追波川から牡鹿半島の被災地の学校を訪ねて (1)  岩村義雄 Ⓒ

「被造物がすべて今日まで,共にうめき,共に産みの苦しみを味わっていることを,わたしたちは知っています。」(ローマ 8:22)。

被災地便り①                             11/07/02

 小型車を運転し,7月2日午前10時,被災地へ向かう。深夜1時に仙台の宿舎に到着。3月に東北自動車を降りて仙台市街地へ入る時は,さながら戦地に赴く緊張があった。だが,夜の仙台の光景は他の諸都市となんら変わりはなかった。翌朝午前6時半に,JR仙台駅前の宿舎を出て,約30分離れた新免 貢(しんめん みつぐ)教授[宮城学院女子大学]の自宅に迎えに行く。新免先生は神戸国際支縁機構の理事のおひとりである。日曜日にもかかわらず,多くの車が行き交う。県庁舎などが林立する目抜き通りは近代都市そのものである。中心街だけを訪問して帰宅すれば,誤解するだろうに。

 3月以降,何度も行き交った石巻市の国道398号線沿いはがれきが目立たなくなっている。表通りだけを見ると,地震,津波があったことすら,考えられないほど建物はキレイにドロを落としていた。行き交う商業車もおびただしく増えていた。

 

長浜幼稚園 3月21日撮影

 渡波(わたのは)町に入ると,海岸線に迂回し,長浜幼稚園に来た。津波で決壊した堤防は幼稚園から通りひとつ隔てていたにすぎない。すでに海が見えないように堤防は補修されていた。幼稚園舎はまったく変わっておらず,津波に襲われたままである。震災後,道路が寸断され,家屋が海につかっていた周囲の光景は同じであった。人が住める状態ではない。とくに途中の大門町,明神町,松並町,緑町は5年で復旧できるだろうか,だれも即答できないだろう。とりわけ魚町(さかなまち)はまったく人が住めない状態である。魚町には,水産関係の労働者が4,500人以上も働いていた。工場,店,配送関係の産業は廃業に追い込まれた。
 

 魚町 3月22日 撮影

 石巻市としても水産で生活してきた失業者をどうするか頭が痛い問題であろう。3月に魚町に入った時,ウミネコが乱舞していた。ヒチコックの1963年の「鳥」という映画のようであった。鳥たちの様子になにかわだかまりを感じたものだ。すべての水産加工作業場から魚が流れ出ていた。ウミネコが廃墟となった施設付近で魚をついばんでいた。神戸市の須磨,舞子の海岸風景と異なるように思えた。ウミネコがあまりにもたくさん鳴いているからである。“ミャーミャー”と甲高い声で区切って鳴く。
 地元渡波町の佐藤金一郎氏(70)と阿部捷一氏(70)にカモメとウミネコの違いを尋ねてみたことがある。沈黙が続く。「しまった」,まずい質問をしたなあと後悔した。知的好奇心を満たす専門的な問いは控えなければならないと自戒した。昆虫少年だったせいか生き物の生態が気になる。聞き取り調査をする場合,単なる知識を聞き出すことより,体験を尋ねることが大切であろう。ちょうど,オウムとインコの違いを尋ねたようなものだ。ちなみに,オウムとインコについては尾っぽの短い方がオウムである。動物学のような質問は,被災された人々の苦しみ,悲しみとはあまり関係がないのだ。「牡鹿(おしか)半島の鹿の生息数はどれくらいですか」のようなたぐいの問いは,神戸に帰ってからでも調べられることだろう。後日,JR朝霧駅の前でカモメを見て,思い出した。すぐにパソコンで調べてみた。すると,ウミネコの鳴き声はカモメも同じようなもの。全身の色は両方とも白い。区別は尾っぽぐらいとわかった。分類上はウミネコもカモメもともにチドリ目カモメ科であるからややこしい。英語でウミネコはBlack-taild Gull[黒い尾っぽのカモメ]と言う。したがって,尾っぽに黒い帯が入っているかどうかだろう。カモメはウミネコのように留鳥ではなく,冬の渡り鳥だから,夏になると見かけなくなると説明されていた。
 3月,日和(ひより)大橋から見た魚町でも,また,渡波湾でも同様に,ウミネコが盛んに鳴いていた。カラスが死体に敏感に反応することは子供の時からよく大人から聞かされていた。不思議なことに,ウミネコの鳴き声は悲しみを倍増する音響のように騒がしかった。今回も,ウミネコが群がっていた。つんざくように啼いていた。一緒に住む人たちがいなくなったことでやけ酒を飲んでいるかのようである。(魚町の写真 → 「第一回目 若者たちは石巻市に再び訪問したいと語る」参照)。

