2012年10月8日,9日,神戸市北区の‘しあわせの村’に障がいをもたれる方たちが参集された。神戸国際支縁機構から講師が「障がいをお持ちの方との縁」というテーマで二日間にわたっておはなしをした。全盲,車椅子生活の方などが40名ほど会場に出席されていた。兵庫キリスト教共励会創立40周年一泊研修会。

「障がいをお持ちの方との縁」               12/10/08&09        

                兵庫キリスト教障害者共励会                
講師 神戸国際支縁機構 代表 岩村義雄 

主題聖句: Ⅱサムエル 4:4 サウルの子ヨナタンには両足の萎えた息子がいた。サウルとヨナタンの訃報がイズレエルから届いたとき,その子は五歳であった。乳母が抱いて逃げたが,逃げようとして慌てたので彼を落とし,足が不自由になったのである。彼の名はメフィボシェトといった。 

<> 昨年,東日本大震災の発生してから三日後,釜ヶ崎のランティアで共に仕える若者たちから,被災地に行く計画が起こされた。各マスコミの紙面で支援物資を募ったところ,たくさんの物資が集まりました。最大の被災面積である石巻市に仙台を経由して向かいました。最初に,斉藤病院に医療物資を運びました。石巻市には日赤病院以外はさながら野戦病院でした。凍てつく寒さの中で入院患者たちは,外の簡易トイレに列をつくっており,電気もないため,劣悪な環境で治療を受けているというより,死を待つような状態でした。市役所を訪問。支所などは津波で48人の職員がなくなったと聞きます。ボランティアセンターはマンパワー不足のため,釜小学校に直接,石油ストーブ届けるように依頼しました。それから毎月のように,神戸から若者たちががれき処理,ドロ出し,避難所喫茶,戸別訪問を陸の孤島のように言われ,行政,ボランティアが入りにくかった渡波(わたのは)地域で定期的に行くようになりました。今年の6月からは,隣町の伊勢町,黄金浜(こがねはま)の在宅被災者の戸別訪問するようになりました。地面を這いつくばるようなボランティアを通じて,地図作り,町興しに地元の方たちと「縁」から「結」へと織りなすことを祈っています。東北六県すべてで奉仕したのではなく,石巻市渡波に限っての調査,ヒアリングに基づいた内容であることを最初に申し上げます。 

(1) 「死んだ犬も同然」
 a. メフィボシェトとはどんな生き方をしたか
 
聖書のダビデはゴリアテを倒したり,敵に勝利したために民に人気がありました。ところが,サウル王はダビデの人気をねたみ,殺そうとしました。サウルの息子ヨナタンとダビデは異性への愛にまさる信頼関係がありました。サウルとヨナタンが死んだ時,ダビデは悲嘆にくれ,丁重に葬りました。
 ヨナタンの息子でメリバール[原意 主のために闘う人]がいました。障がいをもっていたために,メフィボシェト[原意 恥を広げる人]という意味の名前に変わりました。父ヨナタンの死後,落下したために両足が不自由になっていたのです。ダビデに刃向かったサウル王一族に対して仕返しがあるため,メフィボシェトは「ロ・デバル」(2Sa 9:4 不毛の地)で,身を潜め,寂れた地に戦々恐々と生活していました。ですから,メフィボシェトは自分自身のことを「死んだ犬も同然のわたし」(同 9:8)と述べています。皆さんは,高速道路で,引かれた犬や,猫をご覧になったことがございますね。いちいち車を止めて,手を合わせて成仏をお祈りなさったことはございませんでしょう。次々に車輪に踏まれていくうちに,薄っぺらいものになり,そのうちに風でどこかに消えてしまうのです。「死んだ犬も同然のわたし」というのも,用なし犬どころか,生きている価値がだれからも認められず, この世から抹殺されてしまっているような生き方です。
 ちょうど,東日本大震災の時,そこにいたことすら忘れ去られているような無価値な存在と通じるものがあるかもしれません。 

