追波川から牡鹿半島の被災地の学校を訪ねて (5)  

被災地便り 岩村義雄 11/07/04

 翌朝,女川原発の聞き取り調査のために,佐藤金一郎氏に同行してもらった。バレーボールの監督していた時に,教え子が原発に勤めているとのこと,しかし,連絡がとれなかった。

女川(おながわ)

 渡波町から,二人が同行,計4人で牡鹿半島に連日,向かう。万石浦の海岸を走っていく。養殖用種ガキの産地として知られる場所である。渡波,万石浦に面する奥の海は東西5キロ,南北3キロ,面積7.4キロ平方メートル。一番深いところで3メートル。潮干狩りや,カレイやメバルの保育場,牡蠣,海苔の養殖に適した湾である。3月の時,佐藤氏と自転車で石巻市を視察した際には,地盤沈下のために,道は冠水していた。今回は,排水ポンプと1.5メートルに積み上げられた盛り土によって,渡波湾の海水はせき止められている。台風や,ゲリラ豪雨であっても,浸水しなければと願う。石巻市は18機の発電機によって,1億円もの負担をしている。神戸国際支縁機構としては,日揮株式会社や日本国際協力センター(JICE)の協力を得て,サウジアラビアから545kWの三台を7月末に石巻市長に贈呈できるように橋渡しができた。地域に貢献することは,産業を復活させ,雇用につながることでもあろう。

 

 渡波湾 7月4日撮影

 国道R398→女川原発方面に向かう。石巻市には属さない女川町の街並みが視界に入ってきた。人口は9,965人 面積は65.79km2。

女川町 どこが入口かわからない家屋。ビルがひっくりかえっている。 7月4日撮影。

     女川町全景 震災後(左) と 震災前(右)

 女川原子力発電所(Onagawa Nuclear Power Plant)は東北電力(Tohoku Erectric Power)でもっとも古い発電所である。東北電力が女川を原発候補地と正式に発表したのは1967年であった。1969年,北側の雄勝町の漁協を中心に反対運動が起こった。雄勝・女川・牡鹿の三町の反対派漁民は「女川原子力発電所設置反対三町期成同盟会」を結成し,地元の女川町漁協も足並みをそろえて反対ののろしを上げた。

 

 近隣の地域の激しい反対運動により,女川原発建設着工は10年遅延した。1978年,当初認めなかった女川漁協はついに同意に応じた。続いて,翌年,隣接する牡鹿町寄磯浜の寄磯・前浜漁協も原発建設を認めるようになった。ようやく女川原発は建設に着工した。5年後の1984年に第一号機の営業運転を開始した。地元住民の反対意見も電力会社の積極的な経済支援の包囲網に腰砕けになっていった。牡鹿半島の過疎,高齢化,少子化の問題に苦しむ地域は,財政豊かな女川町に合併されことを願うように変わっていった。しかし,2005年に雄勝町に併合され,石巻市に統合されていった。
 今回,船越,名振,鮫浦(さめのうら), 大谷川(おおやがわ), 谷川(やがわ), 祝浜(いわいはま),大原,小網倉,小積浜,萩浜,月浦,桃浦などを訪問する。

 3月11日,震度計は震度6弱を観測。1~3号機とも自動停止。その後1号機のタービン建屋の地下1階で火災が発生したが,同日22時55分に鎮火が確認された。女川町独自の放射線測定モニターはすぐに使い物にならなくなった。7台あったモニターのうち4台は津波で破壊され,3台は停電で動かなくなった。住民は,東北電力の発表以外に自分たちで放射能測定の術を失った。
 3月13日,女川原発敷地内で21マイクロシーベルト/時の放射線が検出されたことが報じられた。女川原発の原子炉は地震後すべて自動停止し冷温停止と呼ばれる安全な状態であったことから,原子力安全・保安院は,検出された放射線は福島第1原発の爆発で放出されたものとの見解を示した。

1号機        → 1号機地下で火災。
原子炉型式:沸騰水型軽水炉
運転開始:1984年6月1日
定格電気出力:52.4万キロワット

2号機        → 2号機地下は原子炉補機冷却水系のB系に浸水。
原子炉型式:沸騰水型軽水炉
運転開始:1995年7月28日
定格電気出力:82.5万キロワット
2006年5月 配管が減肉によって穴が開いているのが確認される。
2006年6月7日 保安院、配管肉厚管理の再徹底を求める。
2006年7月7日 経済産業省原子力安全・保安院は、原発の品質保証体制が充分機能していないとして総点検を指示した。
2007年10月12日 厚さ約7.1ミリのステンレス製配管に縦約11ミリ、横約9ミリの穴を確認した。

3号機
原子炉型式:沸騰水型軽水炉
運転開始:2002年1月30日
定格電気出力:82.5万キロワット
2006年7月7日 配管減肉予想による点検のため運転停止。
2006年 11月25日 再稼動開始
2015年度までに、プルサーマルを実施する事を目指している。

