牡鹿半島 聞き取り調査 (4)  牡鹿半島歴史 鮎川

被災地便り ④ 岩村義雄 11/07/02

(4) 大企業が退却した過疎の集落
 a. 牡鹿半島の地勢, 歴史的由来

 牡鹿半島の東南東約130km付近(三陸沖)の深さ約24kmを震源として発生した。三陸400キロの中で最も地震の震源地に近かった。陸奥・陸中・陸前の3つの「陸」にまたがっている地域を三陸と言う。
 海釣りの釣り人たちを癒す風光明媚な海岸が続く。訪れた人は旅情により,とりこになる。海と緑に包まれた海岸で余生を過ごしたいと願わせる景勝地である。牡鹿半島は,約40キロにわたるリアス式の半島沿岸地帯に津波が容赦なく襲いかかった。牡鹿半島では陸地が東側に5.2メートル動いた。沈降も1.1メートルに及んだ。(朝日新聞 2011年3月16日付)。散在する集落の多くは無人化してしまった。震災後にヘリコプターで支援物資を投下する報道があったりした。しかし,被災地の避難者は忘れられていた。

 東日本大震災直後の宮城県県警の発表は次のようである。“牡鹿半島の浜に1000体の遺体”(読売新聞 2011年3月14日付)。しかし,牡鹿半島の最大の被害を被った雄勝町だけでも死者は156名にしかすぎない。陸の孤島であったため,情報も混乱していた。

 牡鹿半島東岸 7月4日撮影。

 沖合いは黒潮と親潮がぶつかり合う良漁場であった。カツオやサンマなどの主漁場である。沿岸でも,牡蠣,ホタテ,ワカメ,ホヤ,ウニなど豊富な海産物を産してきた。同行した阿部捷一氏は興味深い話をした。「サルは,冬の荒波も恐れず,磯のフノリを採る」と聞いた。泳げないサルが海に入って,海藻を食べるとは。続いて,こんな話題も始めて聞かされた。「海から這い上がったタコが大根畑に,侵入し大根を畑から引っこ抜いて,海へと運ぶ」そうな。明石の近くに住んでいるが,タコが大根を食べるなんて,一度も耳にしたことがなかった。牡鹿半島の自然の営みに興味をもった。
 牡鹿の歴史は,平21年(749年)2月第15代聖武天皇の時代にさかのぼる。当時,中国や朝鮮半島では金は建造物や,装身具などに用いられていた。一方,日本には黄金がぜんぜんない時代である。牡鹿半島の先端にある金華山は江戸時代まで,日本最初の黄金産出の地として知られていた。660年に百済は滅亡。同盟国である日本に朝鮮半島から多くの人々が渡来した。日本に亡命した百済王族の子孫である百済敬福[きょうふく 697-766]は多くの技術者を伴ってきた。砂金方法も日本に入ってきた。天皇は帰化人を厚遇した。当時東大寺の大仏建立にあたり,塗金に用いる黄金の入手に百済敬福は貢献した。マルコポーロの「東方見聞録」の黄金の国の根拠になっている。

 すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く。(大伴家持『萬葉集』巻18 4097)。
 大仏に貢献して以降,みちのく山と呼ばれていた秀麗な島は,金花山,または金華山と呼ばれるようになった。
 牡鹿半島の名前の由来は,日本初の黄金を産出したことで有名な金華山に棲息した「鹿」から取られたという説がある。推定3000~5000頭のシカが生息している。宮城県には,鹿のつく地名が多い。牡鹿半島,鹿妻(かづま 渡波の隣町),鹿又(かのまた),鹿折(ししおり),鹿島台(かしまだい)など。また,登米市には,「鹿ヶ城(しかがじょう)」と呼ばれていた佐沼城がある。アイヌでは,鹿を神事で用いる。アイヌは鹿の豊猟をカムイに祈っていた。中学校の受験問題でよく出題される問題がある。「男鹿半島」と「牡鹿半島」どっちが「おしか?」 である。3月に石巻に行った時,東北なまりの“お○○半島”と耳にした時,秋田県の被害についての話しだと思い込んでいた。佐藤晴美さんから「男鹿(おが)半島ではなく,牡鹿半島のことですよ」と指摘され,顔から火が出るような思いをしたことがあった。
 明治以降は,宮城県遠田郡涌谷町(とおだぐんわくやちょう)の黄金山神社こそが日本最初の黄金の産地と言われている。石巻市から約40分離れている。遠田郡涌谷町には,「天平ろまん館」がある。施設は観光の名所になっている。百済の都扶餘(ぷよ)で出土した香炉や百済王の礼服を復元して展示いる。どちらが本当の日本最初の黄金の産地がわからない。イスラエルの首都エルサレムに,イエス・キリストの埋葬場所が何カ所かあったりするのと似ていよう。極東の日本にもキリストの墓があるという説もある。十和田湖畔の青森県十和利山(戸来岳 へらいだけ)にキリストの墓があると言う。
 源義経[1159-1189]がモンゴルのチンギス・カン[1155~1162-1227]になったという説もある。小谷部全一郎[おやべ 1868-1941]という牧師が広めた説である。またムーディ聖書学院に学んだ牧師酒井勝軍[かつとき 1874-1940]も日ユ同祖論者,オカルティスト,「日本のピラミッド」発見者である。プロテスタント福音派のリバイバル運動に源流になった中田重治[1870-1939]牧師は「日本には,太古にユダヤ人が渡来し,彼らと原住民との混血によって今日の日本人が生まれた。キリスト統治の千年王国のひな型として日本は今日まで連綿と続いてきた。これは神の摂理である。したがって,日本人には,神の選民であるユダヤ人を支援し,ユダヤ人国家樹立を成し遂げるべき民族的使命が神から与えられている」と唱えた。キリスト教が日本になかなか土着化しないために,推理小説のような空想を考え出したのだろう(7)。キリスト者にとってはロマンがある荒唐無稽な発想はどちらかと言えば,東北に端を発することが多い。なぜだろうか。今回,牡鹿半島を巡って,気付かされた。東北はずっと多民族,多文化であったからではないだろうか。
 もともと東北の原住民はアイヌである。日本を黄金の国と呼ばしめたのは東北に住みついた朝鮮からの渡来人の技術,汗の結晶であろう。日本が単一民族であるなどと,伊達正宗は信じていなかっただろうに。科学的にも日本人のルーツは単一とは言えない。大陸,朝鮮半島などから移り住んできたことがDNAによって証明されている(8)。

 b. 捕鯨基地として栄える

 牡鹿半島周辺は,世界三大漁場のひとつである。かつて日本有数の捕鯨基地として栄えた。牡鹿半島の鮎川浜には,「おしかホエールランド」がある。日本でただひとつ「クジラ」をテーマにした体験できる展示館があった。石巻市からはバスで約1時間半かかる。旧大洋漁業工場跡地に建設された。1階では,3つの展示室でクジラの生態や捕鯨の歴史を説明。2階では捕鯨の迫力の映像を見せる。屋外には日本最大の捕鯨船(キャッチャーボート)「第十六利丸(としまる 全長68.37メートル)」が陸揚げされ保存されていた。総工費は19億円余かかった。内,12億円は起債に依存した。女川町の原発交付金の対象にはなっていない。1992年着工し,翌年完成した全長約350メートルの「ホエールロード」も町民の自慢である。整備費用は約 2億2000万円を要した。鮎川の貴重な観光収入源であった展示館,街並みは津波により,壊滅した。
 さて,捕鯨基地として振るった鮎川は,今回の東日本大震災により鯨産業が斜陽になったのではない。1996年にIWC国際捕鯨委員会で配布された、茂木紀行氏の「捕鯨の町の未来のために~捕鯨産業に蹂躙された町、鮎川~」によると次のようである(9)。
 鮎川は明治中期まで55戸ほどの寒村にすぎなかった。しかし,捕鯨会社の進出により,一躍,労働者がたくさん流れ込んできた。鮎川の漁民たちは,自力で生計を営み,未来へ継承していく道を方向転換していった。大企業に依存する体質に無批判であった。「定置網思考」という落とし穴に気付かなかったとほぞをかむ漁師たちもいた。定置網は海に網を張って,ただ待つという漁法である。村に「産業が来るのを待ち,自らは積極的に動かない」風潮を自虐的につぶやいた。明治から昭和にかけての激動の時代に,経済面で自らの手で,開拓し,将来へ挑戦する気概を持ち合わせなかった。今日も食品商社として優良企業である巨大資本のマルハ,ニッスイなどが進出してきた。大資本である大洋漁業・日本水産・極洋捕鯨の傘下に収まることで安心感を得たわけである。当時日本国内には捕鯨会社は12社あった。そのうち9社までが牡鹿半島内に事業所を構えるようになっていた。時代の申し子である捕鯨産業によって,収入は潤沢になり,牡鹿半島全体は繁栄を享受したのである。したがって,鮎川浜の経済構造は大資本に依存することにより,漁民が大企業の社員と転向し,サラリーマン化した。海で生きてきた男たちは,自分で舟を所有し,沖に出て漁をする形態から,会社の給料によって生活していくようになった。海のしけを読み取る長年の勘や,潮の流れを認知,判断する識別力,網を修理する技術なども無用の長物になってしまった。企業への忠誠心だけが報酬を増やすバロメーターになった。よそからの流入者も増えるに従って,村の人々と共生していく意識にも変化が生じてきた。コミュニティの団結の絆や,地域の伝統,文化を守る習慣が損なわれ始めていく傾向があった。住人は加工業者や雇用労働者が満ちあふれるようになった。 「大正11年から13年(1922~4) にかけて機船底引き網漁業を経営したものが三人程現れたが鮫延縄(はえなわ)と同様に捕鯨業の根拠地となった鮎川浜では消滅の道をたどる他は無かった。かくして沿岸漁業の内部より分化成長した沖合、遠洋漁業の萌芽は鮎川浜においては開花することなく戦後を迎えることになるのである」(10)。

