水没した石巻市渡波町

神戸からの恩返し

被災地便り①                        3月21日  

 仙台市太白区学校へ支援物資 3月21日

3月20日(日)午後4時半,キリスト教会の午拝が終わる。教会を出て,信者たちと支援対策本部に分乗して向かう。着くやいなや英語教室の教え子たち,団地の人々,垂水朝祷会の小野久義さんをはじめ多くの方々が積み込みのための仕分け作業を開始した。

代表には,現地からの物資運搬の依頼がひきこもごも入ってくる。たとえば,岩手県,宮城県の病院には医療資材が届かないから,神戸からの部隊に便乗させてとの懇願などである。すでに,神戸からの若者の東北支援の情報は現地では知られている。仙台放送も現地で同行したいとの緊急依頼もあったりした。
4㌧トラックはカバー付きなので,雨天の中,自転車などの積み込み作業もはかどった。団地の理事長永野真治氏や,中学生たちも協力してくれた。柿本人麻呂神社の岩林修神主夫婦も米,燃料,水などの搬入に汗を流した。石鹸の水野工場長夫婦や,8人乗りバンの所有者在日中国人林氏も見送りに加わり,5人の若者に,被災地の人々の苦しみを共有するようにと語った。

名神高速道路の養老でトラック,二台のバンを満タンにする。一般車両は長蛇の列に並び,10リットルの制限に対し,緊急車両用の列はすぐに給油をしてくれるばかりか,10リットル制限はない。東名高速道路を経て,川口パーキングにて,朝食を取る。そこで医療物資を受け取る。神戸国際支縁機構の事務局長のバンは神戸へ引き返す。トラックとバンで福島県郡山へ一路向かう。

石巻市役所 3月21日撮影

仙台市に着くと,李 志世君は学校に慰問に物資を運ぶと学友と久しぶりに再会。代表も,2008年に,日朝友好兵庫県民の会で平壌に訪問した際,取材に来ていた記者と再会するとは思いもよらなかった。作家の金 纓氏ともお会いしたところ,コンビニエンスストアは一日にわずかな時間だけ開店するのを待つ行列があり,ライフラインがない方たちのストレスはたまっていると話された。昆虫少年であった代表は蝶友の家にボランティアのお手洗いを借りに行った際,そこの御両親から食べ物をいただいた。「仙台キリスト教連合」議長の吉田隆牧師から,被災地への救援物資などについて情報を入手した。若林区で宿泊しようと空き地を見つけたところ,一本木カトリック教会の駐車場に停泊してもよいことになった。修道会の方々の親切な応対に若者たちは頭が下がる思いだと感心していた。皆は支援しに来たのか,支援されに来たのかと,反省の弁が出てきた。

避難所は6県で約2000ある。阪神淡路大震災の時より,だんぜん多い。死者・行方不明は6437人と負傷者は4万3792人であったのに対し,19日現在,死者が7653人,行方不明者は1万1700人を超えている。避難所で生活する人は36万人と言われている。宮城県南三陸町では,人口1万7300人の内,安否不明者9500人以上である。リアス式沿岸の風光明媚な人口1万9000人の山田町と大槌町では大半の住民の所在がわからない。岩手県でも避難所は285ヶ所あるが,1ヶ所で1000人を超えるところもある。避難所環境はひどい。高齢者にとり,慣れない避難所暮らしは辛い。まず孤独なのだ。厳しい寒さと,薬も思うように入手できない。やおら避難所内で亡くなるケースも出ている。
突然に襲った史上最大と言ってもよい津波。だれが想定しえただろうか。瓦礫と化した家屋の残骸はあたり構わず通りをふさいでいる。人間の営みをあざ笑うかのように巨大なうねりがなめつくした。石造り,堅牢な木材,近代建築の街並みが原形をとどめていない。人間のいかなる高度な科学,技術,知性もなす術がない。無力感を味わっているのは,先祖代々,村落,町を守るために言い伝えられてきた格言も役に立たなかった。
津波警報が約2万戸に鳴り響いた。地震発生が2時46分,それから地域によって異なるが約1時間の内に繰り返し,陸地に押し寄せた。波打ち際だけでなく,10キロも離れた奥地にまで,約30~40センチもあるボラやスズキがいたるところで,横たわっている。大きなカニも弱々しくはさみをぴくぴくさせている。カラスがついばんでいる。
私たちがおとずれた宮城県の若林区,石巻市沿岸はあまりにも無防備であった。神戸を出る前,警報を聞くやいなや,すぐに逃げればよかったのにと思ったものだ。警告を無視した人が海の藻屑として犠牲になったにちがいないと。しかし,実際に,現地で被災した方々と出会った時,そんな単純な理由ではないことを思い知らされた。確かに,警告に従って,すぐに逃げた人の多くは助かった。家財とか物質に未練があるため,取りに戻った人の多くは命を失った。ところが,過疎であり,若い人々は都会に行き,故郷を去ってしまっている。残っている年配の方々は,とっさの行動がそんなに簡単にはできないのだ。一階から二階へ逃げれば助かったかもしれないが,足腰が機敏に動かない。津波は自動車で言えば,時速40~50㎞の速さで襲いかかってくる.被災者は新幹線の速さに思えたそうな。では,自動車で逃げればいいではないか,とボランティアの若者の一人は言い放った。自動車で逃げた人のほとんどは逃げ切れず,湾の山並みの麓に打ちつけられていた。なぜなら我先に逃げようとする自動車は必ず,数珠つなぎになり,釘付けになってしまうからである。
悲劇は,1階建ての幼稚園の子供たちがごっそり波にもまれてしまったこともあろう。教え手は子供たちの手を握りながら,どんなに叫んだことだろう。「○○ちゃん,手を離したらだめ」と。