 女川原発は町中心部から海岸沿いの道を25分(約17キロ)進んだところにある。1984年から運転が始まった。平素,『原発は安全』神話をすり込んできた影響だろう。3月11日以降,女川の住民は,避難所として,発電所内に逃れることができた。一方,フクシマ原発の場合,住民に発電所から20㎞は避難するようにという指示とは対照的である。しかし,女川発電所内にある体育館に避難している人々に面会することもできない。水産加工業に携わる女川町の60代の男性は「町の中心部に向かう道が地震で通れなくなり、ここに避難するしかなかった。頑丈に作られているから安全たし…」と話す(産経新聞 2011年3月26日)。女川町飯子浜地区や小屋取・塚浜地区の住民は,道路寸断のために町の中心部に行けない。したがって,発電所に行かざるを得なかった。原発まで1キロほど手前にある「女川原子力PRセンター」周辺に被災者たちが集まってきた。PRセンターは電源が故障し,照明も暖房もない。「地域の人が困っているなら」との渡部孝男所長(58)の決断であった。(読売新聞 2011年5月2日)。所長は上部に相談することなく,受け入れを決断した。バスに住民を乗せて,発電所内の体育館に搬送した。普段は社員の集会などに使われる女川原発の敷地内にある体育館である。「津波により孤立した周辺の被災者を人道上の措置として発電所内に受け入れた。発電所内の避難者数は最大で,約360名となったそうな。しかし,報道関係者にゲートをくぐらせなかった。マスコミ関係者も,片づけなどで原発と自宅を往復している避難者に話を聞くのがせいぜいだった。5月末には30人程度に減少。女川町の18人,石巻市の4人の計22人が6月6日までの88日間残った。

 東北電力女川原子力発電所正面ゲートの前ですべての車両は停止させられた。審問が始まる。厳重なチェックである。外交のない国の国境線で体験する緊迫した空気がある。厳しい警戒網をだれひとりくぐり抜けることがない。車両はすべて金属探知機でさぐられる。佐藤氏は警備担当者の心証を悪くしてはまずいと身分とか,粘り強く交渉すること,約半時間。結局,門前払いである。地元の人ですら,相手にもされない。支援団体の入所は,社協を通すと許可がおりるそうな。もちろん,火気厳禁のため,中では,炊き出しなどできない。 PRセンターに行けばよいという発電所の管理官の指示が出た。そこは震災以降,閉門だが,一部を案内するという寛大な配慮(?)である。途中,「なくせ 原発 事故で止まるか みんなで止めるか」の看板が目にとまる。20数年前も,現在も変わらない説得力ではないかと,運転しながら考えさせられた。

 

 名振の村民すべてや,周辺の地域の人たちは,老いも若きも反対運動をしていたしるしがあちらこちらに残っている。約10分ほどで広報センター「女川原子力PRセンター」に着いた。会館は3月11日以降,閉鎖していた。原発ゲートで佐藤氏が交渉したせいか,建物の外ではあるが,門扉が開かれた。

3月11日以降閉鎖       PRセンター内部を撮影 7月4日

 施設は建物に亀裂が入っており,危険だという説明があった。展示室には,原子炉の模型・発電所模型・放射線について・安全対策・必然性・映像シアターなどがあったことが,ガラス越しに見える。立派なギャラリーだったにちがいない。外から施設の中をのぞき込むが,なんら損傷はない。閉鎖の理由は「安全性を模型等でわかりやすく紹介」というセンターの目的がもろくも崩れ去ったせいではないだろうか。職員は屋外ふれあいゾーン,約220本の果樹園からなるスイートガーデンを案内してくれた。テラスから10キロメートル離れた原発の建屋の一部が見える展望台。庭の“ニュートンのリンゴの木”が印象に残った。科学者の父と言われるニュートンと結び付けたアイデア。りんご園の緑がなんか白々しい。PRセンターでは,原発について「多重防護システム」「5重保護」を謳っていただろう。たとえば,安全性については,次のように述べていた。“原子力発電所は,基本的に放射性物質を閉じ込める構造となっています。そのうえで,「多重防護」の考え方を採用しています。この考え方は,まず「異常の発生を防止する」,次に「異常が発生した場合には早期に検知し,事故に至らないよう異常の拡大を防止する」,そして「万が一,事故に発展した場合でも,その拡大を防止し,影響を低減させる」これら3つのレベルで対策を講じています。”“絶対安全な原子力発電所”“頑丈に作られているから安全だ”という説明が絵空事だと思うと空しい。

 女川原発の所長がとった「人道的措置」については是々非々で論じなければならない。昨日の名振や船越の村民のコミュニティの絆,同じように,所長や避難者の絆も美しい。阿部志郎氏が神戸で賀川豊彦献身100年記念神戸プロジェクトの会合で話した美談がよぎった。
 有馬四郎助[しろすけ 1864-1934]という刑務官がいた。関東大震災[1923(大正12)]の時,東京都足立区の小菅(こすげ)刑務所 [現東京拘置所]の所長をしていた。1200人の受刑者は食堂に集まって,昼のカレーライスを食べる号令を待っている時に,震災にあい,庭に逃げ出した。建物も刑務所を取り囲む3メートルの塀も崩れた。逃げる絶好のチャンス。みんな逃げようとしているときどこからともなく声がした。「有馬の顔をつぶすな」。お互い声をかけあって逃げなかった。みんながこん棒などをもって「怪しいやつはいれるな」と刑務所を守った。普通,受刑者は番号で呼ばれるが、有馬は固有名詞にさんをつけて呼んだそうだ。「○○さん」「はい」のように。逃げたらそんな所長に迷惑がかかる。とうとう一人も逃亡者をださなかったというエピソードを生んだ。刑務所でひとつのコミュニティーが生まれていたのだった(12)。そんなコミュニティを女川原発所長は造ったからこそ,避難所の人はなんの苦情らしきことも外にもらしていないのではないだろうか。

 東北電力は地元の小学校に,出前講座を繰り広げている。5,6年生には,手回し発電機づくりでエナメル線を80回巻くように教えたりする。また東北電力PR館訪問を小学生たちに浸透させる。発電の仕組みについてわかりやすく説明する。「三つ子の魂百まで」式に原発安全神話をマインドコントロールしてきた。ところが,今回のフクシマ原発の実態は,女川町民はじめ津波で被災された地域の人たちに『原発の危険性』に目ざめさせたにちがいない。