b. 押し寄せる津波の爪痕
 
私たちは,昨年9月からは,農林漁のボランティアに従事して田んぼの作付けをし,明後日10月10日からは稲刈りにいそしみます。今年,6月からは行政,ボランティアが一度も訪問したことがない区域である渡波の隣町の在宅被災者のお宅に戸別訪問することにしました。地図を作り,町興しが目的です。一軒ずつ,ピンポンとチャイムを鳴らします。医療班にしてみても,神戸の職場ならば,患者さんの方からここが痛いとか,調子が悪いとご自分から言ってくださるのです。ところが,生まれてはじめて私たちの方から相手にいろいろとお尋ねするわけですから,緊張もしますし,どのように切り出したらいいのかわからず,不安がいっぱいだそうです。阪神淡路大震災を体験した若者たちだと自己紹介しますと,最初はいぶかしげに見ておられますが,今までだれにも話したことがない事実をありのままにおっしゃいます。約一年半,行政やボランティアに一度も語ったことがない東日本大震災発生時の実体験をぽつりぽつりと,ある時には激しい勢いで吐き出すように言われます。ICレコーダーや記録帳に詳しく書き留めていきます。
 海辺の580人の犠牲者を渡波(一丁目~三丁目)を経て,伊勢町(40人犠牲者),黄金浜(こがねはま 80人犠牲者)に入ることができたのです。堤防が決壊して,バキッバキーという轟音で黒い津波が襲いかかってくるのです。津波の通り道があり,決壊した堤防から猛スピードで工場,家屋,車両などを呑み込みながら,10キロ以上奥地までまたたくまに覆い尽くします。学校へ避難するように家を出たとたんに流されてしまった人々も少なくありません。警報が鳴ると,1960年のチリ津波ですらたいしたことがなかったという油断は禁物でした。本能的に,皆さん必死で逃げたのです。独りで助かるのが精一杯に追い込まれていたのです。目の前で配偶者の手をすべらせて帰らぬ人になったなど,悲劇があちらこちらで起こったのです。ご自分一人だけが助かった場合,素直に生き延びたことを喜べない自分との戦いがあります。昨年10月11日以降,避難所から無理やり立ち退きを命じられたため,もしくは,親戚,友人の家から帰り,半壊,全壊の家を修復し,住むしかない在宅被災者たち。戻ってきても,隣近所は空き地になっていたりします。ご近所の方が,あるいはどこからか流されてきた方が屋根の上で,「助けてくれぇー」という叫び声が夜,思い出され,耳から離れず,不眠症の原因になったりしています。「あの時,一緒に死んでいた方がよかった」という言葉には思わず後ずさりしてしまいます。 

