死刑をどう考えるか

「地球市民の会」研究例会                            
                                2009年05月24日
講 師 : 岩村義雄 Ⓒ

主題聖句:  ヨハネ 8:3-5 そこへ,律法学者たちやファリサイ派の人々が,姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て,真ん中に立たせ,イエスに言った。「先生,この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと,モーセは律法の中で命じています。ところで,あなたはどうお考えになりますか。」

<序> 21日に裁判員制度が始まりました。私自身は法律について無知であり,平素,裁判などについても精通している者ではありません。ですから,死刑についてどう考えるかというのは,宗教者の視点でしか語ることができないことをご了解ください。和歌山の毒物カレー事件で殺人などの罪に問われた林真須美さん[47]に対して,先週21日に,上告審判決は,1,2審に続き状況証拠の総合評価によって被告の犯行と認定しました。犯行動機はわからないまま,状況証拠だけで,死刑がくだされるのです。ちょうど,21日は裁判員制度がスタートする日でもありました。
 昨年,4月22日(火),母子が殺害された事件のことで,殺人や強姦致死などの罪に問われた元少年の被告[28,当時18]の差し戻し控訴審判決で広島高裁(楢崎康英裁判長)は死刑を言い渡しました。
  もしあなたが裁判員になられたとしたら,今回の,カレー事件で60人の被害者が出て,4人が亡くなられた事件について「あなたならどうお考えになりますか。」
 1988年2月23日未明,名古屋市でアベックを不良達が襲って順々になぶり殺しにするという事件がありました。死刑が話題になり,ある検事が「娘が殺されたら,俺は検事を辞めて犯人を殺してやる」と言ったそうです。そのとき,修習生が尋ねました。
「じゃあ,奥さんが殺されちゃったらどうするんですか」と。検事は,黙って,両手を合わせた。そして言った。「拝んじゃう。犯人に向かって,ありがとうございましたって」。
検事ですら,人間であります。被害者の気持ちに感情移入してしまうこともあるでしょう。
 加害者と弁護団 対 被害者遺族のどちらにつくかという二元論的な対立構図を報道などを通して,先入観をもって裁判官は務まるでしょうか。裁判員裁判の死刑判決について、裁判官と裁判員による評議で多数決によって決めるのではなく,死刑判決は全員一致となるまですべきでしょう。しかし,今の判決制度では多数決で決するのです。冤罪ということもあるのです。1948年1月26日の「帝銀事件」では,毒薬についてまったく知識のない画家の平沢貞通が逮捕されました。連日,拷問に近い取調べに,「自白」させられてしまいます。1994年に,「松本サリン事件」では、警察は毒薬について素人の河野義行を犯人と見込んで自宅を強制捜査し,自白を強要しました。今日はご一緒に「死刑についてどう考えるか」を考えてみたいと思います。

(1) 死刑は聖書的かどうか
 a.  旧約聖書の律法―等価交換の法則
  申命記 19:21 あなたは憐れみをかけてはならない。命には命,目には目,歯に
   は歯,手には手,足には足を報いなければならない。
    死刑は殺人を思いとどまらせるでしょうか。人間の考えをよくご存じである人間
  の造り主は,次のように言います。
  文脈の20節で,ほかの者たちは聞いて恐れを抱き,このような悪事をあなたの
  中で二度と繰り返すことはないであろう。
  「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き」と書かれていますように,処刑は抑止力に   
  つながるのです。たとえば,殺人犯は刑務所の内でも外でも再び殺人を犯すこと  
  が極めて多いのです。“更生した”殺人犯も相変わらず無実の生命を奪っていま  
  す。
   死刑が行なわれないことが,無実の生命を安くしていることになりませんか。

 b. 死刑は神の律法
  出エジプト記 21:12 人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。
     文脈の14節で,しかし,人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば,あな
  たは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して, 処刑することができる。 「罪
  の報いは死」という律法(ローマ 6:23)に基づいて,処罰することは決して不法で 
  はありません。
   アメリカの大統領選挙で共和党候補のハッカビーが,キリスト教福音派からの  
  圧倒的な支援を受けて2008年に急浮上しました。ハッカビー氏はバプテスト教
  会の牧師でもあります。

