第55次東北ボランティア報告 未完

大川小学校 84名の犠牲者が出た三大悲劇の学校

≪動画参照≫大川小学校 84名の犠牲者が出た三大悲劇の学校

 第55次の29人乗りマイクロバスを栫和彦さんがレンタカーに取りに行って
くださいます。お盆の 影響による渋滞情報も前もって綿密に調べておられて
います。ボランティア活動は準備段階で8割, 実践は2割の割合が成功の割合
です。とはいうもののちゃんと敷いてあるレールにい乗っかってでき るボラ
ンティアはありません。ですからあらゆる可能性に備えて「そなえよ常に」の
精神が求められます。栫さんは自衛隊で訓練されてきた方ですから予め情報
を入手し,不測の事態に備える習性がおありです。往復の運転をするために,
充分に休息をすることも大切です。食べ過ぎない,長時間の入浴,ゆとりの
ない強行ス ケジュールなども禁物です。機構も栫和彦さんから多くを学びま
す。

石巻地方唯一の浄土真宗本願寺派の念行山 称法寺。本堂はすっかり津波にもっていかれまま。

石巻地方唯一の浄土真宗本願寺派の念行山 称法寺。本堂はすっかり津波にもっていかれまま。

 初日は,門脇小学校前で石巻市の人口,水産業のメッカの変遷,復興につ
いて参加者に代表が語ります。西光寺の樋口伸生副住職が精魂込めて作った
祈りの杜もゴーストタウンとなった門脇町の住宅建設のため道路工事により,
一部遮断されています。樋口さんにとり痛恨と察します。
 せいぜい7メートルの防潮堤建設計画では,3.11再来の津波では対応でき
ません。にもかかわらず,南浜町,門脇町に住宅再建の造成がなされ,ダン
プカーがひっきりなしに走っています。人間の飽くなき自然を征服する向上
心が開発に駆り立てるのでしょうか。それとも貪欲なまでの利益追求の産物
なのか,樋口さんは「教訓を学ばない人間の愚かさ」と斬ります。

 参加者は済美高校生4人とドイツから帰国した高校生計5人,および大阪
市立大学生,南山大学生,社会人2名も参加しています。参加者の小浦拓
さんは言います。「8月17日に初めて東北の地に降り立ったのが宮城県に
ある石巻市立門脇小学校でした。周囲を見渡すと家が建っている様子もな
く、道も荒れたままなのに対して、ひっそりとお墓だけが並んでいるのが
印象的でした。黒い墓石がより違和感を持たせたのかもしれません。門脇
小学校は震災から4年が過ぎた今でも手つかずの状態で放置されています。
阪神淡路大震災と比較するべきではないのかもしれませんが、復興の速度
が違いすぎると感じたのが正直な感想です」。

 阿部捷一さんから3.11当時の生々しい体験を聞きます。佐藤金一郎ご夫
妻のところに全員あげてもらい歓待を受けます。
 午後は,希望する4つの班に分かれて,ボランティアに繰り出します。
林ボランティアとして,大川小学校に隣接するバットの森で作業する班,
農作業をする班,傾聴ボランティア,沿道整備の班です。栫さんは何度も
来ているため,地理に精通しており,みやこさんから弁当を受け取ると迅
速にそれぞれに手渡すようにされますから,参加者から喜ばれます。
 
 傾聴ボランティアの体験を通じて,被災者から心の澱を聞き,ネパール
や丹波水害ボランティアに行くようになった大学生たちがいます。西田怜
奈さん,森 花梨さん,植地亮太さんたちです。自分だけが楽しければ人生
それでよいと思っていたのが,渡波で被災体験を聞き,いのちの尊さ,他
者のために若い時に体力,時間,お小遣いを用いようと促したのです。石
巻市渡波の人たちの温かいもてなし,結びつき,縁が若者たちを変えまし
た。 ⇒ 第2次ネパール・ボランティア報告

 林ボランティアは大川小学生たちが植えた苗,野球球団楽天の選手が用
いるバットを作る目的で始めたものです。2013年8月,第28次の高校生た
ちがはじめて奉仕しました。2年間,機構の林ボランティア班を現場で指導
してくさるのは,木村貞一さん(78)です。山の神様みたいな存在です。女
川に住んでおられ,辛い体験をされています。姪が南浜町で犠牲になってお
られます。木や,自然についてどんな質問もユーモアたっぷりに高校生たち
に説明されます。人気者です。