c. 障がいをもっていた方や高齢者の逃げ遅れ ―移動と情報の不自由―
 
東日本大震災の犠牲者の9割は津波が原因です。目の不自由な方,耳の不自由な方,車椅子生活の方,知的障害者,ダウン症,自閉症の人たちはどのようにして逃げられたのでしょうか。
 宮城県の総人口は234万6,853人です。その内,障害者手帳を所持しておられる方は,10万7,150人です。宮城県だけで,死傷者の約半分の9,471人[0.4パーセント](2月29日)が亡くなっています。障がいをもっていた方の死亡した割合は1,028人と報告しています。毎日新聞2011年9月15日付けでは,障がいをもっていた人は,健常者の三倍の死亡率であると書いていました。しかし,「震災から1年以上たっても障害者の状況は把握できないない」(NHKニュース 2012年7月16日)と報道しています。実数はまだつかめていないのです。
  障害者手帳を持つ目の不自由な人の66%は65歳以上です。全人口に対する65歳以上の人口(高齢化率)を考えてみましょう。国連の定義として高齢化率が7%を超えると高齢化社会,高齢化率が14%を超えると高齢社会と呼びます。すると,過疎,高齢化,少子化の石巻市は高齢化社会ではなく,また高齢社会でもありません。高齢化社会=高齢化率7%~14%,高齢社会=高齢化率14%~21%,超高齢社会=高齢化率21%以上を言います。つまり,石巻市も神戸と同じように,超高齢化社会なのです。
 「大津波が来る」と言う警報を障がいをもっていた人たちはどのように受けとめたのでしょうか。
 目の不自由な人は,大きな破壊の音と,津波が四方からやってきて,蛇がとぐろを巻くように津波の竜巻をあちらこちらでつくる勢いにパニックに陥ってしまうのです。つまり,どちらへ逃げたらよいのかわからなくなってしまいます。また,だれも手を引いてくれる人もいないのです。まさに,「死んだ犬も同然のわたし」だったのです。
 水産加工の工場が多い伊勢町でも,車椅子生活の家族を助けに,仕事場から急行したが,間に合わなかったこともあります。3戸のうち2戸で車椅子の利用者が1人で生活を送っています。
 最大の情報源であるテレビは,字幕や手話通訳がまだまだ2パーセントしか普及していません。もちろんテレビのテロップについてはほとんど音声化されていません。津波はテレビも子供のおもちゃのように簡単に破壊してしまったのです。耳の不自由な人は,避難しろという放送も聞こえませんでした。家ごと,濁流に流されそうになっているので気が付く始末です。黄金浜で,ご近所の人は気づかなかったのですが,自宅では約5キログラムの重さがある人工呼吸器をつけていた人がいました。なかなか全壊寸前の家から出て来られなかったのです。5分早かったら助かっていたかもしれません。地震で地盤が沈下したために,玄関から車椅子で出ようとしたところ,20センチの段違いができていたため,もたついてしまい犠牲になったのです。
 ある知的障害者の方は第一波の津波がひいた時,外に出ていたので,ご近所の方が「早く逃げるように」と駅の方を指さしましたが,自分で判断できなかったせいでしょうか,それ以来,お会いしていないそうです。
 私たちが4ヵ月にわたって,調査した段階で,障がいをもっていた人で奇跡的に生き延びた方のお証しを聞くことはまだございません。妊婦の女性が津波に流されましたが,ある家の軒にぶつかり,そこの二階の窓から部屋に入り,雪の降る寒さの中で,布団にくるまり,なんとか助かったお話しを聴くことがありました。食べ物は,二階にいた4人で一日にパン一切れを分けて生き延びた結果,赤ちゃんは無事に出産したとのことでした。母親はご近所の方のおかげと,答えておられます。自分の存在を気にかけてくれる隣人がいることは救いです。
 神戸からの若者たちは,一度,ヒアリングを体験し,生き延びた方の地獄絵図を聞きますと,勇気を奮い起こし,参加費を払って,再び,石巻にやってきます。現在,地盤沈下や,防波堤建設予定による地形変化の地図作りに取り組んでいます。願わくは模型をつくって,被災した方々の無念と,同じ悲劇を反復しないように町興しに取り組んでいます。障がいをもっている者の生活を支える人が突然死し,取り残されだれにも助けを呼べずに衰弱死してしまわない縁のあるコミュニティをつくりたいものです。

第二講演

 (2) 障がいをもっている人の被災は大きなハンディキャップ
 
a. ハンディキャップの人々の被災
 
昨年3月21日,25人の犠牲があった石巻市中心街にある釜小学校に石油ストーブを届ける時,何度も注意されたことがありました。石油を持っていることをだれにも見せないでくださいということです。もし見せるとパニックが起こるからと釘をさされました。石巻に向かう直前,新聞には,被災地では列をつくり,礼儀正しい日本人のマナーを称賛した記事がありました。しかし,私たち一行はそんな美しい日本ではなく,現実の日本を目の当たりにしました。銀行,コンビニのキャッシュレジスターが破壊されていたり,レイプがあったりという人間が極限におかれるときにさらけだす罪性です。 道ががれきでふさがっているところをなんとかくぐりぬけ,避難所になっている小学校に予定時間の三倍かかって到着しました。午前中の病院と同じように,中に入る前から異様な臭いがします。テレビや新聞の画像とは違います。死臭,ヘドロ,水や電気のない手洗いの糞便の激臭が目の粘膜にしみるのです。避難所とは名ばかりです。寒さと不衛生で健全な人でも病気にならないのが不思議な状況です。
 三階に知的障害者が運び込まれていました。持病のてんかんの発作が起きますが,常備薬などありません。あおむけのまま動かなくなっていました。
 病院でも救急搬送先で死亡は珍しいことではありません。逆流した食物でのどを詰まらせたりします。とりわけ,知的障害者は自ら苦痛を伝えにくいのです。さらに,多くは持病などを抱えています。長時間の移動や環境の変化が致命的影響を与える場合もあります。暖房のない極寒において,高齢者や障がいをもっていた方が亡くなっています。 

