まったおかげで助かった」という言葉から,生き残れたという
幸運の重さが感じられました。牡鹿半島の先端の金華山付近では,海峡付近
がモーセの十戒のように,海が引いて水底が見えたそうです。女川原発に万
一事故があった場合にも完全に規制範囲に入る場所であり,いま自宅に住め
ることは本当に幸運だと仰ってました。震災から5年経ち,ボランティアも
減り報道や世間からも忘れ去られつつある現状ですが,仮設から出れない被
災した方々,復興住宅の孤立死などの問題に巻き込まれる被災した方々,家
が流され2重ローンなどに苦しむ方々,運良く家が残った人でもリフォーム
などが必要となってくる方々などまだまだ問題は山積しています。そういう
人々に,「恩送り」という意識などがあったら有難いなと,そう仰って最後
に締められました。
 その後,渡波地区の佐藤晴美さんの家にて当時の新聞記事をまとめた模造
紙を手にお話を聞かせていただくことが出来ました。佐藤さんの家は地盤沈
下により傾いており,少し気分が悪くなる感覚を覚えました。佐藤さんの家
の前は今でも地盤沈下による浸水のせいで工事が続いていました。佐藤さん
の家では様々な新聞記事による説明を頂き,当時の石巻市内の状況がありあ
りと見て取れました。橋の上部以外海となっているところ,電柱に引っかか
る軽自動車,リヤカーであふれる街道などの凄惨な状況は,我々から言葉を
奪うには十分でした。ご主人の金一郎さんを訪ねていらっしゃった女川町の
遠藤健一さん(76)は,家族で経営していたニコニコ荘という旅館が完全に流
され,母親やその兄弟など6人も身内で亡くなったそうですが,火葬する電気
も油もなく,どうしようもなかったそうです。女川町には仮設を作る土地も
なかったため,山を越えて石巻に女川の仮設が作られたということも教えて
もらいました。我々はそれを石巻にて見かけましたが,周りは畑で風通しが
よく,夜は非常に寒いだろうということが容易に想像できました。続けて我
々は佐藤さんから報道でもよく取り上げられた小中学校などの話を聞かせて
頂きましたが,この金曜日は午前中が中学校の卒業式で,中学生の多くが自
宅に居たということなどもあったそうです。2時46分なので,小1,2は下校
しているため父兄に責任が移っており,学校側ばかり責めるのは可哀想と仰
ってました。有名な大川小では,そもそもそばの川にかかってる橋の両詰が
最も高度が高く,大川のように奥まったところまで来た時点でどうしようも
なかったとも仰っており,詳細を語らず批判を殺到させる報道機関と大きく
意見が違っていたことも印象的でした。5年を迎える3.11についてどう思わ
れるか聞いてみたところ,震災後当時は涙も出なかったが,例年2~3月の震
災特集番組を見ていると潤んできてしまうためあまり見たくないけど,しか
し私は見ないといけないかなと思っていますと仰って締めておられました。
我々は佐藤さんの家を後にして,各ボランティアへと向かいます。私は林ボ
ランティア班を請け負うことになり,石巻の森林組合の方へ向かうことに
なりました。森林組合では阿部昭夫さん(49)という方と山下耕一さんという
方にお世話になり,森林組合の作業場の脇にある水路を整理してほしいと頼
まれました。森林組合の水路だけあって,中にはスギの樹の皮が詰まってお
りました。この日は皮のみを除去して,次の日は午前午後通してすべてを除
去しました。その後は阿部さんから当時の話を聞かせていただくことが出来
ました。阿部さんは自宅が石巻の沿岸部の方にあり,当時家に居た奥さんと
2人の娘さんは被災されたそうです。3人は津波から逃れるため別の平屋の家
に避難し,そこの家のお父さんと中2の男の子とおばあさんを加えた6人で居