20150818木村貞一と  20150818バットの森

 栫さんは北海道部隊の隊員たちの上司でありました。イラクのサマーワに
第1次で派遣されました。石巻市の女川の仮設住宅でいつも若者たちを歓迎
してくださる婦人がいます。その方はイラク派兵と政府が決めた際,入隊し
ている息子を離脱するために何度もお葬式を理由に北海道から宮城県に引き
戻しました。ウソの理由でなんとか息子をイラクには行かせたくなかったわ
けです。脱隊させた母親と引き止める側だった上司が12年ぶりにボランティ
アの時,鉢合わせします。火花が散ることもなく,不思議な縁で和やかに話
しができるのは妙です。息子さんが石巻に戻って石巻森林組合で働きだしま
す。その際,林業のイロハを指導したのが木村貞一さんでした。母親は木村
さんが息子の恩人だとおっしゃいます。世間は広いようでいかに狭いか聞い
た私たちは一瞬耳を疑いました。それぞれが住んでいた地域の位置も,関西
と北海道,そして石巻,また女川とばらばらです。何十キロメートルも離れ
た者たちが不思議な糸で結ばれているように出会うのは驚きです。家庭環境
も,仕事もまったくかけ離れていたにもかかわらず,東日本大震災を契機に
お互いに知り合い,助け合い,むつまじくできる喜びはドラマのようです。

第2日目

第3日目
 郡山駅で五百井正浩[真宗大谷派災害対策本部ボランティア委員長]と合流
します。福島県を訪問する際して,3年連続でお世話になっています。阪神
・淡路大震災の時,神戸市長田区の玉龍寺は被災者にとり,避難場所として
遠洋航路を経て見いだした灯台のような働きをしました。五百井住職は後藤
由美子僧侶(第20次)と連絡をとり,福島県で子どもを育てる苦悩の母親た
ちと連帯する働きを展開しています。
 朝,8時に修空館を出て,一路,福島県郡山に向かいます。

 ① 郡山市 富久山公民館
   武本泰事務局長 子ども脱被ばく裁判の会事務局

   テープ起こし待ち

郡山市 富久山公民館

郡山市 富久山公民館

右端 目の不自由な武本泰事務局長

右端 目の不自由な武本泰事務局長

 ② 郡山イノカフェ 横田麻美さん

   テープ起こし待ち

20150819イノカフェ橫田麻美  20150819イノカフェ橫田麻美a

 ③ いわきの初期被曝を追及するママの会 千葉由美さん

   テープ起こし待ち

20150819銀河のほとり千葉由美

千葉由美さん

 20150819銀河のほとり 20150819銀河のほとり全体

福島県須賀川 銀河のほとり 有馬克子,佐藤恵,銀河市民放射能測定所

 

 

 

第55次東北ボランティア

                   済美高校2年生 池上 楓

<研究の目的>
 阪神・淡路大震災や東日本大震災をきっかけに,日本中で地震や津
波に対する意識が高まってきた。
 私たちの住む地域でも南海トラフ地震という震度7を超える大地震
が30年以内に60~70%の確率で発生すると予測されている。今後発
生する南海トラフ地震は東日本大震災よりも規模が大きく,34万人の
死者が出て四国は消えてしまうそうだ。
 様々な災害に備えるため,今私たちが出来ることは何か。
 いつ,どんな時に発生するか分からない南海トラフ地震。私たちは,
はたして地震や津波の本当の恐ろしさを知っているのだろうか,と疑
問に思った。
 そのため,私たちに大きな衝撃を与えた東日本大震災を振り返るこ
とで,もう一度あの日を思い出し,被災地の現状や被災者の声から災
害の恐ろしさを学ぼうと考え,被災地に向かった。

<仮説>
 東日本大震災が発生して4年,テレビで報じられる被災地は建物が
建ち,道路が整備されているため復興が進んだのではないか。また,
愛媛県内のスーパーでは,最近福島県産の食材も目にするようになっ
た。そのため福島県の放射線量は通常の数値に戻ったのではないか,
と考えた。
 南海トラフ地震が発生した際,愛媛県は比較的穏やかな瀬戸内海に
面しているため津波の被害は少なくなり,その分,土地の75%が森林
である四国地方は土砂崩れや地滑りなどの土砂災害が多発するのでは
ないかとも予想した。
 しかし,愛媛県には伊方原発がある。地震が発生すると,福島第一
原発のように爆発し,放射線の深刻な問題が発生しうると考えた。