 9時半に,渡波町の阿部捷一氏[しょういち 前船越(ふなこし)小学校校長]と再会。阿部氏はご夫婦で二階に住んでおられる。久しぶりに故郷に帰ってきた家族を迎え入れるように挨拶された(1)。第一日目のヒアリングは三人(阿部,新免,岩村)である。阿部氏の案内で雄勝町(おがつちょう)船越小学校に向かう。電話,携帯,インターネットも通じない陸の孤島のような地域である。社会全体が「携帯電話への依存」が高すぎる。非常時はあっという間に使い物にならない。各自が自分で状況を判断する力が不足しすぎであろう。牡鹿半島はマスコミもほとんど足を踏み入れていない地域である。予め,阿部氏が訪問の連絡をとるのに,一苦労であったそうだ。他にも,名振(なぶり)の被災者たちにも集まってもらうようになっていた。今回の聞き取り調査により,多くの方々との出合いがあり,実際の悲惨な体験に基づいた生の声を聞くことができるのは阿部氏の尽力による。なぜならよそからの人にはなかなか胸の内にある辛い体験を打ち明けてくださることがむずかしいからである。現地に行って,どのように言葉を切り出せばよいか,不安でいっぱいであった。とりわけ二日間にわたる聞き取り調査は,もっぱら過疎の地域における学校の被災状況が中心である。

(あし)から,「よし」への希望                    11/07/03

 

 渡波町から石巻中心街を経て,雄勝町に向かう。三陸自動車道の河北ICで降り,北上川南岸の県道30号線(河北桃生線 かほくものうせん)に入る。追波川(おっぱがわ 新北上川)沿いに走る整備されたばかりの道路である。追波川は岩手県を源流とする東北一の河川北上川の支流のひとつである。追波湾に通じる幅約100メートル,17.5㎞の景観豊かな川である。昔からある石巻湾へ続いている川を旧北上川と言う。一方,追波川を含む川を(新)北上川と言ったりする。地元の人でも,聞く人によって,どちらが北上川なのかはっきりしなかったりする。阿部氏はかつて小学校への勤務で通い慣れた沿岸の風景である。景観の絶景に,河川が地域の住民の生活の場であったことを話してくれた。「ここの夕日は美しいところでしてね」と。まさに住民たちにとってオアシスのような風光明媚さがある。約3ヵ月前には,死を飲み干した恐ろしい川とは思えない。とうとうと流れ,きらきらと輝く川面に安らぎがあった。あの日,黒い巨大な龍が牙をむいてのたうち回りながら,川沿いの家,命を飲み干したとはだれが想像できようか。津波で襲われたのが嘘のようである。しじみ漁を再開しているのか,二艘の小舟を見かけた。堤防伝いの沿道からは日本最大級の葦(あし)原の光景が目に入る。秋には,相当,葦が成長し,よしずなどに用いる。濃い緑色と1メートルほどに伸びている穂先を見て,自然のたくましさを感じた。津波でねじ曲げられても,粘り強い葦のように,東北人はしぶとく生きているのと似ている。本来は葦(あし)と呼ぶが,「悪し」を「よし(善し)」と変えて読んだ先人の知恵を思い浮かべながら,ドライブした。神戸で「『死』を考える」講座を始めた際,パスカルの有名な言葉「人間は考える葦である」をふと思い出した。

 今回の東日本大震災を,人間は葦としてどのように考えるかによって,国が残るか,滅びるか,大事な選択を迫られていよう。

 