たところ,水が流れ込んできたそうです。流れ込んできた津波は1階の天井
から数十センチのところで止まり,男の子が玄関の扉の上部のガラス部を叩
き割って,男の子と阿部さんの下の娘さんはなんとか屋根に登り助かったそ
うです。しかし,阿部さんの奥さんとその家のお父さんはそこで沈んでしま
い,阿部さんの上の娘さんは低体温症となって脱出口付近で意識を失ったそ
うです。その後屋根に登って3人で暖めあって,さらに隣の家の2階からカー
テンを投げてもらい,なんとか3人は無事に助かったということです。阿部
さんは3日目まで連絡を取ることの出来ない身内を案じていましたが,「諦
めろ」「覚悟は大事」と諭されて居た所で,2人が戻ってきたそうです。娘
さんは「お母さんはダメだった,仕方なかった」「ごめん」としきりに謝っ
ていたそうです。阿部さんは家が被災し,1階は窓から何から貫通しました
が,2階は無事でした。いわゆる「2階族」という身分になってしまったと
いうことです。しかし当然リフォームは必要となってしまったため,子供た
ちをおばあさんの家へと預け,リフォームする前に階段に「貴重品はありま
せん」という貼り紙を残して,家から一旦退去しました。阿部さんはもとも
とのローンが2000万,それに更にリフォームの1000万がかかり,今は二重
ローンに苦しむ日々を耐え忍んでおられます。地震保険には入っておらず,
職場があるからという理由で借金の帳消しも無く,厳しい現実だそうです。
阿部さんの2人の娘さんの志帆さん(22)と真帆さん(20)はそれぞれ大学で別
の地へと行かれ,アメリカ大使館で体験談を講演されたり,他の災害の被災
地へのボランティアへ向かわれたりなど,自分の体験を無駄にせず逞しく生
きておられると仰ってました。阿部さんは1人石巻で働く日々ですが,「1度
死んだ命だから好きにして良い,借金など気にするな」と仰って応援されて
いるそうです。山下さんについても,実家は流され,両親とおじいさんを亡
くされ,もう戻るところもないと仰っていました。お二方とも知り合いに農
業漁業で廃業された方が多く,自分たちには戻るところはないけど,それは
仕方ないと仰っていました。
 この後阿部さんが仰った言葉が今回のボランティアで最も心に残りました。
「5年経っているが,『復興』とは最早個人の心の持ち方,線引によるもので,
他人に強制されるものでは無いと私は思います」と仰ったことでした。報道
では発展した幹線部などの復興風景をもって「東北は復興した」と言うこと
もありますし,しかし現状を見てとても復興したとは言えないと仰る方もお
られます。阿部さんは,「それでも私は前向きに行きたい。考えるとひたす
ら悲しくなるし,難しいことではあるが,未来に向かって前向きに行きたい」
と仰りました。復興とは確かに個人の線引きではなく,あの現状を見ても復
興したという人もいれば復興してないという人もいます。しかしそれは我々
ではなく,被災者の方々が決めることなのでは,と思いました。被災者の
方々が「復興した」と思われた時こそ,真の復興ではないのだろうか。私達
がどれだけ他者を糾弾しようと復興が進まねば無駄ではないのか。そうも思
いました。
 他にも東北には問題が山積しています。原発においても,「今までたくさ
ん世話になったし多くは文句を言えん」「今は欲しいが,将来的には要らな
い。しかしこの現状をどう打破すれば良いかもわからない」など,被災者の
方々でも明言が出来ません。そのような長期的な問題にこそ,被災者以外の
みんなで取り組んで行かなければならない。他人事ではなく,「恩送り」で
も構わないから,手を取り合う必要があるのではないか,と思いました。
                              村田義人