<門脇小学校>
 兵庫県神戸市から約17時間のバス移動を経て,8月17日の朝,宮城
県石巻市に入った。私たちがそこで,一番初めに目にしたものは,辺
り一面に広がる緑と数は少ないが,スーパーのイオンや新築住宅など
のきれいな建物だった。想像していた光景と違うことに驚きを感じた
とともに,「復興には10年以上かかる。」と言われている現状が嘘の
ようだった。私たちは復興の光が見えてきていることを喜んだ。しば
らくして,何十個という数のきれいに並んだ立派なお墓,閉鎖された
門脇小学校,建物の上の方だけ残っている寺と仮設住宅がある場所に
バスが停まった。
 私たちは,学校の中を覗いた。覚悟はしていたものの,多くの子ど
もたちが通っていた学校とは思えない光景だった。床には,ガラスの
破片がとびちり,教室などの各部屋は原形をとどめておらず,とても
直視することのできない状態だった。ランドセルや通知表,上靴など
子どもたちの持ち物が散乱しており,言葉を失うほどの信じられない
光景に,私たちは痛々しいほどの悲しみや恐怖,そして,怒りや悔し
さを痛感した。復興の光が見えてきたと思っていた私たちに,現実は
とても厳しく,そして残酷であった。 (資料①)

 ボランティア代表によると,門脇小学校は避難場所になっていて,
3月11日,放課後近くの学校には多くの人が避難したそうだ。しかし,
学校のグラウンドに避難したものの,チリ津波[1960年]で大きな犠
牲が出なかった石巻市に住んでいる地域の人は大津波が来ることを
信じなかった人が多かったという。そうした人たちが津波の犠牲と
なってしまったのだ。学校にいた児童たちは校長先生の判断が早か
ったため,日頃から行っていた日和山へ,全員避難することができ
た。このことは,適切な避難が出来ずほとんどの児童が亡くなった
石巻市立大川小学校と対照的となった。震災で在校していた児童は
全員無事であったが,保護者が迎えに来た児童や先に帰った児童を
含め,7人の小さな命が奪われたことがのちに分かった。
 この門脇小学校より学んだことは避難訓練を実施することの大切
さであり,常日頃から防災意識を高めることの必要性である。

<被災地>
 2011年3月11日。あの日,爆発的な地震と巨大津波が多くの人と
家を襲った。4年半の月日が経った今でも持ち主の分からない家が多
くあり,一見普通に見える家も,中を見ると床もなければ物も何も
ない。本当に復興したといえる日はまだまだ遠い。 (資料②)

<阿部捷一さん>
 津波は恐ろしい。被災地の多くの方はこう言う。その中でも特に衝
撃を受けたのが阿部さんだった。校長であった阿部さんは,あの日の
ことを詳しく記録していた。まず,地震が起きたのは午後2時46分,
マグニチュード8.8の巨大地震。警報が出たのは午後2時49分,そし
てその29分後,津波がやってきた。阿部さんは警報の発令とともに
避難を始めたため一命を取り留めた。津波はゴォーと聞いたことの
ないような大きな音を立て町を襲っていく。色は真っ黒で,新幹線
より速く,表面が燃えている部分もあった。
 渡波町の阿部さんの家でも,1階は津波の被害を受け,住める状
況ではなかったそうだ。家の前にはおよそ2mの津波の高さを表す
テープが貼られており,巨大さを物語っている。 (資料③)
 現在,阿部さんは被害を受けた本人の家で暮らしている。外では
4年半たった今でも工事の音が絶えない。阿部さんの近所の方の中
にも死亡者が出たそうだ。こんなつらい体験をして本当に立ち直る
ことはできるのだろうか。あの日,何気ない平和な1日を一瞬にし
て奪った地震・津波が許せない。
 阿部さんが言いたいことはただ1つ,逃げろ。