    無動   3t    3~  5~  10~  50~  100t
    力船  未満  5t   10t   30t   100t  以上
   ——————————————————————————————
鮎川   43    2    19    3    18    4     17
                                  (農林漁業基本調査)
※100t以上の17隻はいずれも大型捕鯨船であった。

c. 大企業の撤退から過疎へ

 1887年(明治20年),鮎川は人口わずか 332人の小さな漁村であった。捕鯨技術をもっている人は一人もいなかった。北太平洋での捕鯨は最初,アメリカが始めた。鯨油が目的であった。サンフランシスコやハワイからやって来た捕鯨船が小笠原諸島の父島を無断で補給基地としていた。付近一帯で大々的な捕鯨活動を展開した。ジョン万次郎[1827-1898]は,鎖国の時,漁で嵐に遭い,漂流した。アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救われた。つまり,捕鯨の文化は何も日本の専売特許ではなかった。
 鮎川浜の捕鯨会社9社の内,設立は鮎川の地場資本によるものもあった。しかし,利益は地元に落ちることはなかった。むしろ,石巻市など輸送,倉庫,販売の有利な地に流出していた。1939年(昭和14年),牡鹿半島の北東側のつけねにあたる女川まで石巻から鉄道が延びた。「昭和14年10月,女川線は開通した。

 渡波~女川駅 廃線  3月21日 撮影

 鮎川浜はそれによって一層捕鯨に傾斜せざるを得なくなったが,その危険性を知る者は少なく,たとえ知っていても最早如何ともすることは出来ない時の流れであったろう」(「牡鹿町史」)。
 捕鯨船のサポートや鯨肥産業などの大資本に対する下請けの産業は生まれ,育ったかに見えていた。しかし,ベンチャービジネスで起こした資本家は,利益が生じると,石巻市街地などの不動産や個人の住居に充て,必ずしも鮎川浜の地元の潤いに貢献しようとはしなかった。1950年,大洋漁業・日本水産・極洋捕鯨の三大企業の内,まず日本水産の事業所が輸送に立地条件の良い女川に移転した。鮎川では移転に反対する請願を行なった。だが,移転を食い止めることはできなかった。やがて,大資本が一斉に鮎川浜から撤退していく。いわば,「定置網思考」の負の部分が吹き出てきた。村落の経済は大打撃を被る。鮎川からの資本の流出の勢いはだれにも止めることはできなかった。捕鯨の全盛期である1970年代を迎える前に,鮎川浜は1960年代より,すでに人口の減少が始まりだした。いわゆる過疎である。1992~1993年漁期での遠洋捕鯨(調査捕鯨)従事者数は宮城県全体で36名。牡鹿郡では10名と激減している。