 c. パウロは死罪について語っている
 
 ローマ 1:29-32 あらゆる不義,悪,むさぼり,悪意に満ち,ねたみ,殺意,不
   和,欺き,邪念にあふれ,陰口を言い,人をそしり,神を憎み,人を侮り,高慢
   であり,大言を吐き,悪事をたくらみ,親に逆らい,無知,不誠実,無情,無慈
   悲です。彼らは,このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知って
   いながら,自分でそれを行うだけではなく,他人の同じ行為をも是認していま
   す。
   パウロは「あらゆる不義,悪」が「死に値する」と述べています。
  パウロは訴えられたことがあります。「ユダヤ人の律法に関する問題であって,
  死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。」(使徒 23:29)という  
  場面で,当時の司法制度について,反論したのではなく,法を遵守しながら死罪
  についても語ります。
  使徒 25:11 もし,悪いことをし,何か死罪に当たることをしたのであれば,決して
   死を免れようとは思いません。しかし,この人たちの訴えが事実無根なら,だれ
   も私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴しま
   す。」
   パウロは「上に立つ権威」に従い,「死罪に当たる」犯罪を犯した場合,刑に服
  することがふさわしいと説き勧めます。(ローマ 13:1)。
   イエス・キリストでさえ,十字架という死刑制度を一度も非難なされなかったので
  す。七つの教会のひとつの悪行に対して,黙示録で言います。
  黙示録 2:23 また,この女の子供たちも打ち殺そう。こうして,全教会は,わたし
   が人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは,あなた
   がたが行ったことに応じて,一人一人に報いよう。
 
  では,あなたが裁判員に選ばれたとするなら,どんな判断を下しますか。

(2) 神は人の死を望まず,悪人さえも生かしたい
 a. 殺人者に対する神の思い
 
  世界の最初の殺人者は言うまでもなく,「取って食べても死なない」と言ったサ
  タンです。文字どおり,24時間以内にアダムとエバは霊的に死んでしまいまし
  た。続いて,人類の最初の殺人者はカインです。そんな悪行者であるカインに対
  してでさえ,神が申し述べた言葉に注目しましょう。
  創世記 4:15 主はカインに言われた。「いや,それゆえカインを殺す者は,だれで
   あれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つこ
   とのないように,カインにしるしを付けられた。
   人間を創造なさった方は,「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと,あなた
  がたのために忍耐しておられるのです。」(2Pe 3:9)。

 b.処刑より,回心をもたらす方が大切である
 
  加害者は,被害者の生命を奪った加害者です。カインはアベルを殺してしまい
  ました。それだけではありません。
  創世記 4:6,7 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるの
   か。もしお前が正しいのなら,顔を上げられるはずではないか。正しくないなら,
   罪は戸口で待ち伏せており,お前を求める。お前はそれを支配せねばならな
   い。」
   カインの罪について,「お前を求める。」(Heb テシュカッハ 恋い慕う)と書かれ
  ていますように,自分自身に対する加害者です。魂,つまり命を与えた授与者を
  ないがしろにしていることになります。
  ヨエル 2:13 あなたがたの着物ではなく,あなたがたの心を引き裂け。あなたが
   の神,主に立ち返れ。主は情け深く,あわれみ深く,怒るのにおそく,恵み豊か
   で,わざわいを思い直してくださるからだ。 (『新改訳』)
   「怒るのにおそく」というスピリットは,神だけではなく,キリスト者に求められて
  いる資質です。「聞くには早く,語るにはおそく,怒るにはおそいようにしなさい。」
  (ヤコブ 1:19 『新改訳』)。
   犯罪を犯した者たちが自ら回心するように願い,悔いる機会と時間を与える必
  要があろう。死刑制度はその猶予を不可能にします。
  ルカ 23:34 〔そのとき,イエスは言われた。「父よ,彼らをお赦しください。自分が
   何をしているのか知らないのです。」〕
   母子事件の被害者の遺族が加害者の青年に対して愛情を感じたりすることは
  とうてい無理でしょう。遺族の側が,罪を犯した者に自分の犯した罪を認め回心す   
  るように,遺族が祈ることができるようになれば,遺族自身も癒されるのではない
  でしょうか。処刑によっては解決できないスピリチュアルな問題です。たとえ,死
  刑で加害者が死んでも,加害者を憎み続ける自分に疲れ,それでも赦すことがで
  きない苦しみをどうやって癒やすのでしょうか。
  マタイ 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈
   りなさい。