b. 避難所における障がいをもっている人たちの生活
 
車椅子やつえ,入浴・排せつ用具について言えば,健常者でもストレスがたまり,寝込んでしまいます。しかし,夜は寒くて,眠りにつくことができないのです。もちろん暖房などありません。たくさん着込むしかないのですが,着の身着のまま逃げてきたわけですから,約三日間は多くの被災者はがたがた震えて過ごしたのです。
 避難所で,目の不自由な人にとって一番辛いのはお手洗いです。石巻市全体が断水です。バケツの水をひしゃくで流すしか,方法がないのです。私たちが持って行った簡易トイレは二つだけでしたから,焼け石に水という感じです。渡波小学校の避難所の便所も2,000人も使うとなりますと,たいへんです。生理的に排便したくても,凍えるほど寒風吹きさらす校庭の便所にずっと列が並んでいます。穴を掘って,二枚板をしいてあっちこっちに用を足しますから,学校全体に風向きにより臭うのです。ところが目の不自由な人や,耳の不自由な人たちは,やりきれないのです。人間の尊厳に関わるような状況に追い込まれてしまうことさえあります。避難所生活は不慣れな上,体を動かすことがおっくうになります。しかし,トイレだけはなかなかがまんできないのです。やっと用を足すことができても,後の処理をどなたかにお願いせざるを得ないのです。女性にとっては屈辱なのです。
 ボランティアに行ったメンバーはそうした深刻な状況を目の当たりに見て,腹が立ってきたり,自分の無力感に打ちのめされるのです。
 避難所で配給のパンとか毛布が支給されます。どのように伝達しますか。
 すべて掲示板の張り紙です。目の不自由な人は,結局,食べるものもなく,気づいたときには何も残っていないという具合です。「死んだ犬も同然のわたし」ではありませんか。支援者もどうしたらいいか,わからないのです。自宅が半壊でも全壊でもないのに避難所にみんな行ったのです。目の不自由な方は,一日に一回は立ち寄るお店が津波で流されると,生活のリズムが狂ってしまって生きていけない方もおられました。しかし,避難所で生活していても,食べ物の配給が放送されるようになりますと,今度は学校の迷路みたいなところをうろうろしてしまうだけです。放送やラジオの情報は耳の不自由な人はぜんぜんわからないままです。弁当が大量にあまっていても,ありつけないこともあります。
 私たちが持って行った音声時計については,はじめてそんな時計があるのかと感激していた目の不自由な方もおられました。 

c. 避難で症状が悪化
 
毎日新聞の2012年9月14日付の記事によりますと,男性は原発事故の前まで,平日は楢葉町内の障害者グループホームで生活。日中は福祉作業所に通い,週末は父親(78)の家で過ごしてきた。着替えなど身の回りのことは自分でこなし,洗濯物を干すなどの家事もしていた。原発事故後の昨年3月12日,父親といわき市内の体育館に避難。トイレが思うように使えず,4日後,母親(75)が住む千葉県市川市の実家に移った。だが,同5月,歯磨きの際に介助なしに立っていられなくなり,同6月下旬には精神不安定や足の筋力低下,認知症の悪化があると医療機関が認定。夜はうなり続け,障害の重さも震災前の3から,最重度の6と認定された。紙おむつや車椅子が必要になり,介護保険も初めて適用され,同5月に要介護3,11月には最も重い要介護5に。両親による介護も困難となり,男性は今年8月から市川市内の介護施設に移った。市に『何かあった時に,すぐ連絡がつながるような仕組みを整えて』と頼んだけど『難しい』と言われた」と話す。
 個人情報を保護する視点より,災害時には,ご近所がすぐに連絡網を活用し,一人ひとりの場所に急行し,救出に携わることができるように普段からコミュニティづくりが大切です。 