機構の石巻支所阿部捷一支所長から震災当時の語り部に耳を傾けます。

機構の石巻支所阿部捷一支所長から震災当時の語り部に耳を傾けます。

みんな凍えるような寒さを体験しながら,真剣に当時をふり返ります。

みんな凍えるような寒さを体験しながら,真剣に当時をふり返ります。

林ボランティア班に地元の人たちが差し入れ。

林ボランティア班に地元の人たちが差し入れ。

仮設住宅で傾聴ボランティア

仮設住宅で傾聴ボランティア

いつも暖かく迎え入れる木村褜治さん

いつも暖かく迎え入れる木村褜治さん

≪動画参照≫ 漁ボランティア班

                                              神戸大学理学部 2年   谷口浩平

 石巻門脇町の門脇小学校前に降り立った時,一番最初に感じたのは
単純な疑問でした。なぜなら,見渡すほどの平地とまとまった数の墓
が存在するだけで,「ここは元々住宅地だった」と言われても原型が
無すぎて本当かどうか疑わしく思ったからです。そこには生活の匂い
などあるはずもなく,余りにも静かでした。
 しかし,門脇小学校内に入った時,この静けさは5年前の大惨事に
よるものなのだとひしひしと感じました。酷く荒れ果てた内部では,
1歩進むたびにガラスの破片が擦れる音がし,掃除箱や机,焼け残っ
た紙が乱雑に積み重なり,灰や埃のかぶったトランペットやランド
セルがおそらく当時のまま残っていました。
 また,この時代表からのお話を聞かせていただきました。それに
よると,交通機関の整備を優先したことによって働き手が逆に都会
へと流れ出てしまい,5年経ったことによってボランティア参加者の
数も激減したことも相まって圧倒的に人手が足りない状況なのだと
いうことです。その話を聞き,まだ終わったことにしてはいけない
と胸に刻まれると同時に,私個人に対してあまりにも大きい被災地
の問題を目の当たりにしたことによる無力感と,行政の的確な復興
方針とそれに則った支援の必要性を大いに感じました。
 また,ボランティアを通して多くの方(阿部捷一支所長,佐藤晴美
さん,傾聴ボランティアにおいて話を伺った仮設住宅の方々,漁業
組合の方々)から,当時の状況や現状についてお話を頂くことができ
ました。そして,それぞれの話の中には幾つか共通点がありました。
 1つ目は,震災直後においてあまりの惨状に悲しむ余裕がなく,涙
が出なかったというものです。近しい人が亡くなり,火葬に立ち会う
ような時になってもなお,多くの人の死を目の当たりにしているせい
か呆然とその様子を眺めている状態だったと仰る方もいました。中に
はむしろ少し時が経って,震災の特集番組を見た時の方があの時を思
い返して涙が出てくるという言葉もありました。
 2つ目は,水道,ガス,電気が全く使えず食糧や水の確保もやっと
な状態での生活だったということです。「配られた食べ物を3つに分
けて3食分にした」「1ヶ月以上風呂には入れなかった」など,私た
ちが普段過ごしているような,生きられることを当たり前とした上で
過ごす日常生活ではなく,まさに「生き延びる」ための生活を強いら
れていたことが分かりました。ある方は,この生活を「サバイバルの
ようだった」と表現なさってました。
 そしてそのような状態で,自衛隊がどれほどありがたかったという
ことを話してくださった方もいました。その方は,「瓦礫の山で人が
通ることが困難な所でも乗り越えて真っ先に駆けつけてくれたのは自
衛隊だ。今,日本では自衛隊の存在に反対する声もあるようだが,こ
この人達は皆自衛隊に感謝しているし,支持している。」と仰ってい
ました。
 そして,お話を聞いていく中で何よりも私が実感したのは,「ここ
で会った人々は皆,強く生きている」という事です。
 そう感じた理由は,震災直後,生き残った人々で生きていることを
喜び合い,物とものを交換してそれぞれが不足しているものを補いあ
ったというエピソードなどを聞き,「支え合って生き抜こう」という
気持ちに触れたということもありますが,最も私にそう感じさせたの
が「私たちが生きているのは,何か使命が残っているから」という言
葉をお聞きした時です。というのも,私が最初に石巻の地に降り立っ
た時,感じたのは静けさと生気の無さでした。そこには,ある種の諦
めが感じられるほどでした。しかしこうして,このような環境で実際
に使命を感じ根強く生きている方々にお会いして,普段私達の方が恵
まれた環境であるはずなのに,私達よりもエネルギーに溢れていると
感じずにはいられませんでした。
 こうして様々な貴重なお話を頂いたのですが,中にはやはり「この
話をするのは辛い」と仰る方もいました。いや,おそらくお話をして
くださった全ての方々は当時の記憶を掘り起こすことになるので辛か
ったはずです。それなのに彼らが我々に震災時の様子や現状を教えて
くださったのは,私たちを通して日本全体に自分たちの実情を訴える
ためだと思います。つまり私たちができる最大のボランティアとは,
実際に被災者の方々の話に耳を傾け,それをたくさんの人に伝えるこ
とではないだろうかと私は思うのです。
 東日本大震災は,決して他人事ではありません。終わった事にして
はいけません。この文を読んでくださった方が,少しでも被災地の現
状について関心を抱いて頂ければ幸いです。
                             谷口浩平

 

 

 

 

 

 

 

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