長浜幼稚園

津波は黒い。なぜかというと,海底の土砂ごと呑み込んで,吐き出す怪獣なのだから。どんなに泳ぎが達人な人でも無理である。津波の水は飲み込んだり,目に入ったら大変。小さな粒子の砂が含まれているのだ。さらに船が洋風テラスのある豪邸に体当たりするから,どんなに基礎工事がしっかりしていても,ひとたまりもない。木っ端微塵に家がスマッシュされる。

一人も住まなくなった町。津波が去った跡も,取りに帰っても何も残っていない価値もなくなった家。家庭団らんを営む機会はもうやってこない。たとえ復興支援がなされても,阪神淡路大震災の時と同じではない。町には,もはや復興の鎚音を鳴らすほどの力は津波もろとも消え去ったとしか思えない。約2万人の町ならば,二千人ぐらいしか戻って来ないのではないだろうか。

ゴーストタウン化した石巻市 魚町

市や,町を支える産業も潰えた。かつて東洋一の港として誇った石巻港も壊滅的な打撃を受けた。臨海の工業地帯もすべて水面下に没した。浦島太郎の話で,竜宮城へ亀に乗って訪問する話が語り継がれるように,海面下に沈んだ都を子々孫々に語る人が現れるだろう。活気のあった港町,海苔や牡蠣の養殖で全国に知れ渡った繁栄は凋落の一途である。新幹線より在来線の石巻線が復興しないと水産などの復興のめどがつかないだろう。

地盤沈下が,1メートル20センチに及んだ区域に立った。道路が消えた。湾は湖ではないから。満ち潮,引き潮に影響される。私たちが泊まることにした場所は携帯の電波がないため,山に車で移動しようとすると,昼間,アスファルトの通りであったところが海になっている。運転する手が汗ばむ。タイヤと闇の海がぶつかる音はバシャバシャと不気味である。そのまま8人乗りバンが海に吸い込まれるような戦慄が背筋を走る。あわてて,ブレーキをかけ,車を後退させる。海が「待て-」と追いかけてくるように満潮の水位がひたひたと上がっている。あたかも12日前の津波の時速の遅いバージョンがバンに向かってくる。毒蛇の舌がぺろぺろと車の前輪をなめている感触である。外灯など一切ない道を自動車のヘッドライトだけで走ること自体,心もとない。急に見渡す限り海になっている。前方に陸地がないことに気付く。その夜,案の定,海に車が突っ込んでいく夢をみることになる。ボランティアの若者たちを引率している者が弱気になる。被災者の恐怖感の洗礼を受けた。だからこそ,人気のなくなった地域の復興の手助けをさせてほしいと腹の底から覚悟できたような次第である。