<漁船の内訳/1988年>
                                                                                    定置網  海面養殖
                 1t    1~  3~  5~  10~  30~  100t
                未満  3t    5t   10t   30t   100t   以上
     ————————————————————————————————————————————————–
   牡鹿      175   47   27    44      55     3       0     29       216
                                                                                                       (第8次漁業センサス)

<牡鹿町の人口>
                  年次    1960    1965     1970   1975   1980   1985   1990
     ———————————————————————————————————————————
                  人口   13405  11974    10581   9535  8450  7814   6773
                                                                                                (1990年国勢調査より作成)

 地場産業を見捨てて,大企業を導入し,資本によって,地域の復興を遂げようとする時,慎重でなければならない。景気の動向によって,大企業が撤退すれば,過疎の深刻な問題だけが残ってしまうだろう。
 名振,船越,鮫浦,谷川,大原浜,萩浜,月浦,桃浦などの復興の鍵は漁業の復活である。津波により大きな打撃を受けた水産業界の活性化はどうしたらよいだろうか。震災で宮城県水産業全体の被害額は6月26日の時点で,6,228億円に達している。特に,養殖施設の流出被害は187億円[約57,000ヶ所]である。石巻市の44漁港被害額は1580億円である。
 5月10日に,宮城県の村井嘉浩知事は「水産特区」という構想を打ち出した。東日本大震災の復興という大義名分で,大企業が漁業権を獲得しやすくなる「水産業復興特区」構想である。もともとは経団連のシンクタンク日本経済調査協議会が言い出した。高木勇樹氏という弱者切り捨ての経済優先主義者が率いている。菅首相の私的諮問機関「東日本大震災復興構想会議」(議長・五百旗頭真防衛大学校長)も5月23日に「水産特区」を推し進めることになった。陸上自衛隊,松下政経塾出身の村井知事は「水産特区」を政府などに強く働きかけた。宮城県の「復興会議」には,野村総研顧問や三菱総合研究所理事長らを含めて,「委員12人のうち県内在住者はわずか2人」(河北新報4月18日付)である。宮城県ではなく,東京で,首都圏在住者による宮城県復興会議を開いている。「水産特区」とは,儲け第一の経済理念である。水産業に民間企業を導入しようとする。高齢化,漁船,漁具などの全壊からの復興のために大なたを振るおうとする。漁師たちは猛反対である。水産業に民間企業が加わることは牡鹿半島の沿岸漁民にとってはとんでもないことである。
 名振に訪問している7月3日,午後1時半から石巻専修大学で『水産特区・漁業権をめぐる問題』でのシンポジウムが開かれていた。県内から約400人が参加。「地元主体の復興を進め,漁業の秩序を壊す水産特区を撤回させよう」とのアピールを採択した。
http://blog.canpan.info/miyagikenmin/img/20/110703.pdf

 「わたしたちは,先祖からひきついだ海をまもるということでやってきた。漁場を守ることは環境を守ることでもある。そのために,稚魚の放流や藻場を育てることもやっている。漁業規制はあるが,それだけでなく,たとえば10センチ以下の魚をとらないというところを15センチ以下はとらないなど,自分たちで自主規制をやって魚を枯(か)らさないように,漁場資源を守る努力をしている。企業はそんなことはしない。企業が来れば,規制などおかまいなしにとるだけとって,漁獲がなくなるとさっさと漁場から手を引くのは目に見えている。」と憤懣やる方のない怒りをあらわにして,地元の漁民たちは叫んでいる。

 午後4時に,石巻市役所で,亀山紘市長に表敬訪問。日曜日の休日を返上して,復興に努力している市の職員たち,今野一秘書,狩野之義氏たちも市民に尽くしている。市長語録を通して,牡鹿半島の浜の産業,住宅問題,学校について励まされた。1時間以上にわたって対談したにもかかわらず,市長の表情にはなんら疲れを覚えることがなかった。神戸からの一行を迎え入れてくださった態度には,石巻市の将来の復校への確かな鎚音が聞こえていた。

石巻市長との対談続く。

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