(3) 孤立死の問題
 
a. 孤独死から孤立死
 
石巻市では約7297戸の仮設住宅に160人ほどしか見回りの人がいません。仮設住宅の雇用がない男性たちの運動不足,冷え性,栄養不足など,目を覆う惨状です。地元産業の復旧,復興,再建への道のりは遠いです。
 石巻市の水産関連の会社は200ほどありました。しかし,宮城県の復興に対する怠慢のためでしょうか,冷凍関係2社,加工関係10社のみしか再開できていません。被災地倒産は阪神淡路大震災の3.3倍です。中心街,水産関係の工場地帯にもにぎわいがありません。ねり製品,塩蔵品,魚卵製品,冷凍水産物等が回復は遅いのです。中高年女性の失業したままです。水産加工の復興は遅れているため,女性は2,157人も就労できていません。がれき処理などの重労働には無理があります。職安にも女性求人は少ないのです。1995年,阪神淡路大震災の際,新しく生まれた言葉に「孤独死」があります。身寄りや家族があるのに,自ら命を断ってしまったり,気づかれずに仮設住宅で死んでしまったことを指します。日本国内では,一時的に孤独死について取りざたされました。一方,海外では,経済大国であり,文明国である日本で起きている奇っ怪な現象に驚き,大きな反響でした。
 2011年,東日本大震災以降,孤独死に代わる新しい言葉が生まれました。「孤立死」です。自分の配偶者を津波で亡くし,天涯孤独のように独りで生きていかねばならなくなった人が,「なぜオレだけが…」とアルコールを浴びるほど飲んで,生きがいを失って,自ら集結してしまうケースです。死の瞬間に誰も居合わせない死に方です。「死んだ犬も同然のわたし」は,おおぜいの身内に見守れて大往生するのではありません。だれとも縁がなく,自分の存在をきづかう人も周囲にいないのです。
 命を握っているのは神様であり,人間でも延命装置でもありません。人は神様に生かされているのです。 

b. 復興の冷たい箱形ビルの建設より,縁
 
助かった命の灯火を消さないために。津波から免れたとしても,震災の衝撃,家族の命,財産,仕事を失った変化,避難所,仮設住宅,みなし仮設,在宅被災での生活苦で体調をこわして死亡する震災関連死もあります。たとえば,津波災害に遭った後に起こす津波肺があります。津波を少し呑み込んでしまったものの助かったと思っていたところ,津波が途中で巻き込んだ土,ヘドロが肺に入り込んでいて炎症が起きて重症に陥ることも珍しくありません。
 在宅被災者の心のケアを充実させ,孤独死,孤立死を防いで,一人ひとりを支える手をさしのべます。なぜなら自分だけが生き残ったという負い目,トラウマの心は長期間にわたります。外出の機会が,年齢が増すにつれて減っていきます。頼れる人が身近にいないことも孤独死,孤立死につながりやすいのです。高齢の独居に対する戸別訪問は持続しなければなりません。
 命をつなぎ,失われたムラ社会を取り戻すようにコミュニティ再生へとつないでいきます。99匹の羊をおいても一匹の羊を大切にする精神態度を培うように,家庭,学校,社会における教育が大切になってきます。 

c. 主の食卓に招かれた者はさいわいである
 
メフィボシェトはダビデ王の食卓に招かれました。ダビデは,自分を亡き者にしようとしたサウル王の孫であるメフィボシェトを迎え入れました。わが子のように愛します。生活に不自由がないように配慮します。「メフィボシェトは王子の一人のように,ダビデの食卓で食事をした」(2Sa 9:11)と書かれている通りです。ダビデがサウル王から付け狙われる逆境から王位に就くまで,行動を共にし,ダビデを信じ,ダビデのために武勲を立てた部下は数多くいたでしょう。しかし,ダビデを通じて「神の恵み」を受けたのは障がいをもっていたメフィボシェトただ1人だけだったのです。
 旧約に書かれているダビデとメフィボシェトの食卓の物語は,私たちに示唆を与えます。神の御手に握られ,愛され,恵みを受けるのは,「死んだ犬も同然のわたし」と告白した小さな者だけなのです。「障害のある人たちのいない信仰共同体は,障害があり,また障害となる信仰共同体である」とユルゲン・モルトマンは述べました。(『いのちの御霊 総体的聖霊論』, 新教出版社, 1994年 390頁)。 

<結論> 「死んだ犬も同然のわたし」と思っている被災者,とりわけ障がいをもっている人たちが,生きる希望をもてる食卓,宴,コミュニティを築きましょう。障がいをもっている人たちが中心になる社会です。そうすれば,かつてムラ社会を支えていた血縁,地縁,仕事縁に勝る「縁」から「結」につながっていくでしょう。