 c. 神は人の死を望まず,回心を望む
  エゼキエル 18:23-32 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか,と主なる神は言われ
   る。彼がその道から立ち帰ることによって,生きることを喜ばないだろうか。しか 
   し,正しい人でも,その正しさから離れて不正を行い,悪人がするようなすべて
   の忌まわしい事を行うなら,彼は生きることができようか。彼の行ったすべての
   正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死
   ぬ。それなのにお前たちは,『主の道は正しくない』と言う。聞け,イスラエルの
   家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは,お前たちの道ではないの
   か。正しい人がその正しさから離れて不正を行い,そのゆえに死ぬなら,それ
   は彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし,悪人が自分の行った悪から
   離れて正義と恵みの業を行うなら,彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い
   改めて,自分の行ったすべての背きから離れたのだから,必ず生きる。死ぬこと
   はない。それなのにイスラエルの家は,『主の道は正しくない』と言う。イスラエ
   ルの家よ,わたしの道が正しくないのか。正しくないのは,お前たちの道ではな
   いのか。それゆえ,イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道
   に従って裁く,と主なる神は言われる。悔い改めて,お前たちのすべての背きか
   ら立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあら
   ゆる背きを投げ捨てて,新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ,どう
   してお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たち
   は立ち帰って,生きよ」と主なる神は言われる。
    命の創造者は,「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って,
   生きよ』と主なる神は言われる。」(同 32節)と悔い改めることを願っています。

(3) 人を殺してはいけない
  a. 復讐をしてはならない
  ローマ 12:19 愛する人たち,自分で復讐せず,神の怒りに任せなさい。「『復讐
   はわたしのすること,わたしが報復する』と主は言われる」
   と書いてあります。
  現在,すでに拘束され,無力化されている犯罪者を国家が殺害するのです。裁判
 で死刑が下り,絞首刑という報復をして満足できるのでしょうか。気が済んだつもり
 でも,はたして被害者の遺族の心は癒やされるのでしょうか。加害者が回心し,罪
 を認め,心から悔恨と謝罪をし,遺族が加害者を赦したとき,はじめて双方がともに 
 根本的に赦されるのではないでしょうか。

  <証し> 家族を殺されたケース

  キリストが十字架という死刑制度に反対なさらなかったのは,相対的な「上に立 
 つ権威」に従うことではなく,絶対的な神の権威に「死に至るまで,それも十字架の
 死に至るまで従順でした」と(Phi 2:8)へりくだられたからなのです。

 b. 初代教会では死刑を拒否していた
 
  日本では,死刑制度を容認する人が8割以上います。(2005年2月19日内閣
  府公表の世論調査)。相次ぐ凶悪犯罪による社会不安が死刑容認論に拍車をか
  けています。国連総会は死刑執行の一時停止を求める決議案を賛成104ヶ国で
  採択。一方,日本,アメリカ,中国など53ヶ国は反対。凶悪犯罪は日本だけでな
  いのに30年間で100ヶ国以上の国々が死刑廃止,停止になっています。(毎日
  新聞 2008年1月11日付)。
   キリスト教が国教になるまで,死刑制度に対して,クリスチャンが拒絶していた
  のは,キリストの教えによって,「命には命」のモーセの律法から移行していたか
  らです。
   イエス・キリストと加害者である少年はぜんぜんケースが異なりますが,冷静さ
  を失った民衆が,「極刑にすべきだ」「死刑は当然だ」という論調一色は,一世紀
  に民衆が,「イエスを十字架につけろ」と熱狂したのと同じではないでしょうか。