<佐藤晴美さん>
 生きていれば何とかなる。だから,決してあきらめないで。
 そう話すのは同じく津波の被害を受けた佐藤晴美さん。みんなを元
気にするような明るい声で津波について語り,時には部屋中に大きな
気持ちの良い笑い声が響き渡る。私たちが励まされるようだった。そ
んな佐藤金一郎さんの家も1階は全滅,床にはガラスの破片が散らば
り,障子を敷いたりして歩いたそうだ。家は3か月間浸水したままだっ
たと言う。佐藤さんが見せてくれた写真には,震災前と後の町が写さ
れており,私たちはそれを見て衝撃を受けた。家で溢れていた町も一
瞬にして破壊され,震災後はまるで焼野原のよう。これは本当なのか,
信じられない。 (資料④)

<新聞記者>
 私たちは震災当時3月11日翌日から石巻日日新聞,通称壁新聞を発
行した当時の編集部長武内宏之さんに会合を開いていただいた。彼は
4年たってボランティアで訪れる方々が減少してきたと述べていたが,
少しも悲観せずこれからは自立していかなければならないと語る姿は
たくましく4年前からのその闘志には少しも曇りがなかった。我々一
人一人は極微力だが新たな時期を迎えた被災地をこれからも応援して
いきたい。

<農業ボランティア>
 私のグループは神戸国際支縁機構のボランティアの一環で農作業ボ
ランティアを行った。依頼者の木村褜治さんは明るい方で長年農作業
に従事したことを感じさせる節が太々とした手で鍬を持ち熱心に作業
する姿はたくましくニカッと歯を見せる笑顔が印象的だった。私と他
の参加者は木村さんのもとで畑の雑草を刈り取ったり,竹林で5本ほ
ど竹を切断したりした。日差しの照りつける中で汗を流しながら作業
することに内心私は幸せを感じていた。木村さんの振る舞いを見てい
ると4年前にこの地で震災が起きたことが夢のように感じられた。木
村さんの話によるとこの地域は比較的高地にある為被害も少なかった
ようだ。被害の話になったときに木村さんは津波での死体を見て判別
をしたことがあると語ってくれた。どの人も顔は膨れ上がりヘドロに
よる汚れで黒くとても判別できる状態じゃなかったそうだ。その時木
村さんが述べた言葉を私は忘れられない。彼は『死体を見ることに慣
れた』と述べたのだ。いったいどれほどの数の死体を見ればそのよう
な言葉が出るのだろうか。私はとても哀しく感じるとともに現実を実
感させられた。震災の心の復興を祈る」ばかりである。 (資料⑥)

<大川小学校の子供たちが込めた想い>
 宮城県石巻市にポツンとたたずむ1つの小学校がある。4年前まで108
名の生徒が通っていた大川小学校。教室や校庭には毎日,にぎやかな
声や笑顔が溢れ,子供たちの心の中は未来への希望と期待でいっぱい
だった。しかし,そんな明るい未来を東日本大震災が一瞬にして奪っ
たのだ。地震が発生した時,生徒や教員,地域の人々は校庭に避難を
した。突然の大きな揺れに恐怖を募らせる子供たち。津波警報が発令
され,教員は避難をするかどうかという話し合いを40分間以上も続け
た。「過去に津波警報が発令されても大きな津波が来たことはないか
ら大丈夫だ。」と言う10人の教員に対し,1人の教員は「大川小学校
の横にある山に避難すべきだ。」と言い張った。その日は雪が降って
おり,斜面の急な山を登るのは小学生にとってあまりにも危険で大変
であった。話し合いをしているうちに,巨大な津波が大川小学校へ近
づき,気がついて逃げたときにはもう遅かった。津波により74名の生
徒と10名の教員が亡くなった。あの時,すぐに山へ避難していればこ
のようなことにならなかったのではないか。様々な思いがこみ上げる。
 あれから4年半が経ち,大川小学校を訪れた私たちは校舎の荒れ果
てた姿に息をのんだ。信じられないほど曲がってしまった渡り廊下,
何もない教室や体育館。時間は3月11日から止まったままだ。 (資料⑦)

 大川小学校の子どもたちが植えた木が学校のふもとの山に植えられ
ている。この木は,野球のバットになる木だ「みやぎバットの森 実
りの里山創生事業」と称され,子どもを亡くした小学生の保護者や,
地域の人々が大切に思っている。一本一本の木の根元には黄色いポー
ルが立っており,そこにはその木を植え,津波で命を落とした小学生
の名前が刻まれていた。そこで私たちも林業体験を行い,子どもたち
の想いを大切に守るために木の周辺の雑草かりを行った。大川小学校
の子どもたちの想いを私たちが受け継いでいかなければならない。 (資料⑧)