 大川小学校付近 原田義彦氏撮影 5月3日

 平安時代初期の坂上田村麻呂蝦夷遠征の時から,川は時に流域の家屋を舐め尽くしてきた。だから,人柱,つまり人身御供として,村の若い娘を犠牲に捧げたりした悲話も残っている。石巻市の北に登米(とめ)市中田(なかだ)町朝水の北上川沿いに,お鶴明神という祠がある。自然の災害と1946年まで住民は闘ってきた。追波川の名前の由来についても諸説あるようだ。川の水を飲むとおっぱいが出るようになるとか。アイヌ語であるらしいという説もある。たとえば,雄勝町に続く女川町(おながわちょう)の名前は,アイヌ語で「onne-nay 大きくなる川」だそうな。水害による悲劇は大和民族の容赦ないアイヌ侵略の怨霊としか思えない。そのように歴史に刻まれていると考える向きもあるだろう。

大川小学校の悲劇

 今回もおびただしい惨劇が地域住民を襲った。新北上大橋の近くに来ると,様相が一変する。右岸にある道路が各所で崩落していたことがわかる。

 

 大川小学校 被災後

 大川小学校は,追波湾の河口から4キロ上流に位置する。追波湾から津波が襲ってきた。かろうじて生き残った武山詩織さん(10)は振り返る。「(歌の)2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。校内は停電。校舎の屋上は三角屋根である。先生たちは机の下に入った子どもたちを校庭の真ん中に避難させた。児童を座らせ,点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。一人も欠けないようにとか,「ウチの子は…」という車で迎えにくる親たちに対する配慮に手間取ったのだろう。避難と点呼だけなら5分くらいで,済ませたにちがいない。地震発生から約40分後,校庭に集まった教師,生徒たちは新北上大橋へ向かった。橋は堤防より5メートルほど高い。校舎の一番高い位置に相当する。約200メートルの死の行進であった。

 

新北上川大橋 原田義彦氏撮影 5月3日

 校舎の三つの時計は,3時37分で止まっている。全児童108人のうち7割の74人が死亡。教師も11人中一人しか助かっていない。チリ地震津波の場合,1道6県で児童生徒18人,教師1名,計19名の死者,負傷者3名を出しているにすぎない。裏山へ必死で逃げた教師は助かっている。山の茂みでケガをしながらも近くの男の子を救い出している。裏山は泥炭地であるだけでなく,雪もあり,足がつるつる滑るので児童たちには無理だったかもしれない。

 

大川小学校から新北上大橋へ

 東日本大震災の最大の惨事のひとつである。市役所の環境課の沼田氏が5月の連休の時,避難所に行くように指示した。石巻市河北総合センタービックバンに避難した地域の住民は今でも復旧を待ちわびている。橋付近には多くの消防車,隊員,警察官などが捜索活動に従事していた。遺体捜索は6月11日に打ち切られたと思っていたが,持続している。子を思う悲痛な親の気持が伝わってくる。2年生の大槻陽清(ようせい)君(8歳)を亡くした父清勝さん(35)と母由美さんは,今もその死を受け入れられないと記事で読んだことがある。遺体や遺品を捜しに遺族が絶えず訪れている。危険と判断しても,指示をちゃんと受けて,みんなで行動しないといけない気持が働いたのだろう。「和を尊ぶべし」という日本人の精神態度が裏目に出た例であろう。とっさの緊急な場面に遭遇しても,型にはまった手続きにこだわる傾向がある。八甲田山の悲劇もそうだが,組織より個を尊ぶ視点が必要ではなかっただろうか。

 現実に引き戻され,今回の聞き取り調査の重みがハンドルを回す手に伝わってきた。改修工事で新しくなったアスファルトの新しい道路を進む。砕石盛土,鉄板敷設ありとあらゆる手段で開通させている。破壊された家々と瓦礫との間を延々と進んで行く。 政府やメディアは「復興の道筋が見えた」かのようなムード作りをしているとしか思えない。牡鹿半島の散在する村落は復興にはほど遠い。見捨てられていると言えよう。

雄勝(おがつ)病院

 石巻市からほぼ1時間の距離にある雄勝町。目に入ったのは一面がれきの海。つぶれた公民館の屋上に観光バスが乗り上げる光景はそのままである。

 