被災地便り②                  3月22日

宮城県の若林区を跡にして,石巻に向かう。東京から運搬した医療物資を病院に届けるためである。石巻市内に入ると,目に入る光景に目を疑う。何十年,否,何百年と人々が住んでいた場所とは思えない。病院にたどり着くまで,沿道には,転倒した乗用車がまるでプラモデルをひねりつぶしたようにひしめきあっている。(写真①参照)街には,メタンガスの発酵のような異臭が鼻をつく。20代の若者たちはメディアを通して,予め予備知識があったにもかかわらず,驚きの声をあげる。さながら地獄絵図である。道行く人が無気力にとぼとぼと歩いている。ニュースと異なり,目の前につきつけられた現実はあまりにも残酷である。5人の若者の談笑は止まった。沈黙が続く。斎藤病院の表玄関も使えない。裏口から搬入する。院内のお手洗いも使えないのか。裏口の外の仮設トイレには女性たちが寒い中列を作っている。病院にあわただしく,かつぎこまれる人,医師や,看護士たちの賢明な態度が診察を受ける人と対照的である。光と闇である。希望を失った患者は,天井をうつろに見ている。病院の衛生面も維持が大変であろう。戦場の最前線の野戦病院と言ってよい。避難している人たちには暖房はないと言って良い。床から底冷えがする。親しい赤川牧師から持って行くようにすすめられた物資で重宝なのはダンボールや緩衝材であった。

マンパワーの不足

4㌧車のトラックに搭載した物資を被災地に届けるために,石巻専修大学にある物資受付集中センターに運搬すると,余震があった。福島を震源地とするマグニチュード4であった。一瞬,緊張が走った。しかし,センターのボランティアたちは書棚から離れるように,平然と言ったかと思うと,両足を拡げて,相撲の関取がしこを踏むスタイルになった。現地の人たちがするのと同じようにすぐさま真似をした。物資が神戸で耳にしていた赤ちゃん用のミルクや紙おむつはあまるほどセンターに届いていた。もっとも必要とされるのは,オイル類などであった。ガソリン,灯油である。おかげで,道路で交通渋滞している最大の理由は,給油待ちである。私たち一行も給油待ちとは気がつかず,忍耐強く待たせられることもあった。現地にいるとなぜ車が長蛇に並んでいるか,勘で分かってくるものだ。センターで釘をさされた。ガソリンや,灯油を提供しようと車から少しでも見せるとパニックになるから,注意深くするように言われた。人手が足りないから釜小学校へ直接向かうように依頼された。避難所でもっとも必要なのはマンパワーであることが痛いほどわかる。神戸にいると,現地で一番喜ばれるのは,義援金,つまり募金だと何度も耳にした。しかし,実際は,お金よりもっと急務なことがある。物資を求めている避難所などに届けるボランティアなのだ。確かに,道路の復旧や,家屋の損壊の回復,地域の復興には財政は多いにこしたことがない。しかし,お金さえ払えば,苦悩している人を慰められると考えるのは,富んでいる者たちのおごりではないだろうか。失望している被災者は,ボランティアが痛みつけられた自分たちを気遣って,遠路やって来たことが大きな慰めなのだ。政府首脳はどうしてそんな基本的な人間の欲求に気付かないのだろうか。自衛隊や地域の役場,消防隊などに任せきっていいものだろうか。拝金主義の欠陥が瀬戸際に立たされている被災者にも襲いかかっていると言えないだろうか。お金では人の心は買えないということだ。道路が悪いとか,放射能問題,物資の仕分けの混乱とか,ご都合主義の言い訳はやめてほしいものだ。

釜小学校の裏側に打ちつけられた乗用車

釜小学校の校庭は黒い津波に弄ばれた自動車がこれでもか打ちつけられていた。3階以上は避難所である。劣悪な環境で被災者は身を寄せ合うようにひしめきあっている。衛生状況はひどい。水が出ないことは手洗いがとても11日前まで子供たちが使用していたとはとうてい想像できないほど変貌している。暖もとれない氷点下の各教室。病弱な高齢者が何日も過ごせる状況ではない。津田浩校長先生をはじめ先生たちは極度の疲労の域である。石油ストーブと灯油に対して,何度も頭をさげておられた。4階以上の各教室の避難所も,夜になると凍てつく。ここでも寒い夜を過ごさなくていいようにと運ぶボランティアが優先すべき項目なのだ。学校の周囲の住居は黒い泥をかぶったせいか,どの家も原形を留めていない。