<傾聴ボランティア>
 私たちは宮城県石巻市で生活されている大島ます子さんという方に
震災時のお話をうかがった。あの日,中学校の卒業式があり,昼食を
終えてソファで横になっていた大島さん。地震が起こった時,神棚か
ら落ちてきた水が顔にかかって初めて地震に気がついたそうだ。揺れ
ている時間はとても長く,あまりの揺れで戸が開かなくなっていたの
を無理やり開けて外に出た。外に出てみると,道路は盛り上がり,電
信柱は倒れ,信じられない姿となっていた。民生委員を当時もしてい
た大島さんは,揺れがおさまった後,近隣の人々の安否確認をして回
ったそうだ。津波警報が発令された後も避難した人は少なかったそう。
それは,住民に津波への危機感がなかったからだ。そうして大島さん
も自分の車に乗り高台へ避難しようとしたが,その時にはもう水が押
し寄せてきていたという。車ごと波に流されながら,次第に水位が増
していくのを見て,大島さんは「私は,これでもう死ぬんだ。」と死
を覚悟したそうだ。意外にもその時は冷静で,自分の遺体がちゃんと
主人に見つかるように…とシートベルトを装着したという。車内にま
で水が入り,生きることを諦めかけた時,車が電車の線路に乗り上げ,
車が傾いたことで窓を割り,外に脱出することができたそうだ。大島
さんは足が不自由になったが,その時は必死だったという。「その日
の夜は哀しいぐらい本当に空が綺麗で星がきらきらしていた。」と目
を潤ませて語ってくれた。
 避難所での生活は本当に大変でストレスのかかることだったという。
食べるものもほとんどなく,お風呂にもはいることができない…。普
段当たり前にできていたことができなくなることの苦しさを肌で感じ
たと語ってくれた。
 遺体安置所で身内の遺体を探すときの辛さ,思い出の深い家や街が
失われたときの哀しみ,これらは体験した人にしかわからないものだ。
幼い子供だけが残された家族もあれば,いまだに遺体も見つからない,
安否の分からない家族もいる。このような現実を多くの人に知ってほ
しいと大島さんは私たちに訴えてくれた。被災者の心の傷は今も消え
ずにずっと残っている。
 直接話をうかがって改めて震災の恐ろしさ,命の尊さについて考え
されられた。このようなお話を実際に体験していない私たちも広めて
いく必要がある。

<福島第一原発>
 8月19日,私たちは,原発問題核心の地,福島で実際に話を聞く
ことができ,3つの団体を訪れた。一つ目の団体は子ども脱被ばく裁
判運動をしている団体だった。子ども脱被ばく裁判というのは福島に
住む保護者の方々が行政に対して被曝対応の責任を問う裁判のことだ。
2015年現在120人が甲状腺ガンを発症している。100万人に一人だと
いうこの稀な病気に原発事故後,2015年になって120人も新たに発病
するのは明らかに異常事態であり,放射線との関連性をうかがわせる。
しかし,いまだに国はこの病気と放射線との関連性を認めない。甲状
腺は本来成長ホルモンの分泌をうながす場所。カエルがこの器官を切
除するとカエルは変態できなくなる。つまりオタマジャクシから姿を
変えられなくなるということだ。幸い人間は薬を投与することで成長
をうながすことができるが,言い換えれば一生薬を飲み続けなければ
ならないということだ。福島の医療機関はこうした状況を打破しなけ
ればならないのだが,福島の医療機関のトップ,福島大学病院で原発
事故後,病院関係者らだけが安定ヨウ素剤を服用していたことが分か
った。安定ヨウ素剤というのは放射性ヨウ素の影響を和らげるもので,
つまり放射線被曝を予防する薬である。注文できる状態にありながら,
病院内だけ服用し,県民たちには配付することをしなかった。医療機
関あらざるこの行為を,私たちは現地で初めて知り,怒りと驚きで言
葉が出てこなかった。だが,悲観ばかりもしていられない。放射線と
たくましく向き合っている方々がいるのだから。
 残りの2つの団体はどちらも主婦の方が開いているカフェだった。
彼女らが共通して述べていたのは「福島産のものを食べてほしくない」
ということだ。一見するとこの一言は風評被害よる差別にとらえられ
かねない。現在農作物の放射線量の出荷基準は100ベクレルだが,こ
の数値は,震災前ではドラム缶に厳重に保管しなければならない値だ
った。つまり,出荷基準と人が食べて害をなさない量は違うと,機構
の代表が補足している。だが農家の人々は消費者に食べてもらえない
と生活が成り立たない。こうした事情で同じ原発被害者同士の中であ
つれきが生じてしまっているのだ。また,私たちは普段,部活動か体
育の授業など屋外で活動をしているが,福島の学生は部活動で外に出
ることは放射線による被曝を代価としているのだ。
 国は口々に復興は完了したと述べているが,それは間違っているだ
ろう。福島の方々が他県と変わらない日常生活を行えるようになって
初めて完了したと言えるのではないだろうか。 (資料⑨)

