被災地便り②  聞き取り調査 岩村義雄

石巻市立船越小学校 雄勝町船越 2011年7月3日

 石巻市立船越小学校 地図 『東日本大震災復興支援地図』(昭文社 2011年 17頁)

 山を越えないと訪れることができないため,訪問者も少ない。切り立った山から谷に下りていくと,細い道があり,狭い湾が見えてくる。入り江に位置する集落が船越である。手前に要塞のように船越小学校が建っている。坂の途中,当時船越の消防団団長であった中村一成氏(63歳 雄心苑の現在女川署雄勝出張所副団長)ご夫婦が私たち一行を待っていた。二階建ての自宅は山腹の傾斜面にあったが,ぐしゃぐしゃであった。

 

  中村一成氏宅

 3月11日,朝は穏やかな波であり,だれが不吉な前兆を感じただろうか。地震発生時は,中村さん夫婦は日赤病院で父親の手術の立ち会いのため,不在であった。二日後,真野の峠から徒歩で数時間かけて船越に戻ってきた。避難した娘と会えるのに一週間かかった。350人の集落で犠牲となったのは9名。6人は遺体で見つかった。行方不明3名。多くの方は助かった。大川小学校を通って来ただけに,よく児童たちにひとりも犠牲者がいなかったなあと安堵した。船越小学校も明治6年開校,1993年に分校の三つを統合してできた近代的な小学校である。阿部捷一氏はちょうど統合の年に校長として勤務していた。中村さんは当時PTAの会長をしていた。

 地震の警報から約40分後,第一波が襲った。湾に面している水産加工場などはまたたくまに視界から消えた。

 

船越湾を背景に 中里孝一氏 7月3日

 中里孝一さん(55歳 船越消防団班長,元雄勝町PTA会長)は船越小学校で,言葉をかみしめるように被災時の状況を説明した。

 

  船越小 校門          玄関           船越小学校 校歌

 勢いある黒い波は学校の校庭で蛇がとぐろを巻くように爆音を立てながら力をためてから,谷を一気に上ろうとする。「『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」と先生たちが子どもたちに叫んだ。第一波が引いた時,「山さ上がれ」。迅速に対応したため,全校生16名は全員助かった。中里さんの案内で各教室を阿部元校長,新免氏と共に回る。おびただしいがれきやドロがあったことがわかる。一階の校長室には,歴代の校長の写真のほとんどが流失していた。阿部氏の写真は残っていた。

 

 船越小校長室  7月3日    教室から見た村        校庭

 二階のフロア,各教室もぜんぶ津波の洗礼を受けた。二階の時計は3時26分で止まっていた。体育館の天井近くの窓も20メートルを超える津波で全壊。お手洗い,視聴覚室,各教室,備品も散乱している。

 

  船越小学校各教室                      アルバム

 学校のプールに二つの家が運び込まれた。小学校も地域の人々の避難所にならなかった。3階で生活するにも階段,床,窓などを考えると凍死してしまうだろう。

 

 船越小視聴覚室            廊下天井             便所

 中里さんは証言する。男の子三人を育てる中で,奥さんと息子たちが下宿している石巻の実家に帰っていた。地震が発生。息子と家族全部が石巻市街地にいたために助かった。独りで車を運転し,船越に戻る直前に津波が堤防を覆っていた。間一髪で車ごと海の藻屑になるところだった。自分が生きながらえた恩寵を恩返しするために地域に貢献する志は中村氏と同じ動機である。船越に着くやいなや,湾から逃げて,よじ登ってくる人々を引っ張り上げた。船越の住民の60%が70歳以上と聞いた。店を経営していた年配の人と娘さんの二人が亡くなった。高齢のため,自力で歩けない人もいた。隣近所で声を掛け合った。津波の引き潮の機会をとらえて,背中が丸くなっている90歳のお年寄りをおんぶして,高台に逃れた若者もいる。全員が助け合いながら避難した。逃げ足の遅い人たちは高台の家に避難しようとする。「後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が,縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた」と生き残った者は言う。家屋が全壊したことに比較して,命を亡くした割合は少なかった。なぜだろうか。海に生きる人たちの生活は自然に向かい合っており,常に畏怖の念をもって代々生きてきたせいもあるだろう。一方,都会で生きる人々は自分たちが造り挙げた工学,テクノクラート,防災構造に自負している面があろう。自然から学び,共に生き,昔から度重なる天災と闘ってきた。謙虚さが命の大被害につながらなかったのではないだろうか。