女川町(おながわちょう)への途中,渡波町にて

 石巻から約30分。渡波(わたのは)にさしかかった。電柱が飴のように曲がっている。家がすべてと言って良いほど,中身がない。阪神淡路大震災の後の住居の光景とはすっかり異なる。石巻中心部と同じように,自動車が沿道に打ち込まれているかのように倒立している。

壊滅状態の渡波町

今回の東北関東大震災の支援部隊の訪問の目的は,物資の運搬と,5人の若者が阪神淡路大震災の恩返しである。つまり奉仕活動である。被災地ならばどこであっても支援しようと,サービスエリヤで散乱している空き缶やペットボトルがあれば,整理してきた。被災した街並みで何ができるかは初めての挑戦である。渡波(わたのは)を通り過ぎようとすると,あまりの損壊に言葉を失った。高台から見ると,他の地域と異なり,一見,何の被害もないかのように家のほとんどは並んでいる。しかし,家は流されずとも,1階はことごとく黒い水の牙に覆われた。つまり,人間の居住する空間は畳から,床からごっそり持っていかれたわけだ。町に入る道路はまだ整備されていない。大きな家財,柱,車などが通りを占領している。私たちは女川町よりここで何かをさせていただこうと降り立った。するとたまたま街を巡回している防災部長の佐藤金一郎氏(渡波三丁目在住)に出会った。道を人が歩けるようになるため,ちょうどボランティアを必要としておられたところだった。行政もまだ手が届かない地域は随所にある。マスコミでもまだ取り上げられていない町だった。2万1千人いた町の民の多くは避難して,ゴーストタウンと化していた。70歳になる佐藤金一郎氏は地震警報からすぐに津波に備えて行動して,1メートル津波につかりながら,地域の人々に避難を呼びかけた。約30分で渡波のほぼ全域を津波が襲った。被害者,行方不明者の実数は,渡波の救済本部がある渡波小学校でも掴めていない。チリ地震の津波で十分津波の脅威について知っていたそうだ。1960年,最大で6mの津波が三陸海岸沿岸に襲来し,142名が死亡した。チリ地震津波の時に痛い目に遭った教訓で渡波の堤防も約8メートル以上に備えていた。しかし,リアス式湾の地形の宿命というか,悲劇的な津波の高波を増幅する湾が堤防の高さをはるかに凌駕した。堤防から滝のように射流となり,猛スピードで船や家屋などを飲み干しながら襲いかかった。またダムが決壊するように崩れた堤防もあった。

火災の類焼と津波の相違

阪神淡路大震災は地震により,火災が発生した。そのために全壊の家屋は,保証金が出て,再建する糸口があった。一方,津波の場合は,家屋の骨組みは残っている場合が多い。火災の場合は完全に倒壊しているのに対し,津波は外観が変わっていないが,中身は完全に濁流に持ち去られているのだ。とりわけ,一階の生活空間はなくなっている。したがって,津波の場合は,再び居住は不可能なほど,損なわれているから,再建には撤去を含めた二倍以上の費用がかかるわけである。過疎で,  高齢化した被災地に住まいの再建は重苦しい話題であろう。
明日は,ふさがれた道路の障害物撤去などの肉体労働に従事する予定である。

被災地便り③                 3月23日

渡波で車の中で,睡眠をとり,朝8時から,作業を開始した。渡波の隣の栄町,魚町なども壊滅である。湾を挟んで向こう岸は高台である。サン・ファン・バウティスタパークがある。石巻で建造したサン・ファン号は1613[慶長18]年に仙台藩主伊達政宗公の命を受け,ヨーロッパへ渡った支倉常長を記念して,復元した記念館である。