<阪神・淡路大震災体験館>
 「地震発生。地震発生。」巨大な地震が私たちを襲う。20日の帰
路,兵庫県淡路市にある北淡震災記念公園に立ち寄った。私たちが体
験したのは,阪神・淡路大震災と東日本大震災の地震だ。私たちの地
域では経験したことのないような揺れに恐怖心を抱きながら少し東北
の方々の気持ちを理解できたような気がした。震度7や8の地震ではも
ちろん立つことはできず,何かにしがみついていなければ姿勢を保つ
ことができない。だが,立ち止まっていれば多数の物が落ちてくる。
地震が止まったと思ってもまた始まり,決して油断できない。避難訓
練での地震の時に机の下に隠れなさいという鉄則は正しいものだと思
うとともに,こうした教えを馬鹿にすることはできないと感じた。防
災というものを私たちは特別視しがちだが,日頃からいわれているこ
とをまじめに取り組むことが命を守ることにつながるのではないだろ
うか。 (資料⑩)

<考察>
 実際に宮城県石巻市,福島県郡山市の被災地を訪問し,震災のすさ
まじさを肌で感じた。4年半という月日が経過したからといって,復
興にはまだまだ程遠い状態で時間は3月11日から止まったままだとい
う場所がたくさんあった。メディアで報じられている被災地が今の本
当の被災地とは言い切れない。がれきがそのままになっている小学校
,曲がったままの電信柱,原発事故がきっかけでバラバラになってし
まった人間関係,このような現実を日本の人々は,復興したと思い込
み,あの日のことを忘れつつあるのだ。本当にこれでいいのだろうか。
私たちが話をうかがった被災者の方々は,思い出の深い街や,家,大
切な人を失い,心に大きな傷を抱えて生活している。しかし,表面上,
東北の方々は決して弱音を吐かず,毎日前を向いて笑顔で暮らしてい
るのだ。一方,福島県の人々は今もなお深刻な原発問題を抱えている。
本来厳重に保管されるべき数値のものが現在は,食べることができる
基準数値となっていたり,原発問題がきっかけで家族や友人と疎遠に
なってしまったりと様々な問題に苦しめられているのだ。この問題を
解決することは非常に難しい。いつ私たちの住む地域で南海トラフ地
震が発生するかわからない。瀬戸内海に面しているからといって,実
際に東北でも津波が来るはずのない避難所まで津波が押し寄せた。愛
媛県に津波が来ることも大いにあり得る。山の多い四国となると被害
はもっと大きくなるかもしれない。
 つまり,いつ地震が起こっても正しい判断をし,自分の命を守ること
が重要なのだ。そのためには,とにかく早く安全な高台に避難をする
こと。これが何よりも大切な行動である。また,非常食は3日分ではな
く,1週間分の準備をし,家族で避難経路を確認しておくことが大切だ。
地震に対する危機感を持つことが自らの命を守るのだ。被災地の方々
がたびたび口にしていた言葉だ。救助やボランティアで助けてもらっ
た人に恩返しをするのではなく,次に別の場所で大きな災害が起こっ
た時に,その被災地の人を助けてあげることが大切だそうだ。

私たちも「恩送り」の精神を胸に,生きていこうと思う。

恩送り…誰かから受けた恩を自分は別の人に送る。そして,その送られ
た人が更に別の人に渡す。そうして,「恩」が世の中をぐるぐる回ること。

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