 震災後,人口は330人~350人いたのが,15人に,135~140戸の集落だった。残ったのはわずか5戸だけになった。そのうち4戸は山に亀裂があるため,避難勧告が出でいる。残る1戸も避難指示が出る予定だという伝聞がある。したがって,船越の村落の住居は全滅と言っても過言ではない。仮設住宅のスペースもない。やおら石巻市街地や,親戚などに身を寄せざるを得ない。あるいは,他の避難所や仮設住宅に移ったり,アパートを借りたりして今はほんの数家族が残っているだけだ(3)。
 船越小学校は全校児童14名,雄勝小学校は32名は,石巻北高校の分校である「飯野川高校」を間借りして,4月22日から遅い入学式,授業を始めた。船越から約15km離れている。その高校は2010年3月末に廃校になっている。生徒数が定員の3分の2未満で,かつ160人に満たない状態が2年連続となったため閉鎖した。過疎の波がすでに襲っていた。同高の近くに,大川小学校がある。同小の保護者の多くが,近くの避難所「河北総合センター(ビッグバン)」に身を寄せていた。遺体の収容場所である同校の体育館脇の小部屋には,遺体の特徴が書かれた白い紙が張り出されていた。《6歳ぐらい。洗濯タグに『カオル』の文字》 「違うよね……」。張り紙の前でひそひそ声が漏れる。早く見つけてあげたいけれど,どこかで生きているという望みを絶たれるのは怖い―。 小雨がちらつく体育館脇で,男性が語った。「精神的にも肉体的にも,ここは限界でねぇの。夜中にいきなり叫ぶ人もいるし,泣き出す人も……」(朝日新聞 2011年4月22日)。
 河北飯野体育研修センターの施設管理者が許可すれば,各宗派の読経,追悼行為を行なうことができる(4)。

 津波はものすごいエネルギーで大量のがれきや土砂を伴いながら防波堤に行ったり来たりした。その結果,海底の生態系を変え,日光を遮り,海藻を枯らしてしまう。昼間になると,村民は生まれ育った地に戻ってくる。2,3時間かかったとしても避難所や仮設住宅から通ってくる。瓦礫や車の撤去,漁具の回収,学校の掃除など,復興作業をするためである。150隻の内,3隻だけ運良く流れて残っていた。中里さんも刺し網漁に使っていた「第7孝丸」(4.8トン)など所有する3隻を失った。「商船にでも乗って稼げば楽になる」。一時は廃業も考えた。浜にたった1台だけ残ったワカメのボイル釜。ボランティア団体サケなども京都から足を運び,再建のための建築家も招き入れ,ワカメの茎とり作業も手伝ったり,全面的に支援している。2ヵ月以上,海に出ていなかった。

 天然ワカメの収穫に着手。6日,雄勝町東部支所の有志「ホダデ協業部会」の10人のメンバーも参加する。津波で残った舟と漁具に協働で取り組む。小船2隻に6人が分乗し,港周辺の磯場に出漁。約4メートルもある柄付きの鎌で海中のワカメを刈り取る。津波の影響だろうか,海水の透明度は低い。波も高い。にもかかわらず,約半時間で500キログラムのワカメを収穫。ボイル釜で湯通しをし,瓦礫を片付けた学校で塩蔵処理をする。翌日,出荷作業ができた。同時に,天然ワカメの旬が終わる6月末まで5隻で漁を続けた。日に4~5トンの収穫を目指した。を本格化させる。

 

 「津波に負けなかった!わーっかめ」という商品名で10日は展示販売した。潮流の関係で,今の時期に収穫しておく必要もあった。

 被災地域で人々が再び生活をするためには,学校,病院,産業,ヴィジョンが必要であろう。ヒアリングをしていて痛感した。