高台からの渡波町の全貌  3月22日  渡波湾に沿った渡波町三丁目の地図

記念館より高台から見ると,一部は破損しているのがわかる。船をとりまくドック棟展示室は津波により損壊している。曹洞宗の輝實山洞源院があるところには墓もある。そこから眼下に見下ろすと,渡波町全体が見える。渡波について知ってもらおうと渡波防災部長の佐藤氏がボランティアの7人を案内してくれた。佐藤氏によると,家を大切にする墓など空しい。江戸時代にはそんなものはなかったそうな。いつしか我も我も見栄で家庭だけの墓をせっせと造るが今回の津波でも証明されたように空しいだけだと吐き捨てるように語った。兵庫県の墓石と異なり,黒い墓が目立つ。修復に,自分たち家のメンツのために,100万円以上かけるなら町のためにして欲しいと。先祖を大切にしていれば,罰(ばち)など当たらないと信じてきたあげくの悲劇。だれしもつぶやきたくなる気持ちもわからないでもない。さて,ボランティア,メディアの記者たちも現場にはほとんど足を踏み入れていない。私たち一行も一度も出合うことはなかった。ジャーナリストは対策本部のスポークスマンの言葉をそのまま記事にしているのではないか。渡波のように,いまだに行方不明者などの実数を掴めていない地域はやおらマスコミにとりあげられていない。新聞紙上に出る陸前高田,宮古,女川町,気仙沼,相馬町などは繰り返し,被害状況を伝えている。

今回,メディアなどで赤ちゃんミルク,おしめなどが欠落していると報道していた。だから緊急物資ということで新聞の告知を見た人たちは,神戸の対策本部に大量に届いた。滋賀からの物資の搬入をしてくださった菅原義久牧師,垂水区の牧師たちもこぞって協力してくださった。お預かりした物資を必要とする被災者に届ける使命もあった。ところが各地の物資を仕分けする窓口に行くと,受け取ってもらえるところは一つもなかった。有り余っているのだ。ある避難所には必要だからといって,一般に必要とは限らないのである。殺到して,各センターは仕分けに困惑している。地震発生からまだ2週間も経っていないにもかかわらず,積み上げている。報道の功罪は大きい。不要とは言わないが,過度の不足感をあおる見出しに踊らされてはいけないだろう。まさしく情報が錯綜している。

渡波駅~女川駅までの鉄道は廃線

次に,自衛隊の活躍を記事で何度も目にした。一方,現地の人たちは口をそろえて言う。「自衛隊が何かをしてくれたのを見たことがない」と被災者の多くが語るのには驚いた。たくさんのジープが街を巡回している。約20人ほどの小隊がただ立っているだけと言う場面を何度も目撃する。作業をしていない。唯一,見かけた作業は,支援物資の運搬である。だれだってできる奉仕ではないだろうか。何も自衛隊に頼まなくてもいいのでは。阪神淡路大震災の時もそうであった。隊員の目の前で,息もたえだえの被災者がいても手を差し伸べようとはしない。上司の命令がなければ動けない体質がそうさせているのだろうか。ただ,自衛隊の存在は,暴動を防ぐ安全装置の働きだと考えるなら,効果はあるのだろう。右翼の街宣車をよく見かける。決して騒音にしか思えないボリュームいっぱいの放送は耳にはしなかった。自衛隊と右翼の街宣車が何もしないで徘徊しているのは,混乱した状況をよく象徴している光景と言えまいか。日本,否,世界が危機にさらされる原子力発電所の問題を優先するあまり,岩手,宮城,福島などの被災地域にまで救済支援の政治的判断が遅くなったことは否めないだろう。ボランティアの若者たちは,自衛隊のふがいなさや,意味もなしに走行している街宣車にぶりぶり怒っていた。そんな時間があるなら木ぎれ一本でも動かすのはどうかと。もっとも東北の全部の地域で活動している自衛隊を行動を把握していないので,一部だけで判断するのは早計かもしれない。ただし血気盛んな若者たち特有の自分たちを正義とする感情のはけ口について政府はよく見極めねばならない。アラブドミノのマグマのエネルギーはそんな単純なことが契機になっているのだ。何もしない権力側と,目の前で餓死,貧困,飢餓の瀬戸際に追い込まれている弱者たちの二極構造である。おしなべて日本人はおとなしすぎる。ボランティアの怒りも健全であろう。彼らの感情を撤去作業の力にシフトするようにするのがリーダーの役割のひとつに加わった。