  雄勝町公民館

 発生から110余日たつが,ひっくり返った家屋,小舟までが散乱していた。すさまじい破壊力である。石巻市全体の人口は16万2822人。2005年に雄勝町,牡鹿町,河南町,河北町,桃生町,北上町の6町を合併している。雄勝町の人口は約4300人程度である。4割がお年寄りである。死亡は156名と雄心苑の新庁舎で聞いた。石巻市役所支所(旧町役場伊勢畑地区)を左手に見ながら,車は向かう。国の伝統的工芸品「雄勝硯(すずり)」の産地として知られている。津波で流された雄勝石などの原石や製品の回収作業を進めている。市立雄勝病院(硯浜地区)は廃墟となっていた。入院していた患者の40人全員が津波の犠牲になったもようである。医師や看護師らの内,難を逃れたのは,裏山の高台に逃れた事務職員ら6人だけだった。64人が犠牲になった。鉄骨3階建てで高さ約15メートルある。敷地の標高は3.5メートだから18.5メートルの建物である。屋上に逃れた人たちも流されている。つまり,津波の高さは18メートル以上あったことになる。天井から垂れ下がった電線や倒れた棚、泥まみれになったレントゲン機材などが見える。医療のきめ細かさが先細りになっている。

 雄勝町には全国から各ボランティア団体も献身的に入っている。3月21日に,亀山市長は牡鹿半島を視察した際,「ほとんどの漁港が壊滅的被害を受けており,早急な復興は難しいが,地域住民の支え合いの姿に心を打たれた。全力を尽くして食と生活の場を提供していく」。「避難所と同時に自宅で生活している被災者への支援もしっかりと考えていきたい」と述べた(2)。人口16万人の石巻市にあって,日赤病院が孤軍奮闘している印象がある。雄勝の仮設支所内に日赤が救護班を設けている。町にあった個人医院もなくなった。診療の再開の見込みはたたない。医師にかかりっきりの患者や,持病のある人,体調に不安がある人々,高齢者は病院があり,福祉の整った石巻市中心部に移転せざるを得ない。高齢者に在宅介護サービスを提供している事業所も被害を受けた。介護サービスも途絶えた。高齢者やその家族は日に日に深刻な状況に追い込まれている。高齢化が進んだ過疎地で暮らす高齢者にとって深刻な影を落としている。つまり,被災地からの流出である。震災後,約1500人の町民が暮らしているにすぎない。仮設住宅も雄勝森林公園に32戸を準備しているが,約100人しか入ることができない。そんな中,「雄勝まごのて診療所」が5月29日,雄勝町水浜に開設された朗報もある。無医村と言ってもよい地区で立ち上げた石井直子医師の勇気に脱帽する。

 阿部氏によると,子供の人数はもともと少なくて雄勝町では60人以下ではないかと言う。
 小学校・中学を含めて4つの学校がある。いずれも雄勝町の16ある避難所として用いられていない。明治6年開校した雄勝小学校も,震災前に全校生徒91名いたが,壊滅であった。1階の半分は駐車場で空洞になっており,津波が来ても通り抜けられると想定していただろうに。しかし,3階建ての小学校の上に民家の屋根が載っかっている有り様である。一人の生徒は冷蔵庫に乗っかって逃げようとしたが,引き波でもまれているうちに,行方不明になった。
 過疎の地域に,今回の災害は町々の存続を危ぶませる。

 5分ほど走ると,雄勝町の明神地区の塩釜神社にさしかかった。鳥居や灯籠が倒されていた。さらに5分ほど行くと,小島地区。湾側の丘陵に特別養護老人ホーム雄心苑がある。震災後,雄勝病院の機能を移している。車もなくしてしまった人たちが雄心苑で診察を受けるには一日仕事となろう。雄心苑には7月5日以降,船越で会う予定の中村さんが消防団副団長として勤務する女川署雄勝出張所が同居する予定でもある。

 県道238号線の雄勝湾側の明神浜に出てから小滝浜を回り,大浜峠を越えて船越に入るコースである。明神地区の塩釜神社にさしかかると,鳥居や灯籠が倒されていた。70~80戸の明神地区も全部流されてしまい,山越えて,高台にある名振の避難所に一時間歩いていった。消防車にもたくさんの人々がしがみつき,ぶらさがり名振に逃げた。ところどころ道路は未整備である。路面のでこぼこでハンドルを握る手に汗がにじむ。道路の右側はすぐに雄勝湾。猫の額のように狭い土地に建てた家屋は原形をとどめていない。左側の山の斜面のわずかなスペースに建てた家々はがれきに変貌している。