 c. 永遠の教えである十戒
   出エジプト記 20:13 「殺してはならない」(Heb ラッツァー)は新約聖書のマタイ
  の福音書 5章21節で引用されています。モーセの時代も「自分たちのために幾
  つかの町を選んで逃れの町とし,過って人を殺した者が逃げ込むことができるよう
  にしなさい。」(民数 35:11)と故意ではない過失,または冤罪に対する処置を神
  は設けられていました。裁判官は「権威者はいたずらに剣を帯びているのではな
  く,神に仕える者として,悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」(ローマ 13:4)
  と「神に仕える者」(Gk ディアコノス 奉仕者)と述べられています。
   最高裁の判事,また皆さんの中から選ばれるかもしれない裁判官であっても,
  罪人です。私たちのだれもが傍観者ではなく,なんらかの形で加害者です。私た
  ちの内面にも,人を許せないという憎しみの虜になっている現実の罪性がありま
  す。聖霊により,憎悪という性向から解放されてはじめていやされます。裁判官に
  選ばれたからと言って,人を裁く権限はないのです。社会には,いつの時代も犯
  罪者はいます。いわば「毒麦」です。「毒麦を集めるとき,麦まで一緒に抜くかもし
  れない。刈り入れまで,両方とも育つままにしておきなさい。」(マタイ 3:29,30)。
  決して,マスコミに煽られた二元論的発想ではなく,何が神の義かを祈りながら,
  決定しなければならないでしょう。

<結論> 聖書には,売春婦が「石打ちの刑」になる場面があります。今日でもモーセの律法を守る,イスラム教圏では女性の売春行為は石打ちの刑に相当します。そこへイエス・キリストがさしかかった時,「あなたたちの中で罪を犯したことのない者」から順番に石で殺すように言われました。すると群衆はひとり去り,二人去り,だれもいなくなりました。最後に残った女性に,イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。」とおっしゃいました。聖書では,罪を赦す方は,この方以外にいないことになります。

 「地球市民の会」

※ 訳が書かれていない限り,すべて『新共同訳聖書』(日本聖書協会発行)。

How to Think About the Death Penalty

Kobe International Christ Church
Rev.Yoshio Iwamura Ⓒ
May 24, 2009

Three days ago, the jury system began.  In Wakayama, the Supreme Court just delivered the death penalty to a woman involved in the curry poisoning case.  Even though the law has been decided, from a religious standpoint, the standards of laws and institutions cannot take away a human’s life.
Whether a prosecutor or juror, they are still human.  They will be connected emotionally to the feelings of the victim, and especially to the bereaved family members.  They are forced to make the decision to side with the assailant and his lawyer, or the victim’s bereaved family.  After unquestioningly accepting the information created by the police report, is the judge, who has dually conflicting compositions, really qualified?
Within the Roman Law, which has influences on the Constitution of Japan, as well as the Mosaic Law of the Old Testament, the “eye for an eye” equivalent exchange principle is penetrated.  The execution penalty seems to contribute as a deterrent. Also in God’s law, it says “The wages of sin is death.”  Paul also refers to unrighteousness and evil as being “deserving of death,” and explained that they cannot escape the maximum penalty.
But the God of creation said to the first murderer of the human race, “If anyone kills Cain, he will suffer vengeance seven times over.” This was God’s thought towards a murderer, and is written in the Bible.  In other words, rather than the death penalty, the change of heart is more of a concern to God, who is the giver of life.  Jesus, the Son of God, shouted on the cross “Father forgive them, for they do not know what they are doing.” The Transcendent Being never desires someone’s death.  It is also written: “Do I take any pleasure from the death of the wicked? Am I not pleased when they turn from their ways and live?  Repent and live, declares the Sovereign Lord” (Ezekiel 18).
In addition, for believers in transcendental existence, there is one of the 10 Commandments “Do not murder.”  Without taking revenge ourselves, we should leave it to the Lord, who says, “Vengeance is mine.”  In the same way, the first church also denied the death penalty.
By taking revenge though the trial, will the hearts of the victim’s family members really be healed?  If the assailant changes his heart, admits his sin, and repents and apologizes from his heart, when the family forgives him, for the first time both sides will be fundamentally forgiven.  This is when the family which lost a member to murder forgives the murderer.  There have been examples where reconciliation between the family and the murderer contributed to freedom for both sides from feelings of loneliness.
80% of Japanese people approve of the death penalty. This is backwards from the international movement to remove the death penalty.  Even though people are chosen to be a juror, they are still sinners, flesh and blood human beings who have the tendency to be enslaved to hatred, and not able to forgive others from the inside.  It is irrational for people who can’t get rid of their characteristic towards hatred to judge others.  We must realize that it is not meant for humans to have the license to deliver the death penalty.

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