最も必要な支援

家の復旧は望めないほどダメージを受けている。まず被災地域に必要なことは,高齢者,子供,病人などに対するキュア(治療)であろう。次に,ケア(世話)である。それには医療物資などの補填が望ましい。次に,親身になって聞いてくれる話し相手がいなければならない。人権を考慮して,尊厳を理解するボランティアが次々と訪問して,じっくり腰をすえて取り組む必要があろう。他府県の医師たちの奉仕活動と,看病する奉仕者がかけつけることができるシステムを政府は奨励すべきだ。
神戸市明舞団地の方たちの応援や,親しい西方院の坂井良行住職が彼岸で忙しいにもかかわらず,出発前夜,大量のろうそくを届けてくださった。石鹸会社の社長,工場長,下着のメーカー,タクシー会社の経営者などの協力があった。長田区のキリスト教会の若者たちも物資の買い出しに行ったり,助けもあった。新聞を見て,「一着でも防寒具を届けさせていただけますか」,とか,道中の皆さんのお弁当代に使ってくださいと千円を渡してくださったり,ほとんどが名前を言わず,置いてくださったことは若者たちを励ました。おかげで,4㌧トラックがいっぱいになった。8人乗りバンは林氏が無償で貸してくださった。わずか四日間の準備であっても,震災を体験した阪神間の人たちの感情移入の波は大きかった。
住民の9割以上は着の身着のままで家から逃げた。生まれ育った家の地点に戻りたい。しかし,道路には通行を妨げる障害物だらけである。人海戦術でやり遂げることが求められているのではないだろうか。

渡波町三丁目

東北6県や関東などの地域全体に若者たちが赴くには物理的制約もある。そこで現地で最も活躍できるのは,道路を陣取っている廃材,自動車,建造物の部分を撤去する道具である。タイヤショベル,油圧ショベル,ブルドーザーなどの重機をレンタルで借りるなら,復興後に保管場所で悩まなくてよいだろう。いずれにしても,重機を操作する人材を確保し,チームで処理していくことが望ましい。鉄道にしても,赤字路線であっただけに,廃止になると,通勤,通学に支障をきたすだろう。おそらく今年の夏ちかくまで,重機を導入して,作業を継続したいものだ。とりわけ,阪神淡路大震災からの復興のために若いボランティアがやってきた恩恵を今,感謝の実で表そう。

渡波町にボランティアが最初に入った日の惨状

ボランティアが帰る日 同じ地域とは思えないほど瓦礫などがなくなった

ボランティア体験

五人の若者が,何かをさせていただくという人生ではじめての経験に挑戦した。自閉症の若者であっても,ヤンキーのお兄ちゃんであっても,手伝いたいと願うだれでもが働ける突破口を早急に造るべきだろう。本心から被災者のために役立ちたいと望む若い人たちに,NPO,カウンセリング,看護士の資格とか,能力を問うてはいけない。ゼロからこの国を再建する気概が必要なのだ。だれであっても受け入れる度量の広さをもってほしい。風紀が乱れるとか,服装がだらしがないとか,言葉使いがなっとらんとか言っている状況ではない。ボランティアにまで,格差社会の物差しを持ち込んではならない。責任は大人がとればよい。領土問題でぎくしゃくしているアジアの隣国と協調し,相互理解していく糸口も生まれよう。

 

高齢化社会の時代,神戸での積み込み物資を買い出しに行ってくださったのは阪神淡路大震災の激震地の長田区の若いキリスト者たちと,垂水区の教会の70代の方々であった。後者は仕事から引退しておられるわけだから,人生経験豊富な知恵をボランティアで発揮するには,好都合ではないだろうか。

渡波町の住民が戻ってきた

福島原発からの放射能問題を含めて,日本社会は岐路に立たされている。もはや金銭で解決しようとする姿勢をやめて,人のために喜んで仕える青年たちが荒波に挑戦するよい機会である。自ら苦労を買って出ることができる社会でなければひ弱な国に成り下がってしまう。他の人のために役立ちたいという純粋な芽を摘んではならない。助け合うコミュニティ造りの友愛の精神を止めてはいけない。私たちのように緊急車両の通行許可証を取得できなくても現地には,徒歩で,自転車で行くことができる。日本を変革する幕開けとしたい。明治維新を起こしたのも若者である。薩長を始めとする下級武士であった。富や財はなくても失敗を恐れずに果敢に挑む若者よ,来たれ。被災地へ。自分の手で,足で。

また石巻市に来させていただいて,「がんばっぺ!